J・ロンドン「火を熾す」 

  スイッチ・パブリッシング 2008年10月
  
 表題作をふくむ、ジャック・ロンドンの短編9編をおさめる。柴田元幸訳。
 村上春樹の短編集「神の子どもたちはみな踊る」の「アイロンのある風景」に、ジャック・ロンドンの「たき火」のことがでてくる。この「たき火」が本書の「火を熾す」である。「アラスカ奥地の雪の中で、一人で旅をする男が火をおこそうとする話」である。
 小説は普通は人と人とのかかわりを描くものである。しかし、たとえば「火を熾す」にでてくるのは一人の男と犬が一匹だけである。それ以外の短編も人間関係を描いたものは一つもない。人間関係は文明の産物である。ロンドンが描くのは、文明以前、もっと根源的な生きものとしての、あるいは動物としての、獣としての人間なのである。だから、餓えや寒さに対して生き残るという基本的な生きものとしての活動が描かれる。
 われわれの文明の産物、たとえば音楽や文学にしても、空腹になにか食べてほっとするとか、寒いところから帰ってきて家の温かさに一息つくとかの延長線にあるもので、そういう生命の基本的な活動と決して無縁ではないはずであるが、ここで描かれるのは空腹なのに食べるものがない、寒いのに火がない、そういう餓死とか凍死の話なのである。
 人間をこういう根源のところで見ていたら、文明などというのがウソに見えてしまうかもしれない。「アイロンのある風景」によれば、「ジャック・ロンドンは真っ暗な夜の海で、ひとりぽっちで溺れて死んだ。アルコール中毒になり、絶望を身体の芯までしみこませて、もがきながら死んでいった」のだそうである。40歳で「モルヒネを飲んで自殺した。」
 しかし、本書を読んで感じるのは勁さとか雄々しさといったものである。いま、バブルについての本とか確率についての本を少しづつ読んでいるのだが、金融工学だとかリバレッジを利かせるだとかコイン投げで表裏がでる確率だとかという話を読んだあとで本書を読むと、何だか別世界である。ここにあるのは「実」の世界である。金融工学なんていうものは「虚」の最たるものである。そういう世界では、ひもじさとか寒さというもっとも基本的な生存の条件は忘れさられてしまっている。
 吉田健一は「満腹感」という文章(「三文紳士」所収)で、戦争中をふりかえり、「一体、あの頃の我々は数字で言つて、どの位腹を減らしてゐたのだらう。もしさういふ測り方があるとすれば、零下何十度といつた感じの数字が出て来るに違ひない」といっている。ジャック・ロンドンの描くのは零下何十度ではなくて、零下百度といった世界である。
 「アイロンのある風景」には、
 「ねえ三宅さん」/「なんや?」/「私ってからっぼなんだよ」/「そうか」/「うん」
 という部分がある。こういうことを小説の中に書いてしまえるのが村上春樹の小説家としての力量なのであるが、それが成りたつのは、海岸でする焚き火の温かさと、「焚き火が消えたら、寒くなっていやでも目は覚める」というわれわれの生き物としての根源がそこに書かれているからである。
 中学生のころ世界名作読破というバカなことを考えていたことがあって、ジャック・ロンドンの「野生の呼び声」も読もうかと思った記憶がある。しかし、犬の話を読んでもなあと思ってやめた。ロンドンが犬の話を書きたかった気持ちはわかるような気がする。人間よりも犬のほうが、よっぽどまともな生きものに思えたのであろう。
 「神の子どもたちはみな踊る」を読まなければ、本書を手にとることもなかったと思う。読んでよかった。文学の世界は本当に広い。読むことのできるのは、本当にそのごく一部だけである。膨大な未知の世界が残されている。
 

神の子どもたちはみな踊る

神の子どもたちはみな踊る