M・マーモット「ステータス症候群 社会格差という病」 その2

  日本評論社 2007年10月
 
 医科学者は生物学的な過程が心理状態に影響することはみとめるが、心理状態が生物学的現象を形成すりということはなかなか受け入れない、とマーモットはいう。医者は身体的疾患の原因についてはよく知っていると思っているのである、と。たとえば心臓病なら、喫煙、食事、現代的生活習慣+遺伝。そこにはストレスとか社会的な孤立などというものが入る余地はない。
 ストレスへの反応の研究は実はほどんどが男性を対象におこなわれてきた。男性の反応は“闘争か逃走”である。一方、女性は“世話と互助”である。かつての狩猟採集の時代において、女性や子どもは無力であった。それゆえに、子どもを助けるための“世話”と他との連帯である“互助”が生き残りの戦略となった。
 この辺りの記述は、男女差別ではないかという気がする。おそらく、ヒトという種は生物としてはきわめて弱い種で、それがアフリカで樹木から下りて大地でものを拾って生きるようになった場合には、群れを作ってお互いに助け合う以外に生き残れなかったはずである。だから“世話と互助”はヒト全体の戦略であって、メスに固有な戦略ではないと思う。ただ、オスはメスをめぐって争うわけで、種内でみれば、“闘争か逃走”がオスの戦略になったということなのであろうが。
 デュルケムの「自殺論」は、社会的統合と健康にかんする先駆的な研究である、と著者はいう。彼は社会が統合されていればいるほど自殺率は低下するとした。しかし、社会が人間の本質をつくるとしたため、進化心理学の陣営からは強く批判された(ピンカー「人間の本性を考える」など)。
 マーモットは、両者を統合しようとする。遺伝的基礎(ピンカー)の上に環境が影響する(デュルケム)のだ、と。これは糖尿病は明確に遺伝的背景をもつ(両親のどちらかが糖尿病であれば、子はかなりの率で糖尿病になり、両親ともに糖尿病であれば、非常に高い確率で子も糖尿病になる)が、同時にその人の食生活や生活態度も糖尿病発症に重大な影響をもつ(太平洋戦争中の日本では糖尿病はほとんどなかった。食べ物がなかったのだから)ということを考えれば、いたって当然のことである。しかしこれが糖尿病であり、食べ物の話だからみな素直に納得するのであって、心筋梗塞が社会的地位により発症率が違うなどというと、??なのである。
 デュルケムの仕事についても、それが自殺という自分の意思がかかわる行為だから納得できるので、冠状動脈の粥状硬化などという自分の意識しない過程が社会的統合と深く関係するなどといわれてもやはり、??なのである。
 小室直樹氏は「危機の構造 日本社会崩壊のモデル」で、デュルケームの「アノミー」論に依拠して、社会的統合が失われることが人間にとっていかに恐ろしい事態であるかを縷々説いている。これは、後述するソ連崩壊後のロシア東欧圏の健康危機の説明にも充分用いうるものである。
 本書では、日本がちょっとくすぐったくなるくらいに持ち上げられている。食生活や生活習慣のすべての面で西洋化しているにもかかわらず(それでも、魚はたくさん食べるぞい、と柴田博氏はいうであろうが)、喫煙率も高いにもかかわらず、もともと低い心臓疾患死がさらに減ってきている。それは日本人の社会的結束によるのではないかと、マーモットはいう。いわく、集団への貢献、忠誠心、敬服・・・。
 2002年のアメリカでは人口10万人あたり700人が刑務所にいた。一方、日本では48人である(イギリス 132人、フランス 85人)。まあアメリカが異常なのであるが。米国や英国の文化は個人崇拝文化であるが、日本は“生涯の仕事”を提供する終身雇用制度である。他の工業国より給与格差が小さい、などなど。
 原著は2004年に刊行されているから、ここで描かれた日本が、現在のワーキング・プアが問題となる日本とは随分ごかけ離れたものとなっていることは仕方がないと思うが、われわれにとってもすでに過去のものとなってしまったのかもしれない日本の企業形態、雇用形態は健康にはいいらしいのである。なにしろ、著者は、仕事が終わったあとで縄暖簾にみんなで呑みにいくことは、ストレス軽減に有効な装置なのであるとまでいうのである。わたくしはあれは、昼間の会社での建前の議論について、本音の部分ではどうであるのかを確認し、不満分子を説得し懐柔するための必要欠くべからざる仕事の一環であると思っているのだけれど。縄暖簾会議に参加を拒否する人間は日本の会社共同体の中では生きていけないのではないだろうか? 第一、重要な情報が入ってこなくなってしまう。
 日本以外にもう一つの面白い例として挙げられているのが、インドのケララ洲である。ここは選挙で共産党政府が選ばれていて、貧しい洲ではあるが、教育は普及している。そこでは乳児死亡率が低い。これは女性への教育の成果なのではないかとマーモットはいう。氏はキューバの良好な医療パフォーマンスも似たメカニズムによるのではないかという。
 
