養老孟司「卒業生インタビュー」

  赤門学友会報 No.14 2009年2月
  
 会報は、むこうが勝手に送ってくる15ページほどの小冊子で、普段は読まずに屑篭ゆきのなのだが、養老氏の名前がでていたので読んでみた。インタービューといっても、質問に答えるのではなく、勝手にしゃべっているような記事となっている。
 二つほど。
 
 1)(学園紛争の)本質は「ベビーブーマー世代の欲求」の捌け口ではないか。昔ならこうした火種は必ず戦争に発展して多くの死者を出し人口構成が是正されて止んだ。現代は戦争に突入できないので、ああした形の学園紛争となり後になるほど深刻化したのだと思う。若年層から見れば年寄りの支配層がガッチリと体制を固めていることに閉塞感を意識したのだろうが、巨視的にみれば第二次世界大戦後の豊富な石油エネルギー供給が世界的な「都市化現象」を引き起こした結果、昔なら十代で働かなければ食えなかった若者達が、都市にでて大学に入れる時代となり、自分の働く場所を見出せない若者が増えて、支配階層に不満をぶつけた形である。」
 養老さんは一時さかんに「都市化」ということをいっていた。「ああすればこうなる」だか「こうすればああなる」だか、とにかく、「世界を自分の思うように動かせる」という感性を「都市化」と読んでいたように思う。この場合「都市化」に対するものは「自然」である。自分の思うようにならないもの、それが「自然」である。天変地異はいつおきるかわからない。人間の理性というのはそんなに大したものではなく、それでなんでも理解できるなどと思ったら大間違いですよ、ということをいっているのだと思っていた。そうすると現在の世界同時不況とかいうのも天変地異なのだろうか? 
 一時、経済学の概説書を素人勉強していたことがある。そのときどうしてもわからなかったのが、中央銀行の果たす役割だった。もしも中央銀行金利の操作によって経済を自由に操作できるのであれば、それは「ああすればこうなる」である。養老信者としてというか、あるいはポパー信者として、さらにもとをたどれば吉田健一信者として「理性の限界」派であったわたくしとしては、困ったことであった。最近ではクルーグマンが徹底的な財政出動をせよといっている。「こうすればああできる」である。もちろん、月にロケットを飛ばせたりできるのは、「こうすればああなる」からである。「こうすればああなる」が科学の世界なのだと思う。それなら一度限りしかおこらなかった歴史が科学になるかである。ならないと思う。経済学もわたくしは歴史なのだと思う。おきたことに後から理屈をつけることはできるが、未来を予見することはできないものなのだと思う。一回限りしかおきなかったことである進化も、おきたことに理屈をつけているのであって、進化を学んだからといって未来を予見することはできない。竹内靖雄氏がいうように、人間はどれほどの天才であってもプロメテウス(未来を見通すひと)ではなく、エピメテウス(起こったことがあとでわかるひと)にすぎない。これが理性の限界なのだと思う。だからわたくしは、養老氏の「都市主義の限界」を「理性の限界」ということをいっているのだと思っていた。
 しかし、最近、養老さんは「都市化」と「石油」ということをさかんにいうようになっている。都市化の原動力は石油だったというのである。都市化とだけいうと、それはほとんど文明化と同じであるが、ここで養老さんが言っている「都市化」は産業革命以来なのである。中井久夫氏は「端的に西欧に自信を持たせたのは産業革命であった」という。西欧が現在世界を支配しているのも、ギリシャ哲学のためでもローマの法のためでも、またキリスト教のためでもなく、端的に産業革命のため、もっといえば石油のためだったというのである。もっとも産業革命を生んだのは科学技術であり、科学技術はどういうわけか西欧以外では発達せず、どうやら科学はキリスト教の生んだ鬼子らしいということになって話がややこしくなるのであるが。近代資本主義を生んだのはプロテスタンティズなどではなく、端的に石油だったのだ、と。それなのに石油の力をみずに思想の話にあけくれている人文系の学者は変じゃないだろうか、と。
 学園紛争に打ち込んでいた学生たちも、自分では思想運動をしていたつもりかもしれないが、本当は石油というお釈迦様の掌の上で踊っていたのだとは思わないだろう、と。わたくしは全然そう思っていなかったし、養老さんだって若いときはそう思ってはいなかっただろうと思う。こういう考えがでてきているのも、どうやら産業革命以来の西欧というものの歪みが現在いたるところで吹き出してきているという思いが多くのひとの持たれるようになってきているからなのであろう。高度成長期にも、またバブルの時期にも、ほとんどのひとはそんなことは考えなかっただろうと思う。われわれはエピメテウスにすぎないのである。
 
 2)今は「医者が居ないので助からなかい」という病気は減った。せいぜい「延命」に医療技術を傾注しているが、・・それ程に医療が不用のものになっていると思う。」
 これは本当にそうで、われわれは治せる病気の大方は治せるようになってしまい、まだ治せない病気のわずかな治療効果の改善に大きな力を注いでいる。それはわずかづつでも効果はでているとしても、抗生物質が発見され、H2ブロッカーやCa拮抗剤が開発され、CTやMRができ、超音波検査の解像力が改善しということのもらたしたものに較べれば微々たるものである。なんだか今の研究は、いきどころをなくしたオイル・マネーがさまざまな投資先をもとめてさまよっているような感じである。ここでも産業革命以来の一つの動きが、大きな壁に直面していることを感じる。
 もっともわれわれはエピメテウスであり、一寸先は闇なのである。エインシュタイン直前の物理学界はもう何もやることは残されていないという雰囲気だったのだそうである。医学も大きなブレークスルーの直前にいる可能性だってないわけではないのであるが。