橋本治「小林秀雄の恵み」(6)「徒然草」
この何回か、「小林秀雄の恵み」における橋本治の「無常といふ事」の読解を検討している。
橋本治は、「当麻」は、能の中将姫の踊りという「美」に襲撃されて敗北した小林秀雄を示すものであり、そのために「無常といふ事」では、かつて「一言芳談抄」できいたと思ったなま女房の声や鼓の音が聞こえなくなったのであり、あらためて音の聞こえるテキストを求めて「平家物語」にいき、武者たちの健康な泣き声と笑い声をきいた、という読みを提示する。
わたくしはそれに納得できない点があることは、これまでも述べてきた。テキストは一つなのだから、どちらが正しいなどと議論しても意味がないのであるが、橋本治も小林秀雄のテキストだけからそのような読みを引き出してきているわけでは必ずしもないとしている。戦争中の生きかたなどとあわせてそのような判断をひきだすのである。
わたくしは、小林秀雄は「当麻」の中将姫体験の前に、すでに明確に敵を発見していたが、それにむかう武器を入手できないでいたのだと思う。中将姫体験は小林秀雄に《具体的なものとしてある「美」》という武器を教えた。しかし「美」はいつでも体験できるような安易なものではなく、何らかの条件があるかないかで、消えたり現れたりするとらえどころのないものである、ということをいったのが「無常といふ事」なのではないかと思う。
小林秀雄がすでに発見していた敵とは知識人の「頭」でっかちな観念過剰や自己陶酔、要するに彼等の「寝言囈言」である。中将姫体験がもたらしたものは「肉体」の発見であろう。「頭」への武器としての「肉体」である。だから「平家物語」でも、祇園精舎の鐘の声がどうこうというような知識人の観念論ではなく、武者たちの身体の泣き笑いをそこに発見するわけである。
問題は小林秀雄の自己規定である。敵は知識人である。それなら小林秀雄は知識人ではないのか? たとえば「政治と文学」という論で、「大戦後、私は、ある座談会で、諸君は悧巧だから、たんと反省なさるがよい、私は馬鹿だから反省などしない、と放言し、嘲笑されたことがある」と書いている。この『諸君は悧巧だから』というのは、《あなた方は知識人だから》、ということである。では『私は馬鹿だから』は? 「俺は知識人じゃないよ」なのだろうか? それとも、「俺はあんた方よりも、もっと高級な知識人だよ」ということだろうか?
「私の人生観」の中で、小林秀雄は、宮本武蔵の「我事に於て後悔せず」という言葉を紹介している。これは「私は馬鹿だから反省などしない」に照応しているわけだが、宮本武蔵に、小林秀雄はなりたかったのだと思う。「本居宣長」も宣長は武蔵であるということをいいたかった本なのかもしれない。とすれば問題は、宮本武蔵は知識人であるかということになる。《もしも宮本武蔵が知識人であるなら、俺は知識人だ》というのが小林秀雄の論なのである。自分の周りにいる、知識人を自称する人たちは一人として武蔵に似ているひとはいない。だから彼らは知識人ではない。しかし宮本武蔵はその当時の日本では知識人であるとはされていないから(最近は違う? 「五輪書」を書いた思想家? 読んでいないけれど、「花伝書」が能役者のための技の伝授手引書であったのと同じに、それもまた武道の技のための実用書だったのではないだろうか?)、「俺は知識人なんかじゃないよ」というのも、論理からは当然ということになる。
そんなことを考えるのも、「平家物語」に続く「徒然草」が名人論・達人論にむかうう傾向を露骨に示すからである。
あの正確な鋭利な文体は稀有のものだ。一見さうは見えないのは、彼が名工だからである。「よき細工は、少し鈍き刀を使ふ、といふ。妙観が刀は、いたく立たず」、彼は効き過ぎる腕と鈍い刀の必要を痛感してゐる自分の事を言つてゐるのである。物が見え過ぎる眼を如何に御したらいいか、これが徒然草の文体の精髄である。
