橋本治「小林秀雄の恵み」(8)「近世」と「近代」

 
 著書をみれば、宣長は激越な国学者とも見えるが、彼は浄土宗の寺に葬られている。世の中に対しては、宣長仏教徒であったのである。世の中に対しては正業を介して接するのであるから、宣長は医者でもあった。
 国学者として漢意を排した宣長は平気で漢文くずしである候文で手紙を書いた。「古事記」の研究は、彼の実生活とは一向に結びつかなかった。宣長は自分のためにのみ学問をして、それは他人には関係ないものとした。だからまた宣長は平気で当世風の歌を詠んだ。宣長が「古事記」を研究したのは、その古代なら自分は一番生きやすいと思ったからで、他の人が、そこで生きやすいどうかは関係がないのである。
 近世において学問する人間は世の中から相手にされていなかった。だから彼等は社会とかかわらず、個の内面にとどまるしかなかった。
 日本神話では、神は「人」を創らない、伊邪邦岐と伊邪邦美の男女二神が生み出すのは「国」と「神」であって、「人」はいつのまかにか日本に存在している。橋本治の比喩を用いれば、神話では「家主」の系列のみが語られ、「店子」の由来は語られない。「家主」は「店子」に興味をもたない。日本神話は「家主」の物語である。日本の「神」はそこでくらす人々(=店子)一人一人の「個」に応えるものではなかった。「個に応える」をはじめて実現したのは、海のむこうから来た「薬師如来」であった。だが、仏は「死んで極楽浄土に行くことを導く」のかもしれないが、今生きている「個」=自分の胸の寂寥には応えてくれないものだった。
 ここから先は橋本治は書いていないのだが、「近世」の学問とは、日本神話が保障した世の中の仕組みのそとで、「個」の営為としてなされるしかないものだったのである。だから、それは自分のためのものではあったも、他人とは関わらないものだった。
 と、書いていて疑問が生じるのは、ここでの「個」に対立するものは何なのだろう、ということである。近世においては、それは「村社会」「村落共同体」なものであろう。国、(たとえば宣長にとって伊勢の国)がどのくらいの重みを持っていたのかはわからない。伊勢の国と関わるの支配者である武士だけであって、町人はあずかり知らぬところであったのではないだろうか? だからこそ、江戸にフランス革命はおきなかった。宣長にしても、自分の学問が明治維新尊皇攘夷にかかわってこようなどということは、予想だにしていない。
 明治の「近代化」は世界の国民国家体制に日本もまた組み込まれたということであって、それからの日本人は国家を自分と関係ないものとすることはできない。なにしろ徴兵制というものができてしまったのだから。それにもかかわらず、国の運営は「大家さん」の仕事であって「店子」には関係ないことだとする発想は、依然として残った。あるいはいつまでたっても、「個」に対抗するものは「村落共同体」のままであって、「国民国家」というものがピンとこなかった。近代以降には「公」が二つできて、一つは制度としての国家、もう一つが昔ながらの村落共同体となった。
 『私には、近世人本居宣長のあり方や胸の内は分かるが、近代人小林秀雄の頭の中はよく分からない』と橋本治はいう。制度というのは胸の内では理解できなくて、頭でしか理解できないものである。しかし同時に、制度というのはその制度に生きる人たちの胸の内に響かなければ機能しないものでもある。橋本治は徹底して「胸の内」の人である。「胸の内」に響かないものは一切自分には関係のないものとしてきた。
 以上は、第9章「近世という現実」、第10章「神と仏のいる国」あたりを見ているつもりなのだが、どうもこの辺りで霧がかかって視界が悪くなる。橋本治の言い方を借りれば、《ひどい悪路を行くバスの乗客》となった感じであって、橋本治の言っていることはわるのだが、何のためにあるいはどういう文脈でそれをいっているのかが、段々見えなくなる。《私には、橋本治がなにを言いたいのか、さっぱり分からない。言っていることは分かるが、そのことによって彼がなにを語ろうとしているのかがさっぱり分からない》という感じとなる。
 整理してみる。小林秀雄本居宣長を読み「本居宣長」を書く。橋本治は「本居宣長」を読むが、本居宣長には関心がなく、《小林秀雄がいて、小林秀雄が読まれた時代の、日本人の思考の形が知りたい》という。わたくしは本居宣長には関心がなく、小林秀雄の「本居宣長」も読んでいなくて(このたび本棚から取り出してきて、ところどころ参照はしているが)、この「小林秀雄の恵み」を読んでも「本居宣長」を読んでみたいとは思わないし、本居宣長を読みたいとも思わない。わたくしが「小林秀雄の恵み」を読んでいるのは、橋本治が、《小林秀雄がいて、小林秀雄が読まれた時代の、日本人の思考の形》をどのように見るのかを知りたい、と思うからである。
 それはわたくしが自分を「近代」の人間であると思っていて、《小林秀雄がいた時代に、多少は小林秀雄を読んだ》人間でもあるからである。つまり自分は橋本治よりも小林秀雄に近い人間と思っている。そこに、異質な人間である橋本治が示す補助線を当てることで、自分のいる位置をもう少し明確できないかと思っている。ところが、いつまでたっても《小林秀雄がいて、小林秀雄が読まれた時代の、日本人の思考の形》をさぐる作業がはじまらない。あるのは、もっぱら橋本治が「本居宣長」をどう読んだか、あるいは、「本居宣長」を橋本治にとって理解できる本とするために氏が提示する補助線である。その補助線の一つ一つがとても面白いから、読んでいてあちこちでわくわくするのではあるが、それでも橋本治がどこにいこうとしているかが見えてこない。
 橋本治は「小林秀雄の恵み」で、小林秀雄は自分を本居宣長と同化しようとして失敗した、「本居宣長」は失敗作である、としているのだと思う。それは近代人小林秀雄が近世人本居宣長を強引に近代人としてあつかおうとしたから、ということになるのだろう。それなら、この「小林秀雄の恵み」で、《小林秀雄がいて、小林秀雄が読まれた時代の、日本人の思考の形》を探ろうとして成功しただろうか?
