橋本治「小林秀雄の恵み」(7)「日本人の神」

 
 小林秀雄は、宣長の「物のあはれ」を論じて次のようにいう。『(宣長の)説明は明瞭を欠いてゐるやうだが、彼の言はうとすることろを感得するのは、難しくはあるまい。明らかに、彼は、知ると感ずるとが同じであるやうな、全的な認識が説きたいのである。知ることを感ずる事とが、ここで混同されてゐるわけではない。両者の分化は、認識の発達を語つてゐるかも知れないが、発達した認識を尺度として、両者のけぢめもわきまへぬ子供の認識を笑ふ事は出来まい。子供らしい認識を忘れて、大人びた認識を得たところで何も自慢になるわけではない。』
 橋本治は、「物のあはれ」とは《全的な認識》なのであると小林秀雄はしたという。ところが自分(=橋本治)は「物のあはれ」なら分かるが、「全的な認識」というのがよくわからないのだ、と。それなのに、小林秀雄の「本居宣長」は、「全的な認識」を既知としていて、「物のあはれ」の方がよくわからない読者を前提においているとする。
 ここのところの橋本説が、がわたくしは今一つよくわからない。小林秀雄は《全的な認識》を最終的に目指すべきものとしているのだが、それは宣長が「物のあはれ」と呼んだものを理解できるようになることと同じなのであるとしているのだとわたくしは思う。読者の側に《全的な認識》ができていないと思うから、すなわちそれが既知のものとなっているとは思えないから、つまり「物のあはれ」がわかっていないと思うから、宣長について縷々説くわけである。ということは、小林秀雄が前提とした読者は『知ること』はできても『感じる』ことができないものたちなのではないだろうか。だから小林秀雄が読者に説いていることは、『感じられる』ようになりなさい。そうすれば今まで『知って』いると思っていたことの全体像が見えてきますよ、というものである、と思う。それとも、小林秀雄が想定する読者は、すでに《全的な認識》というのが何かについて理解していると思っているのだが、それは違うのだぞ、ということを小林秀雄は言いたいのだろうか?
 橋本治は、自分は「物のあはれ」はわかるが、それとは別のものとして、「全的な認識」などというものがなぜ必要とされるのかが分らないという。それは自分の中では「知ることと感じること」が分化していないからなのだ、という。だから《全的な認識》などというものが、なぜそれとは別に必要とされるのかが理解できない、という。
 子供はほとんど「感じる」ことだけをしている。その子供たちが、大人になろうとして「知る」を始めると、「感じ」なくなってしまう。《子供=感じる》→《大人=知る》である、とわたくしは思う。
 子供は「感じる」=「知る」をしているのだというのが橋本治の議論の出発点で、言っていることはわかるのだが、橋本治のいう「知る」と通常いわれる「知る」とは微妙に違っているように思える、それが問題なのだと思う。ある花を見て心=情を動かされる。「あゝ、きれいだ!」と思う。それは「物のあはれ」を感じることである。それと同時に、「美」とは何かを知ることでもある。「知る」と「感じる」の一致である。具体的なものであれば、「人の情(こころ)の事にふれて感(うご)く」がおきるから。それは、事という具体的なものに触れて動くのである。
 しかし、一般に「知る」ということで問題となるのは、「事」ではない抽象語である。「デモクラシー」とか「個」とかは「事」ではない。だから、「人の情の事にふれて感く」はおきようがない。わたくしは、橋本治と同じで、本居宣長にはまったく興味がなく、その著書を一切読んでいないので、まったくの誤解かもしれないが、宣長が漢意(からごころ)と呼ぶのは、抽象語のことなのではないかと思う。大和言葉とは具体的な生活感情に裏打ちされた言葉の言いである。宣長のいいたかったことは、空理空論ではなく、具体的なものとして思考をせよ、だったのだと思う。だから、悪名高い『凡て神代の伝説(つたえごと)は、みな実事(まことのこと)にて、その然有(しかあ)る理は、さらに人の智(さとり)のよく知ルべきかぎりに非れば、然(さ)るかさしら心を以て思ふべきに非ず』というのも、神代の伝説は、古代の人々にとって具体的なものとして日々の生活においてありありと感じられていたものであって、それを後々の人が理屈で解釈することでわかるようなものではない、ということではないのだろうか。