 第8章の「ロシアの消えた男たち」は非常に面白い、というか衝撃的な内容であるので少し詳しくみていきたい。ここで示された内容はわれわれの持つ健康概念を根底から覆す可能性を秘めていると思う。
 1920年代のソ連で集産主義の強制の過程で900万人が飢饉で死んだと推定されている。共産主義崩壊後の10年で400万人が死んでいる。国の崩壊と確信の崩壊は飢饉と同じくらいの破壊効果をもつのである。このソ連崩壊前後のロシアや東欧での健康状態の変化は、社会的地位や自律性、自分の人生を自分でコントロールできることが健康にかかわるというマーモットの主張の期せずして証明した貴重な実験データとなったのだという。
 最近の統計ではロシアの15歳の少年が60歳をむかえる前に死ぬ確率は43%である!。これはギニアと同じ程度で、スーダンセネガルより悪く、アフリカ以外のほとんどすべての国より悪い。つまり世界最悪に近い。
 15歳での余命を計算するのは、乳幼児期や小児期の死亡の影響を除外するためである。本書の228ページに「ヨーロッパ諸国における15歳平均余命の推移(1970〜2001年)というグラフが示されている。衝撃的なものである。EUにおいては一貫してそれは伸びてきている。30年で4歳くらいの延長であろうか? わたくしなども日本のデータをみていて、平均寿命は年とともに延びていくのがあたりまえのように思っていた。しかし違うのである。中央・東ヨーロッパの旧共産主義国では横ばいかひょっとするとややくだり傾向かもしれない。驚くべきなのは、旧ソビエト連邦で、もともと低いのだが、1987年ごろから乱高下する。1987年には53歳くらいあった余命が、1994年ころには44歳くらいまで下がる。そのあと一時上昇に転じるのだが1998年ごろからひたたび低下して、45歳くらいである。以上は男の場合で、女性も似た傾向はあるのだが、女性の場合、2000年で余命58歳くらいなのが、男性では45歳くらいである。13歳も違っている。
 センは簡単な方法で女性が尊重されている国であるかどうかを推定している。それは人口での男女比である。生物学的には女性の方が丈夫であるから、女性が尊重されていれば、男女比は1を超えるであろう。ヨーロッパと北米は女が男の 1.05 倍いる。アジアの国々や北アフリカでは女性のほうが少ない(エジプトでは 0.95 倍、中国では 0.94 倍、パキスタンでは 0.9 倍)。これは「消えた女性たち」と呼ばれる(いうまでもなく、この見方からすれば、日本では女性が尊重されているわけである)。
 ところが中央および東欧では、男たちが消えて行く。45歳から65歳の年齢層の男女比をみてみる。西ヨーロッパと東ヨーロッパできれいにわかれてしまう。東ヨーロッパでは男が少ない。死んでしまうのである。その死因は半分は心臓血管死、20%は事故や暴力である。
 東欧圏では1960年代に国民総生産の成長がとまった。そのあと、西欧との差は開く一方となった。しかし、共産圏に属して時代には一部の人を除いてはみなものをもっていなかった。ソ連崩壊後、ロシアでは国民総生産が40%以上低下した。ウクライナでは60%をこえた。しかし、金さえあればなんでも買える世の中にはなった。だが、多くの人間には金がなかった。貧富の差が急激に拡大した。そしてこの所得の不平等の拡大と死亡率の増加が比例するのである。ここでの研究でも、自律性の高い個人ほど健康であり、自律性の高い集団ほど死亡率が低かった。
 このロシア・東欧圏でみられた劇的な変化は、これらが淘汰といった生物学的背景によるのではなく、社会的環境によって影響されたことを雄弁に物語っている、とマーモットはいう。
 トッドの「帝国以後」を読んでいて、この人口学者が旧ソ連における人口統計を用いて、そこにおける急激な乳児死亡率の悪化から、ソ連の崩壊を予言したという話を知って、なんだか今一つ納得できないようなものを感じていた。乳児死亡率などということだけからそんな大胆なことがいえるのだろうかと思ったのである。本書を読んでそれが充分に根拠になりうることがよく理解できた。そしてまた思ったのは共産主義体制というのも、1960年代まではかろうじて機能していたのだろうな、ということである。わたくしの中学・高校時代にはまだマルクス主義がひとをひきつけていた。それはソ連という国が、あるいは計画経済というものが、なんとかなっていたということが大きかったのだろうな、と今になって感じる。
 しかし、共産主義体制が機能しないことは、くだくだしい思想的な議論をしないでも、死亡統計をみればわかることになる。東浩紀氏がいっていた人文科学の凋落ということをここでも感じる。人口学もまた人文科学の一部なのではあろうが、旧来の学問とは随分と異質である。そこではプラトンとかライプニッツとかカントとかいった名前がでてくる余地があるとは思えない。冷酷な数字が事実を語ってしまう。
 
