N・N・タレブ「まぐれ 投資家はなぜ、運を実力と勘違いするのか」

   ダイヤモンド社 2008年1月

 池田信夫氏の「ハイエク」の「はじめに」で、現在のサブプライム問題に起因する危機、10年前におきたLTCMの破綻、その10年前の「ブラックマンデー」など、世界の金融市場では100億年に一度しかおきないはずの危機が、10年に一度起こっているのはなぜかと池田氏は問い、その問題に答えた本としてタレブの「ブラック・スワン」を紹介していた。面白そうだなと思ってとりよせてみたのだが、英語で読むというのはつらくて、一日に10から20ページ読むのがやっとだし、読んでもなかなかすっきりとは頭に入らない。著者のバックグラウンドがわからないから書いている意図がわからないところも多いし、ということで、タレブの前著である「まぐれ」(原題:Fooled by Rondomness )をまず読んでみることにした。やはり日本語で読むのはいい。すっきりと頭に入るし、2日で読めてしまった。若いころ英語をもっとしっかりと勉強しておくのだったと後悔しきりである。語彙が受験勉強+必要な専門用語にとどまってしまっている。せめてもう2倍か3倍語彙が豊富であれば・・。(「ブラック・スワン」も翻訳進行中らしい。でたら買おうと思う。)
 なお、池田氏の著書の《100億年に一度》という典拠はなんだろうと思っていたのだが、この「まぐれ」であった。ジョンというトレーダーが、市場の下落を、10の25乗年に一回しかおきないはずと思っていたというところである。(と思ったら違った。10の25乗は100億なんてものではない。無量大数とか以上になりそう。「まぐれ」でいわれているのは、LTCMの破綻をまねいたような事態は、10シグマ、つまり「標準偏差10個分」くらい平均からかたよった出来事で、そういうことが生じるのは、10億年の数十億倍に一回であるということであった。例のLTCMの破綻のとき、ノーベル経済学賞受賞でもある経営者は、事態がそれくらいありえないことだといったらしい。) 笑ってしまうのは、ジョンと共同作業をしているヘンリーくんは、その二倍はリスクがあるとかまじめにいっていることで、10の25乗年に2回はおきるかもしれない、というのである。100億年にしろなんにしろ人間の歴史を考えたら意味のない数字であることは一目瞭然なのだが・・。
 「すべての経済はバブルに通じる」の小幡積氏は投資家でもあると紹介にあったが、タレブは本職のトレーダーである。そのポジションは、通常の状態では少し損をするかもしれないが、通常でない状態がおきたら大儲けというものらしい。小幡氏の本では、そういうトレーダーには誰も投資しないことになっていた。100億年先に儲けても仕方がないわけだから。大部分のトレーダーは通常の状態で大儲けし、通常でない状態になると(タレブの言い方では)吹きとんでしまう(原語はブローアップ。単に損をするのではなく、思ったこともない形で思ったこともないほど損をして業界から放りだされる状態。今アメリカでは多くの証券会社が吹き飛んでいるわけである)。吹き飛ぶトレーダーは、自分が世界がどうなっているかをよく知っていると思っている。だからひどい目にあう可能性はないと思いこんでいる。かれらがリスクをとれるのは、勇気があるからではなく、全然なにもわかっていないから。タレブはどのような状態でも生き残れるポジションをとることが大事なのだという。
 本書を読みながら、どこかで読んだ話だなという既視感がいつもあった。真ん中すぎあたりまで読んで、「あゝ、これは養老さんのいっていることと同じ」と思いあたった。養老氏のいう「都市化」「脳化」「ああすれば、こうなる」の問題である。《知性により、世の中は操作が可能である》という見方、それに養老さんは一貫して異をとなえている。《今日までの連続として明日があり、未来は予測可能である》という見方の否定である。
 タレブもまた明日がどうなるか誰にもわからないというこというのだが、それをヒュームやポパーを援用して論じる。タレブはトレイダーであるから、リスクにつねに直面している仕事である。それで確率の問題が前面にでてくる。確率の問題というのはとても難しい(タレブは確率という概念を人は頭で理解できても、腑に落ちては理解できないのだという)。医療も確率に依拠する世界なのだから、わたくしにも必須の学問のはずなのだが、わたくしも苦手である。
