小幡積 「すべての経済はバブルに通じる」 

  光文社新書 2008年8月
 
 バブルの頃、たしか毎日新聞だったと思うけれど、日曜版に「マネー・ゲーム」とかいった欄があって、数人の投資の専門家が、一定の元手で架空の株の取引をし、半年でどのくらい増やせるかというのを競っていたことがあった。はじめのうちはみんなすごく儲かっていて、さすがに専門家というのは大したものだと思っていたのだが、そのうち、儲かるひとそうでないひとがでてくるようになり、やがてすべてのひとがマイナスになって、あれあれと思っているうちに、欄そのものがなくなってしまった。それぞれの投資家がなぜその株を選ぶのかあるいは売るのかを述べていて、業績がどうのとか、将来性がどうとかいっていたのだが、その欄の動向をみているうちに、株が上がったり下がったりするのは、どうも会社の業績とかいったものとは別の要因によるほうが大きいのではないかと思えてきた。
 だいぶ以前、橋本治の「貧乏は正しい! 17歳のための超絶社会主義読本」(小学館 1994年)を50歳にもなるおじさんなのに読んでいて、資本主義とは「金はあるけど体力はない年寄りが、金はないけれど体力はある若者を使って金を増やす仕組み」であるといったことが書いてあって、なるほどと思ったことがある。しかし、それは健全な(?)資本主義の話であって、本書の著者の小幡氏によれば、資本主義とは「ねずみ講」なのである。
 本書はサブプライム問題を例題として、現代の資本主義の仕組みを噛んで含めるように懇切丁寧に説明してもので、なるほど現代の資本主義とはこのようになっているのかということがとてもよくわかった(ような気になった?)。
 サブプライム問題というのをみていると、どう考えてもバブルの崩壊で、ほんの10年くらい前に日本でも同様のことがおきていて、それをしっかり見ていたはずなのに、なんで同じことを繰り返すのだろう、馬鹿だなあと思っていたのだが、なかなかそのような単純のものではないことがわかった。
 以下は経済音痴である(株券と証券の違いもわからない)わたくしの備忘のためのメモであるので、経済通のかたにとっては、いまさらのことばかりかもしれない。
 
 サブプライム・ローンとは周知のように、信用の低い、返済ができるかどうかわからないひとたちへの住宅ローンである。返せなくなったらどうするのかというと、住宅の価格が上昇しているので、売れば返せるということになる。当然であるけれども住宅価格の上昇傾向というのが、このローンの前提である。
 しかしそれだけではない、証券化ということがからんでくる。
 証券化とは、ローンの債権をあちこちから集めてくる。その権利を細かくわけて、別の投資家に売る、ということなのだそうである。集めて、分けるだけだから、実質なにも変わっていない。それなのにこれが飛ぶように売れる。なぜか?
