P・F・ドラッカー「ドラッカー わが軌跡」(7)番外 栗本慎一郎「新版 パンツをはいたサル」

  現代書館 2005年 4月 (旧版 光文社 カッパ・サイエンス 1981年)
  
 ドラッカーの「わが軌跡」にポランニー兄弟の話がでてきたので、その日本での紹介者の一人であった栗本氏を思い出し、その栗本氏の(わたくしが読んだ中では)一番魅力的な著作と思われた「パンツをはいたサル」を再読してみた。旧版をなくしてしまったので、新版で読んだ。あまり旧版に手を入れてはいないと書いてある。
 ドラッカーとは関係はないわけであるが、ドラッカーはどこか西欧の主流の思想とはなじまないところがあるように思われ、ある時期は思想界を風靡した反近代・反西欧の思想とどこかで通じるところもあるように思われる。したがって、全然関係ない話にもならないと思う。
 
 第一章は「人間は知恵ある生物か」と題され、最初のパラグラフの小見出しが「人間は、タコやエビよりも優れた存在か」となっている。いうまでもなく、そうではないぞといいたいわけである。
 このタイトルをみただけで、1980年ごろ読んだいろいろな本を思い出す。たとえば、丸山圭三郎氏の「文化記号学の可能性」である。これではヒトはホモ・デメンス「狂ったヒト」ということになっていた。丸山氏はソシュールを日本に紹介したひとで、わたくしも丸山氏の著作によってソシュールを知った。その「身分ける」「言分ける」という見方には本当にしびれた。これはプラトンイデア論に対する根源からの否定ではないかという気がする。
 あるいは岸田秀氏の「ものぐさ精神分析」である。岸田氏によれば、人間は「本能の壊れた動物」である。またローレンツの「攻撃」である。ローレンツによれば同じ種同士で殺しあうのは人間だけである。他の動物は降参という意思表示をすればそこで攻撃が止まるのだそうである(その後、これには多くの反論がでているようであるが)。さらにアーサー・ケストラーの「機械の中の幽霊」である。ここでもヒトは、ホモ・マニアクス「狂気の人」である。ローレンツもケストラーも紹介者は日高敏隆氏であった。日高氏の本も随分と読んだ気がする。どの立場からも、ヒトは他の動物以下の存在なのであり、知恵ある動物などというのはとんでもない、ということになる。そのころ、こういう方向の本が流行っていた。
 丸山氏の本で一番よく読んだように記憶している「文化記号学の可能性」はなくしてしまったらしく、見当たらないので、「ソシュールを読む」(岩波書店 1983年)をとりだしてきてみた。それによれば、西欧思想の人間観の二つの極はキリスト教とダーウィ二ズムなのであるが、キリスト教では人は神の似姿として創造されたのであるから、当然至高の動物、ホモ・サピエンスということになる。一方ダーウィンの論でもヒトは進化の頂点にいる、万物の霊長である。どちらにも人間至上主義がある。これらの「ヒト=動物+α」思想に対し、そのような楽観を否定する思想もまた西欧には根強くあった。それらは「ヒト=動物−α」である。それに対して丸山氏がいうのは、「ヒト=動物+(−α)」という図式である。ヒトは良くも悪しくも動物とは違って文化というものを持っているが、この文化は過剰として存在しているという意味でそれは(+)である。しかしそれは人間にとっては否定的なものであるという意味で(−)ということになる、ということで、「ヒト=動物+(−α)」という変は式になる。それは結局は、「ヒト=動物−α」なのではあるけれども。
