橋本治「小林秀雄の恵み」(5)「当麻」「無常といふ事」「平家物語」

      
 第二次世界大戦後の1946年に小林秀雄は、「当麻」「無常といふ事」「平家物語」「徒然草」「西行」「実朝」の6編を収める「無常といふ事」を刊行する。しかし、この6編はすべて戦争中、1942年から43年にかけて「文学界」に、この順で発表されたものである。
 1941年12月に太平洋戦争は始まっているから、「当麻」はその翌年に発表されたわけである。橋本治は、1942年に発表された小林秀雄の「戦争と平和」や「三つの放送」という文を引いて、小林秀雄の「のらりくらり」や「知らん顔」、「イケシャーシャーぶり」を指摘して、なんて食えないオヤジなんだ!と感嘆している。真珠湾で攻撃をうけた敵艦の写真を評して、「模型軍艦の様なのが七艘、行儀よくならんで、ちょっぴりと白い煙の塊りをあげたり、烏賊の墨の様なものを吹き出したりしている」である。あるいは開戦を告げる放送を評して、「日米会談という便秘患者が、下剤をかけられた様なあんばいなのだと思った」である。まるで他人事である。尻尾をつかまれないようにして距離をとる芸は本当に大したものである。
 だから小林秀雄は、ある意味で、戦争というものによって「虚」のような空白状態におかれていた、と橋本治はいう。その虚の状態にいた小林秀雄を能の「当麻」が襲った、というのが橋本治の見立てなのだが、それにわたくしは納得できない。それでふたたび「現代国語」の演習となる。(なお、32節は、「美の襲撃」と題されている、どこかで聞いた言葉だなと思って、インターネットでみたら、三島由紀夫にそういうタイトルの本があるようである。)
 「当麻」は全集で3ページちょっとの短い文である。全部で十のセンテンスに分かれている。
(1)は「梅若の能楽堂で、萬三郎の当麻を見た。」だけである。
(2)それを見た帰り道での、能の印象の回想。
(3)能の「当麻」の粗筋と見はじめの印象。
(4)能の前半部分の感想。
(5)間狂言での、能面から誘発された感想。ブツブツと発せられる悪態。
(6)そこから飛躍するルソーへの悪口。
(7)能の後半の中将姫の踊りの美。
(8)そこから一転して、現代への悪口。
(9)反転して世阿弥の「花」の論。(ここで「美しい「花」・・・」がでる。)
(10)ふたたび、(2)に続く、帰り道での感想の続き。全文でも、『僕は、星を見たり雪を見たりして夜道を歩いた。あゝ、去年の雪何処に在りや、いや、いや、そんなところの落ちこんではいけない。僕は、再び星を眺め、雪を眺めた。』だけの短いものである。この最後のセンテンスだけみたら、どこが評論文なのだろうかと思う。
 わたくしは、能の「当麻」も、中将姫伝説も知らないので、ここにその大略をまとめてみる。
 三熊野詣を終えた念仏の行者(直面、すなわち面をつけないワキ)が、その帰途に大和の当麻寺に立ち寄る。当麻寺には、奈良時代の終わりに中将姫という女性が「蓮の糸で織った」と伝えられる曼荼羅がある。老尼と女がやってくるので、念仏行者は、曼荼羅の謂れをくわしく教えて欲しいと老尼に頼む。実は、老尼は阿弥陀如来の化身である。老尼は中将姫が阿弥陀如来に会いたいと一心に祈った故事を語る。そこで前半が終わり、前ジテの老尼は若い女をつれて退場する。中入の間狂言では、行者が念仏をすすめられる。と天の音楽が聞こえ、光がさし、(念仏行者の夢の中に)(極楽に住み「歌舞の菩薩」となっている)中将姫の霊に扮する後ジテが、華麗な衣装で登場し、見事な舞姿を見せ、去る。
 ここで橋本治がいうのは、小林秀雄は能についてはあまり知識がない状態で「当麻」をみたのであろう、ということである。だから前半の老尼が阿弥陀如来の化身であることもしらず、見当違いの感想を述べている。そして予備知識がなかったからこそ、後半の中将姫の舞いの美しさに打ちのめられたのだろう、という。後ジテが演じるのは《歌舞の菩薩となっている中将姫の霊》なのだから、能役者はひたすら美しく舞うことに努めるのが仕事であり、そこでその役者(萬三郎)が自分の仕事を立派に果たしたということだけであるのかもしれないのだが。と。
