養老孟司「小説を読みながら考えた」

  双葉社 2007年4月
  
 最近、まとまって本を読む時間がなかなかとれないので、昔、買った本をぱらぱらとみているうちに、この養老氏の本で「小林秀雄本居宣長』」という語が目に入った。言及している本のタイトルがゴシック体で印刷強調されているからである。橋本治氏の「小林秀雄の恵み」で、『本居宣長』とは大分おつきあいしたので、なにがいわれているのかと思い、その辺りを読んでみた。
 言及の内容は『本居宣長』自体ではなくて、それへの福田恆存の書評である。そこで福田氏が『この本が本当にわかるのは、自分だけだと思った』といっていることについて、これこそが『「文学的」批評』の典型である、と養老氏はする。そこには「客観性もクソもない」ではないかと。文科系ではもっとも「理性的」な方に属するであろう小林氏や福田氏にして、この言がある。理科系の養老氏からすると「文学者というのは、根本的には度し難い人種なのである」ということになる。それにくらべれば、「テキストから遠く離れて」と「小説の未来」を書く加藤典洋氏はまだ近代人であるという。「客観的に」文学の形を論じようとしており、俺にしかわからない、などとは言わないからである、と。
 わたくしが医者になってよかったかなと思うことが二つある。ひとつは経済的困窮とは無縁に生きてこられ、買いたいと思う本はまずほとんど躊躇せずに買うことができてきたことである(それは鹿島茂氏のような稀覯本を集めるような趣味をもたないからであるが)。もうひとつはとにかくも理科系の学問の末端につながる場所で仕事ができてきたことで、自分は根本のところで、文学青年的感性の人間だと思うので、文科系、とくに文学系の方向にいっていたらとんでもないことになってだろうと思う。主観のかたまりのような人間になっていただろうと思う。
 本書の「批評とはなにか」「批評とはなにか 2 テキストの客観性」の部分(p207〜224)で論じられているのがまさに「客観性」の問題である。
 養老氏は以下のようなことをいっている。

 文科系にテキスト論がなぜ出てきたかというなら、構造主義の流れとしてであろう。それなら構造主義はなぜ生じたかというなら、自然科学の思想に対する、文科系の反乱という意味が大きいに違いない。反乱でいけなないなら、反省でも対抗でも、コンプレックスでもいい。(中略)フランスにだって、文科系と理科系の対立はある。エリートはどの世間でも文科系だが、思想的には自然科学が優位になってきたから、文科系が慌てて考え直したのが構造主義の始まりだと私は思う。構造主義の亜流の末流が最後に騒ぎを起こしたのが、アメリカでのいわゆる「サイエンス・ウォーズ」である。

 この「思想的には自然科学が優位になってきた」という部分が重要なのだと思う。もっとも、ここでの《思想的には》というのが少し誤解をまねく表現であるのかもしれなくて、より正確には文科系の思想が自然科学の成果によって解体されようとしているというほうが正確かもしれない。そもそも思想というのが文科系のものなのであって、自然科学は思想などという姿も形もみえない不定形のものは相手にせず、黙々と《事実》をあつかってきた。その《事実》にかんする知識の集積がいつの間にか、文科系の主張する思想というものと相容れないことが明らかになってきた、というのが現代の状況なのだろうと思う。
 それに対する文科系からの反撃は《事実》などというものはない、事実とは主観の産物である、という方向からのものであった。観察の理論負荷性とか、バケツ理論とサーチライト理論とかである。ただ事実を積み重ねただけでは何も生まれない。理論をもって、あるいは仮説をもって見るから、何かが見えてくるのだ、という主張である。
 不確定性原理とか相補性原理とか相対性理論とか不完全性定理とかが科学や数学の問題ではなく思想の問題として語られたのも、事実というものは存在しない、あるいは人間の理性的な推論には限界があるという方向が、文科系の学問から歓迎されたからなのであろう。
 《どうあるべきであるか》と《どうであるか》の対立、あるいは《どうであるべきか》と《どうできるか》の対立がある。《男女は平等であるべきである》と《生物学的にみて、進化論的にみて、男女は平等ではない》との対立、《プライヴァシーは守られるべきである》と《工学的手法でプライヴァシーを守ることができる、あるいは侵害することができる》の対立、などなどである。
 わたくしは小林秀雄の『本居宣長』自体は読んでいないが、橋本治氏の本での引用から推測すると、『本居宣長』は客観的であることへの徹底的な嫌悪と拒否を表明した本なのではないかと思う。宣長上田秋成の論争というのもそこに起因するはずで、上田秋成は客観性の側の人であり、今様の言い方をすれば、文学の領域と科学の領域を峻別するひとなのであるが、宣長はすべての《賢しら》を拒否するので、「凡そ神代の伝説は、みな実事にて」ということになってしまう。実事=事実である。
 『本居宣長』での小林秀雄もまた、《賢しら》を徹底的に否定するのであるが、しかし小林秀雄は近代に生きて上田秋成にずっと近い人間なのであるから、その論は苦しく破綻せざるをえない。ここでは《賢しら》=《科学的思考・客観的思考》である。客観的に科学的に考えると不幸になるぞ、ひとのまごころを信じられなくなるぞ、というのが小林秀雄の立論の方向である。しかし、ある論は不幸を導くからから間違いである、というような議論のいきかたは、自然科学の世界では認容されない。
 これまた読んでいないけれどベルグソンは自然科学隆盛の時代にどうやって哲学を擁護するかという方向を探ったひとなのではないかと思う。小林秀雄が『感想』を放棄して『本居宣長』にむかったのは、自然科学と哲学の調和という方向に見切りをつけて、自然科学への目配りを一切放棄し、文科系の根底へと先祖帰りしていったということなのではないかと思う。小林秀雄はニュー・エイジ・サイエンスの随分と近くにまでいったひとなのではないかと思う。
 