典型的な小林秀雄節で、昔は感嘆したが、今は鼻につく文章である。『一見さうは見えない』のに兼好の文体が鋭利であるとわかるのは、俺=小林秀雄にはそれがわかる、という以上のこことは、ここでは言われていない。俺は目利きである。この俺を信じろということである。橋本治がいう、兼好は『等身大の中年男』で、『よき細工は、少し鈍き刀を使ふ』のであれば、鈍き刀しかもたない俺=兼好でも、『努力次第では名工の域に辿り着くことができるかもしれない』としたのだという方が、はるかに説得的である。(この『よき細工は、少し鈍き刀を使ふ』で、なぜか映画「椿三十郎」で城代家老夫人(入江たか子)が椿三十郎を評していう、「あなたは、なんだかギラギラしすぎてますね」「あなたは、鞘のない刀みたいな人。よく切れます。でも、ホントにいい刀は、鞘に入っているもんですよ」を思い出したわたくしは、全然見当違いの連想をしているのだろうか? なにか関係がありそうな気もするのだが・・。)
小林秀雄が吉田兼好を全肯定したいのは、知識人である自分を全肯定したいからだと橋本治がいうのは、そのとおりであろう。小林秀雄は、いくら憧憬しても泣き笑いする武士とは正反対の場所にいるのであるから。
小林秀雄は「知識人」が嫌いである。そんなものより、単純に泣き笑いする武士たちのほうがよほど好きなのである。しかし、自分は「複雑なる」知識人である。《「単純に泣き笑いする武士」のような「複雑なる知識人」》というような知識人像を小林秀雄は理想としていたのだろうと思う。だから《複雑を極めれば単純にいたる》といった禅問答のようなことをいうのである。『よき細工は、少し鈍き刀を使ふ』というのもその路線である。『物が見え過ぎる眼を如何に御したらいいか』というのも「頭だけで考えていたのでは、見えないこともあるぞ」という話である。
小林秀雄が後年、モツアルトやゴッホといった作曲家や画家をあつかうようになったのは、文芸批評のあつかう対象としてのテキストの拡大を意図したというようなことを橋本治はいうが(音楽や絵画もまた広い意味の解読すべきテキストであるとした)、これは、音楽や絵はそれに直接あたるしかないもので、文章を介さないですむという点が大きいのだと思う。それは「いいものはいい」という同義語反復に限りなく近い危険地帯のぎりぎりで、脳ではなく、自分の耳と目をためすという「真剣勝負」であったのだろう。
橋本治は「モオツァルト」の前に、戦中(1942年)に書かれた「バッハ」に注目する。本というテキストから音楽を聞くという、テキスト拡大の原点を示すものであるから、と。
バッハの二度目の夫人が、バッハの思ひ出を書いてゐるものがあつて、先日、それを服部龍太郎氏の訳で読み、非常に心を動かされたのである。これは比類のない名著である。出典に就き、疑はしい点があるといふ説もあるそうであるが、そんなことはどうもでいゝ様に思はれる。僕にはさう考へるより他はなかつた。バッハの子供を十三人も生んでみなければ、決して解らぬ或るもの、さういふものが、この本にあるのが、僕にははつきり感じられたからである。読後、バッハの音楽を聞きたい心がしきりに動き、久しく放つて置いたレコードの埃を払つたのだが、蓄音機から聞えて来る音は、既にこの本のなかで鳴つてゐた様な気持ちがした。僕の心の迷ひではない。これはまさしくさういふ本なのだ。
これは、バッハの子供を十三人生んだ人が書いた本ではなく、Esther Meynellという人が1925年に出版した「The Little Chronicle of Magdalena Bach」というフィクションが原著なのだそうである(ウィキペディアによる)。「出典は疑わしい」わけであるが、著者は偽書を作ろうとしたわけではなくて、原著がドイツ語に翻訳される際に、著者名なしで出版されたため、それが日本で翻訳紹介される時に、バッハ夫人の著書あると誤解されたものらしい。
そこらへんの疑義を《そんなことはどうもでいゝ》でふり払うのが小林秀雄流なのであるが、事実関係などということに拘泥して、著書の中の真実が見えないのが知識人の欠点であるという含みまであるから、小林秀雄に恫喝されると、みな引き下がってしまうのである。そんな面白くもない事実関係よりも、この本からは『バッハの子供を十三人も生んでみなければ、決して解らぬ或るもの、さういふもの』がありありと見て取れる、その方がほっぽど大事ではないか、という啖呵の気合に負けるのである。
