P・F・ドラッカー「ドラッカー わが軌跡」(6)第6章「ポランニー一家と「社会の時代」の終焉」

   ダイヤモンド社 2006年1月
   
 カール&マイケル・ポランニー兄弟を中心とするポランニー兄弟姉妹とその父母とドラッカーとの交友について述べた章である。
 この兄弟が、どの位、世に名前を知られているのかは知らない。日本では栗本慎一郎氏が、その宣伝役、紹介係になったことは間違いないであろう。わたくしも栗本氏の「パンツをはいたサル」でその名を知ったように思う。どういうわけかこの「パンツをはいたサル」(1981年)はなくしてしまって、学術書?がカッパ・ブックスの一冊として刊行されたという話題と、秀逸な表紙を覚えているだけであるが(仕方なく、現代書館(2005年)の新版を買いなおした)、そこでバタイユだとかといった名前とともにポランニー兄弟の名前を知り、蕩尽理論だとか、ポトラッチだとかとかという言葉も知った。(ひょっとするとカール・ポランニーの名をはじめて知ったのはK・ポパーの「果てしなき探求」の中の「1920年代のはじめに、私はこれらの考えにある感化を及ぼした二つの議論をした。第一のものは、経済学者で政治理論家のカール・ポランニーとの議論であった」の部分であったかもしれないが、今となってはもう確認のしようもない。)
 いずれにしても、「パンツをはいたサル」が大変に面白かったので、氏の「経済人類学」とか「幻想としての経済」といった本とともに、カール・ポランニーの「大転換」とか、マイケル・ポランニーの「暗黙知の次元」「個人的知識」といった本も買い求めたらしい。それらの本が、ほとんど読んだ形跡のないまま書棚に鎮座していた。
 その中の、これも読まないままであった栗本氏の「ブダペスト物語」を引っぱりだしてきてみた。そこにカール・ポランニーの伝記的なことが何か書かれているのではないかと思ったのである。ところが驚いたことに、その第二章「革命と恐慌の嵐をひかえて」の章は「ポランニー家の人々をめぐって」と副題されているが、同時にドラッカーのことを論じた章でもあった。その書き出しが、「1980年5月の末のある日、研究会の席から抜けて所用で家に電話した私は、妻の報告を聞いて仰天した。/「ブラッカーさんていう人から、変な日本語で電話があったわよ」というのだ。それは、ブラッカーではない。かの有名なアメリカの経営学者、ピーター・ドラッカー教授からの会いたいという電話だったのだ」というのである。ここで話題になるのが、この章なのである。
 まだ若き学徒であった栗本氏はカール・ポランニーの思想に深くうたれ、その研究と日本への紹介に打ちこんでいたが、この「傍観者の時代」のポランニーの章にはいくつも疑問な点があり、それでドラッカーが来日したときに直接会ってポランニー家の問題について話をしたいと日本の出版社を通じて申し入れておいたら、なんと本人から電話がかかってきたというのである。
 東京のホテルでのドラッカーとの会見から3ヶ月後、栗本氏はポランニー兄弟の調査のためにブダペストにおもむき、そこでドラッカーの本の記載は間違いばかりであると怒るポランニー兄弟の後裔たちに出会う。
 
 1927年、まだ18歳のドラッカーは大学入試のために書いた論文「パナマ運河と世界貿易におけるその役割」がオーストリア経済誌の目にとまり、その編集部から招待され編集会議に参加する。そこで副編集長であったカール・ポランニーと出会う。カールは当時41歳。そこでお互いを認めあった二人は交友を続け、1941年にはドラッカーがイギリスからアメリカへと貧しい亡命生活を送っていたカールに、大学教授職を提供した。その結果として生まれたのがカールの主著「大転換」であった。また、ドラッカーの第二作「産業人の未来」もカールとの対話の中で書かれていったのだという。
 栗本氏は書いている。「私はもともと、ドラッカーの理論について、一般にいわれるほど通俗的で世間受けを狙ったものではないと考え、初期の著作には、市場社会が根本的にゆらがざるをえないことを見て、それへの対応を問うという姿勢があることをそれなりの共感を持って読んできた。だから彼がその初期の著作『経済人の終焉』(1939年)や『産業人の未来』(1943年)を書いた時、ポランニーと深い親交をイギリス、アメリカで結んでおり、しばしばポランニーにその考えをぶつけて叩き台にしたことをこの『傍観者の時代』で明らかにしてくれた時、事実問題はとにかく、思想的には驚かなかったのであった。」 「事実問題はとにかく」なのである。それで、ドラッカーの紹介するポランニー一家と、栗本氏がそれは違うという「事実」とを以下対比してみていく。

