吉本隆明 三好春樹「の現在進行形 介護の職人(PT)、吉本隆明に会いにいく」

  春秋社 2000年10月
  
 最近、必要あってリハビリ関連の本を少し読んでいる。この本はだいぶ以前に読んだものであるが、それで思い出して、引っぱりだしてきて読みかえしてみた。三好氏は作業療法士(PT)であるが、リハビリの専門家というよりも老人介護問題の専門家として知られているのではないかと思う。その「介護覚え書 老人の食事・排泄・入浴ケア」(医学書院 1992年)はとても面白い本で、看護師さんに「ぜひ読んでごらん」と薦めるのだけれど、なかなか読んでくれない。たまに読んでくれてもあまりぴんとこないらしい。どうしてだろう。看護ということをこれほど考えさせてくれる本もないと思うのだが・・。まあ、散々、看護の現場の悪口を書いているのだから仕方がないかもしれないけれど。
 本書は当時75歳の吉本氏と老人問題の専門家?の三好氏が〈老い〉の問題について様々に語った本である。そこでのいくつかの話題をひろって感想を書いてみたい。
 
 吉本:やっぱり老人というのは淋しいものです。本格的にはだれも相手にしてくれないから、だれからも疎遠になって淋しいものですね。
 三好:とくに日本の老人は淋しがりです。

 アメリカとかヨーロッパの老人のほうがもっと淋しそうであるが、そうではないのだろうか? 老人の孤独というのは、個人主義的な生き方とワンセットのものであって、個人として生きてきて、年をとってから、淋しいのはいやだというのは、いささか虫がいいのではないかと思う。それは吉本氏も指摘していて、向こうのインテリ同士が結婚して「ときどき会いましょう」ぐらいの感覚で別々に仕事をして、それで年をとったら淋しいだろうという。
 
 三好:私たちの世代でいうと、自立した個人として相手の女性を選んで一緒になった蜜月の新婚時代に、最終的には戻っていくような気がするではありませんか。だけどそこにいく人はいない(笑)。
 吉本:ただ同じ家に住んでいるから家族ではあるんでしょうが、それ以上のものがなくなって、何でつながっているのかという段になったら、言いようがない。・・ときどき老夫婦で、いかにも仲のよさそうなのがテレビに出たりしている。あれはすごいと、たいしたもんだとおもったりするんですが、うそなんですね(笑)。あれは一人ひとりになってしまうんですね。・・超高齢というか老齢というか、そのときの夫婦だった者の関係は何なんだ、というのはよくわからないです。
 三好:おそらく近代的な自立した個人同士で結婚した私たちの世代は、「理念で結婚、本音で離婚」といわれている世代だから、そういう夫婦ほど年をとってくるとつながりというのはなくなってしまう。・・お互いに自立してない、みたいなほうが最後までうまくいくような気がします。
 吉本:仲のよい老齢の夫婦というのをぼくには空想できない。
 
 三好氏は、わたくしより3歳くらい下だから、まあ団塊の世代の一員ということになるのであろう。一度離婚を経験しているらしい。吉本氏は「自立の思想的拠点」なんて本を書いた人であるし、友人の奥さんを奪って結婚したのであったと思う。このあたりの対話は異様に熱がはいっているように思う。いずれにしても、われわれの世代から、「個人」で生きてきたつけを、これから払っていくことになるひとが多くでるのだろうと思う。
 
 三好:(小学生となかよくなるには)「怒らない、教えない」がいちばん大事。でも、専門家は怒るし、教えるんです。(わたしたちは)「八十過ぎたら生き仏」といって、寝たいときが夜で、食いたいときが食事時で、もう教育や指導はやめようというのですが、専門家には通じない。最後まで指導したがる。

 わたくしは80歳を過ぎたひとには、症状がないかぎり検査はしないことにしているのであるが、時々、85歳で健康診断を受けているようなひとがいて、LDLコレステロールが少し高めでしたが、治療しなくていいですか、などときいてくる。なかなか〈生き仏〉にはなってくれない。
 