 1)証券化をすると、買うひとは少額から買える。そのためお金が集まりやすい。
 2)証券化する場合に、リスクの低いものや高いものを分けて商品化できる。リスクが低いものはいいが、高いものは売れないではないか? その残ったリスクが高いものだけをまた、いろいろなところから集めてくるのだそうである。その中で相対的にリスクの高いもの低いものをまたわけて商品化する。
 しかしどうしても信用の低いものが残る。それで、借り手が返済できない場合には、住宅ローン会社自身が一部補填し、証券として買ったひとには被害が少なくなるようにしたり、またモノラインと呼ばれる保証会社が、証券の利払い、元本を保証したりした。このようにして当初、リスクがひじょうに高いはずであったものが、トリプルAの最上の格づけの商品に化けた。
 3)大数の法則統計学の言葉で、貸出先を多く集めると、すべてが同時に倒れる可能性がきわめて低くなることをいう。これが投資先の分散の効果である。証券化する場合に、西海岸と東海岸といったように、経済環境がまったく違った地域のローンをくみあわせるので、その点でもリスクが分散する。さらに住宅ローン以外の債権と組み合わせることも多い。今回、この点が住宅と関係のない債権の暴落をまねいたとして非難されているが、多様なものを組み合わせるのはリスク分散の初歩で、合理的なことなのである。
 こうやってみてくると、証券化とはきわめて合理的にみえるが、全体としてのリスクは少しも軽減していない。たんにリスクの移転がおこなわれいるだけである。しかし、ハイリスク・ハイリターンをねらう顧客、安全を第一とする顧客など、さまざまなニーズにこたえられる商品がそこに出現している。
 以上は、教科書的な「証券化」の説明であるが、机上の理論をこえた、人間の本性としての「欲望」という問題が別にでてくる。
 証券化により「原資産の金融商品への変化」がおきる。資産が「商品」のなるのである。投資商品はリスクとリターンの組み合わせだけが問題になる。このローンの場合、個々の住宅物件や借り手の資産状況などという情報は一切必要なく、それらを調査するコストがいらなくなる。住宅の専門家でなくても参入できる商品になるのである。だれでも買える商品になる。
 投資家にとって最大のリスクとは売りたいときに売れないことである(流動性リスク)。住宅自体を担保にしていても、それは売りたいと思ったらいつでも売れるわけではない。しかし、証券化はそのリスクを大幅軽減する。証券化の本質は流動化である。流動性リスクの低減によって、新たな価値が生じてくる。証券化、商品化自体が価格の上昇、資産価格の上昇スパイラルをつくりだす。
 世の中には財力が豊富なものがいて、少々の損失は気にせず、ハイリスク・ハイリターン商品を買う。そういう投資銀行や有名ファンドが買うと、他の投資家も、これは大丈夫な商品であると思う。そういうひとが買いにはいってくると、値があがる。最初にリスクととった投資家は利益をとって売り抜ける。(ねずみ講!)
 つまりだんだんと、資産から得られるキャッシュ・フローではなく、それ以外の要因が証券の価格を決めるようになってくる(実体経済からの乖離!)。保有を目的とした投資から、転売を目指した投資、つまり投機へと変貌する。
 ある資産に誰も見向きもしないのはなぜであろうか? それは流動性がないからである。永遠にもち続けるしかなく、売りたいときに売れない。しかし、投資家のすそ野が広がれば、リスクは軽減する。証券化とはスマートなビジネスであり、投資銀行のバンカーは、リスクをとって儲けをねらうヘッジファンドのマネージャーを野蛮人であると軽蔑している。
 このようなメカニズムで証券の価格があがってくると、もとの資産(この場合は住宅ローン)でキャシュ・フローが生じていれば、それが信用をうむ。過去の結果だけが問題となり将来のリスクが問われなくなっていく。格付け会社は過去のキャシュフローなどの実績のみを評価するのであって、ビジネスモデルの根幹を問うことはない。金融工学では、過去の実績=実態とされてしまう。過去の住宅価格が上昇していていれば、それが永遠につづくとするモデルができあがってしまう。証券の価格が上昇している場合、それは下落の前触れという可能性もあるのだが、格付け機関金融工学の精緻なコンピュータはそれは考慮しない。過去のキャシュフローさえ安定していれば、すべて魅力ある証券となりうるのである。だからねずみ講でも、実際に今までいまくいっているのであれば、立派な商品となる!
 しかし、実態をよしとして、買ってくれる投資家がいないと困る。そうでないと、最後の証券の買い手がいなくなってしまう。その最後の買い手、証券を転売するのでなく、最後まで持ち続ける買い手のために格づけ機関が存在する。しかし、格づけ機関は過去しか分析しない。将来は過去と同じであるという前提で分析する。そこには本当の実体はない。実体のない価格上昇が、すなわちバブルである。
 
 次に「リスクテイクバブル」。これは著者の造語。「多くの投資家がリスクのある資産に殺到し、それによりリスクがリスクでなくなり、そのためすべての参加者が儲かることになり、さらに他の投資家もそれに殺到する状態」をいう。
 サブプライム問題から生じる疑問。
 1)なんでそんなにリスクの高い商品に、プロ中のプロが殺到したのか?