 第9章「親たちの苦悩」

 20世紀において、親であるということは一つの試練であった。われわれがなにものであるかを何が決定付けているかについての知見は“生まれつきのもの”(nature)から“育て方によるもの”(nurture)の間で、つまり“遺伝的なもの”から“環境的なもの”の間で大きく揺れ動いた。それにあわせて親の役割も、子供たちの遺伝的運命に対する純粋な傍観者としての役割から、すべての運命の決定者としての役割へと変化し、さらにまたもとに戻った。

 これはまるでわたくしのことを書いているではないかと思う。子供については全然関心がなかったのだが、生まれてしばらくして、伊丹十三氏の本を読み、世の中で一番大事なことは子育てなのではないかなどと思うようになり、仕事をやめて子育てをすべきかなどと考えたりした。そのうちに伊丹氏の(そして一緒に啓蒙活動をしていた岸田秀氏の)依拠していたフロイト説が眉唾なのではないかと思うようになり、今ではデーケンの「フロイト先生のウソ」などという本を読んで納得し、ハリスの「子育ての大誤解」を読んでふむふむと思う、ピンカー派になってしまった。一番迷惑を蒙ったのは子供たちであろう。「親はあっても子は育つ」というのは、野坂昭如氏の言葉だっただろうか? 本当にそう思う。
 それで本章は例によっての「氏か育ちか」論争であるので特に新味はない。いくつかの目についた言葉のみを引用する。

 肥沃な土地で育っている花々の相違点は主に遺伝子型の相違によるものである。しかし、あまり肥沃でない土地で育つ花々の相違は、これらの花に与えられた栽培方法(たとえば水、肥料)の質のためにそうなったのである。(トランブレ)

 この言葉の応用範囲はとても広そうである。

 世界中の高血圧研究者たちの一般的なジョーク「人間を調査する理由は実験室で繁殖させたラットの高血圧をより良く理解するためである」

 ジョークでなく、本音だったりはしないだろうか?
 
