岡田正彦「がん検診の大罪」(2)血圧を下げても長生きしない

  新潮選書 2008年7月
  
 第3章「薬を飲んでも寿命はのびない」をみていく。
 まず、血圧の話。いくつかの治験の成績が紹介される。
 
 まずサイアザイド系の利尿剤。1980年オーストラリアのもの。対象は実薬とプラセボあわせて3500人弱(30〜69歳)、観察期間5年。死んだ人:実薬25人、プラセボ35人(有意差なし)。脳卒中心筋梗塞で死んだ人:実薬8人、プラセボ18人(有意差あり)。
 ヨーロッパ調査(1985年)。対象は実薬、プラセボともに400人超(60歳超)。観察期間7年。死んだ人:実薬73人、プラセボ89人(有意差なし)。脳卒中死亡:実薬12人、プラセボ19人。心筋梗塞死亡:実薬17人、プラセボ29人(有意差あり)。
 イギリス調査(1985年)、サイアザイド+β遮断剤。対象各9千人弱(35歳〜64歳)。観察期間5年。死んだ人:実薬248人、プラセボ253人(有意差なし)、脳卒中死亡:実薬18人、プラセボ27人。心筋梗塞死亡:実薬106人、プラセボ97人。
 一見して、大した効果がないことがわかる。
 次がβ遮断剤。これについては、総死亡、脳卒中死亡、心筋梗塞死亡ともに有意差なし。
 カルシウム拮抗剤。これについては総死亡を伸ばす効果はないとかかれているが、脳卒中死亡、心筋梗塞死亡については記載がない。
 アンジオテンシン変換酵素阻害剤。総死亡、脳卒中死亡、心筋梗塞死亡すべて有意差なし(対象は心不全あるいは脳卒中あるいはその前駆症状があったもの)。
 アンジオテンシン受容体拮抗剤。やはりすべて有意差なし。
 
 さて、著者は、《血圧が高い人はさまざまな病気になりやすく、寿命が短いことについてはどの調査でも一致していて、間違いのない事実と思われる》という。それにもかかわらず、上のさまざまな治験の成績から、「薬で無理に血圧を下げても長生きはできない」という事実がはきっりしてきた、という。
 しかし、ここで示された治験の成績からわかることは、高血圧を治療しても、脳卒中の死亡も、心筋梗塞の死亡もともにそれほどは減らせないということであると思う。著者は、《長生きできない》ということを示す成績だというけれども、それは《血圧が高い人はさまざまな病気になりやすく、寿命が短いという間違いのないのない事実》に反するように思う。
 サイアザイドの治験と(おそらく)カルシウム拮抗剤の治験では、脳卒中心筋梗塞の死亡を有意に減らしているというデータがあるので、著者はそういう方向に話を進めるのであろう。しかし、それ以外の薬では、そもそも総死亡を減らす以前に、脳卒中心筋梗塞による死亡を有意には減らしていないのである。
 著者は総死亡に差がないということに議論の焦点をしぼるために、血圧はさがるのに総死亡が減らない原因を探るという方向に議論をすすめる。
 しかし、脳卒中心筋梗塞をやや減らしているとしてもぎりぎり統計学的に有意な程度のわずかな効果であれば、総死亡をみれば有意差がなくなってしまうということなのではないだろうか? わたくしには、血圧を下げているにもかかわらず、なぜ脳卒中心筋梗塞による死亡が劇的には減らないかということのほうが問題であると思う。ここでは死亡だけが議論されているので、脳卒中心筋梗塞の発症率は示されていない。発症はしているが死亡する例が少ないのであろうか。
 血圧が高くなると心血管障害が増えるばかりでなく、転倒転落による死亡や自動車事故による死亡、自殺による死亡も増えるというデータから(しかもそのデータでは、血圧が低いほうでも、事故や自殺も増えている)、著者は事故や自殺が高血圧で多いのは降圧剤の副作用によって血圧が下がりすぎてしまったためでないかという仮定をして、根拠なく、そうである可能性は非常に高いといいきってしまう。
 だがそれを主張したいのでれば、降圧剤使用者とプラセボ使用者の間で、事故や自殺による死亡に有意差があるかをみればいいのであって(病死か事故死あるいは自殺であるかという統計は存在しているのではないだろうか?)、そこに有意差が存在していないのであれば、こういう議論はしてはいけないのだと思う。しかし、本では、脳卒中になる前に事故や自殺で死亡してしまったから総死亡が減らないのだという方向に議論が進んでしまう。
 わたくしは、高血圧の場合、非常に高い血圧(200/140といった場合)でない場合には、脳卒中心筋梗塞を有意に減らす効果は降圧剤使用によってはえられないのではないかという仮説をもっている。だから本当に降圧剤使用が有用なケースはごく限られていて、そのため、統計学的にはなかなか有意な効果はでないということなのではないだろうか?