 2)世界一流の投資家たちによってバブルが生じるなどということがあるのか?
 3)かりにサブプライム関連証券がバブルとなり、崩壊したとしても、米国の一部の証券化商品のバブル崩壊が、なぜ世界の金融市場全体に影響をあたえるのか?
 1)への答:投資とは儲かればいいのであって、どんなジャンクな商品でも儲かればいい。一流であればあるほど実体などにはこだわらず、安く買って高く売ることだけに専念する。だから問題は、なぜサブプライム関連証券が高く売れることがほぼ確実に予想されていたかである。
 理由1)貸倒れが実際におきなかったから。その前提:住宅市場の高騰の持続。これは事実として続いていた。そして、また続くことが期待されていた。価格の高騰を前提とすれば、不合理なことが合理的になる。これは借り手にとっては危険なギャンブルかもしれないが、貸し手にとっては確実に勝ち続けられるギャンブルであった。
 貸し手はローン供与以外のところで利益をあげていた。a)契約時の手数料が法外に高い。b)住宅販売会社からもリベートをとる(ようするにぐるになっている)。c)一番大きい要因として、確実な需要の存在。今まで家を買いたくても買えないでいたひとびとが次々と買い手となって、このシステムに参加してきた。(ねずみ講に次々に参加者が現れる状態) そこで、持家の買い替え需要などとはけたの違う需要が発生した。需要が生じると当然価格はあがる。価格があがり続けるなら、堅実なローン返済者よりも、払い続けられず転売をくりかえす顧客のほうが歓迎される。
 そもそもバブルとは何か?
 価格が上がり続けているものが何かある。それが必要である。それは理解できる理由がある上昇でも、なんとも理解できない上昇であってもいい。とにもかくにも、あるものが上昇していると、そこにお金が集まってくる。さらにそれが上がるという循環が生じる。それがバブルのすべてである。最初の上昇のきっかけは一度バブルがはじまると関係がなくなる。バブルであることの本質はバブルであることであって、理由はいらなくなる。
 それではリスクテイクバブルとは?
 それが2)への答となる。
 リスクの高い商品は(もしもリスクが現実のものとならないのであれば!!)、リスクの低い商品よりも高いリターンがある。
 現代の金融市場においては、投資するひとと運用するひとが違う。運用するプロはたくさんいて、そのどれに投資をするかは投資するひとが選ぶ。当然、高い利回りで運用しているひとを選ぶ。もしもリスクを無視した運用をしていて(たまたまリスクが現実にならかったので)高いリターンを得ている運用者がいれば、投資家はそちらになびく。そうすると他のプロもまたリスクを無視した投資に走らざるをえない。自分の会社に投資をしてもらえなければ会社がつぶれる。リスクが現実のものとなればやはり会社がつぶれる。しかし、今投資がしなければ今、会社がつぶれる。もしもリスクが現実にならなければ、会社は存続できる。これを合理的思考というか、非合理な思考というか? 本来とってはいけないリスクをみながこぞってとるようになってしまう。証券化はそのリスクを低減するための手法であった。事業のリスクを流動化のリスクへと転換するという手法である。買い手さえ存在するならば(流動性さえ存在するならば)、リスクは消失する。もしもねずみ講において永遠に参加者が絶えないとすれば、ねずみ講は立派なビジネスモデルである。つまりバブルとはねずみ講である。
 問題は投資先に限りがあることである。通常の事業への投資には限界がある。そうすると事業のリスクへの投資ではなく、リスクをリスクでなくするプロセスに投資するしかなくなる。そうすると本来堅実な投資をするはずの年金基金などもそのプロセスに参加してくる。本来転売を目的とした市場に保有を前提とする保守的な投資家までもが、参加してきた。最後の買い手が現れたわけである。そうなると、あとは崩壊するだけである。