 「身分け構造」というのは市川浩氏の用語なのだそうであるが、ユクスキュルの環境世界にも通じるもので、生物はそれぞれの環境の中で最適のものとして生きているということである。有名なダニの環境世界である。しかし人間は言語をもち「言分ける」ことができるようになったことにより、「身分ける」ことで生きることができなくなった。この言葉という過剰を持つことにより、世界と身体で直接接触することができなくなった不幸な動物が人間なのである、というのが丸山氏のいわんとするところである。「人間はすでに自然からはみ出したが故に、動物のもっているものすべてを有してはいない本能の破綻した動物である」ということになる。これはそのまま岸田秀氏の論である。(ユクスキュル「生物からみた世界」(思索社 1973年)も日高敏隆氏の訳である。日高氏はある時期に日本の思想界に相当大きな影響をあたえたのではないだろうか? ドーキンスの「利己的な遺伝子」を最初「生物=生存機械論」という題名で翻訳紹介したのも日高氏だったと思う。)
 岸田秀氏の「ものぐさ精神分析」(1977年 青土社)でもヒトは「本能の壊れた動物」とされている。氏によれば、人間においては育児本能もこわれてしまっているから、本来なら子を育てることができず、とっくに滅びてしまっていたはずの種なのである。だから何らかの育児行動を根拠づける人為的観念を作り上げることによりかろうじて人類は生き延びることができた。育児という本質的に人類には無理な負担を、たとえば《家父長制》という形式を発明することで乗り切ってきた。つまり、文化というのは人間が他の動物に較べて優越していると誇るべきようなものではさらさらなく、他の動物より劣った生き物である人間がかろうじて生き延びるためにやむをえず採用した一時しのぎなのである(ここらあたりの説明を、最近の進化心理学なら、「文化」ではなく「遺伝」にくりこまれたものとして説明するだろうと思う。育児を当然としておこなうような「遺伝子」をもてたことでヒトが生き延びることができた、といった方向の説明である)。
 ローレンツの「攻撃 悪の自然誌」(みすず書房 1970年)もまた手許にない。ローレンツなどの動物行動学の本も随分と読んだ。「刷り込み」とか「リリーサー」とかいう考えは本当に目から鱗であった。とはいっても、だが、ローレンツの進化理解が根本的に間違っているらしい。彼は淘汰圧が種にかかるとしたわけであるが、そうではなく個体にかかるというのが進化理論のスタートでなくてはいけないらしいから、そもそものはじめから間違っていたわけである。しかし、人と人とが殺しあうという人間の現実に対し、そんなことをする動物は人間だけだ、という提示をしたことは(それは事実ではないらしいのだけれど)、その当時の人々には大きなインパクトを持ったものと思われる。
 この点についての栗本氏の説明は以下のようなものである。「よそものが団体で入ってくると、それがいかに友好的にふるまっているように見えても、すぐに砂かけばばあや妖怪・一反もめんに見えてしまう」 そういう構造が人間には組みこまれているのだ、と。制外者、異人、よそ者はすべて妖怪に見えるのである、と。ここのところは初読のときにとても印象深かったとみえて、「砂かけばばあ」という言葉を覚えていた。
 それは人間のもつ洞察力によるのだというのが栗本説である。あいつはにこにこしているが、裏では実は別のことを考えているのではないか、という洞察が働くこと、それが人間をあらゆる動物の中でもっとも残酷にするというのである。人間に理性があること、そのことが人間を残酷にするのだ、と。(ドラッカーの「わが軌跡」の「ポランニー兄弟」の章で、コロンビア大学時代のカール・ポランニーは物事の動きの裏に真実を見抜き、陰謀をかぎつける力を相変わらず堅持していたが、それを大国間の権力闘争の分析に使うのではなく、大学内の権力闘争の分析に用いていたという厭味を、ドラッカーは書いている。また若いころのカールの深読みを揶揄して、タレーランが好敵手の死をきいてつぶやいたという「奴が死んだ狙いは何だったんだろう」を引いている。同朋の死をこんな風に考える動物は、確かに人間以外にいるはずはないのである。)
