橋本治「小林秀雄の恵み」(2)

      
 橋本治が「小林秀雄の恵み」の第一章から第二章にかけてでいうのは以下のようなことである。小林秀雄が「古事記」を読みたいを思って、それなら宣長の「古事記伝」かなと思い、読んでその感想を折口信夫にいったら、折口信夫は「本居さんは源氏ですよ」といったきり消えてしまう。その後に、宣長の奇怪な遺書の話になる。なぜまず遺書がでてくるのかといえば、この遺書がわけのわからないものであり、宣長を論じだす前にそれを片づけてしまわないと、本論に入れないからだと、橋本氏はいう。『私に興味があるのは、宣長といふ一貫した人間が、彼に、最も近づいたと信じてゐた人々の眼にも隠れてゐたといふ事である』(p19)という部分だけが小林秀雄にとっては必要であったのだ、と。そして、この文のあとは、「本居宣長」では以下のように続く。『この誠実な思想家は、言はば、自分の身丈に、しつくり合つた思想しか、決して語らなかつた。その思想は、知的に構成されてはゐるが、又、生活感情に染められた文体でしか表現出来ぬものでもあつた。この困難は、彼によく意識されてゐた。だが、傍観的な、或は、一般観念に頼る宣長研究者達の眼に、先ず映ずるものは彼の思想構造の不備や混乱であつて、これは彼の在世当時も今日も変りはないやうだ。』 この二つの文は絶対に連続するはずのないものであるにもかかわらず、それを平然とつなげてしまうのは小林氏の意図的な策略であり、「この遺書を奇怪と思うのは、それを一般観念でみているからであり、生活感情を見ることができない傍観者だけなのだ」といいはることによって、わけのわからないものをなくしてしまうのだ、と橋本氏はいう。
 そうなのだろうか? 最初に折口信夫がでてくるのは、『傍観的な、或は、一般観念に頼る宣長研究者達の眼に、先ず映ずるものは彼の思想構造の不備や混乱であつて、これは彼の在世当時も今日も変りはないやうだ』の例としてなのだろうと思う。折口信夫はどう考えても、普通の人ではないので(氏を通常の研究者と思うひとはまずいないだろう。小林秀雄の同類の文人と思う人が多いのではないだろうか? 折口信夫歌人の釈超空でもあるのだから)、一見すると、本居宣長評価についての二人の特異な人間の間の対立に見えるが、小林氏としては、自分以外のすべての宣長論は傍観的な研究に見えてしまうのであろう。
 そして、遺書がでてくるのは、橋本氏もいうように、この「本居宣長」が小林秀雄にとっても遺書になるという意識があったからであろう、と思う。『私に興味があるのは、宣長といふ一貫した人間が、彼に、最も近づいたと信じてゐた人々の眼にも隠れてゐたといふ事である』という言葉は、そうであるのもかかわらず、自分の遺書ともいうべき「本居宣長」が人々には理解されないだろう、という絶望的な予感を抱いていたからなのだと思う。
 この「本居宣長」の連載が開始された62歳の頃、氏はもうほとんど神格化されていたのではないだろうか? そのすぐ後には立派な全集が刊行されるわけである。なんだかもう過去の人である。生きながら埋葬されてしまうようなものである。橋本氏も書いているように、「本居宣長」を書き出す前に、ベルグソン論の「感想」を5年間連載し、結局それを放棄している。これは完全な挫折である。小林秀雄は迷いに迷っていたはずである。にもかかわらず、まわりは氏を《安心立命の人》であり《人生の指南役》みたいな扱いをしていた。小林秀雄はいらいらしたはずである。黒澤明の「椿三十郎」の最後、椿三十郎(=三船敏郎)が決闘で室戸半兵衛(=仲代達矢)を倒すと、見守っていた九人の若侍のリーダー、加山雄三扮する井坂くんは、「お見事」と言って、三十郎に怒鳴られる。「バカヤロウ! きいた風なことをぬかすな!!」と。この三十郎が小林秀雄なのだといったら変だろうか。小林秀雄は孤独だったのである。誰もわかってくれない、と。