 その試みがおこなわれるのは、最終章「海の見える墓」のわずか20ページほどにおいてである。結論は《小林秀雄は、彼を必要とした日本人にとって、仏だったのである》というものである。読者に道を示さず、ただ同伴して思考の方法のみを教えるものとしての「仏」。それはそれで説得的である。しかしそれは近代に《小林秀雄がいて、小林秀雄が読まれた時代の、日本人の思考の形》ではなく、それこそ西行以来の日本の思考の形の中に小林秀雄もまた、いたという方向である。
 橋本治は「小林秀雄の恵み」を書きはじめる時に、「本居宣長」を読むことで、《小林秀雄がいて、小林秀雄が読まれた時代の、日本人の思考の形》を探り出せると思って出発したはずである。その前提は《近代人小林秀雄》である。しかし微妙に違っていた。小林秀雄は半分近代人で半分近世人なのである。小林秀雄が近代人でないと、《小林秀雄がいて、小林秀雄が読まれた時代の、日本人の思考の形》を探る代表選手として小林秀雄を用いることはできない。だから「小林秀雄の恵み」はいつのまにか《小林秀雄がいて、小林秀雄が読まれた時代の、日本人の思考の形》を探る方向から、日本には普遍的な思考の形があり、小林秀雄もまたその中にいたという方向へと、バスの経路を変えていく。トンネルを出ると目的地とは別のところに出たことに読者は気づく。(しかし、橋本治が「本居宣長」をとりあげる作業にとりかかれたのは、「小林秀雄はいい人だ」と思えたからである。そう思えるのは小林秀雄に近代人の臭気が少ないからである。『日本の知的社会を「いやなもの」にしていた責任だって、小林秀雄にはあるのである』というのは、橋本治がかなり強引においた仮定、それがないと本書を始めることができない仮定であったのだが、もっと強い責任がある人だってたくさんいただろう、というのである。しかし、そういう近代人そのもの人は臭気紛々であって、橋本治は近づきたくもないだろう。小林秀雄を「いい人」として出発した時点で、すでにバスの方向は微妙にずれ始めているのかもしれない。
 「小林秀雄の恵み」は、『もう終りにしたい。「もうお終いにする」よりも、「もうお終りにしたい」と言って結ぶ方が、「あはれ」は深い― ただそれだけの理由である。』と終わる。これはいうまでもなく「本居宣長」の結尾『もう、終りにしたい。結論に達したからではない。・・・』に呼応するものである。この「本居宣長」の方の『もう終わりにしたい』の唐突と不自然を橋本治は縷々のべる。が、しかし・・、である。橋本治の『もう終わりにしたい』もまた唐突であり、ぎこちない。そしてここは『もうお終いにする』とはできない。なぜなら、ここまで読んできた読者には、橋本治が巻頭で述べた、《小林秀雄がいて、小林秀雄が読まれた時代の、日本人の思考の形》を探り出すということのほんのさわりがはじまったばかりとしか思えないからである。だから『終わりにしたい』ではあっても『お終いにする』とはできない。お終いには全然なっていないから。
 橋本治の目的は、《日本の知的社会に氏が感じていた「いやなもの」の正体が何であるか》を探ることであったはずである。ある意味では橋本氏のこれまでのすべての作品は、《日本の知的社会にある「いやなもの」》への抗議であったのでもあると思う。しかし、「小林秀雄の恵み」はそれを正面の標的としてスタートしたはずである。だが、小林秀雄もまた《日本の知的社会にある「いやなもの」》への闘いをしていた人なのである。「無常といふ事」の諸編などまさにそれであると思う。ここに橋本治小林秀雄の敗北とそれからの回復というドラマを見出しているのだが、わたくしから見るとそれは誤読(過読?)であり、「無常といふ事」の諸編は、《日本の知的社会にある「いやなもの」》とつきあうのは俺はもうやめた、俺は俺の道をゆく、という宣言なのだと思う。
 多くの知識人は、まず西欧に近代を学び、やがてその「いやなもの」に気づく。その「いやなもの」を克服するためにまた勉強する。多くの場合、その克服法もまた西洋から学ぶ。
 橋本治という人は実に不思議な人で、そもそものはじめから西欧近代の「いやなもの」にほとんど生得的とでもいう感覚で気がついてしまった人である。それでいきなり歌舞伎の勉強にいった人である。一言でいえば、橋本治にはまったく文学青年的なところがない。だから日本の文学青年ならごく普通に読むであろう本をほとんど読んだ形跡がない。それが氏のいう近代の教養を欠くということなのだが。