 養老氏の論を少し追ってみる。
 現代社会は我を信じる社会である。しかし我なんてじつはない。無我と昔から言うではないか。無我の境地で本を読むと、公正・客観・中立となるはずである。とはいっても本当に無我なら、本も読まず、本の批評などもしないはずである。
 加藤典洋氏の「テキストから遠く離れて」は、形を論じるという特徴をもつ(中身、内容ではなく形)。しかし書き手は、形や構造ではなく内容だと信じているであろう。しかし中身を論じただしたら理科系的な客観性はなくなる。
 形を論じる加藤氏はテキスト論に親和的であるはずなのに、その加藤氏がテキスト論を批判する。テキスト論とは、テキストつまり文章を読むときに作者は不在であるという思想である。
 「客観性」には二つある。論理的であるという方向と構造的な方向である。ユークリッド幾何学は、誰が記述してもその内容が真であれば真である。それは論理の正邪のみに依存する。福田恆存が「この本は俺にしかわからない」というのは主観である。そこには客観性は微塵もない。自然科学は客観的であるとされる。それには二つの種類がある。一つが事実との対応である。もう一つが数学を代表選手とする論理性である。
 さて文学の批評が、客観的であるとすればどういう条件を満たしたときだろうか? テキストという「書かれた事実」に対応していなければならないし、叙述が論理的な整合性を持たねばならない。しかし、いかにその条件を充たそうとも、自然科学の側は文学の批評を科学に列に加えることはしないであろう。テキスト論がでてくる背景はそこにある、と養老氏はする。批評も科学ですよといいたいひとがいるのである、と。テキストは確かに客観的なもののであるから。
 