 明治になって西洋が怒涛のように輸入されてくると、膨大な数の二字熟語の漢語がつくられていく。そこにあるのは知識だけであって、いっさい生活感情の裏打ちがない。「悟性」などというわけのわからない言葉で「哲学」しなくてはいけなくなる。寝言戯言があふれてくる。
 知識を多く得ていくにつれて、感情を枯らしてしまった人たちは、「感情」をふたたび努力と意思によってとりもどさればいけないことになる。原初にあったものが一旦失われ、後に努力により回復される、というのもきわめてキリスト教的で西欧的な図式であり、この回復過程さえ、西欧から輸入したものかもしれないのだが。
 一旦失って、改めて回復した人のほうが、はじめから失くさないでいた人よりも偉いとされる社会には、どこかおかしいなものがある。それこそが、橋本治のいう《日本の「知識社会にある「いやなもの」》である。単純さより複雑さが尊ばれるのは、どこかおかしいではないか、と。
 「人の情の事にふれて感く」というのは、わかりやすい話である。しかしそれがわかりにくくなってしまうのは、頭が「情」とは何かなどと考えていると、そういえば「欲」というものもあるな、「情」と「欲」とはどういう関係にあるのだろう、などという方向にいっていしまうからである、と橋本治はいう。「全的」などという以上はすべてを包含しなくてはならず、当然に「欲」の位置というものも問題になってしまう。
 しかし、本居宣長は「物のあはれ」は説いても、「全的な認識」などということは少しも考えていない。「物のあはれ」=「全的な認識」は小林秀雄だけに必要とされる見方である。なぜなら「全的な認識」とは西洋由来の考え方であり、近代人である小林秀雄にだけ必要となるものであり、近世人である本居宣長には必要ないものであったのだから、と橋本治はいう。「物のあはれ」=「全的な認識」という見方は、近世を近代で割り切ってしまう行き方である。小林秀雄の行きかたでは、近代が近世を消滅させてしまう。しかし、近世は近代から逆行して滅ぼしてしまっていいようなものなのだろうか? それはそれ自体で豊かな可能性を有してしたのではないだろうか?
 橋本治小林秀雄と逆の見方をする。近世から近代をみていくと、その境界は曖昧になり、日本の近代は崩壊する、というのである。小林秀雄の行きかたでは近世がなくなってしまい、橋本治の行きかたでは、近代の相当部分が否定される。
 その文脈で「神」がでてくる。本書の一番スリリングな部分である。
 橋本治によれば、《神という不合理》をいうのは近代である。《非合理かもしれない神を一方に存在させて、その残りを合理性で仕切る》のが近世である。そして《神という不合理の支配下にある》のが中世である。『近世という時代は、かつて支配的だった神をそのままの位置に安置し、距離をおいて隔離する』。だから神に支配はされないが、神はまだいる。『神という非合理と、合理性を求める人とが調和的であるのは、神と人々とが距離を保ちえた近世の特徴なのである』。近世人は『「神を信じない」とか「神という非合理を拒絶する」なんてことを絶対に言わない』。『近世という時代は、「神をちゃんと存在させて、しかしそれとは関係なく― 」という形で平気で合理性を存在させてしまう時代なのである。存在していて関係ない神を放擲してしまうのは、簡単なことなのである。ある意味で、驚嘆すべき時代である。人とはそのように、大問題から自由であった』のだから。
 驚嘆すべき文章である。この数ページだけだって、本書は読まれる価値を持つ。《日本の思想史は近世をゴールとする》とするというとんでもない言い切りまで橋本治はしてしまう。
 「やまと心」」とか「やまとだましい」とか言う宣長上田秋成は猛然と噛み付く。何故か? それは「棚上げされることによって人を自由にしていた大問題」を宣長が不用意に持ち出してきてしまうように、秋成には見えたからである。宣長は近世のタブーに触れたのである。それゆえにこそ、宣長は《閉ざされた近世》を打破して近代に続く道を拓く可能性をもっていたのではあるが。だからこそ、小林秀雄宣長に惹かれたのであろう。しかし、小林秀雄はその可能性を充分には追求しなかったと、橋本治はいう。
 「大問題から自由になった近世」の問題は、西行の生きかたに典型的にあわられている、と橋本治はいう。
 西行は出家した。そうかといって西行の和歌には仏教思想があるわけではない。しかし西行は出家をしなければ歌人になれなかった。出家して社会から離脱した、そのことこそが西行歌人にさせたのである。出家した西行は仏教によっては生きていない。歌人として生きている。