 《日本の知的社会にある「いやなもの」》とは、相当部分は文学青年的なものと重なるはずである。文学を読む多くの人間はまず文学青年になってしまい、やがてその害を覚って、それの克服のためにそれぞれが工夫を重ねることになる。だから若い時代など思いだしたくもない、恥ばかり多い時代ということになる。
 これまた不思議なことに、橋本氏は小さい頃や若い頃の自分と現在が一直線につながっている。嫌悪すべき否定すべき過去などというものはないように見える。そういう人を知ることが「橋本治の恵み」であって、自分とはまったく違った感性がそこにある。なにしろ近世の感覚をもつひとなど、わたくしのまわりには一人もいないのである。
 《小林秀雄がいて、小林秀雄が読まれた時代》にわたくしが小林秀雄を読んだ理由は簡単である。文学青年病の治療法を提示している人の一人として、である。多くの文学青年たちがそうであったのではないだろうか。ところが、橋本治は文学青年病とは縁もゆかりもない人なので、小林秀雄のもつ解毒作用という側面が今一つみえていないように思う。それが「小林秀雄の恵み」の最後の方で、バスが悪路に迷いこむ原因となっているのではないだろうか。
 吉田健一は「小林秀雄」という論で、「もしかういふ言ひ方をしてよければ、日本の現代文学史上に小林秀雄氏の評論が現れたことが持つ最も大きな特徴の一つは、日本に外国文学といふものが入つて来て以来、その害毒に正当に身をさらした最初の世代に氏が属してゐるといふことである」といっている(「日本の現代文学吉田健一全集 第九巻 原書房)。小林秀雄自身が、その害毒からの恢復に生涯をかけたのかもしれないし、最後までそれに成功はしなかったのかもしれない。橋本治が『(小林秀雄は)「では、自分は物のあはれを知っているになっているのか?」ということに関しては、懐疑的だった』といっているのは、おそらくそういうことである。
 とにかく先達が、病の恢復のために歩いた道を知ることは、後に続くものにとっての参考となる。多くの日本人にとって、小林秀雄はもっとも早く病に冒され、その病に気づき、それの克服へと歩き出した人だったのである。
 有名な座談会「近代の超克」で、小林秀雄がいっている。「近代の毒を一番よく知つた人が、一番よく毒に当つた人だ。それはニイチエの事を見ればよくわかる。僕はニイチエの事を考へると毒を克服する方法は、毒に当る外はない。毒を避けるといふ様な方法はない。どうもさう思はれる。外国でばかりではない、日本だつて実はさうなのではないか」 例のべらんめえなのであるが、橋本治は近代の毒に当っていない人であり、毒を克服する必要などさらさら感じていない人なので、こういう発言こそが、《日本の知的社会にある「いやなもの」》の典型に見えるのであろう。病気になったことなんかを偉そうに自慢するなよな!、である。《日本の知的社会にある「いやなもの」》とは、病気自慢でもある。
 本棚の奥から、「ユリイカ」1974年10月号「特集=小林秀雄 批評とは何か」、「新潮」1983年4月臨時増刊「小林秀雄追悼記念号」などというのを引っ張りだしてきた。こんなのを買っているのだから、やはり小林秀雄が気になっていたのだなと思う。《小林秀雄がいて、小林秀雄が読まれた時代の、日本人の思考の形》を知りたいといいながら、橋本治は、小林秀雄が同時代人にどのように読まれていたかを少しも提示しない。だから、この雑誌などを参考にして、少しその辺りをみていくのも補助線としていいかな、とも思う。
 それで、今ぱらぱらと見ているのだが、「追悼号」に収載された写真での、晩年の小林秀雄は実にいい顔をしているなあ、と思う。小林秀雄の人気は案外とそんなことろにあるということはないのだろうか? 写真といえば、わたくしが持っている「小林秀雄全集」の何冊かにある小林秀雄の写真はほとんどが和服である。わたくしが大学生のころだから日本人はもうほとんど和服などきなくなっていた時代である。橋本治は「我々は洋服を着ている。そのことを自然としている」というのだが、どうも小林秀雄はそうではない。その点でも氏を近代人と断定することはできないのかもしれない。