 A・ケストラーの「機械の中の幽霊」(ぺりかん社 1969年)も繰り返し読んだ記憶がある。わたくしの持っているのは1980年の5刷であるから、そのころ読んだのであろう。ここでも、戦争をおこなう動物は人間とネズミだけであるとされている。ケストラーによれば、人間においては、種内の差異が種内の親和性より大きくなってしまったのである。隣りの集落の人々は、同じ種の仲間とはみなされていない。言語が異なれば仲間ではない。人間がよそものと考える集団は、自分たちとは違う言葉を話すものたち、すなわちバルバロイなのである。ここでも言葉は人間の叡智を示すものではなく、人間の不幸の根源とされている。
 ケストラーはマクリーンの「3つの脳」説をとりあげる。一番古いのは爬虫類の脳である古皮質、第2の脳は下等哺乳類からうけついだ中皮質、第3が後期哺乳類で発達し、人間にいたって異常な発達をとげた新皮質である。これら3つの脳、特に新しい脳とそれ以前の脳が調和して機能していないことが人間の不幸の根源であると、ケストラーはしている。
 このケストラーの本で「ホロン」という氏の造語を知った。全体は部分の総和を越えているということを表そうとした語である。栗本氏が「パンツをはいたサル」で紹介しているM・ポランニーの「層の理論」とも深く関連していると思う。「生物は機械そのものではないが、機械的な原則に基づいていることは確かである。そして、その機械的な原則は、より上位の原則によって形取りをされ、支配、制御されている」というのが栗本氏の説明である。生物が機械としての要素をもっているとする点でデカルトに譲歩するわけであるが、機械の総和がそのまま生物となるわけではないとするわけである。
 M・ポラインニーは「暗黙知」ということを言った。あらかじめわたしたちにそなわっている内部的な知、暗黙の非言語的な生物学的能力のことである。われわれは語ることができることより多くのことを知ることができるし、知識の大部分は言語に置きかえることはできない、という。これもまた進化の歴史を考えればごくあたりまえのことを言っているだけとも思えるが(ダニは環境についての非言語的な知識を持っているわけだし、われわれの多くがヘビのようなものを嫌うのは、そのような性向をもったものが生き延びる可能性が高かったことの反映であろう)、ある時期、理性による判断がすべてを支配するというという見方が当然とされている時代においてはインパクトをもった見方であったのだろう。ケストラーが「ホロン」などといったのは、その当時流行していた言葉によれば「還元主義」と対抗しようとしたためであった。構成要素を理解すると全体がわかるという考えへの否定である。そしてまさに、一時期盛んであったニュー・サイエンスの標語がまさに「還元主義を超えて」であった。F・カプラの「ターニング・ポイント」(工作舎 1984年)は反デカルト、反ニュートンであった。彼らこそが還元主義の元凶なのである。不思議なことにカプラらを鼓舞したのは、量子力学の発展なのであった。そこでは位置と運動を同時に確定することができないということ、量子がはるかに離れていても相互に関係しているようにみえることなどが、ニュートン物理学のものの見方(それが西欧の自然観の基礎にあるとされる)を否定し新しいパラダイムをもたらすものであるとされた。
 量子力学におけるアインシュタインの位置は微妙であるが(というか、そこでは反動勢力の側なのであろうが)、その相対性理論に大きな影響をあたえたのがマッハの見方であり、M・ポランニーはマッハに大きな影響を受けたのだという。ぱらぱらと目を通した「個人的知識」によれば、マッハはニュートンの絶対静止空間は「経験によりテストさるべき何物も述べていない」としてそれを批判し、「諸物体間の相対運動以外のいかなる運動に言及するのも回避するべきだと勧告した」ことにより相対論に道を拓いたとされている。