「バッハの思い出」は、比類のない名著であるのかもしれないし(わたくしも読んだ記憶がある。小林秀雄も引用している、「私が今、わざともう一度不正確に罪を犯しさへすれば、あゝ、彼の手を肩の上に感ずる事が出来ようか」とか「伝記を書き終つた今となつては、私の存在も終りに達したと思はれます。この先き更に生きてゐる理由がありませぬ。私の真の存在はセバスティアンが死んだ日に終りを告げて了つたのですから」といったところで、バッハの時代の女性がこんなことを書くかなあ、という微かな疑問を感じたのだけ覚えている。特に「あゝ」というのが。)、この本を読んでそこからバッハの音楽が聞こえるのかもしれないが、しかし、バッハの音楽を聞いたこともない人がこの本を読んでもそこからバッハの音楽が聞こえることはない。おこることはあくまで記憶の再現である。以前聞いた音楽が記憶に蘇るというのは日常にありふれた平凡な経験であり、とくにどうというようなここではない。それを小林秀雄は針小棒大に、非常に大げさな神秘体験であるかのように言っているように思う。
この「小林秀雄の恵み」で、「歴史の魂」という講演をはじめて知った。そこで、ナチス・ドイツの軍隊を拵えた人であるゼークトという軍人の思想を紹介している。
ゼークトは、第一世界大戦での塹壕戦を、こんなに馬鹿馬鹿しい戦争は歴史上はじめてであるといい、それは徴兵制で素人が戦いに駆りだされたことによる。いくら名将軍だって烏合の衆が配下では腕の揮いようもない。今、ドイツは国防軍が10万人に制限されているが、国防軍は訓練された兵が10万人もいれば充分だ。これからは精兵の時代だ、と主張している。
さらに
(ゼークトは、)自分で以てものをはっきりと見て、明確な判断を下せる人間にとってスローガンは要らない。けれどもそういう人間ばかりではないから、自分で物を見、考ええられない人がいる。そういう人は何を考えて何を仕出かすか判らないから、そういう人にはスローガンを与える。こういうようにお前には自分で考える力はないのだがら、世の中はこんなものだということを知らせるためにスローガンを与えれば、これは滅多なことをしない。それがスローガンの用途だ。だけれども自分で以てものを見て、自分で以て判断を下せる人には、スローガンなんというものは要らないのじゃないかということを言っております。
そう、小林秀雄は紹介する。
凄いなあ、よくいうなあで、これと、下克上=デモクラシイ説がどう整合するのか、よくわからない、小林秀雄が民衆というようなものを信じているのか、いないのか、それがわからない。橋本治のいうように、小林秀雄は「スローガンを拒絶しろ、自分で見て、明確な判断を下せ」と一生言い続けた人であろう。知識人は、自分で見ないで、スローガンを唱える人なのである。で、民衆は、あるときは現実に根づいて観念的見方を否定する存在であり、またあるときは自分で判断を下せずスローガンを鵜呑みにする愚かな存在でもある。
この「歴史の魂」で、小林秀雄は、歴史をスローガンで見ること、こと新しい解釈のもとにみることを否定し、そういうものでは微動だにしない歴史を自分は信ずるようになったということをいっている。「当麻」以下の「無常といふ事」に所収された日本古典論は、微動だにしない歴史の確認作業の例であるのであろう。《解釈するのではなく、まず、その美しい形を見ろ》、と。
そこで「西行」がくる。西行は「和歌を詠むこと」をもっぱらにした同時代あるいはその前の時代の歌人とは異なり、「自分自身」を主題にした「私小説の歌人」であったのだ、と橋本治はいう。西行の中に小林秀雄は「自分自身」を見つけたとするのであるが、西行については、本書の中でももっともスリリングな、次の第8章「日本人の神」にかかわるので、稿を改めて論じることにする。