 3)への答:サブプライム・ショックは、サブプライム関連商品のリスクの顕在化をきっかけにして、世界中のさまざまなリスク商品への投資の引き揚げがはじまったということである。投資先は米国債、日本国債原油穀物、金などといったリスクが低いか実体のうらづけのあるものへと移っていった。
 以上からわかることは、
 A)ファンダメンタルズは無力である。
 B)投資家の心理、それも群集心理が市場を支配する。
 C)群集心理を支配することで市場を動かし、利益を得ようとする投資家が存在する。
 
 本書の主張一番の基調は、なぜパブルとわかっていたの投資したのかという疑問に対して、バブルだからこそ投資したのだという回答を用意している点にある。なぜならバブルが儲かるから。
 だからみんなバブルが大好きである。プロの投資家の仕事とはバブルで儲けることである。まともな投資家ならバブルをバブルとわからずに投資することなどはありえない。後悔することがあるとすると、バブルから逃げ遅れることだけである。しかし、一方では、ぎりぎりまでバブルの渦中にいて、ライバルよりも少しでも長くバブルを享受して、少しでも多くの果実をそこからもぎ取ろうとする。
 しかし、降りるためには買い手がいる。全員一斉に降りることはできない。最後に証券化商品を売りつけられたのは、年金資金の運用者や、自分で投資機会を作り出せない金融機関であり、欧州の投資家が多かった。それでも今回はプロ中のプロであるヘッジファンドや有名な投資銀行が逃げ遅れた。最終的には頭脳の勝負ではなく、度胸の勝負になってしまう。チキン・レースである。
 バブルをつかみ、バブルで儲けるだけでは十分ではない。その利益を大きく拡大しなければいけない。それがレバレッジである。単純にいえば、大きな利益を前提に高利で金を借りて、それをさらに投資につぎ込むのである。うまくいっているときはこれが莫大な利益を生む。しかし、もしも運用利回りがマイナスになれば・・・。借金の担保の証券も値下がりするから、即座の借金返済要求が来る。手持ちの証券を売る。値が下がる・・・。負のスパイラルである。そのまきぞえをくって、流動性のあるまともな証券も値下がりする。健全な市場まで暴落し、世界金融恐慌となる。
 
 リスクテイクバブルとは癌化した資本主義の発現であると著者はいう。
 金融資本とは本来経済を活性化させるものであった。しかし、それが増えすぎると過剰に増殖し、投資機会をもとめて世界中をさまようようになる。しかし次第に投資機会は枯渇してくる。そうすると投資機会をみずからで作り出すようになる。実体経済をささえるためのものであった金融資本が、自己増殖のために実体経済を利用するようになる。最終的には、それが実体経済を破壊し、その結果、金融資本自体も破滅させる。これは金融資本の自己増殖本能のもつ宿命である。
 97年の東アジア、東南アジアでの通貨危機、98年のロシアの金融危機、新しい投資機会があると思われたところには投資資本が殺到し、バブルが生じる。
 ここに金融工学の問題がかかわってくる。金融工学とは、金融市場をきわめて合理的な存在と前提し、そこに参入する無知な投資家の無謀な売り買いによる実体との乖離を利用して儲けようという手法である(裁定取引)。この戦略により有名になったのがノーベル経済学賞受賞者も参加していることで話題になったLTCMである。
 このコンピュータを駆使した投資理論が間違いのないものであれば、リバレッジをきかせることで、ローリスク・ローリターンがローリスク・ハイリターンに化ける。実際にそれは大きな運用益を出し、そこに投資資金が殺到した。しかし、その資金にみあう投資機会は存在せず、わずかな利益に膨大な資金を投入せざるをえなくなっていった。これは小さな実体経済の破綻が大きな危機を生むことを意味する。
 著者は、今回の金融危機をきっかけに、いったん既存の金融資本が消滅し、それにより、これからは実体経済が相対的に力をもつようになるのではないかという。しかし、それはまだまだ先の話であり、今後しばらくは、さまざまなところでさまざまなかたちのバブルとその崩壊がくりかえされていくであろうと述べる。
 