 栗本氏は「ブダペスト物語」の末尾で、「ポッパーの客観的知識論には、最後の結論部でマイケル(ポランニー)と正反対になることをのぞけば、常識的知識理論(精神のバケツ理論)あたりで、まさにマイケルの深層の知の理論と合致する部分があることに気付きうる人がいるだろう」と述べている。わたくしはM・ポランニーの「個人的知識」というタイトルはポパーの「客観的知識」への対抗ないしは嫌味だろうと思っていたが、「個人的知識」は1958年の刊であり、「客観的知識」が1972年だから、まったく下司のかんぐりであった。ポパーのいう「認識主体なき認識論」などというのが、まさにマッハ的なものの正反対に位置するものなのであると思うが、多くのひとの科学観はポパーが「精神のバケツ理論」と呼ぶほうなのであろうから、ポパーの立ち位置は微妙なのである。「果てしなき探求」の中で、ポパーは「エルンスト・マッハに比肩しうるほどの知的衝撃を20世紀に与えた人はほとんどいなかった」と書いている。アインシュタインをのぞけばほとんどの物理学者はマッハの実証主義を受け入れた、そのために物理学は主観主義哲学の拠点となった、とポパーは主張している。
 まさにその物理学が主観主義的になったことが、カプラらを鼓舞したわけである。カプラの「タオ自然学」(工作舎 1979年)とか、ライアル・ワトソンの「生命潮流」(工作舎 1981年)とかも面白く読んだ記憶がある。「タオ自然学」はナイーブというかなんというか、物理学の(その当時の)最新の知見はすでに古代東洋の叡智のなかに予言されていた、といった調子の本である。西洋なんか数千年も東洋よりは遅れているんだとうれしそうに述べていた。一方、L・ワトソンというひとはなかなかしたたかで食えないひとであるように思われ、書いていることをどこまで信じているのか、単に西欧の正統派科学者の硬直ぶりをからかうためにだけ書いているのかよくわからないところがあるが、合理的思考では到底説明できないような事例をあつめてきて、科学なんてほどんどまだ何も説明できないのだぞと笑っている。
 最近ではあまりニューサイエンスというような言葉をきかない。こういう運動は対抗運動だから新しいものを生むことはないわけで、科学の分野の牛歩の歩みにいつのまにか置いていかれてしまったのかもしれない。特に進化にかかわる生物学の進歩が大きいと思う。人間が言葉を持ってからまだたかだか数万年に過ぎないであろうから、理性だとか偉そうにいってもその歴史が生物学的基礎を持つはずはない。しかし狩猟採集の長い時間を人間という弱い種が生き抜いてくるために必要であったものであるとすると、人間の性向の多くは説明ができてしまう。超常現象を科学で説明はできないであろうが、なぜ人間が超常現象を信じることが多いかは、生物学的に説明が可能であろう。
 
 「パンツをはいたサル」の第2章に、以下のような対比が示されている。
 
 日常的な時間=生産(労働)=秩序ある世界=俗的世界=生の世界(エロス)=この世
 非日常的な時間=破壊(消費)=秩序が破られる世界=聖的世界=死の世界(タナトス=死の本能)=あの世
 
 科学とか理性だとかは、前者にしかかかわれなくて、後者には手も足もでない。しかし人間にとって本当に大事なのは後者なのだという。
 人間以外の動物で後者をもつものがあるとは思えない。したがって「パンツをはいたサル」は人間は特別な動物であるとする主張を裏にもっている。これは丸山氏にも岸田氏にも感じる(ローレンツの場合はどうなのだろうか?)し、岸田氏やローレンツの仕事はそこでさかんに言及されている。
 栗本氏に情熱的に研究をさせ、氏をハンガリーにまで向かわせたのも、こういう深層こそが人間にとって根源的に重要なものであり、それをぜひ学問にとりこみたい思いだったのであろう。最近では栗本氏のような方向をめざす学問というのはほとんど見ないように思う。栗本氏のこの本が世に出たのは1981年である。今にして思えばバブルの絶頂期であったのかもしれない。もはや日常的な生などは面白くもなんともないものとなり、非日常こそが生を豊かにするという方向が大事なものと思われたのかもしれない。それから二十年弱、まさに日常をどういきるか、どう食べていくかが再び問題となってきている。蕩尽とか破壊とかといった言葉は別世界のものとなってきてるのかもしれない。栗本氏の本は時代の徒花だったのであろうか?