 ここでだされている問題:ある病気の検査では5%の擬陽性がでる。人口の1000人に一人がこの病気にかかる。ある人を検査したところ、この検査が陽性にでた。その人がこの病気である確率は? ほとんどの医者が95%と答えたのだそうである。医者って馬鹿ですね(正解は約2%)。わたくしがどう考えたかは恥ずかしいから書かない。
 タレブのいっていることは、有能だからうまくいくのではなく、多くの場合、(偶然に)うまくいったひとが有能といわれるのだ、ということである。もちろん有能なひとが有能であるが故にうまくいくこともあるが、有能であったとしても、その能力によってではなく、偶然によってうまくいったのかもしれない。有能だからだれでもうまくいくとは限らず、無能だから失敗するとも限らない。母集団が十分に大きければ、無能のひとでも偶然うまく生きつづけるということがおきる。一万人の中で3人成功したひとが生き残ったとすれば、それは本人の能力であるよりも偶然である可能性が圧倒的に高い。10人の中から3人が生き残ったのであれば、それは本人の能力である可能性が高くなるが。
 千人を集めて、コイントスで裏表を予言させる。第一回で、5百人が残り、第2回では250人になる。3回目では125人、4回目では62人、第5回では31人、6回目で16人、7回目で8人、8回目で、4人、9回目で2人、10回目で一人が見事生き残る。ではこの生き残った一人には天才的な予言能力があるから、これからの10回も当て続けるだろうか? だれもそんなことは期待しないだろうに、現実の世界ではそれがおこなわれているのだ、と。
 ロシアン・ルーレットをやって、生き残れば、たとえば、1億円あげるといわれて、毎年一回それをしているひとが二十歳からはじめて50歳まで生き残る可能性はほとんどない。しかし、母集団が十分におおきければそういうひとも出てくる。そのひとは大金持ちである。まあ、来年の命は保証できないが。成功したタフなトレーダーというのは、大抵が、そのようなひとなのだと、タレブはいう。
 今あるわれわれが生きている世界は、ありえたであろう多くの世界の中で偶然に残った一つなのであり、決して必然なのではないという含意がそこから生まれる。ヒトラー第三帝国が崩壊したのも、ソヴィエト共産圏が崩壊したのも、たまたまそうなったのであって、ヒトラーが悪だから、マルクス主義が間違っていたからではないかもしれないのに(われわれはたまたまロシアン・ルーレットに生き残っただけの愚か者であるかもしれないのに)、生き残っているという事実があることによって自分の存在が必然のものであると思いこんでしまう(ヒトラーの悪が歴史で証明され、ソヴィエト経済体制の不効率も歴史により立証されたと思ってしまう)。アレクサンダー大王カエサルも、偶然に勝利しただけという可能性もあるのだ。
 これは宇宙論でいう人間原理を想起させる。ビッグバンの過程がほんのちょっと違っていれば、多くの原子はうまれず、またはその比率が大きくかわり、現在の宇宙はうまれず、したがって地球もない。またその地球に生命が生まれる確率も天文学的に低く、またそこに知的生命体が生まれる確率もまたまた低い。しかし、それにもかかわらず、われわれがいるということは、われわれがとにもかくにもロシアン・ルーレットにとんでもない回数生き延びてきたという、ありえない偶然が過去にあったということである。通常はそこから、だからわれわれの存在は偶然ではありえず、われわれを必然のものとした創造者の力がそこに働いているという弁神論になっていくのであるが。
 ありえた多くの世界のどれを選ぶかの選択をわれわれはできないことになると、現在は偶然でありながらも必然であるという考えに道をひらくことになる。敗戦後の、小林秀雄の啖呵、「おれは馬鹿だから反省などしない、悧巧なやつはたんと反省するがよかろう」というのは、歴史の動きは人知でどうこうできるような柔なものではないということである。しかし、昭和初期の歴史がああであるしかなかったといわれると、多くの人は納得できない。タレブのいっていることは、昭和初期の歴史も多くのありえた歴史の一つであり、そうである必然は一切なかったが(だからそうでない歴史になる可能性もあったが)、その歴史を反省的にふりかえる人いう「こうであることもできたのだ」というのもまた多くの可能性の一つにすぎないのであり、そうなる可能性もまたきわめて低かったということである。吉田健一が「ヨオロツパの世紀末」でいっている「一体に、或る強大な帝国が亡びるとか、戦争や革命が起るとかいふことに就て確かに言へることはそれがそうなつたといふことだけであつて、歴史家はそのことを廻つて幾つかの推測とその推測の材料を提供することが出来るだけであり、歴史家に求められてゐるのは原因の説明よりもその原因とも思はれるものも含めた全体の状況の設定である」というのも同じことかもしれない。