 《ドラッカーによる紹介》
 父:ハンガリーに生まれ、若くしてハプスブルグ家への反乱の学生指導者。スイスに亡命。その後ヨーロッパ各地で鉄道建設にかかわり、ハンガリーに帰国。鉄道王となるが、事業を広げすぎて倒産、失意の内に世を去る。
 母:ロシアの伯爵令嬢にしてアナーキスト。スイスに亡命中、父と知り合う。
 彼ら父母は以下の5人の子どもを学校にはいかせず、麦畑の真ん中の城に住まわせ、家庭教師による個人授業をうけさせた。
 長男オットー:実業家として成功、イタリアにわたり、フィアットに納入する自動車部品メーカーを成功させ、イタリアの財界人として名をなす。しかし政治的には過激なマルクス主義者となり、社会主義の新聞を創刊。ムッソリーニ主筆にすえた。第一次世界大戦社会主義の夢を砕かれ、ムッソリーニをもまた社会主義から共同体国家主義へとむかわせた。
 次男アドルフ:鉄道家となったが、ブラジルにわたり、ヨーロッパの衰退した資本主義とは異なる新しい文明をめざして新生ブラジル運動を起こした。
 長女モウジー:20歳のころバルトークやドホナーニなどのハンガリー民族運動のスターであり、農村社会学を主導した。ユーゴスラビアのチトーもまた彼女の流れの中からでてきた。この運動はイスラエルキブツにも影響をあたえた。25歳で結婚してからは一切の運動から手をひいてしまったが。
 3男カール:若くしてハンガリー自由党の結党に参加。機関紙の論説委員になった。第一次世界大戦に従軍中負傷し、そこで若い看護婦見習いである17歳のイローナと恋に落ち結婚した。なんとイローナは父が倒産させた鉄道会社が国営化された後の国鉄総裁の娘だった。イローナはすでに反戦運動で逮捕歴があり、ハンガリー共産党に入党していた。ハンガリー共産党の手に落ちると、カールはすでに共産党に批判的になっていたイローナとともにウィーンに亡命した。この時期にドラッカーはカールと会うことになる。オーストリアの右傾化により職を失ったカールはイギリスに渡り、雑誌への寄稿などで糊口をしのでいた。ここでもドラッカーと親しくした。イギリスからアメリカに渡ったカールに教授職をドラッカーが提供したことは上述の通り。
 4男マイケル:彼については、禁欲的な個を追及したと述べられているだけで、個人的履歴の記載はない
 
 栗本氏はいう。「多少のことには驚かない人だとて、これではポランニー家の天才ぶりには驚かないわけにはいかない。また、もし、彼らの影響力が、ムッソリーニからチトー、オッペンハイマーにまで及ぶのなら、思想史だけでなく20世紀の現代史もまたポランニー家の思想を考えることなしに、語れなくなるはずである。(それにくわえて、カールとマイケルがいる) しかし、ポランニー家はムッソリーニとも、シオニズムとも何の関係もなかった。フィアット社も同じである。」
 
 《栗本氏が主張する事実》
 父:ロシアで生まれ、結婚後、鉄道業で成功したが、民間の人間であり、国鉄総裁になることはなかったし、破産も経験している。
 母:ロシアでユダヤ教のラビの娘として生まれた。ドラッカーが書いている結婚した年にはまだ6歳である。
 二人はウィーンで出会っている。母はその時、宝石店の店員だった。
 子どもは、長女モウジー(ラウラ)、長男アドルフ、次男カール、次女ソフィア、三男マイケル、四男パール(早逝)の6人であり、そもそも長男アドルフというのは存在しない。栗本氏によれば、ポランニー兄弟の従兄弟の一人をドラッカーがそう思い込んだものらしい。
 
 と、こう書いていて、栗本氏が批判している風間禎三郎訳「傍観者の時代」と、わたくしがもっている上野惇生訳の「ドラッカー わが軌跡」では、すでに記載が少し違っているように思えてきた。ドラッカー自身が改定しているのであろうか?
 
 さらに《事実》の続き。
 彼ら兄弟が特別の家庭教育を受けたのは事実であるが、城に住まわされたわけではなくブダペストのビルである。アドルフはブラジルにいったが事業家としてであり、新生ブラジルの指導者となった事実はない。モウジーは婦人解放運動の闘士であったが、チトーにもオッペンハイマーにも影響をあたえてはいない。
 カールの妻イローナの父は鉄道の職員であったがハンガリー国鉄の総裁ではなかった。ハンガリー共産党は1918年に結成されるから17歳のイローナがまだできてもいない共産党員になれたわけはない。イローナは革新派学生サークルの中心人物であり、職業革命家的オルグであった。カールはイローナの二人目の夫である。
 
