橋本治「夏日」「冬暁」

  中央公論社 1998年3月
  
 「最後の「ああでもなく こうでもなく」」を読み、それで「貧乏は正しい!」なども読み返しているうちに、思い出して今から10年ほど前に刊行された橋本氏の小論集であるこの2冊を読み返してみた。本当は「春宵」「夏日」「秋夜」「冬暁」の4巻なのだが、この2巻しかもっていない。たまたま本屋さんに、この二冊しかなかったのではないかと思う。買ったのは八重洲ブックセンターであったように記憶している。
 読み返すと、いくつも気になる文章があった。そのいくつかを抜き書きしてみたい。

 バブル経済というのは、世の中のすべてが空洞化して、一切の価値観が無意味になって、「すべては金だ」だけでよかったことの結果なんだよね。「肝心なことはオヤジが全部やってて、オヤジはオレになんにもさせてくれないから、オレは勝手に金儲けだけする。金は力だし、金儲けが出来りゃ、オヤジもオレを見直すだろう」― 簡単に言ってしまえば、バブル経済キイモチーフはこれなんだと思うんだけど、すべてがオヤジまかせだから、すべては空洞化したんですよ。

 バブル経済がどういう仕組みのものであったかという解説はたくさんあるけれども、こういう切り口でバブル経済を見る視点というのはあまりないと思う。
 ある時の日本はもうこれでいいと思ってしまった。今のままの世の中でこれからもいいと思うならば、若者がやることはなくなってしまう。バブルは日本特有の現象ではないし、過去にもおき、いずれ何年か先にまた繰り返すのかもしれないが、バブルをささえた心理にはかなり日本に特有なものがあったのではないだろうか。
 

 私は当時歌舞伎が好きだったから、明治なんか嫌いだったんですよ。江戸の歌舞伎をダメにしたのは、明治になってからの高尚趣味だってのは、常識なんだから。

 わたくしは中学に入ったころからクラシック音楽を聴くようになり、そのまま現在にいたっているが、典型的な高尚趣味なのだと思う。酒を飲みはじめた当初からそれを美味しいと思うひとは少ないと思うが、クラシック音楽も酒の修行と同じで、背伸びして無理して聴いているうちに、いつからか違和感のないものになってきたのだと思う。しかし、それを聴くことを本当に自分の内側から必要としているのか? 付け焼刃ではないかという意識が抜けない。
 

 「自分の目的をとげるためには、他人を虫ケラ扱いにする人間は私はきらいでね」

 山田風太郎の「幻灯辻馬車」の中にある一行らしい。それを引用している文章には以下の部分がある。

 私は、大学闘争の時代に大学にいて、学生運動が好きでなかった。醜悪なものだとしか思えなかった。・・「学生運動をやる人間が、そんなにえらいんだろうか? 彼等は全然醜悪じゃないんだろうか? 少しでもそんな疑問を持ってしまったら、“非国民”としか言われかねないような状況があるというのは、ほんとにノーマルなことなんだろうか?」と思っていた。

 わたくしは橋本氏とほとんど同じ時期、東大にいたわけだけれども、橋本氏までの感想は持てなかった。運動をおこなっている人たちは、たまたま僥倖で出現してしまった祝祭を一日でも長く続けることだけを目的としていて、口にしていることはただそのための口実にすぎないとは思っていたけれども、彼等には祝祭に陶酔できる熱さがあるのに、自分は何事にも打ち込めない冷めた人間なのだという劣等感を持っていた。彼らが他人を「自分の目的をとげるため」の手段としてのみあつかっていることは感じていたが、それを醜いとは思わなかった。それは、あれだけ他人を自分の楽しみのために利用するのであれば、あとで責任をとるだろう、と思っていたからだと思う。具体的には彼等は死ぬ気なのだと思っていた。安田城落城の時点で誰も死ななかったこと、それが衝撃だった。わたくしと同じような感想を三島由紀夫高橋和己が対談でこもごも語っていたから、これはわたくしの特殊個人的な感想ではないと思う。
 

 アメリカのオタクはアーチストの一種で、“職人ぽいことが好きな少年のその後”という、昔の日本にもよくいたものですが、日本のオタクは、エラソーなナマケモノです。

 何も言うことはない。
 

 団塊の世代ってーのは、学生の時に「フリーセックス」なる言葉の洗礼を受けちゃった世代ですからねー。この世代が女にもてたかどうかは別にして、分不相応な自由を夢に見ちゃったところは十分にあるしなー。団塊の世代は、一種のトッちゃんボーヤだから、女の扱いが下手だもん。おとなしく愛妻家になってりゃよかったんだけど、今まで諸般の事情が許さなかったんだなー。“諸般の事情”の最右翼は、気の強い妻たちとか。・・団塊の世代は、もうおとなしく愛妻家をやってんのが似合いだね。それが世の為じゃない?

 これまた一言もございません。なんでこっちのことがそんなによくわかるのだろう? どこかでみてたのだろうか?
 

 男は引退したら、もうそれだけで、“男の干物”だ。・・女は女を引退しても平気なのに、男はなんにもない。

 ぎく。ぎくぎく。
 

 「さぞかし本を一杯読んでいるんだろう」と思う人は思うだろうが、私はほとんど本を読んでいない。全然読んでなわけじゃないが、その数はあきれるほど少ない。

 といって氏があげる1995年の前半半年で氏が読んだ本。仁川高丸「微熱狼少女」、末木文美士「日本仏教史」、田村芳朗「法華経」、渡辺照宏「日本の仏教」、モンテイエ「ネロの都の物語」、エーコ薔薇の名前」、ベイジェント&リー「死海文書の謎」、スィーリング「イエスのミステリー」、ドーキンス利己的な遺伝子」。
 本当にこれだけか、というようなものである。「宗教なんかこわくない!」で珍しく本の名前が挙げてあると思ったら、ほとんど読んだ本がすべて挙げてあるのであった。
 わかるひとはものごとの大事なポイントが一挙にわかるのだ、ということなのだろうか。一冊本を読むとそれと関係して10冊の本が読みたくなり、そのうち2〜3冊の本を読んでいるうちに、また別の本が読みたくなり、またそれに関係して10冊ほど読みたくなり、ということで、読まない本が次々とたまっていって手がつけられなくなくなるというのが本読みというものなのではないかと思う。でも、雑誌かなにかで橋本治の書斎というのを見たことがあるような気がする。もうちょっと本がたくさんあったように思うが。あれはやはり読んでいない本が多く並べてあるのであろうか。もっとも鶴屋南北全集とか歌舞伎関係の本が多く並んでいたような気がするから、国文科出身の氏としては当然の本ばかりなのかもしれないが・・。
 橋本氏はとにかく不思議なひとである。
 本書でもでてくる未完の大長編小説「人工島戦記」というのはいつか完成し刊行されるのだろうか?

夏日―小論集

夏日―小論集

冬暁―小論集

冬暁―小論集