 もともと140/90のひとが、120/80の人にくらべて、脳梗塞心筋梗塞になる比率はそれほど高くないのだから、そのあたりの血圧のひとを治療しても大きな効果がでなくても当然なのではないだろうか(これは統計学素人の議論だろうか)。
 それら疾患の頻度は、血圧と一次関数的に正比例するのではなくて、下に凸な放物線となって、血圧が上がるにしがたって、頻度は幾何級数的に増えていく。その疾患頻度が高い血圧が非常に高い部分には降圧剤は疾患減少効果を示す。しかし、その部分に入る人は少ない。大部分の人はもっと低い血圧に分布している。あまり降圧剤の効果がみられない軽い高血圧の部分に大多数の人がいて、十分な効果がみられる人の数は少ないとすれば、統計をとると、効果がある少数は埋もれてしまって、大きな有意な差としてはでてこなくなるのではないだろうか?
 血圧が高くなると脳卒中心筋梗塞の頻度が高くなることは疫学的に知られている。また、非常な高血圧(たとえば、200/140とか)を降圧することの有効性は臨床の場にいるひとには実感としてわかっている。その二つを組み合わせる。1)非常に高い血圧は危険な状態であり、それを下げることは有効であることは万人が認めている。2)血圧は高くなるほど脳梗塞心筋梗塞が増えることも、また万人が認めている。そうであるなら、血圧を下げることが有意義であることは自明の理である、ということに理論としてはなるのではないだろうか?
 降圧剤の有用性という信念は疫学から帰納的に導かれたものではなく、理論として演繹的に導かれたものなのである。だから、からなず有意差が出ると信じてはじめた治験が予想に反した結果になるとうろたえるわけである。それで多くの臨床家は、そんなはずはない。この結果が間違っていると思う方向にいってしまう。なぜならわれわれは毎日の臨床で確実に患者さんの血圧を低下させることに成功しているし、血圧が低いほど血管合併症が減ることもまた確かなのだから。
 著者のいうように、血圧が下がりすぎて事故で死亡したり、薬による発がんで死ぬひともいないわけではないと思う。しかし、ここの治験データから第一に生じる疑問は、軽度の高血圧症を治療する意義と意味なのだと思う。いきなり、薬を飲んでも寿命はのびないという議論にいくのではなくて、今の高血圧の判定基準は厳しすぎるのではないかという方向にいくほうが生産的なのではないかと思う。なぜなら特定検診がはじまり、高血圧の基準が、140/90から130/85とさらに厳しくなったからである。現場では、「正常高値血圧」などというわけのわからない言葉がでてきてしまっている。
 買ってきていまぱらぱらと読んでいる高田明和氏の「健康神話にだまされるな」に次のような例が示されている。大腸癌検診の話で、25万人以上の人を便潜血反応検査をおこなう群と行わないない群にわけ検討したもので、検査をした群で大腸癌の死亡182人、しない群で230人、これは有意の差である。しかし全死者数には変化がなかった。その説明として、全死亡の中で大腸癌が占める割合が3%と多くないので、全死亡でみると効果は隠れてしまうのだ、と高田氏はしている。その説明の方がずっと理に叶っていると思う。
 最初の例をもう一度だす。
 サイアザイド系の利尿剤。1980年オーストラリアのもの。対象は実薬とプラセボあわせて3500人弱(30〜69歳)、観察期間5年。死んだ人:実薬25人、プラセボ35人(有意差なし)。脳卒中心筋梗塞で死んだ人:実薬8人、プラセボ18人(有意差あり)。
