M・リドレー「やわらかな遺伝子」(1)

  紀伊國屋書店 2004年5月
 
 この前に感想を書いた「心を生みだす遺伝子」と同じような主旨の本であるが、「心を生みだす遺伝子」が脳研究者が書いたものであったのに対して、本書はサイエンス・ライターが書いたものである。大変おもしろかったので、すこし丁寧に感想を書いいくことにしたい。
 2001年にヒトゲノムの解析結果が発表されたときに、遺伝子数が予想に反して3万個という線虫の2倍にもならない数であったため、それがヒトの多様性を説明するにはあまりにも少ない数であるように思われ、そのことがわれわれが遺伝子によってではなく、環境によって決定的に規定されていることの証拠であるように思われた。そのエピソードから本書ははじまる。
 しかし仮に一つの遺伝子がオンとオフのようにどちらかであることを指示しているとしても、2の33乗はすでに人類の数をこえ、2の3万乗はこの宇宙に存在する全粒子数よりも大きな数となるということがいわれる。したがって、ヒトの遺伝子数が3万であるということが、即、ヒトは遺伝子によってではなく環境によって決定されるということの証拠とはいえないことが指摘される。
 そこから例の「生まれか育ちか」という議論に移り、生まれ重視派がファシスト、育て重視派がコミュニストとされる議論の不毛を指摘し、自分はそのどちらでもなく、「生まれは育ちを通して」派であることがいわれる。
 著者は1903年に撮られたとする架空の写真に写っている12人を紹介する。
 1)ダーウィン すでに死後21年。
 2)フランシス・ゴールトン 81歳。ダーウィンのいとこ。熱烈な遺伝養護派。
 3)ウイリアム・ジェームス 61歳。本能の重要性を説く。
 4)ド・フリース 55歳。メンデルの法則の再発見者。
 5)パヴロフ 54歳。条件反射の提唱者。
 6)J・B・ワトソン 行動主義心理学の提唱者。
 7)クレペリン 47歳。非生物学的精神医学の提唱者。
 8)フロイト 47歳。精神分析の提唱者。
 9)E・デュルケーム 45歳。社会学者。社会的事実は部分の総和を越えた実在であると主張。
 10)ボアズ 45歳。文化が人間の本性を形成するとした。
 11)ピアジュ まだ子供。小児の学習の理論家。
 12)ローレンツ まだ赤ん坊。刷り込み概念で有名。
 これらの12人がこれからの主役となる。そして著者はこれら相当に見解が反するようにみえるものたちの主張はみな正しかったのだという。ただお互いが自分の主張を誇示しすぎ、自分以外の主張を批判しすぎたことは問題であるとしても。
 とはいうが、以下、著者が主張することは、「育ち」派が遺伝子の力と不可避性をおそれすぎている、ということに重点がある。「育ち」派が遺伝子というものがどのように働いているのかを理解していないことが、議論を混乱させる一番の原因となっているとするのである。
 以上でプロローグが終わり、以下、第一章「動物たちの鑑」。
 ダーウィンはファゴ島で、文明人と野蛮人の差を実感した。ヒトと猿の差は教育によるもので、教育のない野蛮人は猿とほとんど変わらないとしたのである。ダーウィンはヒトと猿の連続性を疑わなかった。肉体ばかりでなく、精神もまた進化の産物であるとした。それには反発するものも多かった。たとえばウォレスである。ある意味ではウォレスは正しかった。「最も下等な」ヒトと「最も高等な」類人猿の差はとても大きく、遺伝子でみれば、ヒトとチンパンジーの相違点は、最も似ていないヒト同士の10倍以上多い。
 デカルトの「人間には理性があるが、人間以外の動物は機械的に行動する」とした見解は、ダーウィンによって揺るがされることになり、人間もまた本能によって操られる自動機械であるとみなすものがでてきたが、一方では、ヒト以外の動物の脳にも理性や思考があるとするものもでてきた。ヒトもまた自動機械であるとみなす見解はスキナーによって頂点に達した。一方、社会学者たちは、文化を強調し、人間の本能という見方を拒絶した。