 吉本:じぶんが何かをしたことによってだれかの足腰の痛いのが治ったとしたら、ものすごくいい気持ちだろうなあとおもったり、ものすごい達成感だろうなあとおもったりします。・・だけどどこかで「そうなってはいかんよ」と抑制しています。
 三好:病院で手足縛られてなんて人が、こんな体でも生きててよかった、と思ってくれる瞬間があったりもするんです。そりゃうれしいですよ。だから安月給だけどこの仕事から足が抜けないんですね。もちろんそんなの自己満足じゃないかともいわれますけど、自己満足すらできないような仕事ばっかりじゃないですか。自己満足できる仕事なんて他にはあまりないですよね。
 
 ここに医療のもつ根源的な問題があると思う。自分の行為によってなにかが変わるというのは、ひとのもつ最大の喜びの一つではないかと思う。とくに何かが変わるのではなく、誰かが変わるというのはとても喜びが大きい。しかし、三好氏が紹介するフーコーの「牧人権力」論、「献身的な羊飼いこそ権力の最後の姿だ」という論のように、自分が誰かを変えるというのは権力の行使なのである。医療行為が根源でもっているパターナリズムの問題がでてきてしまう。何らかの権力関係があったほうが医療はうまくいくというのは事実である。専門家と非専門家というのは、対等な関係ではないし、対等な関係においては、プラセボ効果は生じない。
 
 三好:呆け老人という、言葉を発しない、わけのわからないとおもわれている人たちを、どこかでわかってしまうという素人がいるんです。私はそういうのがいい介護だと、ずっと思っているところがある。・・人類史のアフリカ的段階のところまで、つまり、人間の持っている基本的なところまで深く潜り込んだところに、介護の世界はある。
 吉本:人格と呼んだらいいのか性格と呼んだらいいのか、心というふうに呼んだらいいのかわからないですが、万葉時代から人を好きになってという部分は変わらないのではないか。そういう部分と、文明が発達して意識や、知識、見識も高くなってということは関係ないのではないか。・・かんがえてみると知識的なことは、たいした意味はないんだということです。・・いまでいいますと、いちばんひどいのは情報化関係の専門家で、理工系の学校の先生はいちばんひどい。・・マルチメディアが発達してくれば感覚器官が発達する、大脳が発達する、人間は進歩するものだと信じて疑わない。
 三好:意識性よりも無意識性の豊かさが大事。・・東大を出ているというだけで暴力的だとおもうんです。知識を持っているというだけですごい暴力的です。たとえば知識のある人が現場の人に向かってしゃべると現場の人は黙りますね。人を沈黙させるというのは暴力的というか権力なんです。・・そこには相互的な関係はないわけです。・・「あなたが問題だから変えてやろう」というかかわり方をすると、その意図性が反発をくうんです。
 
 これも同じ問題の裏面だと思う。医療におけるパターナリズムは現在においては否定的にみられることが多い。だからこそインフォームド・コンセントであり自己決定権である。しかし内田樹氏がいっているように、病人になるということは社会的責務から免責されることでもあり、病者とは肩の荷物をおろすことを許されるものでもある。だから、病者に、あなたは病者であることに自足していてはいけない。医者と患者は対等なのだから、わたしがあなたの治療方針を一方的に決めることはしない。あなたも自分のことであるから、よく考えてほしい。むしろ決めるのは医者ではなく、あなたであるべきである、などということは、それ自体が、相手の変化を強制的にうながすものであり、知識による暴力であることになるのかもしれない。
 
 吉本:ぼくにいま「おまえどこで生きた心地してるのか」と言われれば、書く仕事があることです。
 
 橋本治氏は人間は死ぬまで働かなければいけないということを盛んに言っている。働くことは誰かの必要に応えることで、誰かから必要とされていることである。《本格的にはだれも相手にしてくれないから、だれからも疎遠になって淋しい》とならないためには働き続けること、ということになる。
 今、団塊の世代がなかなかいさぎよくは仕事の現場を去らないので、若い人たちの仕事の場ができないといわれている。老人に生きがいをあたえるために職場があるわけではないのだがから、これは難しい問題である。
 吉本氏は、定年退職から生涯の終わりまでのあいだに、「もうひと山ある」という感じ、といい、そのひと山というのが、ほんとうをいうとぜんぜんわかっていない、という。定年退職から生涯の終わりまで、その間どうやって稼いでいくのかといった場合にほとんど方法がないし、子どもが扶養してくれるということはかんがえられない、と。
 そこで吉本氏がだしてくるのが、フーコーのいう「単独者の連帯は可能であるか」という問題である。三好氏はそれに対して、どこかで転回点があって、家族とか地域とかが復活してくるのではないかという。介護の現場に若いひとたちが多数参加してきているのはその兆しではないか、と。吉本氏も、そう簡単には壊れないものがあるだろうことはみとめる。
 上野千鶴子氏などは、単独者の連帯という方向をさかんに追及しているように思う。女性のほうが長生きなのであるから、この問題は女性にとってより深刻なはずである。
 