 バブルのころ、銀行員をしていた知り合いに、サラリーマンが一生働いても自分の家すら買えないような地価の上昇というのはおかしいのではないか? いずれまた下がるのではないかという素朴な疑問を提出したところ、日本の銀行は土地を担保にとることで成立している。よって土地が値下がりすれば、すべての銀行が破綻する。そのような事態が招来することを大蔵省(当時)が容認するはずがない。よって土地の値段は下がらないという回答が返ってきた。
 また当時のテレビ番組で、著名な評論家が「いま東京は世界の金融センターになろうとしている。そのため世界の金融機関が東京に土地をもとめている。地価の上昇は実需を反映したものであり、やむをえないものである」というようなことをいっていたのを覚えている。その当時、いまどき投機に参加しない人間は世捨て人であるというようなことをいっていたのは長谷川慶太郎氏であっただろうか?
 だが、当時は、金融工学などという高級な手法ではなく、地上げなどというなんとも古典的な手法が儲けの手段となっていた。
 1997年のアジアの通貨危機、98年のロシアの金融危機とそれにともなうLTCMの破綻、あるいは、バブル崩壊後の失われた10年などについて、よくわからなくて、当時いくつかの解説本を読んだが、結局よくわからなかった。このころ村上龍氏も経済について猛烈に勉強をしていて、その関連の本なども読んだものだった。「希望の国エクソダス」などもその勉強の成果だったのであろう。
 1999年に書かれた村上氏の文章に「作家であるわたしは、「システム」と「個人の意識」の関係に興味があります。金融・経済の専門家に実際に会う前は、「この不況で何かが変わるかも知れない」という漠然とした期待を持っていました。「世界」と「日本」を自分たちの中で分離し、集団の利益を個人に従属させる日本システム・考え方への大前提的な嫌悪がわたしにはありました。(中略)予想される競争社会では、スキルと知識があれば、インパラがライオンに勝つことも可能なのではないか、つまり学歴や縁故が過度に重要視された時代が終わってくれるのではないか、という期待がわたしにはあります」というのがあった(「だまされないためにわたしは経済を学んだ」NHK出版 2002年)。
 集団主義への嫌悪といった気分はわたくしも共有しているので(医者になった最大の理由はそれだと思う)、この文章も共感をもって読んだ記憶がある。古い日本のシステムがこれをきっかけにこわれるのではないかといった気分である。「エクソダス」では、若い中学生の頭脳が、既存のシステムの代表である官僚たちの無能を尻目に、日本を救うという話であった。しかし村上氏も最近はグローバリズムの恐ろしさというようなことをいうようになっている。世界に過剰に存在する金融資本の恐ろしさを実感するようになってきているのかもしれない。
 資本主義とは、基本的に金儲けを肯定することのうえに成立しているシステムである。ある程度のお金があるとそれでは満足できなくて、それをさらに増やしたいという欲望が生じるものらしい。この前とりあげたハイエクの本では、市場は資源の効率的配分と分散した知識の有効活用の場であるとされていた。本書では、市場はただただ資本の自己増殖の場である。池田信夫氏「ハイエク」の書き出しは、「世界の金融市場を、前代未聞の危機がおおっている。現代の金融商品は数学やコンピュータを駆使した「金融工学」によって合理化され、あらゆるリスクは技術的にヘッジされ、世界中の市場がいっせいに暴落するパニックは起こりえないはずだった。今回のサブプライム・ローン危機による株価の値下がり幅は、通常の金融工学の想定にもとづくと「100億年以上に一度」しか起こりえない異常なものだった。/ しかし10年前には、同じような全面的危機によって金融工学の基礎を築いたノーベル賞受賞者をパートナーとするLTCMが破綻した」であった。ここから池田氏は人間の合理性を前提とする制度の危うさ、人知の限界、人間の愚かしさを前提する思考の重要性を説いていく。