 日本の仏教は「門口だけを用意してくれるもの」となっている。西行は出家して、しかも仏とは向き合わない。自分とだけ向き合う。しかし、仏教のほうはなぜそれを許すのだろうか? たとえば同じく出家した兼好法師の書いたものにも、仏教思想などは少しもないのである。
 日本の仏教は、思索するものの同伴者にはなっても、それを導くものにはならない。仏をもとめてもいいがもとめなくてもいいという、いたって寛容な思想なのである。だから答えはなく、それは自分で探さなければならない。それは「近代的な苦悩」といわれるものに至って近いものである。では西行に神はいないのか、「空白」という形で神はいた。
 西行や兼好は、「恋人」という概念が存在しない世界に生きている。同伴者である仏はいても、ゴールへと導いてくれる神はいない世界である。同伴者としての仏とは「友人」である。
 《「友」に見守られて一筋の道を行く》、それが過去の日本の生き方である。《「恋人」だけがいて、見守ってくれて同伴者になってくれる「友人」のいない世界》、それが現在の日本である。近代は《導いてくれる人》を否定してしまった。だから人は迷うばかりである。
 それでは『“恋人”という概念が存在しない世界の中で、昔の人はどのように生きたか』? その答えが、《願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ》である。あるいは《しき嶋の やまとごゝろを 人とはゞ 朝日にゝほふ 山さくら花》あるいは《桜花 ふかきいろとも 見えなくに ちしほにそめる わがこゝろかな》である。桜が恋人なのである。
 昔の日本人は、「桜」というものを使って「自分であること」を表現したが、「桜」は神と違って、作用する主体とはならない。桜にそのような作用をさせるものは人間である。人間の側が勝手に桜を操作している。しかし「我」になぞらえられるものは別に桜に限定されるわけではない。「空白」があるのだから、そこには何でも代入できる。西洋近代に触れたら、「神」だって代入できることになった。
 ある時、一人の日本人が「自分に応えてくれるものはなにもない」ということを発見した。それが西行である。西行が発見したのは空白である。それはなんとか埋めなければいけないということで、あとから「自分」とか「自己」が発見される。
 空白を埋めるために一人でする努力、それが西行の歌である。西行は、こうすれば空白が埋められるなどということはいわない。空白を埋める道筋にあることは苦しい、と歌うだけである。
 日本人にとって「神」なるものになんとかしてもらうことは怠惰なのである。だからこそ《自助努力でなんとかしてしまう》ことを昔からしてきた。では、なぜ日本人はそんなにも自発的になってしまったのか? それは日本の宗教が、空白を埋めることをせず、それを生みだすことだけをして、それを放置したからである。日本人にとって「信仰」は《「自助努力ではどうにもなりがたいせつなさ」を埋めるもの》で、「せつなさ」に対応するものなのである。人の感じる「せつなさ」を非合理などといってもしょうがない。だから近世の日本では、一方に神がいて、他方では平気で合理的になる。
 西行はなぜ出家したか? 「自分の居場所がない」と思ったから。「空白」とは「居場所のなさ」である。「居場所がない」と思う人を、「じゃ、ここに来なさい」と受け入れるのが、仏教である。そこで居場所はできる。そして、そこでどう生きるかは各人の自由である。仏教は寛大でもあり、冷淡でもある。だから居場所のなさが、「生活のための居場所のなさ」から「どう生きていけばいいのか分らない」というようにもかわりうる。「居場所がない=孤独」である。そこでゴールとして目指されるべきものは「もう、居場所を探さなくてもいい」という安らぎである。だから、《願はくば花の下にて春死なん》となる。そしてその跡さらにとんでもないほうにいく。芭蕉の《古池や蛙飛こむ水の音》。『この句の主体は《水の音》なのである。「そういう《水の音》がある」― ただそれだけなのである。・・「《水の音》がある」ということに、なんの意味があるのか? 簡単である。この《水の音》を「神」に置き換えてしまえばいい。つまり、「神がいる」である。』 ちっとも簡単ではないだろう。こういうことを平然と言い切ってしまうのが橋本治である。さらに、『《五月雨をあつめて早し最上川》― 早い《最上川》は神なのである。芭蕉に詠まれて、《最上川》は神になる。・・《夏草や兵共がゆめの跡》― 《ゆめの跡》として存在する《夏草》は神なのである。《秋深き隣は何をする人ぞ》― 芭蕉が《何をする人ぞ》と思っているかどうかは関係ない。それを思う「人の心」が神なのである。』 凄い力技である。ここに芭蕉がでてくるのは、西行に比較しての芭蕉の強さということをいうためである。なにしろ、『芭蕉は、「己れを空しくして、なおかつ己れがピンピンしている人」』なのだから。それに較べれば、西行は己れを空しくできず、己れを空しくされただけの人である、ということなのだが。
 