 三好:寝たきり老人を見ていておもうんですが、身体の障害で寝たきりになる人はまずいない。脳卒中片麻痺になっても、片手で起きあがれないことはないし、片足で立てないことのないんです。それが寝たきりになっているのは私に言わせれば関係障害なんです。障害を持った自分との折り合いがつかない。どう生きていったらよいかわからない。・・小さな社会を障害者の周りにつくってしまえばいいんです。世の中をぜんぶバリアフリーにしようなんていったって、仮にそれで段差がなくなったって、会いに行こうとおもう友だちがいなければ出ていかないのですから。
 
 個人主義で生きてきたひとたちは、なかなか友だちを持てないできているということはないだろうか? 他人に煩わされたくないというのを第一にしてきた人間が会いにいきたい友だちをもてるだろうか? 会いにこられたほうは、迷惑だな、早く帰ってくれとは思わないだろうか?
 小谷野敦氏の「もてない男」を読みかえしていたら(井上章一氏の本の感想を書いていて、京大にこだわる氏の論から、東大にこだわるこの本を思い出した。この本で覚えていたのは「法界悋気」という言葉だけなのだが、それだけ「ああ、妬ましい。悔しい。どいつもこいつもいちゃいちゃしやがって。爆弾でも投げてやろうか。なんで俺ばっかりこんなに孤独なんだ。だいたい俺は東大出てるんだぞ。こんなに女にもてなくて振られてばっかりいるんなら、なんで苦労してあんなに勉強したんだ」という部分の印象が強烈だったのであろう)、荒川洋治氏が「ぼくは友だちがいないヒトだ」と書いているのを紹介し、「あ、荒川さんもそうなのか」と、何となくほっとした、と書き、自分も「友だちがいないヒトだ」といっているところがあった。
 べたべたした友情のようなものは苦手というか、鳥肌がたつというひとはある割合でいると思う。そういうひとは「友だちがいない」というのはやむをえないのではないだろうか? わたくしもまた、べたべたしたものが嫌いである。
 
 三好:世の中の人が理想的だとおもっている福祉社会というのは、われわれからいいますとすこしも理想的じゃないんですね。福祉社会を部分的にも先取りしていなければいけないはずの福祉現場なんですが、なにか息苦しい。
 
