ブルガーコフ「巨匠とマルガリータ」

  河出書房新社 2008年4月
  
 池澤夏樹個人編集の世界文学全集の最新刊。
 この小説のことは大分前に、魔女がモスクワの空を飛ぶ話というようなことをきき、ふーんと思い手を出していなかった。最近、全集の一つとして刊行されたのを期に読んでみた。確かにそういう話ではある。
 読み始めたときは、本当に面白く、巻をおくあたわずという感じだったのだが、読み終えてみると何かもう一つという感じも残った。よくできたミステリの読後感と似ているのかもしれない。最初、次々になぞが提示が提示され、一体、どうなっているのだろうと幻惑されるが、最後になぞが解かれる場になると、不思議が不思議でなくなってしまい、解明が合理的であればあるほど味気なくなる、そういう感じに近い。
 本書は別に理が勝った謎解きがおこなわれるわけではないが、それでも導入の魅惑に対応する豊かな結末にはなっていないように思う。それは一つには主人公である巨匠とマルガリータの二人にあまり魅力がないせいもあるのだろう。これは変な構成の小説で、全部で600ページほどの小説の約三分の一が過ぎた第13章「主人公の登場」ではじめて一方の巨匠が登場し、他方のマルガリータにいたっては後半の第二部にならないと表舞台にはでてこないのである。つまり端役のほうに魅力があって、どちらかというと主人公がでてくるまでのほうが物語が躍動しており、主人公たちがでてくると何だか静的になってしまう。
 物語はモスクワの一角にある池のほとりで二人の男がする会話からはじまる。一人は<宿なし>というペンネームの詩人、もう一人は文芸総合誌の編集長で作家、またモスクワ最大の作家組織の幹部会議長でもある。この編集長は詩人に反宗教的な叙事詩を依頼したのであるが、それが気に入らないとして全面的な改作をさせようとしている。詩人の作でイエス・キリストが描かれているのだが、とにかくそれが実在していたかのように書かれているのがいけない、イエスなどという人物はかってこの世に存在したことはなく、それにまつわる話はすべて作り話であるという方向で叙事詩は書かれなくてはいけないというのである。
 その会話に見ず知らずの外国人が割り込んでくる。この奇怪な外国人はカントにあなたの神の存在証明は後世の物笑いの種になるだけですよと警告したのだ、などといい、「神が存在しないとすると、人間の生活や地上のあらゆる秩序を支配するのは誰か」という例の問いを発する。人間が自分の主人公だと思っていても、肺に悪性の腫瘍ができればすべては終わりではないかと。今夜、自分が何をするかもひとは言えないのだ、と。それに対して、編集長が今夜のことくらい自分でわかっている、というと、あなたは首を切断されて死ぬという。そしてイエスは実在していたのだといい、「ポンティウス・ピラトゥス」の物語を語りはじめる。それが第二章となる。語りが終わると、この外国人は自分は、イエスとピラトゥスを目撃したのだという。この外国人を狂っていると思い、連絡に電話をかけに走った編集長は路面電車にはねられ、首を切断されて死ぬ。このイエスとともにあり、カントともいた外国人は悪魔だったのである。詩人は悪魔を追ってモスクワをさまよう。というあたりまでは息をもつかせぬ面白さであって、しかも挿入されるピラトの章も素晴らしく、そこに描かれるイエス(本書ではヨシュア)の像もとても素敵なのである。
 そのあと詩人は精神病院に送られ、悪魔とその手下たちはモスクワの劇場でとんでもないショウをやる、などなどの後、精神病院に送られた詩人の隣の病室にいる主人公が登場してくる。
 この人物は詩人から一連の出来事をきいてとても興奮する。自分はポンティウス・ピラトゥスについての小説を書いたといい、作家なのですかと聞かれて「巨匠(マースチエル)です」と名乗る。しかし巨匠の書いた小説はモスクワの文壇から批判され活字になることはできない。巨匠はやがて精神病院にはいる。モスクワの街ではあいかわず悪魔とその弟子がおこす混乱が続いている、という辺りで前半が終わる。