 わたくしが納得できないのが、橋本治が「当麻」は(6)までと(7)からの間に完全な断裂があるとしていることである。氏は、大事なのは(7)において中将姫の踊りという「美」に小林秀雄が「襲撃」されたこと一点であるとするのである。しかし、そうすると、(5)と(6)での小林秀雄の悪態をどう位置づけたらいいかが、わからなくなってしまう。
 (4)の冒頭。『老尼が、くすんだ菫色の被風を着て、杖をつき、橋懸かりに現れた。真つ白な御高祖頭巾の合ひ間から、灰色の眼鼻を少しばかり覗かせてゐるのだが、それが、何かが化けた様な妙な印象を与へ、僕は其処から眼を反らす事が出来なかつた。僅かに能面の眼鼻が覗いてゐるといふ風には見えず、例へば仔猫の屍骸めいたものが二つ三つ重なり合い、風呂敷包みの間から、覗いて見えるという風な感じを起させた。』
 どういうわけか、小林秀雄は「眼を反らす」ことができない。そこから、それにくらべて、この能楽堂の場内には、『眼が離せない様な面白い顔が、一つもなさそうではないか。どれもこれも何といふ不安定な退屈な表情だらう』という飛躍がおこなわれる。それが(5)の冒頭の『仮面を脱げ、素面を見よ、そんな事ばかり喚き乍ら、何処に行くのかも知らず、近代文明といふものは駆け出したらしい』という小林秀雄一流の決め台詞風の、さらなる飛躍を導く。「俺は能面にひきつけられる」→「しかしまわりの顔は魅力のない馬鹿面ばかり」→「だから近代は駄目なんだ」というのを三段論法というのはどうかは知らないが、「個人的な感想」→「一般論」というのが飛躍であることは確かである。「まわりの顔は魅力のない馬鹿面ばかり」なのは、現代においては諸観念が跳梁しているからである。だから、顔はすぐに不安定な観念の動きをあわらにしてしまう。一方、世阿弥は、『肉体の動きに則つて観念の動きを修正するがいゝ』といった。その具体例は中将姫の踊りにある。
 とすれば、この「当麻」は一貫した文であって、前半:能面から、近代人の表情の不安定さとその原因としての観念の跳梁をひきだす、後半:観念の跳梁への対策としての肉体の動きへの信頼、その具体例としての中将姫の踊り、という綺麗な対応関係をもった文なのではないかと思う。
 「当麻」は観念論の否定であると同時に、萌芽としては後年のロマン主義の否定をも暗示する文章で、後年の「モオツァルト」に繋がるものなだろうと思う。小林秀雄が戦争から距離をとったとしたら、戦争を賛美する者も、それに反対する者も、等しく観念論とロマン主義に踊られされていると感じ取ったからではないのだろうか?
 あるいは逆に、戦争に突入することによって周囲の人間たちの言動に一層現わになってきた観念論とロマン主義を見て、あらためて自分のいる位置を確認することができたということなのではないだろうか?
 橋本治は、小林秀雄の最初期の短編小説「蛸の自殺」から《外界と区切りをつけた幕の中で憂鬱を振り回している》という表現を取りだしてきて、これを《日本近代文学の中枢に存在するような体質》であるとしている。小林秀雄はもう少しあとの短編「一ツの脳髄」で、その体質を客観的に見る視座を得た。それをさせたものは小林秀雄の冷静と知性であり、その冷静が小林秀雄を小説家ではなく、文芸評論家とさせたと、橋本氏はいう。『主観の充満で閉塞状況に陥っている文芸を、客観の力で整理』したのだ、と。この『主観の充満』はほとんど『ロマン主義』とイコールである。それは「モオツァルト」劈頭の、ゲータ対ベートーベンにつながる。
 小林秀雄は「モオツァルト」を書くようになることにもあらわれているように、文芸評論家であることに飽き足らなくなり、それを放擲する。その事情もまた「当麻」にでていると、橋本氏はいう。問題は、「花伝書」を読んでも、謡曲「当麻」の詞章『有難や、尽虚空界の荘厳は、眼は雲路に赫き、転妙法輪の音声は、聴宝刹の耳に満てり』を読んでも、そこからは中将姫も舞い姿はいっこうに現れてこないということである。それを顕現させるものは、舞台の上の演者の技量だけということである。そして、もう一つ言えば、小林秀雄の「当麻」を読んでも、やはり中将姫の舞い姿は現れてはこない。『白い袖が翻り、金色の冠がきらめき、中将姫は、未だ眼の前を舞つてゐる様子であつた』などといくら書いてあっても、駄目なのである。
 (ところで「当麻」は何と読むのだろう? わたくしはずっと「たいま」だと思っていたのだが、橋本治は「たえま」とルビを振っている。どちらが正しいのだろう?)