 『この誠実な思想家は、言はば、自分の身丈に、しつくり合つた思想しか、決して語らなかつた。その思想は、知的に構成されてはゐるが、又、生活感情に染められた文体でしか表現出来ぬものでもあつた』というのが「本居宣長」の主題となるはずであった。特に、《生活感情に染められた文体》というのがミソで、小林秀雄が敵とした《傍観的な、或は、一般観念に頼る》学者に対抗する武器となるはずのものであった。ただ、はじめのほうに《生活感情に染められた文体》と記した時点ではまだ、それは予感、予兆であったはずである。宣長の著作を丁寧にたどっていくことによって、それを具体的で腑に落ちるものとして示そうというのが、小林秀雄が連載を開始したときの構想であったはずである。そして橋本氏も書いているように、書いていくうちに、何かおかしいことがはっきりしてきた。しかし、もうベルグソン論「感想」挫折の轍を踏むわけにはいかない。だから今度は無理をしてでも完結させようとした。その破綻が、「もう、終りにしたい。」という奇妙な末尾に表れている、というのが橋本氏の論であるし、わたくしもそう思う。
 小林秀雄は「本居宣長」を通じて一貫して「学問論」を展開したかったのであろう。しかし、《生活感情に染められた文体》が学問のための文体となるだろうか?、というのがわたくしが抱く疑問である。橋本氏は、宣長はとにかく歌を好み、自分の歌の正当化するために「源氏」や「古事記」を研究したのだという。橋本氏は宣長の学問を認めない、あるいはそれに興味を示さない。そして小林秀雄もまた(他人はどういおうと)自分では「本居宣長」で学問をしているとしたのであり、自分の書くものこそが学問であり、《傍観的な、或は、一般観念に頼る研究者達》は間違っているとしたのであろう。しかし、小林氏の書いたものは、やはり学問ではなく、歌であり、詩であった、ということにはならないのだろうか?
 橋本氏はいう。

 近代になって日本人は、西洋の思想を学ぶ― 「まだ足りぬ、まだ足りぬ」と学び続けて、その必要はいつか懐疑へと変わる。その懐疑を解く鍵は、「西洋の思想を学ばねばならない」という形で登場してしまった「近代」という新しいステージと、平気でそれを載せてしまった「近世」というそれ以前の土台のギャップであるはずである。

 これが鍵である。「小林秀雄の恵み」は、一貫して「近世」と「近代」の連続と断絶をめぐる論考となっている。もしも『両者が一致すれば、「挫折に終わる近代の虚妄― あるいはその矛盾」は消えるはずである』ということである。江戸の「近世」と明治の「近代」は繋がっているのか切れているのか?(そして、そんなことを言い出せば、もっと大きな問題、本場西洋の「近代」は西洋の「近世」と連続しているのか切れているのか?がでてきてしまうのだが)。小林秀雄は「近代」の人である。その「近代」の人が「近世」を理解しようとする。しかし「理解」ということがすでに、《傍観的な、或は、一般観念》という「近代」のやりかたなのではないか? そして橋本治は近世を頭で「理解」するのではなく、いわば《生活感情に染められた》ものとして《わかる》という「近代」においてはまことに稀有な人なのである。橋本氏のしようとしているのは「近世」のほうから「近代」を知るという、通常の知識人とはまるで反対の方向なのである。
 橋本氏のいっていることは簡単なことなのだと思う。「近代」は暗い「近世」は明るい、ということである。あるいは「近代」の知識人は暗い、ということである。それなのになぜ暗いひとが威張るのだ、ということである。あるいは子供が近世で、大人が近代である。明るい子供が大人になって暗くなる。そのどこがいいのだ、と。
 ちくま文庫版の竹中労鞍馬天狗のおじさんは 聞書アラカン一代」の解説を橋本治が書いている。そこに言う。『竹中労は「アラカンは差別されきた」と言う。しかしそれは、別に嵐寛寿郎だけではない。チャンバラ映画そのものがそうだ。実は、歌舞伎だってそうだ。映画だってそうだ。歌謡曲だってそうだ。「アラカンは差別されてきた」と言う竹内労自身だって、差別されてきた。日本の知識人は、「くだらない娯楽に深入りする理由が分からない」と言って、そうした諸々を一切排除して、為に、大衆文化として包括される日本文化のある局面はバラバラに切断されて来たのだ。』、と。原っぱで夢中になってチャンバラごっこをしている子供のままで一生を終われるなら、それが一番いいのだ、というのである。