 1960年にそれが崩れた。ジェイン・グールドという女性がチンパンジーの自然状態を観察していて、チンパンジーたちのあいだの野心や嫉妬、欺瞞や愛情を報告したのである。ヒトを例外視する見方に風穴があけられた。多くの啓蒙思想を歪ませた「人間とその近縁との奇妙な分離」を放棄することが必要になってきた。
 身体からみると、環境がどうであれ指が5本であることは変えようがなく、その基本パターンのなかで適応していくしかない。一方、行動については、生息環境や食べ物が違えば近い種同士でもまったくことなる行動をとるし、似たような生態環境では違う種でも類似した行動をとる。
 たとえば、ゴリラは草食性で、草の栄養価は低いから一日中食べ続けていなくてはいけないが、一方、草はどこにでもあるから移動の必要はあまりない。したがって群は安定していて、防御も容易である。一方、チンパンジーは果実を食べる。それを見つけるために広い範囲を動きまわらなければならない。行動圏が広いと、群はときに分裂する。
 安定した集団では複婚という戦略が成立する。ボスがハーレムをつくり多くの雌と交尾する。一方、不安定な集団では、多くの雄が雌を共有する戦略が有効になる。
 このように食生活の違いは大きな社会行動の違いを生む。ゴリラの場合は、雌のハーレムを独占することは生殖上有利であるので、体を大きくすることはその目的に叶う。もちろん体を大きくすることは多くの食料を必要とすることにもなりリスクをともなうのだが、そのリスクはとる価値がある。だからゴリラでは雄の体重は雌の2倍もある。
 チンパンジーでは、雌を共有するので、競争は体の大きさではなく、雌の膣内での精子競争となる。したがってチンパンジーの雄は大きな睾丸をもつ。体重換算でチンパンジーの睾丸はゴリラの16倍あり、雄のチンパンジーはゴリラの百倍も性交をする。ゴリラに多くみられる子殺しも繁殖の観点からみて合理的である。
 ヒトはチンパンジーに似ている。ヒトの睾丸は体重比で、ゴリラの5倍で、チンパンジーの3分の1。これはある程度の不貞を雄がはらたく原則単婚の社会を反映している。これもまたヒトの食生活と関係している。調理した食べ物を雌がまもるためには、ひとりの雄とだけ関係をむすび、それにまもってもらうという戦略が有効である。人類の歴史をみると、かつてはとても大きかった男女の体格の差がだんだんと縮小してきてるのがわかる。これはハーレム型の社会から単婚型の社会への移行を反映したものであり、火を使い調理をすることになって、栄養摂取効率が改善したことを反映している。
 ヒトを例外の動物とするか否かはダーウィンの指摘する類似性とデカルトがいった差異のあいだの論争として現在まだ決着がついていない。
 1967年、分子時計の技法により、ヒトと大型類人猿が従来いわれていた1600万年前はなく、500万年前であるとされた。1975年にヒトとチンパンジーの遺伝子の差は1%程度であることがわかった。両者からヒトとチンパンジーはとても近いことが推測された。チンパンジーのDNAはゴリラよりもヒトに近かった。
 すべての類人猿はヒトより染色体が一対多い。それは過去のある時点で、二つの染色体が融合して第2染色体という大型染色体になったことによる。そのため、かりにヒトとチンパンジーのあいだに子ができたとしても、その子は子孫をつくることができない。
 現在ヒトとチンパンジーの差でみつかっているものとしては、ヒトにはA、B、Oの血液型があるが、チンパンジーにはAとOしかない(ゴリラはBだけ)。またヒトはアセチルタイプのシアル酸をグルコシルタイプにかえる酵素をもっていないが、類人猿はもっている。グルコシルタイプのシアル酸は哺乳類では脳ではみられない。ヒトではこれが全身でみられなくなっていることになる。
 動物の体制を大きく変えるためには、新しい遺伝子は必要ない。遺伝子のスイッチがオンになるタイミングを変えるだけでいい。
 小頭症を規定する遺伝子であるAspm遺伝子ではあるモチーフがくりかえされるが、それがヒトでは74個、マウスでは61個、ショウジョウバエでは24個、線虫では2個である。その数は各動物の生体の脳を構成するニューロン数に比例する。Aspm遺伝子は受精後2週間ほどのの脳胞のなかで神経細胞が分裂する回数を規定してらしい。
 