 この例で脳卒中心筋梗塞で死んだ人は実薬群で10人減っている。死者の総数も10人減っている。もしも降圧剤が脳卒中心筋梗塞による死の抑制に有効で、他になんの影響も与えなければ、ちょうどこうなるはずである。しかし前者は有意で、後者は有意差なしである。その有意差なしから、岡田氏はこの例でいえば、実薬、プラセボともに30人づづの死亡という推測をし、実薬では他の死亡が22名増えているのに、プラセボでは12名しかない、そうだとすれば、その死亡増加は治療行為が作ったという議論にいき、事故死とか自殺という推論に進んでしまっているようにみえる。有意差なしということは、差がないということではなくて、差があるかもしれないが、偶然にもおきうる程度のわずかの差でしかないということなのだと思う。
 要するに、3500人を5年間観察しても、60人しか死なないのである。2%以下である。脳卒中心筋梗塞をあわせても26人、0.7%である。これは30歳〜69歳という比較的若い人を対象にしているからではあるけれども、実際に減らせた死亡は10人、治療群の0.5%である。これは有意であるかもしれないが、意味のある治療であろうか? しかも治療効果があったひとは当然高い血圧の人に多いことが推測されるので、低い血圧群では更に治療の有効性は低いはずなのである。そうだとすれば、程度の軽い高血圧の治療の意義ということが問われなければいけないのだろうと思う。
 しかし、ここから先はは科学の議論ではなくなるだろうと思う。少しでも発症を減らせれば有意義であるとすれば、どんなに効果がわずかであっても、それがわずかでも有効である限りは治療は正当化されてしまうのであろうと思う。治療群がプラセボ群よりも悪いというような結果でも出ない限りは、そうなってしまうのではないだろうか?
 著者は、本書で一家に一台家庭用の自動血圧系を備えておくことを勧めている。しかし、血圧を下げても長生きしない、ともいう。それならば、なぜ家庭で血圧を測定する必要があるのであろうか? 測定して血圧が高かった場合、著者は治療をすべきであると考えているのであろうか? あるいは服薬ではない日常生活での注意で対応すべきであると考えているのであろうか?
 本書には、かつての厚生省が日本の塩分摂取量を減らすために一大キャンペーンを繰り広げ、功を奏したとある。これにより重症高血圧症とそれを原因とする脳卒中が見事に減少に転じたとある。本当なのだろうか? 厚生省が一大キャンペーンを繰り広げたころ、それが日本の食生活が欧米化する時期と一致し、それによりたまたま塩分摂取量が減ったということはないのだろうか? さらに言えば、食生活の欧米化による蛋白摂取量の増加のほうが有効であったので、塩分摂取の減少はさして有効ではなかったというようなことはないのでだろうか? 極論すれば、日本が豊かになったので、脳卒中が減っていったというだけということはないのだろうか? 少なくとも脳出血は低栄養に起因する病気である。
 減塩キャンペーンで見事に脳卒中が減るのであれば、なぜ降圧剤治療でも脳卒中が見事に減らないのであろうか? それは見事に減ったが、同時に降圧剤の効きすぎによる事故や自殺などによって、その効果が見事に打ち消されてしまったということなのだろうか?
 しかし、治験データを見る限り、脳卒中が見事に減っているとはとてもいえない。もし、それにもかかわらず、日本で脳卒中がどんどんと減ってきているのであれば、それは降圧剤治療の成果というよりも、日本の食生活の変化、あるいは高度経済成長の成果だった可能性のほうがずっと高くなるのではないだろうか?
 血圧を論じていたら、長くなってしまったので、糖尿病と高脂血症の話は稿をあらためて議論することにする。