 あることが起きてしまうと、当然それは起きるべくしておきたように思われてしまうが、おきる前には誰もそれを予想はしていなかったのである(なぜならそれは偶然かもしれないから。必然は予想できるが、偶然は予想できない)。そういうことの繰り返しで歴史は進んでいる、それがタレブの主張であるように思う。
 現在のサブプライム問題というのは丁度、一年前くらいが発端だったようである。しかし、一年前に現在のような状態になることを予見していたひとはほとんどいないのではないだろうか。現在、いろいろな手が打たれているようであるが、それが何らかの有効性を発揮するかどうかは、誰にもわからない。「ああすれば、こうなる」と思ったとしても、本当に「こうなる」かはわからないのである。先進国の中央銀行総裁が集まって、ある政策を決定すれば、その思惑どおりに世界が動くのであれば、それは「ああすれば、こうなる」の世界なのであるが。
 後から見れば物事はいつだって明らかにみえる。過去はいつも決まっていて、観察できる過去は一回だけだから(後知恵バイアス・・・そんなこと最初からわかっていたよ)。困るのは過去をうまく分析してみせる知的な連中が、将来も予想できるような自信を持ってしまうことである(実証主義のもつ問題)。2001・9・11のようなことが起きても、あとからはそれが当然予想できた出来事であるように思えてしまう。
 ギリシャの賢人ソロンは「将来のことはわかりません。本当にさまざまなことがおきるのです」といったのだそうである。このソロンの言葉は《帰納》の問題、過去から未来が予測できるか、という問題、本書でいうブラック・スワンの問題、稀な事象の問題を呼びだす。稀な事象がおきることを念頭におくならば、そしてその稀な事象が起きたときに失うものがあまりにも大きすぎるのであれば、どんなに成功する可能性が高くても、その可能性の高さに賭けてはいけないのだ、とタレブはいう。
 確率ということがでてくるのは、私たちの知識が不足していて、確実なことがわからないからである。われわれが無知だからである。そしてタレブによれば、私たちの脳みそは確率が高いとか低いとかいうことを簡単には理解できないようにできている。なぜなら、リスクに気づいたり避けたりを、かりにわれわれがしているとしても、それはわれわれの「考える」脳の部分ではなく、「感じる」脳の部分がしているのであるから(非宣言的記憶)。そうでなければ、狂牛病などというおよそ発生頻度の低い病気になぜあれだけ過剰な反応をするのかが理解できない。「考える」脳は、してしまった行動にあとから理屈をつける段階で仕事をするだけである。世界はどんどんと複雑になっていくのに(あるいは複雑になってきた故に)、われわれはどんどんと単純化された見方をするようになってきている。
 タレブによれば、多くのひとは、もうすでに起きたことは確率100%だと思っている。だから確率とは未来のことにだけかかわると思っている。しかし、おきたことが偶然であるとすれば、偶然おきた事態から未来を予見することができるかが問題となる。
 わたくしは本書ではじめて、ダニエル・カーネマンというひとを知った。行動経済学というはじめてきいた分野の開拓者で、2002年にノーベル経済学賞受賞したらしい。タレブのいうところによれば、ギリシャ以来23世紀におよぶ教条的な合理主義的人間観をひっくり返したひとなのだそうである。われわれは「合理的に」ではなく、「いい加減で手っ取り早い」やりかたで行動している。それが彼とその共同研究者の主張なのだそうである。本書も大幅にその説に依拠しているようであり、「投資家はなぜ、運を実力と勘違いするのか」などというサブタイトルがついているが、決して投資について(だけ)論じた本ではなく、もっと視野の大きな著作である。なにしろ、最後があっとおどろくストア主義のすすめなのである。理性主義という語にストイシズムというルビが振ってあるのにはびっくりした。原文はどうなっているのだろう?