 わたくしが事実とか客観とかいったあたりの議論にはじめて接したのは、二十歳過ぎに村上陽一郎氏の著書を読んだときだったと思う。そのときには知らなかったのだが、今にして思えば、それがポストモダン思想に遭遇した最初であったのだろうと思う。クーンの「科学革命の構造」のパラダイム変換といった言葉を知って、なんと面白いのだろうと思った。自然科学とは少しも客観的なものではなく、その時代その時代のものの見方の反映であり、時代の思想の産物であり、自然科学は西欧思想、あるいは西欧イデオロギーと不可欠に結びついているという説を知り、わくわくした。
 そして「事実」の否定への自然科学の側からの反撃が、いわゆる「サイエンス・ウォーズ」であったのだろう。自然科学はとにかく「もの」にぶつかるのである。自然科学者はみなものを信じているはずで、「事実」などというものはないなどといわれると、一言ないわけにはいなかのである。ドーキンスの本などを読んでいると、ポストモダン科学哲学への嫌悪が顕著である。重力の法則は西欧圏でしか働かないというような議論をまじめに信じるものがあるだろうか? 重力の法則は宇宙の片々たる星である地球だけでなく、宇宙全体を規定するのであるのに、というわけである。
 一時期、黒木玄氏のサイトに迷い込んでいたことがあって、そこで養老孟司氏とか村上陽一郎氏などが、いんちき学者、似非学者といった批判のされかたをしているのをみて、当惑したことがある。一方にドーキンス派をおき、他方にポストモダン論者をおくと、養老氏などはドーキンス派にずっと寄っているように思う。なにしろ、事実とか客観性をいうひとなのだから。村上氏などはファイアアーベントに親近を感じているようであるから、かなりのポストモダン派なのであろうが、それでも純粋文科系のひとにくらべれば、自然科学の営為の側にいるひとであるわけだから、客観派にずっと近いのではないだろうかと思う。
 自然科学で一番問題な部分は、生物学である。生命というものが生じる必然性はまったくないのであるから、偶然に生まれたものを、物理学と化学で説明することは困難である。それはあってもかまわないものであることはそこから説明できても、なけれなならないことはでてこない。そして、生命の誕生から意識の存在が必然として導かれるわけではないから、意識の産物である文学とか音楽を生物学から説明できるわけでないことも、当然である。E・O・ウイルソンの「社会生物学」を文科の側の人間は鼻で笑ったであろう。そして物理学も化学も意識がなければ生まれてこないものであるということで、議論が一巡する。
 ドーキンスとS・J・グールドの対立がよくいわれるが、自然科学原理主義?のひとたちからはグールドはえらく嫌われている。養老氏はグールドに近い位置にいるのではないかと思う。自然科学の側にいるが、それ一辺倒ではないひと。あるいは村上氏だって、そうなのではないだろうか? 黒木氏のサイトでは、グールドもまたいんちき似非学者とされていた。ドーキンスの側は、最終的には自然科学によってすべてが説明できるはずだという点が譲れないのであろう。われわれの脳の活動も最終的には物理化学の言葉で説明できるであろう。そこには神秘的なものは何もない、というわけである。
 わたくしがドーキンスの本を読んでいて感じる最大の違和は、どうしてそれほど人知に信頼を置けるのだろうか、という点にある。つまり人間の愚かさへの寛容の精神に乏しいように思える。
 どう考えても論理的に破綻しているように見えるグールドのほうに、ドーキンスよりも魅力を感じるのは、グールドの論にはどこか引け目というか負い目があるように見えるからなのではないかと思う。自分で嘘をついているというか、論をまげていることをなによりも自分で知っていて、その屈折が「文学的」なのである。自然科学立ち入り禁止の領域を人間のために残しておきたいという意図がありありなのである。それは敗北の方向であるに決まっていて、自然科学の歴史はあつかう領域をひたすら拡張してきた歴史なのであるから、ここから先は立ち入り禁止などというのは無理な要求である。それをわかっていて、それでもグールドたちは自然科学の領土拡張に懸念を抱いている。
 一方、人文科学の領域に住む多くのひとは、自然科学の領土拡張などには少しも懸念を抱いていないようなのである、というかほとんどそこでなにがおきているかは知らないし関心がないようなのである。人間のもっとも崇高な営みである精神活動については、物質というがさつなものをあつかう自然科学などは、手も足もでないと思っている。
 現代思想の一番の問題点は、文科系の学問の多くが自然科学の成果にほとんど関心をもっていないようにみえることなのではないかと思う。それと、フロイト説が現代の脳科学で得られている知見からするとほとんど破綻してしまっている説であることへの理解がほとんど(まったく?)ない点ように見える点であろうか? フロイト説が永遠の真理であると思っているのではないかと思える位である。そもそも文科系のひとの多くは、仮説という考え方自体になじんていないのかもしれない。
 そういう中にあって、養老氏は日本におけるS・J・グールドの立場を担っているのではないかと思う。文科系の人間に自然科学の見方を啓蒙する役割を演じているのであろう。養老氏の進化論理解がいい加減で、脳科学の知見は杜撰であることに、自然科学の陣営の人は慨嘆しきりであるらしい。あまりいい加減なことを言ってもらっては困る。なんであんな適当な論がベストセラーになるのだというわけである。それはそうかもしれないが、それよりも何よりも、文科系のひとたちは進化論にも脳科学にもほとんど関心をもっていないのだから、その人たちの中のいくばくかでも、進化論や脳科学の本を自分でひもとくようになってくれれば、それでいいのではないかという気がするのだが。
 さて、福田恆存が『本居宣長』を評して『この本が本当にわかるのは、自分だけだと思った』というのは、もとはおそらく「この本をこれだけ読み熟せるのは私でけではないかといふ、これは自惚れとは全く異る、一種の喜びに絶えず浸つてゐた」である。これがいささかの客観性もない論であり、「文学者というのは、根本的には度し難い人種なのである」のは事実かもしれないが、自然科学の方面の人間のあいだでも、たとえば「利己的な遺伝子」について「この本をこれだけ読み熟せるのは私でけではないか」といった議論は横行しているのではないかと思う。「利己的な遺伝子」というテキストは客観的に物理的に一定であっても(それは増補改定されたし、日本では当初「生物=生存機械論」という相当問題ある題名で翻訳出版されたのだけれど)、それを読むのは人間なのであるから。というようなことを言い出すと、自然科学に根底にある客観性とは何かという振り出しに戻ってしまうのであるが。
 

小説を読みながら考えた

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