 この発言が先に述べたフーコーの「牧人権力」論につながることになる。それが権力行使の場となってしまうからである。むしろ、福祉をやっているひとほど管理欲や支配欲が強いのではないかともいわれる。自分の管理欲や支配欲を満たすために弱者を探しているんじゃないかとおもえる人が多いとされいわれる(とくにボランティアにおいて)
 また、チームワークという美名がありながら一人ひとりはちっとも生き生きしていないということも指摘される。それを吉本氏は、共産党党員とその周辺には、個人として面白いひとがいない、ということにつなげる。おそらく、河上徹太郎氏が「有愁日記」で、「左翼」という気質としていっているものに通じる話である。河上氏によれば、彼らは頭がよく、実行力もあり、紳士である。しかし冷たく、人を信じることができず、そのため人からも信じてもらえなかった。内田樹氏のカミュ論での言葉でいえば、彼らは「男ではない」のである。
 さらに議論は、近代批判の問題におよんでいく。介護の現場で「データなんかいらないからお年寄りの笑顔が出ればいい」などとしていると、それが近代的でなくてもいい、という議論につながってしまい、管理の実体が近代以前、封建とか古代未開にまで帰ってしまう、と三好氏はいう。
 近代批判は近代を前提としたうえでやらないと危ういともいう。そんな近代批判などという大げさなことをいわなくても、一人でやるのがほんとうなのだが、やむなく集団を組んでいるという立場でやっていけばいいのはないか、というのが三好の結論である。
 吉本氏は、かなり以前の経験ではと断りながら、看護には二つの流れがあるという。ひとつが科学主義の看護で、もう一つがキリスト教的理念の看護である。前者は患者さんと距離をとるから患者さんから評判が悪い。後者は患者さんからは評判がいいが、看護師のほうからすれば、呑み屋のホステスの評判がいいのとどこが違うのかがわからず、納得できない。そうでない第三の道?として、吉本氏がいうのが、そのひとの〈地〉でいけばいい、ということである。三好氏は、〈地〉すなわち自分の個性でかかわればいいのに、それをしないから正直でなくなってしまい、《科学とか愛とか》と無理をしていることが相手にもわかってしまって、それでうまくいかなくなるとして、それに賛同している。
 この話は、看護についていわれているのだが、リハビリの世界でも同様のことがあるらしい。かつて専門家が少ない時には。鍼灸やマッサージの人がリハビリを担当していた。そこにPT(理学療法士)やOT(作業療法士)といった専門家が登場してくると、鍼灸やマッサージとは違うとして、近代医療の申し子としての科学性のあるリハビリということを主張するようになった、そういう経緯があるらしい。
 三好氏はそれに対して、理論よりも実際というような立場をとって反主流的な立場にいるらしい。おそらくとかく理論倒れになりがちな看護の現場への批判を、リハビリの現場にも持ちこもうとしているのであろう。
 もちろん、三好氏の主張に論理的背景がないわけではない。本書でも杖の長さ、杖をどちらの手でもつか、イスから立ち上がる動作といったことについてきわめて実際的な指摘がある。それについて、吉本氏ははじめて聞いた話といっている。少なくとも、病院看護の現場には三好氏の主張はほとんど届いていないようである。
 三好氏は、私たちが普段無意識にやっている動きを意識化すればいいのだといい、今までの、患者を客体としてあつかうリハビリではなく、老いと障害をもった人が主体となってみずから動くことを助けるというのが自分の方法論なのであり、今それはまだはじまったばかりであるとしている。
 
