P・F・ドラッカー「ドラッカー わが軌跡」(3)第2章「シュワルツワルト家のサロンと「戦前」症候群」

   ダイヤモンド社 2006年1月
   

 ここでとりあげられているヘルマン&オイゲニアのシュワルツワルト夫妻、通称ヘムとゲーニアの夫妻についてはわたくしはまったく知らなかった。多くの人にとってもそうではないかと思う。
 ヘルマンは貧しい行商人の子として生まれたが、成功した叔父の援助で教育をうけることができた。しかし成績優秀であるにもかかわらず、ウィーン大学への進学を拒否し、名もない大学に進む。卒業後は大蔵省への就職を拒否し、貿易省に入省した。ユダヤ人という出自もあり出世できそうもない経歴であったにもかかわらず、異例の出世をし、第一次大戦中のオーストリアの金融政策をほとんどひとりで背負うような立場にたった。戦後、引退していたが、オーストリア通貨体制の破局に際して、大蔵省に呼び戻され、大きな権限をふるったが、失敗し退任した(そのあとをついだのがシュンペーターだが、やはり失敗した)。銀行に転職したが、やはり失敗して、60歳で公職から身を引いた。
 オイゲニアは豪商の娘で、10代の終わりに大きな財産を相続した。その当時ドイツ語圏の大学としては唯一女性の入学をみとめていたチューリッヒの大学を卒業した。オーストリアでも建前上は女性も大学に入れた。しかし、中学校をでたあと、大学受験までの期間の女性を教えるギムナジウムがなかった。ゲーニアは女子のためのギムナジウムを設立しようとした。そのの教師となったのがドラッカーの父であり、母はそこの第一期生となった。
 その後、ヘムとゲーニアはサロンを作った。サロンは、「戦前」(第一次世界大戦前)がそこにあるように思わせることに成功したのだと、ドラッカーはいう。当時のヨーロッパはみな「戦前」にとりつかれており、それに戻ることばかりを考えていた。それこそがナチスの力の源泉なのだった。なぜなら当時において曲がりなりにも「未来」を志向するものは彼らだけだったからなのだ、と。
 ヘムとゲーニアのサロンは、彼らのようなポーランドユダヤ人の目にはそう見えた地上の楽園、「リベラルな時代の文化の街」という、虚構の中にしか存在しないウィーン、ベルリン、パリの偽りの再現に過ぎなかった、とドラッカーはいう。
 ドラッカーは、ごく若い頃から、本能的に「戦前」から逃れなければならないと思い続けていたのだという。そのドラッカーに、ヘムは「「ウィーンにいたくないという君の気持ちは正しい。ウィーンは昨日の町だ。終わった町だ」といって、なかば強制的にロンドンに送り出すのである。
 
 この「わが軌跡」を読んでいて、ドラッカーは自分とかかわったひとを実像以上に大きな存在として描く、優れて小説家的才能をもっているのではないかということを感じる。ヘム&ゲーニアはドラッカーの父と母を結びつけたひとなのであり、オーストリアの経済と教育に大きな足跡を残した人なのだろうが、それでも実像以上の巨大な存在として描かれているいのではないかという疑念も生じる。とにかく二人が一筋縄ではいかない「個」であることは間違いないのだが。
 わたくしに本章が面白いのは、ドラッカー保守主義者を自任するひとでありながら、過去に郷愁をもたないひと、前向きなひとであるということである。ヨーロッパの頂点は第一次世界大戦前にあり、それからは下る一方というような視点をもたない点である。
 もうひとつは「サロン」の問題である。ドラッカーは「アメリカにはサロンはない。イギリスにも思い浮かぶものは二つしかない。・・・サロンはドイツ語圏では珍しかった。サロンが盛んなのは、発祥地のフランスだけだった」という。
 わたくしは吉田健一のいうことを鵜呑みにしてきた人間なので、吉田氏が「文明のあるところにはかならずサロンがある。サロンのない文明などない」というようなことを素直に信じてきたので、ヨーロッパでもフランスでしかサロンは隆盛ではなかったというのをみて、そうなのかと思った。
 吉田氏がサロンといっているのはほとんど社交と同じようなニュアンスかもしれないし、わたくしは読んでいない鴎外の「雁」のある場面を評してそこをサロンであるなどといっているので、形式してのサロンということなのであろうが、サロンというのが前向きな姿勢のものではないことは確かだろうと思う。吉田健一の長編小説の多くは(あるいはすべて?)はサロン小説といっていいものなのだろうと思うし、一番それが正面にでているのが「絵空事」と「本当のような話」かもしれないが、「瓦礫の中」にしても、「東京の昔」にしても、やはりそうであるような気がする。サロンというのは現実から少し遊離していないと存在できないものなのだろうと思う。(吉田氏がとても不思議なのは、現在の東京はとても人が住めるところではなくなったなどといいながら、日本は着々と住み心地がよくなってきているなどとも書くところである。氏の中でそれはなぜか矛盾していない。)
 『彼らポーランドユダヤ人の目にはそう見えた地上の楽園、「リベラルな時代の文化の街」という虚構の中にしか存在しないウィーン、ベルリン、パリ』などという部分を読むと、われわれ日本人にとっての西欧というものがまさにそういうものなのではないだろうかということを感じる。
 わたくしは吉田健一を「文明開化」の人間と思っているし、林達夫のいう「洋学派」と自分のことを思っているのだが、自分が思っている西洋というのが虚構の中しか存在しないものなのではないかということもまた感じる。わたくしのような人間がオーストリアで生まれ、アメリカで名をなしたドラッカーという人間の書いた本を読んではたしてどれだけのことが理解できているのだろうか、ということである。ただわれわれのまわりでおきている問題のほとんどが、西洋ぬきでは考えることさえできない状態になっていること、これから世界はますます西欧化していくであろうことを考えるなら、そうせざるをえないのであるが。
 ドラッカーはウィーンをでてロンドンへゆく。こういう本を読んでいつも感じるのは、自分が日本という国に住めないような状況になったときに亡命などということが選択肢に上ってくるだろうかということである。日本語が通じない世界で自分が生きられるかというと絶対に無理だろうと思う。語学がダメということもあるが、日本語が通じないところでは仕事ができない。生きる手段がない。何しろ内科の医者というのは、ほとんど口舌の徒として仕事をしているから、ニュアンスをともなう言葉を封じられたら何もできないだろうと思う。
 「洋学派」を志すなどと偉そうにいっていてそんなことでは困るのであるが、「ロンドンに着いて六時間後には仕事が見つかった。シティのマーチャント・バンクの共同経営者の秘書役という、ウィーンで見つかったであろうどんな仕事よりもよい仕事だった」などとドラッカーが書いているのをみると、ただただため息がでるばかりである。