 その人間の愚かしさの一つが、金儲けの欲求、もっともらしい言葉でいえば金融資本の無限の自己増殖への本能であり、それにより資本主義は発展し、またときには破綻するのであろう。
 アジア通貨危機に対して書かれたクルーグマンの「世界大不況への警告」(日本の出版 1999年。 早川出版)の「6.信用という名のゲーム」で、アジア通貨危機IMFがしたおろかな対策(景気後退に金融引き締め政策をおこなう)は投機家をおそれてなされたのだといっている。ここで「投機的攻撃の自己達成」という専門用語でいわれていることが、本書の説明に相当するのだと思う。「市場心理が何よりも重要で、信じることがそれを現実のものとしてしまう。投資家の期待感や偏見がファンダメンタルズになってしまう。」 それがクルーグマンのいう「ケインジアン・コンパクト」(普通の言い方だと、サミュエルソンの「新古典派的総合」)を壊したのだという。IMF国際経済学者から、アマチュア心理学者になってしまった、と。
 「7.世界の支配者―ヘッジファンドはなぜ危険なのか」では、ヘッジ・ファンドの規模については誰も本当のことを知らない、と書かれている。ヘッジファンドは金持ちが余った資産を運用しているだけなのだし、銀行と違って金融システムの中核になるわけではないのだから、そんなものを監視する必要はないと思われていたからだそうである。しかし、ジョージ・ソロスのクォンタム・ファンドが1992年イギリスのポンドの固定相場性を破壊したことで、そうとはいえなくなった(なお、ソロスは自分はカール・ポパーの弟子であるということを宣伝している)。
 ここに書かれている「誰一人として、それが現実化するまで理解していなかったことがある。それは、薄くなった利益幅をヘッジファンドが奪い合うことが、自らの終わりをもたらすということであった」というのは、本書の主張そのままである。要するに人間はおきてみるまではわからないのである。人間は愚かなのであって、未来を予見できる存在ではない。クルーグマンのいう「FRBの高官の中には、FRBの能力は過大評価されていると苛立つ者もいる。ブリーンスパンの側近は、経済と市場をどんな危機が襲ったとしてもFRB議長が助けてくれると安易に思い込むことは、新しい形のモラル・ハザードにつながると語っている。/ とはいえ、そのFRBに対する過大評価が、九八年秋に起こった世界的な信用回復に一役買ったことは事実だろう」というのは非常に考えされる言葉である。もしも医者に対する信頼が失われると医者の持つ最大の武器であるプラセボ効果も大きく棄損される。
 もしも市場が大幅に心理に依存するならば、中央銀行が持つカリスマ的権威というのは大きな武器になるはずである。もっと一般的にいって、政府が権威をもつならば、政府のすることの有効性は大いに増すはずである。政府のすることを散々非難しながら、一方で政府に有効な対策をもとめるというのは大いな矛盾なのであるかもしれない。
 「世界大不況への警告」は読んだ当時はよく理解できなかったのだが、本書を読んだらだいぶ理解しやすくなったように思う。本書のように一つのテーマにしぼって実例も交えながら議論をするというのは、新書というスタイルとしてちょうどよいのかもしれない。
 それにしても、かたや最新の数学とコンピュータ解析、こなた「頭脳より度胸」というのは、人間のしていることについて、考えさせるところが大きい。人間は賢くも愚かであるということのよい事例なのであろう。
 

すべての経済はバブルに通じる (光文社新書 363)

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世界大不況への警告

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