 栗本氏のしている対比はやや強引にいえば、平凡対非凡ということであるようにも思う。普通に生きることは平凡でつまらないことになり、何か特別なこと、日常をこえるところに生の充実があるという方向を氏は提示しようとしたのであろう。
 内田樹氏は「村上春樹にご用心」の中で、村上春樹の小説のテーマは『邪悪なものが存在する』ということであるといっている。言い換えると『人間の力を超えるものが存在する』ということである。変な例でいえば、ある銀行員が懸命に働いて会社にささやかな貢献をしたら、会社はサブプライム問題で膨大な赤字となったというようなことである。あるいは、ある社員がライバル会社を出し抜こうと頑張っていたら、上のほうではライバル会社とひそかに合併の動きを進めていた、といったことである。あるいはいうまでもなく四川省地震であり、最近の東北での地震である。だから村上春樹は「地震の後で」を書いた。地震には何の意味もない。
 しかし、人間はそこに意味を見出さずにいられないと内田氏はいう。邪悪なことに損なわれることを必ず合理化しようとするのだ、と。愛情のない両親にこずき回されること、ろくでもない教師に罵倒されること、バカで利己的な同級生に虐待されること、欲望と自己愛で充満した異性に収奪されること、愚劣な上司に査定されること、不意に死病にとりつかれること・・・。
 吉田健一は「一本の木が倒れてくるのから逃げ去る栗鼠」ということをいっている。ヴァレリィは動物が森の木陰で休んでいる際に耳慣れない音を聞いて警戒心を起すということから精神の働きの説明を進めたのだそうである。精神はそこから出発するのであるが、それをもってしても、いつも倒れてくる木から逃げられるとは限らない。おそらく大部分の場合には無力である。しかし、それでも何かをしていくこと、それが村上春樹文学の根源になるものである、と内田氏はいう。
 1980年ごろに流行した広い意味での反西欧思想(栗本氏にとっても、ポランニーの出自であるハンガリーが西欧と東洋の間に位置することが重要であった)は、西欧社会の達成を前提に、その達成がたかだか屋根のある家に住み、着るものがあり、飢えることがないというだけであることに失望し、それと引き換えに、もっと深く人を動かすものが西欧から失われてしまったことを嘆いて、非日常的な時間、破壊、聖的な超越世界といったものの回復を願ったのかもしれない。しかし近年、その西欧社会においてさえ、住む家、着る服、口にする食べものが保証されないかもしれない状況がみえてきて、いわば“過剰な”思想である反西欧思想が、“結構なご身分”の思想ということになってしまったインパクトを失ってきているのかもしれない。
 ドラッカーというひとはきわめて慎ましやかな主張のひとで、住む家、着る服、口にする食べもだけでは人間は充たされないとするのであるが、それにプラス必要なものは、共同体が提供する生きがいであるとだけする。日常を越えるものではまったくない。だから、ドラッカーが「産業人の未来」を書いているとき、意見をぶつけるとカール・ポランニーが、関心をもち、聞いてくれ、励ましてくれたが、ドラッカーの論点である「保守主義的アプローチ」にはまったく同意しなかった、というのは、まさにさもありなんなのである。保守主義は日常のなかでこそ生きるものなのだから。ポランニー兄弟たちの追い求めたものが、「西洋がフランス革命以来の200年にわたって、追い求めてきたものそれ自体が、意味のないものであった可能性を示すこと」であったとすれば、およそ保守主義などと接点をもつことはできないわけである。
 20世紀後半の世界で後半に「西洋がフランス革命以来の200年にわたって、追い求めてきたものそれ自体が、意味のないものであった可能性を示そう」とする実にさまざまな試みがおこなわれた。最近、それらの動きは随分と低調になってきているように思う。西欧社会がうまくいっているわけでは全然ないのだが、そして反=グローバリズムというのが反西欧思想そのもの(狭くは反アメリカであろうが)であるとも思うのだが、反西欧は単なるアンチであって、1980年代がもっていたポジティヴな運動の熱さのようなものは完全に失われているように思う。「社会による社会の救済」の運動の代表選手であったマルクス主義は完全に権威を失墜したが、それを求めるひとたちはさまざまな代替運動に流れ込んだ。しかし、ドラッカーのいうように「社会による社会の救済」の運動は結局は挫折したのだろうか? 栗本氏のめざしたものも、人間理解の根源的な変更であったのだと思う。そのような目標がこれからふたたび掲げられるような日が、また来ることがあるのだろうか?
 

パンツをはいたサル―人間は、どういう生物か

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