 最終章「道徳的義務と結論」
 本書の結論は、「われわれの生活や仕事の環境が健康にとって重要である」というものである。社会に順位付けがあり、さまざまな点で不平等であるのは仕方がない。問題はそれが潜在能力の不平等にどの程度影響するかである。潜在能力の中心にあるのは、自律性(自分自身の人生全般をコントロールできること)と社会参加(社会とのかかわり)である。
 現在いわれている、A)旧ソ連のような、みな平等に自律性を社会参加を拒まれている社会と、B)市場経済体制のような、平等に参加する権利をもつがその結果として大きな格差が生じる社会と、どちらをとるか二者択一という議論はおかしいと、マーモットはいう。みなそれぞれが潜在能力を発揮できるような社会が望ましいのだという。近代の平等主義は物質的な資源の平等な分配をめざした。ポストモダンの社会がめざすべき平等とは、精神的な資源の平等な分配なのだという。それぞれの人間がどれだけのものを持てているかではなく、どれだけ自分の人生を自分でコントロールできていると感じ、社会に参加できていると感じられているかが大事なのだという。そしてそのことが実現できているのかどうかは健康状態によって測定できるのだという。いくらその社会がきれいごとをいっていても、その構成員の健康状態が悪いならば、それぞれの成員の自律性の獲得と社会参加はできていないということである。事実としてダメな社会であるということになるのだと。
 こういう結論をつけないと本として成立しないのかもしれないが、物質ではなく、精神的な資源の平等な分配などといわれてもなあ、と思う。なんだか、フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」における「優越願望」と「対等願望」といった言葉を思い出す。これもマルクス主義は物質のことばかり言っていたから敗北した。本当に大事なのは精神的なもので、それをみたせるのは市場経済体制しかない、といった話だったように思う。
 どうも《ひとはパンのみにて生きるにはあらず》といった議論は胡散臭い。パンのみにて生きているひともたくさんいるのだろうと思う。《パンのみにて生きるにはあらず》というのはインテリが自分の優越権を確保するために持ち出した詭弁なのではないだろうか? 幸せに暮しているひとに、あなたはそれでも幸せですか? あなたには精神の生活がありません、などというのは余計なお世話という気がする。でもそういうことを考えていくとカラマゾフの「大審問官」の話にいってしまうような気もする。
 「わたしは物質だけで満足です」といっているひとは客観的には寿命が短く、ということは本当は自律性がなく社会参加ができていなかったということで、主観的には幸福であったかもしれないが、客観的には不幸な人生を送ったことがわかる、というのが本書のいわんとしているところなのである。もちろん、個々の人間についてはなんとも言えないが、集団としてみれば、その集団は不幸であることがわかってしまう。
 こういう議論の進め方であると《どういう生きかたが正しいかを知っているひとがいる》というパターナリズムがどこかから忍び込んできてしまうように思う。今の医療は、なんとかその根幹に絡みついているパターナリズムをふり払うことに腐心していところなのだと思う。だからこそ、インフォームド・コンセントなのである。インフォームド・コンセントとは、どんなに愚かといわれている選択でもあなたはする権利があります、ということである。わたしはこれが正しいいきかただと思うけれども、あなたにはあなたの考えがあるでしょう、それを尊重します、ということである。「肥満は健康に悪いですよ」⇒「でも、俺は甘いものを食べるときが一番幸せなんですよ」⇒「わかってやっているのであれば、仕方がないですね。将来、脳卒中で倒れてもあなたの自己責任ですよ」路線である。あるいは、「お酒ののみすぎはからだに悪いですよ」⇒「でも、酒でものまなきゃ、こんな仕事やっていけないですよ」⇒「将来、肝硬変になっても、あなたの自己責任ですよ」である。マーモットがいっているのは、ひとを甘いものに走らせ、お酒に走らせる社会構造があるのだから、その構造に介入しなければいけないということである。事実、ロシアの男たちはウォトカを浴びるようにのんで消えていったのである。そうさせたのは旧ソヴィエト社会の体制であり、またその崩壊によるさらなる混乱であった。
 患者さんが医療機関を訪れたときから医療はスタートする。町をゆくひとをつかまえて、あなた顔色が悪いですよ、薬を飲みなさいなどとはいわない。だから禁煙運動というのは、公衆衛生の立場でない臨床家にはなじまない、インフォームド・コンセントにはなじまない動きなのではないかと個人的には思っている(個人が不幸になるのは勝手だが間接喫煙が問題である、というのが禁煙運動の主張なのであろうが)。本書を読むかぎり、マーモットも相当なタバコ嫌いであるように思った。
 「小医は病を医す.中医は人を医す.大医は国を医す」とかいう諺がある。わたしはせめて中医になりたいと思ってやってきた人間で、大医になどということは考えたこともない。でもマーモットのいっていることは、人ばかりみていて国を見ないと、人だって治せないですよということなのだと思う。いっていることはわかるのだが・・。