 わたくしなどは、現代の日本人がいたって世俗的なのは、江戸時代にできた檀家制度のためなのだなどと漠然と安易に考えていた。橋本治によれば、日本の近世は平安時代西行から始まるわけで、そのころから日本人はすでに世俗的なのである。
 とすると鎌倉仏教などというのはどうなってしまうのだろうか? 橋本治もいうように、近世以前の日本の思想はほとんど仏教ばかりである。平安時代の貴族などは西方浄土を信じていたように思えるが、鎌倉仏教以後は、そういう救済の宗教ではなく、ものを考える哲学となるのであり、導く宗教ではなくなってしまった、ということなのかもしれない。
 親鸞とか「歎異抄」などという方向にいくようになったらおしまいだと思って近づかないようにしているので、わたくしにはこの方面の知識がまったくない。日本の知識人が晩年になると、「歎異抄」とか親鸞とか言い出すのは、情けない嘆かわしいことであると思っていたが(カソリックに入信したりするひとの気持ちもわからないけれども)、この橋本説を読んで少し分かったような気がした。求めているのは、救い主ではなく同伴者なのだとすれば、なんとなくわかるような気もする。寂しいから友達が欲しいということなのである。なんという気弱なという気もするけれども。
 日本のキリスト教の神も「裁く神」ではない。見守ってくれる人である。遠藤周作の「沈黙」などを読んでもそう思う。ましてや創造神などは、完全に神棚に安置である。『神という非合理と、合理性を求める人とが調和的であるのは、神と人々とが距離を保ちえた近世の特徴なのである』というのは日本のキリスト教に完全にあてはまるように思う。だから、ファンダメンタリズムなどというものが出てくると困るのである。本居宣長に困惑する上田秋成というものそういう図式なのである。
 最近ドーキンスが展開している反=キリスト教キャンペーンをみていて、いっていることはわかるけれども、なんだかなあと思い、それに対するS・J・グールドなどは、いっていることは支離滅裂だけれども、それでも親しみを感じるなあと思っていて、自分でもなぜそう感じるのかがうまく整理できないでいたのだが、本章を読んでいて、ドーキンスが目の敵にしているのは中世のキリスト教で、S・J・グールドが擁護しようとしているのは近世のキリスト教であるとするとわかるような気がし始めた。そうであるなら、両者の話が噛みあわないのは当然ということになる。
 そして森鴎外の「かのように」などというのも、近世の行きかたなのだとするとすんなりと腑に落ちる。それよりも何よりも、日本には素晴らしい諺がある。《さわらぬ神に祟りなし》 なんという知恵なのだろう。そして《さわらぬ神に祟りなし》というのは、秩序の維持を前提とするのである。橋本治が指摘する近世の限界というものそのことと関わる。思想は社会にかかわらない個人の営為にとどまるのである。そのことは次章「「近世」という現実」で詳細にみていく。
 それにしても、《最上川》が神だという説ははじめてきいた。驚天動地である。しかしこれは芭蕉の俳句だから言える話なのかもしれない。一茶の俳句ではともてこうはいえない。それは芭蕉が強い人で、一茶は弱い人である、ということなのかもしれないが。それなら蕪村はどうだろう。《春の海 終日のたりのたり哉》 この「春の海」も神なのだろうか? あるいはのたりのたりしているヒネモスが。
 
 春の海には
 おかしな動物がいて
 穏やかな波にねそべって
 ひなたぼっこをしている
 鰭を口にあてて
 あくびなどもするから
 魚類ではないらしい
 おっとせい?
 似ているが
 ちがう
 あれが
 ほら
 南蛮から漂流してきた
 ヒネモスだ
 (春の海ひねもすのたりのたり哉)
    辻征夫「春の海」部分
    
 どうもあまり神にはなりそうもない。