 わたくしが最近リハビリについて関心をもつようになったのは、偶然、認知運動療法というものを知ったことによる。とても難しい理論であり、到底わたくしは理解できているとは思えないが(というよりも、本を読んだだけでは理解できるものではなく、実践の過程の中ではじめて理解できるものであるということのようであるらしい)、ラマチャンドランやダマシオ、リベット、エーデルマン、ルドゥー、バロン=コーエンといった、わたくしが今まで面白がって読んできた脳科学者の研究が、実際のリハビリという臨床の場でおきている事象を裏書するものとして利用されていることを知って、大いに驚くとともにわくわくもしている。
 河本英夫氏の「システム現象学 オートポイエーシスの第四領域」から、その理論を要約して紹介してみると、たとえば脳卒中片麻痺になった場合、おきている現象は片側の手足が動かないといったことであるが、しかし動かない手足の筋肉や骨や関節にはいっさい障害はおきていない。従来のリハビリは本来は欠損していない動かない手足に働きかけるとともに、同時に健側を強化して患側を補うことをめざしたものであった。
 しかし、現実の欠損は手足ではなく脳の特定の部位におきている。そうだとすれば、脳の側において運動と認知を再形成できれば患側の機能も回復を期しうる、というのがその骨子であるように思われる。
 われわれのような臨床の現場にいる人間にとっては、麻痺の患者さんが入院してきて、CTやMRをとり、脳に大きな梗塞巣をみとめたりすると、麻痺を当然のこととして受けとめてしまい、そちらへの働きかけるという発想はまずでてこない。
 認知運動療法が依拠するのは、一つは脳の可塑性ということのようである。脳には機能の局在があるが、それにもかかわらず、それは完全にある部位に限定しているものではなく、ある部位が障害されるとその近隣の部位がそれをカバーしてくるということが、最近の脳科学の研究により次々と明らかになってきている。
 もう一つが、随意運動はシステムとして生じているということであり、局所への働きかけはかえってシステム全体としてはマイナスにはたらくという場合があるという主張がそこからでてくる。これは従来のリハビリの治療介入とは相反する場合が多いようである。
 麻痺を生じた患者さんにおいては、自分で動くということがどういうことか分からなくなっていたり、自分が動くことのイメージができなくなったりしている。行為についての身体内観や身体イメージの形成は、行為のなかで出現してくる。(このあたりからわたくしの理解があやしくなると思うのだが)したがって認知と行為は同時におきる。受け身の行為は身体内観や身体イメージの認知にはつながらない。患者が能動的にしようとする行為のみが内観やイメージの認知につながる。(ここからさらに自信がないが)実際に行為をしなくても、行為をイメージするだけでも、身体内観や身体イメージを構成することができる(このあたり誤解しているかもしれない)。リハビリの目標はある行為ができるようになることではなく、ある行為をするときに身体の中でおきていることを感じとれるようになることである。ある行為の身体感覚を感じとれたとき、それを言語化してもらうことは、身体感覚の確保につながることが多い。目標は対象を認知できるようなることではなく、何かをするときに身体でおきていることがわかるようになることである。リハビリ訓練の目標は脳の可塑性を最大限に発揮できるような認知のポイントを探し当てることである。それはうまくいったり間違ったりが半々におきるような課題によって達成されることが多い。
 わたくしは、片麻痺とは患側への運動命令がでない状況であると思っていた。命令を出す部分が破壊されているとすればそれは回復不能であると考えていた。しかし「認知運動療法」では、認知にかかわる神経の形成によって運動系の神経の形成は大いにうながされるとしている。(認知の系が主であり、運動系は従である。)
 もう一つの視点として、神経は自己組織システムであるということがあるらしい。あるところまで神経回路が形成されると、そこから先は形成が自動的にすすむということがあるらしい。そうであるならば、ある随意運動の神経ネットワークをあるところまで再構成させれば、そこから先は回復が急速に進んでいくはずである。
 わたくしのような臨床家にとって一番理解(あるいは受容)が困難であるのは、身体内観とか身体イメージの獲得といったことが、麻痺の回復に大きく貢献しうるという点である。脳には大きな可塑性があるという点の受容は困難ではない。しかしその可塑性を利用した回復が身体イメージの獲得によって得られるという点がたぶん一番理解が困難なのである。
 ヒトはネオテニーのために、出生時にはほとんど何もできない。神経ネットワークが未完成で生まれてくる。遺伝子に組み込まれた何かの司令によって出生後にさまざまことが自動的にできるようになるのではなく、環境とのフードバックの過程で、ある潜在的な可能性は封印されてしまい、別の可能性は強化されてくる。そのような過程のあらましは脳科学によって明らかにされてきている。
 わたくしが認知運動療法の話をきいて連想するのが、第二外国語を成人になってから習得する過程である。ある年齢までは言語の習得はきわめて容易である。ある環境におかれれば日本語を話すようになり、別の環境にあれば英語を話すようになる。日本語の環境にあるとLとRを耳で識別することが困難になる。
 言語をはなせる能力は遺伝的にわれわれにあたえられるが、どの言語を話すかは環境に依存する。話すことは誰でも言語が存在する環境におかれればできるようになるが、字を書くことは、自然にできるようになることはなく、努力によらなればならない。言語を話すことにかんする神経ネットワークはある年齢で完成してしまうのであろう、大人になってからの別の言語の獲得は意志的な努力によらなければならないし、母語のレベルにまで達することはまずない。
 方法を工夫すれば、第二外国語を習得するのと同じように、麻痺側の運動にかかわる神経ネットワークを再構成できるのかもしれない。それは第二外国語習得の場合と同様に、なめらかではなく、ぎこちないものにとどまり、決して自然なものとはならないのかもしれないが。
 成長してくる過程で多くのことが普通になんらの意識もなくできるようになってくる。だから通常われわれは随意運動をする際に身体を内観したり身体をイメージしたりする必要はない。だから随意運動の再獲得にそれらがきわめて重要であるということが理解しづらい。しかし、それはちょうど、母語を話すときには文法を意識する必要はないが、外国語を大人になってから習得する場合には、文法を意識することが不可欠であるのと同様のことであるのかもしれない。
 三好氏は、私たちが普段無意識にやっている動きを意識化すればいいのだといい、今までの患者を客体としてあつかうリハビリではなく、老いと障害をもった人が主体となってみずから動くことを助けるというのが自分の方法論なのであり、今それはまだはじまったばかりであるとしている。この言葉だけとれば、認知運動療法の説明にもなりうるかもしれない。しかし、三好氏は患側の回復は困難として、健側をふくめた全体の体のバランスを習得させることによって個々の患者にみあった生活を可能にさせることをリハビリの目標としている。一方、認知運動療法では、患側の回復を目指そうとする。そこで道がわかれてしまうらしい。
 