 われわれの現実はロシアン・ルーレットではない。弾倉が6つではなく、何百・何千もあるようなものである。ひとは何十回か引き金を引いてみて、生き残ると、弾倉に一個は弾が入っていることは忘れてしまい、もう安全だと思ってしまう。
 しかし、稀な事象は突然おきる。われわれは物事がよい方に連続的に収斂していくような世界で暮しているのではない。離散的にジャンプすることもある世界に生きている。
 確率の世界では正規分布のベルカーブが背後に想定されていることが多い。そういう世界では極端な値はサンプルから除外してもいいルールになっている。しかしファイナンスの世界では、めったに起きない事象こそが問題になる。稀な事象は、いつも思いがけずおきる。そうであるからこそ稀な事象なのである。最悪でも4%の損という想定であったのに、40%の損がでる、というようなことがおきる。「過去に下がったことはなかった」から「これからも下がることはない」には決して飛び移れない。しかし、そうしてしまうひとが多い。
 本書は2005年に書かれた第二版の訳であるが、「資産市場では史上最大の上昇相場が続き、資産価値は過去20年間で天文学的な上がり方をした。・・年金基金や保険会社は「長期で見れば、株式はいつも9%のリターンを出す」という主張を信じている。統計データの裏づけまで出してくる。統計は正しいだろうけど、過去の出来事だ」とある。アメリカが永遠の成長を続けているかのように信じられていた時代に書かれている。
 本書は帰納の問題、ブラック・スワンの問題をあつかうわけであるから、ポパーが登場してくる。ポパーの「開かれた社会」とは、永久に正しい真理が存在しない社会である、とタレブはいう。
 また進化心理学もとりあげられる。「私たちの脳は、適応できるようにできているのであって、真理をわかるようにできているのではない」(ピンカー)のであり、進化心理学によれば、われわれははるか昔の狩猟採集時代に適応している。その時代には、確率を計算して行動しなければいけないことなど、何もなかったので、われわれの脳が確率をうまく理解できなくても仕方がないのである。
 さらにダマシオやルドゥーらの脳研究(理性でなく情緒を重視する立場)も紹介している。われわれの行動を決めているのは、脳の合理性をつかさどる部分ではなくて、情緒で考える部分であるという説である。
 上にも書いたように最後はギリシャの詩人カヴァフィスがでてきて、ストイシズムの薦めになる。
 本書を読んで楽しかったのは、わたくしが今まで親しんできたひとたちが次々とでてきたことで、ポパーファインマンアラン・ソーカルドーキンス、S・J・グールド、ヒューム、ソロス、ピンカーから、カヴァフィスまで、いろいろである。そういう(カヴァフィスは例外として)一見理科系のひとの仕事が、広く現代世界の理解に役立つという話は、自分の読書の傾向があながち現実からそれほど離れたものではなかったとしていいのかなと思えて、少しうれしかった。
 ポパーについては、その哲学を称賛しながらも、人間としてはなかなか問題なひとであるということをあわせて書いている。ホーガンの「続・科学の終焉」などを読んでそんな印象をもっていたので、やはりという感じであった。ポパーの主張によれば、あらゆる説は永遠に仮説にとどまるのはずであるのに、自分の反証可能性の理論は帰納の問題を解決したなどと平気で書くところなど、なにか変なのである。「よりよき世界を求めて」でのポパーは実に穏やかな人物に見えるのだが・・。啓蒙の巨人のヴォルテールが人間としてはとても困ったひとであったのと同じようなものなのだろうか?
 本書を読んで思ったのは、これは投資についてだけの本でないのはもちろんだが、医療についても実に多くのことを語っている本であるということであった。おそらくいろいろな分野のひとが読むと、自分の専門にかかわる部分をかならず発見できるのではないだろうか?
 小幡積氏の「すべての経済はバブルに通じる」によれば、専門の投資家はバブルであるとよくわかっていながら、最後まで踏みとどまって、儲けるだけ儲けてから、ぎりぎりで逃げだそうと思っている。一方、本書では、全然バブルだなどとは思っておらず、多少の値下がり(あるいは多少程度ではない、かなりな、あるいは非常に大きな値下がり)が将来あるだろうと思っていても、自分はそれに対して十分な保険をかけているから大丈夫と思っているのである。
 どちらが正しいのだろう。わたくしには両方ともが正しいように見えるのは困ったことであるが、小幡氏の本が資本主義についての本であるのに対して、タレブのものは人間について語っているという点で、より広い視野を持ち、より多くを教えてくれる本であるように思う。