 「小林秀雄の恵み」の110ページあたりに、本居宣長は個人的には「学問をする人」でありたかったのだが、社会的には「学者」であることを選択しなかった、という話がでてくる。宣長は医者でもあったわけで、高名な学者であることより、生業である町医者であることを優先した、という挿話である。『先ず生計が立たねば、何事も始まらぬといふ決心から出発した学者生活を、終生支へたものは、医業であつた。』 この辺りの「生活者」というような語が、小林秀雄の難解の一つであって、『傍観的』とか『一般観念』とかいうものの対であることは明らかなのだが、それでもわかりにくい。
 橋本治は、この辺りから、小林秀雄はそれなら、社会的にはどういう人であったのか、という問題を引き出してくる。「生活者」としての小林秀雄とは?という問題である。なにしろ氏は文芸評論を書かない文芸評論家であったのだから。小林秀雄とはなにものだったのか? 小林秀雄はこんなことを言っている。『当時まで、私は、盛んに文芸時評を、雑誌新聞に書きつづけて来ていたが、この種の自分の書くものについては、いよいよ不信の念を深めていた。/というのは、そのころ、文学の社会性とか、文学作品の社会的評価といかいうことがしきりにいわれ、それが文芸時評の中心問題たる観があったのだが、要するに、みな寝言囈言だったのである。その証拠には、文芸時評など、常識ある社会人はたれも読んでいやしなかったからである。評家等は、読者など眼中に置かずに、勝手な熱をあげていた。私は、どうかして、早くこの馬鹿々々しい泥沼から出たかった』
 ここには二つの問題がある。問題1:寝言囈言であることがいけないのか? 問題2:読者がいないものを書くのがいけないのか?、である。問題はさらに、『寝言囈言』であるから、読者がいないのか、という方向に収斂していくのかもしれない。ここにある『常識ある社会人』という語が曲者なのである。なぜなら『寝言囈言』を読んでいる人がもしもいるとすれば、それは『常識なき社会人』あるいは『社会に根をもたぬ非常識人』としてしまえばいいからである。
 この『常識ある社会人』という語は明らかに『生活者』というような語に繋がるものであるが、これは小林秀雄の観念の中にしかいないものなのではないかという疑いは消えない。「本居宣長」を読む『常識ある社会人』なんてものはいるだろうか、という疑いである。「本居宣長」を読むのは、インテリ、知識人であって、それは『常識ある社会人』とは異なるところにいる人なのではないだろうか。だが、小林秀雄はそれを一つに重ねたい。それが本居宣長が学者プロパーではなく、町医者だったことへのこだわりとなっていく。江戸時代において学者が著述を売ることだけによって生活していくことはほとんど不可能であったろうから、学者プロパーであることとは藩主お抱えの学者といったものになることを意味する。それへの拒否が町医者であることなのである。
 竹内労氏は、「鞍馬天狗のおじさんは」の中でこんなことを言っている。『キネマ旬報の読者のような高級な映画ファンにとって、寛プロの作品などは最初から論外、という予断がそこにはある。B・C級映画に対する差別、その度しがたいコンプレックスは、この国にいまだに骨がらみである。とりわけて、ポルノ&ピンク映画。日本共産党文化部映画委員会は、これを人民の資本主義的退廃のあらわれであるという。やくざ映画もまた、平和と民主主義の敵対物であり全否定されねばならぬ。これらの下らない娯楽にうつつをぬかしているごひいきの方=意識の遅れた大衆を“前衛”は啓蒙せねばなら』ない、と。日本共産党はもうなくなってしまったけれども(まだ形式的にはあるのだろうが・・)、ゲイジツ映画という分野はいまだに存在している。
 小林秀雄の文を読んでいて感じるのは、「本居宣長」を常識ある社会人はたれか読んでいたのだろうか、ということである。10万部、20万部売れたのだとしても、それでも誰も読んでいないということはありうる。常識ある社会人にとっては、「本居宣長」もまた、勝手な熱をあげている本、というように見えていたことはないのだろうか?