 「はじめ、これには序文をつけるつもりでいて、それには今日の日本のように、科学だとか何だとか言いながら、人間だけは地上の世界で人間という動物でさえもない、まったく別格の神様に似たものだという信仰が行われている国では、動物愛護は勿論のこと、普通の意味で真面目に動物というものに興味を持つこともおぼつかないものだという意味のことを書こうと思っていた。しかしながら、そういう序文をつけたところで、学術上の進歩が目立っている今日、キリスト教国をのぞいては日本でのみ、人間が動物でない事情がどうにもなるものではなくて、考えているうちに面倒くさくなり、序文は書かないことに決めた。」
 これは吉田健一氏の「未知の世界 私の古生物誌」(図書出版社 1975年))の「あとがき」だけれども、吉田氏はこういう主旨の文章をあちこちで書いているから、その手の文に最初に接したのがいつで、どういう文章であったのかはもう覚えていない。しかし、ずっと、それに引っかかってきた。(それについて吉田氏がもっとも詳細に展開しているのは「覚書」の第3章である。)
 本書の「訳者あとがき」に中村桂子氏(あるいは斉藤輶央氏?)は「それにしても、人々はなぜここまですべてのことに決着をつけたいのか、私のようないい加減な人間は、こういう話はどちらでもいいところがあってもよかろうにと思ってしまう」と書いている。ここでいう「人々」とはキリスト教圏の人々のことで、日本人である中村氏(斉藤氏?)にとってはどうでもいい話なのである。それは氏がいい加減な人間であるからではなく、西洋人のほうが異常で、われわれが普通なのである。
 「氏か育ちか」という問題が、「人間と人間以外の動物は連続した存在か切れた存在か?」という問題に直結し、「人間はそれ以外の動物とは切れている」とするものは「育ち」を強調せざるをえない。なぜならキリスト教においては人間の尊厳は人間のみがその「氏」において唯一魂を付与されたものとして他の動物から峻別されるのであるが、進化論を受けいれてしまうと「氏」においては人間と人間以外の動物の連続性を否定するものはなくなってしまうので、人間の尊厳といったことを言おうとすると、何らかの「育ち」の中にその由来を求めざるをえないことになるからである。
 著者がここでいっていることは、われわれがどのようであるかということは、遺伝子がどのようにはどのようなタイミングで発現されるかによって決定されるのであるから、氏と育ちは対立するものではないということである。これはこの前にとりあげたG・マーカスの「心を生みだす遺伝子」でもいわれていた。脳についての研究によって「育ち」のみを強調する立場の足場はどんどんと危ういものとなってきていることが示されているわけである。
 以上は、キリスト教圏内での西洋人同士の内輪もめであって、われわれにはどうでもいいことといえばいえるのであるが、わたくしにとっては必ずしもそうともいいきれないのは、医療を職としているからである。医療はダーウィンデカルトの奇妙な混合でできあがっている。
 医療も生物学を基礎としていて、生物学はダーウィンの進化論を基礎とせざるをえない。一方、デカルトの「人間には理性があるが、人間以外の動物は機械的に行動する」とした見解も平然として受けいれている。この両者は本来ともに成り立つことはないはずなのであるが、あっちにはダーウィン、こっちにはデカルトで平然としている。そうなると「いい加減」というのも良し悪しかもしれない。
 「いい加減」にできないというのがキリスト教もその一つである一神教に由来する原理主義のもつ最大の欠点であるのだとは思うのだが、科学はその「いい加減」にできない一神教の精神が生んだものなのであり、医療もまた科学の末席に連なっている。