 等々、どう考えても、ドラッカーの記載は誤りに充ちている。もちろん、それは栗本氏の偏見ということもありうるのだが、ラウラの次男がドラッカーの著作についてその誤りを指摘するポランニー家の「見解」をドラッカーと出版社宛てに送っているのだそうであるし、ソフィアの次女もドラッカーへの反論を書いて書評誌に送っているのだそうである。どう考えてもドラッカー側が分が悪い。
 
 栗本氏もカール・ポランニーが後世に著作を残すことができたのは、ドラッカーの助力によるもにであることを認め、ドラッカーに直接謝意を表したのだそうであるし、その著作が誤りに充ちていても、ドラッカーの人間的な対応やその暖かい態度に接して、その誤謬の責任を形式的に告発しようとは思わない、という。
 ドラッカーは意識的に嘘をついているのではないと思う。ドラッカーにはどうも本能的に話を面白くしてしまう才能?があるのではないかと思う。最近知ったのだが、何冊か小説も書いているらしい。さもありなんと思う。ドラッカーの本はどれを読んでも大変に面白いのだが、その面白さのかなりは話の単純化によっているのではないかと思う。自分の主張に反する事実などへの顧慮はあまりせず、言いたいことに焦点をしぼり、かなりそれにむかって事実を(無意識に?)脚色さえしてしまう。氏の書くものは脚注や引用に充ちた学術書では全くないのである。(「大転換」で産業革命の歴史を書き換えようとしたカール・ポランニーが、その後、脚注にこだわる学究生活に入り込んだままとなったことを、ドラッカーは、なんとなく批判がましい口調で述べている。)
 
 それでは本章におけるドラッカーの主張は何か? それはポランニー兄弟たちに共通していたのは、《奴隷制に代わりうるものは市場だけであるとする19世紀マンチェスター学派の自由放任は間違いでなければならないとする信念》だったというものである。だから、兄弟姉妹がすべて何らかそれぞれに反市場、反自由放任をかかげてそれぞれの道をいかねばならないことになり、そうさせられてしまうのである。
 しかし、他の兄弟姉妹はいざしらず、カールとマイケルの兄弟についてなら、ここでドラッカーがいっていることは正しいのかもしれない。しかし、それでは話が面白くならない。兄弟姉妹みんなのほうが面白いではないか。
 かれらが追い求めたもの、それは「社会による社会の救済」であった。しかし彼らは挫折した。しかし、その挫折は「ホッブスとロック以来の300年とは言わないまでも、フランス革命以来の200年にわたって、西洋が追い求めてきたものそれ自体が、意味のないものであった可能性を示すものだった」などということを実にさらりとドラッカーはいうのである。こんなことをそんな簡単にいってしまっていいの?である。「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの、である。
 そもそも、ここでドラッカーのいわんとしていることがよくわからないのだが、社会の仕組みを変えることにより、社会を構成している人たちを救済する、というホッブスとロック以来、あるいは少なくともフランス革命以来のさまざまな試みが機能しないということが証明されたということなのだろうか? それともこの数百年の西欧思想の真髄は「社会による社会の救済」という方向なのであったが、それが壮大な無駄であったことが示されたということなのだろうか? そうであるならば、自由放任や市場のみが機能するというの見方は、西欧思想においては傍流なのだろうか? 
 わかりにくいのは、ドラッカーもまた自由放任には反対であり、市場のみが機能するという思想には反対で、同時に、社会による社会の救済という方向にも反対でもあるためである。
 「社会による社会の救済」という言葉がいけないのだと思う。「理論による社会の救済」なのであると思うし、もっといえば「知識人がつくった理論による大衆の救済」なのだと思う。ドラッカーのいう保守主義とは、理論のような人工的なものではなく、自然発生的に存在している何かが人々に生きる意味を提供するという方向なのであろう。
 知識人の傲慢は破綻したのだぞ、ということをドラッカーはいいたいのだろう。それはよくわかる。しかし、ポランニー兄弟が言いたかったことは、今の西欧社会はおかしいぞ、そこに住んでいる人々は幸せでないぞ、ということだったのだろうと思う。それは根源的に不幸な存在なのであり、コミュニティなどというもので癒されるような底の浅い不幸ではないとされた。人間が今のようなありたかでしか生きられないというのではあまりにも惨めではないか? 人間はもっと多くの可能性を秘めた存在なのではないか、ということなのだったのだろうと思う。
 だからこそ栗本青年はカール・ポランニーを発見して驚喜したのであるし、栗本氏もその一員とみなされていたニュー・アカをふくめた実に多くの西欧近代批判が1970年〜80年にかけて花開いたのであろう。その中でも突出して過激?かつ無鉄砲であった「パンツをはいたサル」を久しぶりに読み返して、そのころの熱気のようなものを思いだした。それで次は番外篇として、栗本氏の「パンツをはいたサル」をとりあげてみたい。