 小林秀雄が、自分を“売文業”と名乗っていたという話も紹介される。そして橋本治はこんなことをいう。

 はっきり言ってしまえば、小林秀雄に最もふさわしい肩書きは「小林秀雄であること」である。「小林秀雄の職業は“小林秀雄”だった」である。

 本当にうまいことをいうなあと思うけれども、“小林秀雄”はどう考えても職業ではない。ピカソは何を描いてもピカソだっただろう。しかし、小林秀雄の場合は、署名なしでみても、小林秀雄の文章だったのだろうか? “売文業”と名乗ることは、自分の書いたものを身ゼニをきって読んでくれるひとがいるという誇りであろう。しかし小林秀雄の本が、金を出して買ったひとの床の間の飾りなっていなかったという保障はないように思う。アラカンが『なんというたかてゼニ持って映画館にきてくれる人や、役者にとっての宝は、ワテはそう思います』というのとは大分違うように思う。
 橋本治は、次に小林秀雄はなぜ“学者”ではないのかという疑問へと進む。そして小林秀雄のこんな文章を引く。『私の書くものは随筆で、文字通り筆に随うまでの事で、物を書く前に、計画的に考えてみるという事を、私は、殆どした事がない。筆を動かしてみないと、考えは浮かばぬし、進展もしない。』 そういう文が学問であるはずはないではないか、と。
 しかしそれは学問の定義次第で、小林秀雄は、『先ず好き嫌ひがなければ、芸術作品に近寄る事も出来ない。といふ一見何でもない事柄が、意外にも面倒な事と考へられ、この小さな事実が、美学といふものを幾つもおびき寄せては、これを難破させる暗礁のやうに見え出し、言はばそれで手がふさがつて了つた』(「井伏くんの「貸間あり」」(「考へるヒント」))ひとである。『先ず好き嫌ひ』がなくても論じるものが一般には学問であるとされているのならば、『先ず好き嫌ひがなければ』何も書けないひとは学者ではないことになる。
 「小林秀雄の職業は“小林秀雄”だった」というのは、小林秀雄の仕事は、「俺はこれが好き、これは嫌い」と言うことだったということである。国民の趣味や嗜好の指南役である。『もう二十年も昔のことを、どういう風に思ひ出したらよいのかわからないのであるが、僕の乱脈な放浪時代の或る冬の夜、大阪の道頓堀をうろついてゐた時、突然、このト短調シンフォニィの有名なテエマが頭の中で鳴つたのである。僕がその時、何を考えていたか忘れた。いづれ人生だとか文学だとか絶望だとか、さういふ自分でもよく意味のわからぬやくざな言葉で頭を一杯にして、犬の様にうろついてゐたのだらう。』 この文章は日本のモツアルト受容に随分と悪い影響をあたえたのではないかと思うけれど、いずれにしてもこれは学問の文章ではない。では随筆かといえば、とてもそんなものではなくて、まさに“小林秀雄”としかいえない文章である。そしてこれはモツアルト理解だけではなくて、日本の批評文そのものにも大きな災いをもたらした。論理ではなく、気合とはったりで書く文章が陸続と連なったのだから。小林秀雄だって、それを若気の至りと反省したはずで、だからこそ「本居宣長」の文は全然違う。『神代の物語の示す不合理は、まことに露骨なものであつて、これをそのまゝに差し置いて、その上に学問を築くわけにはいかない。学問を出発させる為には、この物語の「あやしさ」を何とか始末しなければならない。宣長は、問題を、其処へ絞つたわけだが、彼が、学者達に大きな不満を抱いたのは、彼等の身勝手な始末、といふより、彼等の仕事は、始末までも行つてゐないと思へることろにあつた。』 これは普通の文章である。そうではあるが、やはりこれも学問の文章ではない。自分はこう信ずるということを述べているだけで、なぜ自分がそう信じるかが《客観的》には何も示されていないからである。《客観的》こそが敵であって、なぜなら、『先ず好き嫌ひ』がないから《客観的》になれるのである。
 『先ず好き嫌ひがな』くては何事もはじまるわけはない、というのが小林秀雄の信念であるのであれば、本当は俺がやっているのが学問だという自負が氏にはあったはずである。とにかくも、氏は何事かを始めたのである。しかし、学問は《主観的》でなければならないということを主張した学術論文などというものがありえるだろうか? しかも、その小林氏は「無私の精神」などということもいうのである。『身勝手な始末』が平気でできるのは、学問をする動機が不純だからである。いうまでもなく、小林秀雄からみれば、本居宣長は「無私の人」である。