 第6章「危機の時」の後半は「無常といふ事」を論じる。これまた橋本治の読みに同意できない。それでまたまた「無常といふ事」をめぐる「現代国語」演習。
 「無常といふ事」も全集で3ページの短い文である。
 7つのセンテンスからなる。
(1)「一言芳談抄」の中の文の提示。
(2)その文をありありと急に思い出すことがあったというエピソードの紹介。
(3)しかし、今はその「ありあり」の感じが失せてしまったとする。
(4)その理由の考察。
(5)歴史についての考察。
(6)歴史は動じない不動のものとしてあらわれるという断定。
(7)それによる現代思想批判。
 問題は(2)と(3)の読みである。
 その前にまず「一言芳談抄」の中の文章。「比叡の御社に、夜、鼓を打ちながら、読経している女房がいた。なぜと聞かれたら、生死無常の有様を思うと、この世のことはともかく、後世を助けたまえと祈っているのだ、と答えた」といようなものである。(1)
 比叡山にいき、山王権現のあたりを散策していた小林秀雄に、突然、その文章が「当時の絵巻物の残缺でも見る様な風に心に浮び、文の節々が、まるで古びた絵の細勁な描線を辿る様に心に浸みわたつた。」(2)
 しかし、この「無常といふ事」を書こうとして、あらためてこの「一言芳談抄」の中の文章を読み返してみても、最早、そのありありとした感じは蘇ってこない。(3)
 その時は、自分は「ある充ち足りた時間」の中にいた。「自分が生きてゐる證拠だけが充満」している時間の中にいた。その時、自分が思い出していたものは何か、鎌倉時代をか。そうかも知れない。(4)
 (5)以下は、あるときに自分はありありと思い出すことができ、ある時にはできない歴史とはどういうものか?をめぐる考察となる。
 この「無常という事」は、戦時中に書かれたものであるにもかかわらず、敗戦後に出版され、敗戦後の国民に今現在の自分たちのことを書いた文章であるような読まれ方をした。そのような読まれ方をすることができる文を書けたのは、戦争中にすでに小林秀雄が敗れていたからなのだと、橋本治はいう。何に? 能の「当麻」の中将姫に。というのが橋本治の論の肝となる。
 かつてはそこに「ある」と思われ、今となっては「ない」ものは、《なま女房》の打つ鼓の音と、それとともに謡う彼女の《とてもかくても候、なうなう》の声なのだという。
 問題は、その「かつて」とはいつかということである。橋本氏は、それは小林秀雄が以前に「一言芳談抄」を読んだ時である、としている。しかし、この「かつて」は『先日、比叡山に行き、山王権現の辺りの青葉やら石垣やらを眺めて、ぼんやりとうろついてゐる』ときに突然、その文を思い出した、そのときのことであるはずである。先日、比叡の山の中ではありありと思い出せたものが、今、書斎の中では色あせてみえる、ということのはずである。
 橋本治は、かつて小林秀雄が「一言芳談抄」を読んで、耳に聞いたと思ったものは、文字のテキストに刺激された小林秀雄の《観念の動き》だったのであり、「当麻」をみて、肉体の動きに則って観念の動きを修正することを学んだ後となっては、もはやそれは聞こえなくなるのである、という。
 しかし、それはあまりに無茶な議論というものである。そんなことを言えば、テキストを読んで想起されるものは、みんな観念の動きにきまっている。別に《なま女房》の打つ鼓の音と、それとともに謡う彼女の《とてもかくても候、なうなう》の声だけでなく、「源氏物語」だって「戦争と平和」だってそこにあるのはテキストだけだけれども、それにもかかわらず光源氏もナターシャもいるのである。もちろんそこに声が聞こえたとように思うとしても、それは観念の所産でしかないのだが。
 「無常といふ事」で小林秀雄がいっているのは、単なるテキストではないプラスの何かが想起には必要であるということで、それがこの場合は、『比叡山に行き、山王権現の辺りの青葉やら石垣やらを眺めて、ぼんやりとうろつく』ということなのであろうと思う。この《なま女房》のいた比叡の御社の地にいったことが、想起の呼び水となったというようなことなのであろう。
 (5)以下で主張されていることは、歴史を解釈することの拒否である。解釈ではなくて、それをじかにありありと感得すること、それが大事である、ということを言う。そうであるから、《なま女房》の打つ鼓の音と、それとともに謡う彼女の《とてもかくても候、なうなう》の声が聞こえなくては困るわけである。それを《観念の動き》などといって拒否してしまっては、全体の論旨が壊れてしまう。
 実際、小林秀雄は、次の「平家物語」でそこに筋肉の隆々たる動きを見る。『太陽の光と人間と馬の汗とが感じられる、そんなものは少しも書いてないが。』という。これは《なま女房》の打つ鼓の音と、それとともに謡う彼女の《とてもかくても候、なうなう》の声を聞くのと同じことである。
 「平家物語」はそれまでの「当麻」や「無常といふ事」の難解にくらべて、とても平明でわかりやすい。「平家」冒頭の「諸行無常」云々の否定に橋本治は諸手を挙げて賛成する。そうであるなら、橋本治もいうように、「無常といふ事」というタイトルは人を誤らせるもので「常なるもの」であってしかるべきなのである。
 どうも《「当麻」における小林秀雄の敗北》という橋本治仮説に、わたくしは賛成できない。「当麻」の中将姫は、小林秀雄が前々から考えていたことを、実際に裏打ちする格好の例を提示したということなのではないだろうか? 抽象的な思考にとどまっていたものが、中将姫の舞姿によって結晶化した。それがたまたま能の中将姫であったから、小林秀雄は日本の古典にむかった。それは戦時中の日本においては都合のいい材料でもあった。しかし、それは偶然で、「美」を具体的に提供するものであれば、別に西洋由来のものでもよかったのだろうと思う。だから戦後すぐに「モオツァルト」が書かれ、「近代絵画」が書かれることになる。
 しかし、橋本治は「敗北」を仮定するので、今度は「回復」である。それで、第7章の「自己回復のプロセス」が次にくることになる。