 「全体医学は「心身一如」というが「心」と「体」の二語を使わねば日常の用さえ足せない」と中井久夫氏はいう(「臨床些談」みすず書房 2008年)。「心」とか「体」という言葉で各人が指しているものはそれぞれに異なっているであろうが、それでもその言葉を用いて会話が成立する。
 「心」が主観、「体」が客観といってしまうとこぼれ落ちてしまうものが多いであろうが、科学は客体を対象にすることで成立してきた。遺伝子は客体の側にある。その客体の側から「心」を立ち上げていく、そうすればそれは科学の枠内に収まる、それが本書や「心を生みだす遺伝子」のとる戦略である。ダーウィンを受けいれて、しかも「いい加減」ではないやりかたで「心」を考えていこうとする場合には、そうせざるをえないのだろうと思われる。
 しかしそこで立ちあらわれてきた「心」がわれれれ、日常もちいていいる「こころ」という言葉とどの程度重なるのかは何ともいえない。《ヒト以外の動物の脳にも理性や思考がある》とするのはキリスト教的偏見、デカルト的偏見をもたなければ、猫や犬をみているだけでも明らかなのであり、《チンパンジーたちのあいだの野心や嫉妬、欺瞞や愛情》をみなければ、それに気がつかないというのも随分と変なことであると思われるが(欺瞞をおこなえるかどうかが「こころ」の存在のバロメーターであるとする見解はあるらしい。犬や猫が他犬や他猫を欺こうとするのかという問題である)、しかし《野心や嫉妬、欺瞞や愛情》といったものは、他人をあるいはチンパンジーを観察してはじめてわかることではなく、おのれを顧みるだけで誰にでもわかることなのである。
 医療は身体の変調をとりあつかう。しかし変調を理解するためには、正常が理解できなくてはならない。われわれの血糖がどのようなメカニズムで一定範囲に維持されるようにできているのかについては膨大な知見が集積されている。しかしわれわれの「こころ」がどうようにして一定範囲に保たれているのか(そもそも一定範囲とはどのような範囲なのか)についてはほとんどまだ何も知られていないに等しい。「こころ」のホメオスターシスの維持の機構ということは、未知の分野として残されているといってよい。
 それに少しでも迫っていくためには本書あるいは「心を生みだす遺伝子」のような戦略は有効なのであろうと思う。しかし、それがわれわれの主観である「心」を明らかにしてくれるとは多くのひとには思えないのではないかと思う。
 「現実に生物学をやっている人と話し合うと、機械論者というのは、探せば探すほど居なくなる。(中略)これは当たり前のことで、近代の生物学は人間も生物の中にまぜてしまった。生物学をやるのは人間であるから、誰しも自分を機械だとは本当のところ思っていないし、あの女に惚れたのはホルモンの故だ、とは思っていないのである。(中略)とことで、もう一つ厄介な事がある。患者は医者に行くと、薬をもらいたがる。注射をしてくれ、と言う。これは明らかに、機械論、還元論の立場に立っているのである。自分の体の動きが悪いから、油を差したら何とかなるか、と思っているのである。」(養老孟司「ヒトの見方」(筑摩書房 1985年)) つまり医者も患者も医療においては機械論の立場にいるのであり、デカルトはいまだ有効なのである。最近では「こころ」にもプロザックで油を差そうという時代になっているのかもしれない。そして本書によれば、われわれがあの女に惚れたのは、われわれの祖先の食生活に由来するところが大きいことになる。
 次章は、本能の問題を論じることになる。
 

やわらかな遺伝子

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私の古生物誌―未知の世界 (ちくま文庫)

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ヒトの見方 (ちくま文庫)

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