 この対談本の中ほどに「障害者問題と心的現象論」という吉本氏が1979年におこなった講演の記録が収められている。そこに頻繁に身体イメージという言葉がでてくる。
 そこで氏は、自分の身体という場合、物理的に存在する身体と、身体の像(イメージ)の二つがあることによって「身体の問題」は〈むずかしい〉問題となるのだと言っている。原始時代の人間と現代の人間で、物理的な身体はほとんど(まったく?)変わらないけれども、身体のイメージはまったく異なっている、ということを氏は指摘する。
 そして、それと同様に、精神の像(イメージ)というものがあり、それもまた時代によってまったく異なったものとなる、という(この場合、問題をさらに難しくするのが、物理的に存在する精神といったものがないからである。物理的に存在する精神とは脳なのだろうか?)。
 自分の《身体とは何か》という問いを発することは、自分の身体と自分の精神機能の両方を使ってなされている、それが問題であると吉本氏はいう。また自分の身体と自分がどのように〈関係〉しているか、自分が自分の身体とどのように折り合いをつけるかも問題だという。
 自分のもつ身体イメージと精神のイメージが、他者が自分について身体イメージと精神のイメージと同じにはならない、それが現実におきている人間の悩みのもとになっているという。それが大きく異ならなければボロをださずにすんでしまうのだが、と。ここから吉本氏はさらに〈社会の像〉という問題に話を拡張していくのであるが、それは省く。
 かつては、精神障害は神かがったものとして崇拝の対象となった。現在では逆に人間以下とされる。しかし、今、《神でもなければ人間以下でもないんだ。それは人間なんだ》ということが少しずつ社会で認知されるようになってきている。それが障害の問題の解決への糸口となるのではないか、と吉本氏はしている。
 
 リハビリテーションというのは、すぐに思想の問題と結びつくらしい。それはわれわれが普段あまり意識することのない身体という問題を提起することによるらしい。そして身体という問題はすぐに精神という問題もひきよせて、心身二元論からデカルトの世界観、カントの認識論、心脳問題から、現象学までを呼びだしてしまうらしい。
 リハビリテーションを理解するためにはフッサールを学ばなければならないなどといわれると、正直なんだかなあと思うのであるが、それはわたくしが哲学音痴であるからかも知れない。しかし「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」なんて大袈裟な題名の本を書くひとはどうも信用できないというという思いが払拭できない。
 カール・ポパーではないが、「知識人には、学問をする特権と機会が与えられているのですから、仲間に対して(あるいは社会に対して)自分の研究成果を、もっとも簡潔でもっとも明瞭に、かつもっとも謙虚なかたちで説明する必要があります。もっとも悪いこと―大罪―は、自分の仲間に対して、大予言者気取りで立ちまわり、彼らを御神託の哲学で感化しようとすることです。単純、かつ明瞭に述べられないのであれば、そのような者は沈黙して、言いたいことがわかりやすくなるまで仕事を重ねるべきです」(ポパー「大言壮語に抗して」 「よりよい世界を求めて」未来社 所収)というのは、その通りであると思う。
 認知運動療法というのはリハビリテーションに対して大きなインパクトをあたえる新しい方法であるように思うのだが、その関係の本を読むと、とにかく難しい。もっと簡潔に表現する努力をしていかないと、精神分析学のように秘教的で、一子相伝的な技法となってしまうのではないかとおそれる。
 とにかく有効な手法であれば有効であるという事実を示していけばいいので、理論武装などは後からゆっくりとすればいいのだと思う。三好氏の方法はきわめて理解しやすく、すぐにでも実行できそうである。
 河合隼雄氏などは、ユング心理療法を日本に紹介するのにいきなり原型とかアニマとかはいわずに、箱庭療法をまず紹介した。理論よりもモノを出した。きわめて戦略的な行きかたである。最初からアニマなどといったら挫折していたかもしれない。
 三好氏がリハビリテーションの世界でどの程度の認知をうけているのかはしらない。しかし、関川夏央氏にしても、この吉本氏にしても、リハビリの世界の外のひとに一定の認知を受けているように思う。
 認知運動療法のあやういところは、下手をすると、心が体を動かすという一種の神秘論と受けとられてしまう素地をどこかでもっているところだと思う。そうなったら臨床の世界で受容されることはきわめて困難であろう。だれかいい代弁者がでてくればいいのにと思う。
 

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