 後半は巨匠を支えた愛人にマルガレータという名をあたえられ、悪魔の助けで魔女となり、モスクワも空を箒に乗って飛び、悪魔の大舞踏会に女王として君臨するなどのエピソードがあったあと、巨匠が救出される。その間、悪魔たちは巨匠を迫害した作家たちに天誅をくわえていく。その物語の間のところどころにポンティウス・ピラトゥスの物語が挿入されていく。
 この「巨匠とマルガリータ」は作者生前には活字にならなかった、あるいは出来なかったらしい。当時のソヴィエト社会の禁忌にふれたということらしい。したがって、この小説の巨匠には作者の像が色濃く反映されているわけである。その主人公を巨匠と名乗らせるブルガーコフというひともなかなかである。マースチエルというのはどんな語感の言葉なのだろう。ドイツ語のマイスター?
 巻末の訳者の水野氏の説明によれば、この「巨匠とマルガリータ」には、6つの稿があり、最初の2つの稿では、巨匠もマルガリータも登場しないのだそうである。おそらく、当初の構想では、モスクワの街に悪魔があらわれ、そこにある偽善、腐敗、退廃を暴いていくという物語があったのではないだろうか? ヨシュアとピラートゥスの話は悪魔の語るエピソードであったものが、それを創作した作者としていつの間にか巨匠が生まれてきて、モスクワの悪の話とは別の迫害される作家の運命というもう一つのテーマがそこに織り込まれてきた。しかし、なにしろ巨匠は精神病院で寝ているだけなのであるから、そこに華をもたせるために、当初は単なる小説の助産役であった愛人がマルガリータとして独立し、大いに活躍することになったということなのではないだろうか? だが、小説家が救われるのも、マルガリータが活躍できるのも、すべて悪魔のお陰なのであるから、独立した主人公としての影は薄い。悪魔ととくにその手下(なかでも猫)のほうがはるかに異彩を放つ。
 挿入されるヨシュアとピラトゥスの物語はそれだけできわめて印象的で、ブルガーコフの才を示すものであるが、そこでのヨシュアはカラマゾフのアリューシャを連想させるように思う。それならピラートゥスはイワン? この「巨匠とマルガリータ」がロシア文学の伝統に連なっているということなのであろう。
 迫害される、あるいは弾圧されるということは、逆説的にその作に力があるということの証左であるともいえる。発表しても何の反響もないなどというのに比べれば、よほど世にかかわっているということになるのかもしれない。
 ショスタコーヴィッチは命を懸けた修羅場を生き抜いたのであるから、こういうことを軽々しくいうべきではないのだろうが、もし何の弾圧もない社会に生きたとしたらモダンではあるが随分と軽薄な作曲家として終わったのではないだろうかという気がする。弾圧してくれるということは認められているということでもある。発表しても何の反響もないというのに較べれば、まだ増しであるのかもしれない。ブルガーコフの小説もまさにソヴィエトという固い社会でこそ生まれた小説である。何でも吸収してしまい一切の反響音を残さないような柔社会では絶対に生まれなかったものではないかと思う。ソヴィエトにはまだ個人と対立する社会というものがあった。今の日本で役人の腐敗とかその甘い生活などというものを小説にしても誰も読まないに違いない。そういうものは悪魔でさえ興味を持たないだろう。
 作曲して譜面に定着したが音にならない音楽、書き上げたが活字にならない文学、完成したが誰もみてくれない絵画、どれが一番悲惨だろうか? 今ではインターネットにアップしてしまうという手がある。誰かがみてくれるかもしれないという可能性だけは残る。もちろん、インターネットを厳重に監視している社会もまだ多くあるわけであるが。
 

巨匠とマルガリータ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-5)

巨匠とマルガリータ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-5)