 『今日の学問は、事物の観察を主眼とし、精神的事実も、一応事物化してから仕事にかかる、という建前になっているが、そういう今日の学問の通念から離脱して見る事が、必要であろう。』と小林秀雄は言う。「事物化する」ということは、“私”を消す、ということである。『事物の観察を主眼とし、精神的事実も、一応事物化してから仕事にかかる』といういきかたは橋本氏もいうように「近代的な学問の態度一般」であるのだが、小林秀雄にいわせれば、それは「学問をする人間にあるまじき鈍感さ」を示すものなのである。つまり小林秀雄は「近代的な学問」一般を否定してしまうのである。まさに、橋本氏のいうように、『学問のあり方を告発している』である。小林秀雄によれば、学者とは『確信は持たぬが、意見だけは持っている人々』である。一方、本居宣長は『確信していた人』なのである。そして、小林秀雄もまた。橋本治がいうように、この『意見』は『知識』でもある。このあたりを読んでいると、一時、ニューサイエンスの陣営がいっていた《西欧の諸悪の根源としてのデカルトの客観主義》といった話とほとんど同じものであるように、わたくしには思えてしまう。
 わたくしがニューサイエンス系統の本を読んだのは20年以上も前のことだから、あらかたその内容は忘れてしまったので、本棚からF・カプラの「タオ自然学」(工作舎 1979年)を出してきた。読み返してみれば、それがいうのは以下のようなことである。『二十世紀の科学は、デカルト哲学の二元論と機械論的な世界観を源とし、その世界観に支えられてはじめてここまで発展することができた。』のだが、そのデカルト哲学的世界観はもう古いのである。というのは、西洋科学の足跡とは、『初期ギリシャにおいて神秘哲学として始まり、しだいにその神秘的傾向をすて、知的な思想として展開し、東洋の世界観とはまったく対照的な世界観へと発展していった』というようなものなのだが、『つい最近、西洋科学はその世界観を退け、初期ギリシャや東洋哲学の世界観へと逆戻りしはじめ』たからである。しかも今度は『直感だけではなく、ひじょうに正確で洗練された実験と、厳密で一貫した数式』によって。「不確定性原理」とか量子力学における「観察者問題」といった現代物理学の最先端の知見が、デカルト哲学を否定し、東洋哲学の神秘思想の正統性を保証するというようなことである。だからニューサイエンスは、実は「物理学帝国主義」を前提にしてなりたつという奇妙な側面ももっていた。
 わたくしがかつてニューサイエンスの方面の本を読んだりしたのは、全共闘運動の時代を経過した人間であるからでもある。それはどこかで「学問とは何か?」を問うものでもあったと思う。だからたとえば山本義隆氏の軌跡があるわけである。またわたくしが医療を職として選んだことも関係していると思う。例の病気をみるな、病人をみろ、である。そして、医学という学問が面白くもなんともなかったということが最大の理由であろう、と思う。病理学とか解剖学とかの教科書を読んでも、全然、血も踊らず、肉も湧かなかったのである。『要するに、新劇運動の選手達は、自分の必要ばかりを重んじ過ぎて、見物人の現実性を軽視したのである。歌舞伎劇で満足してゐる見物に、翻訳劇を強ひるのは、日本食で満足してゐる人間に、無理に洋食を食へといふに等しく、無駄なことである。・・現存する見物の側に、新しい芝居に対する要求が起つて来ない限り、新しい芝居は成功しない。・・現存する観劇階級が、いかに低級なものにせよ、彼等は、芝居を見る金も暇もあり、ともかくも芝居といふものを楽しみ、芝居といふものに対して何等かの要求を持つてゐる人達である。彼等を軽視してはならぬ。自分は彼等の芝居に対する要求が低級な事を認めるに於いて人後に落ちるものではないが、彼等が、現在の芝居に愛想をつかし、欠伸をする時でなければ、新しい劇は起り得ない事も信じてゐる。新劇運動の前途は、多難だし、道は遠い。』(小林秀雄「「菊池寛文学全集」解説)といったものを読むほうが、どれほど面白かったことか。確かに、デカルト的客観世界というのは詰まらなかったのである。単なる知識というのは、詰まらないのである。
 小林秀雄は現代物理学を持ち出すほど野暮ではないので(ベルグソンを滔々と論じたのであるから、案外と、その辺りもよく勉強していたのではないかという気もするが)、自分はこう信じるの一点張りである。おそらく、「からごころ(漢意)」と「やまとだましひ」とは、「西洋合理主義」と「それを否定するもの」でもあって、「からごころ」が西洋合理主義であるなどというのはあまりな言い方であるかもしれないけれども、小林秀雄がいいたかったのは本居宣長を合理的に批判することの愚ということであったはずで、要するに、なぜ本居宣長の“まごころ”が見えないのかということであり、それをみえなくする“賢しら”こそが「からごころ」であり「西洋合理主義」なのである、ということなのであったのだと思う。
 そういうことで、この辺り、わたくしはニューサイエンスなどを連想してしまったのだが、橋本治はまったく違う方向に論をすすめる。それは近世以前の日本の「学問」は仏教しかなかった、ということである。それで、それを論じる「第4章 近世という時代― あるいは、「ないもの」に関する考察」については、稿をあらためて見ていくこととする。

鞍馬天狗のおじさんは (ちくま文庫)

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