M・リドレー「やわらかな遺伝子」(2)第2章「幾多の本能」

  紀伊國屋書店 2004年5月
 
 腎臓で水分や塩分を調節しているバゾプレシンとオキシトシンという構造の類似したホルモンが脳でも働いていることが1980年代のはじめにわかった。
 プレーリーハタネズミとサンガクハタネズミは異なった絆形成をする。プレーリーハタネズミは誠実な夫婦関係をとりむすぶのだが、サンガクハタネズミは雑婚である。前者の脳内にはオキシトシン受容体が多い。齧歯類が性的パートナーに長いこと愛着を感じるかどうかは、オキシトシンなどの受容体の遺伝子にスイッチを入れるプロモーターのあるDNA断片の長さによる。
 それならば、これはヒトにもあてはまるのだろうか? 恋愛というのは西欧のどこかの宮廷の吟遊詩人の発明であり文化の産物であるという神話?がある。それ以前には、ただの本能によるセックスがあっただけなのだと。1992年、168の様々な民族の文化を調べた結果が報告され、すべての文化で恋愛が存在したという報告がなされた(と、本書では書いてあるのだが、恋愛の定義は何なのだろう? 誰でもいいのではなく、特定の相手を選ぶということなのだろうか?)。恋人の写真を見たときと、単なる知り合いの写真をみたときでは、脳内で賦活される部位が異なるのだそうである。これが中世の宮廷文化以前と以後で異なっているということは考えにくいであろう。
 行動はとても複雑な要因により決定されるので、遺伝子により規定されるとは考えにくいとされてきた。しかし育種家はそれが遺伝に支配されることことを躊躇なく信じてきた。種馬の世界である。
 表情は世界で共通した意味をもつことはダーウィンを驚かせ、のちにアイブス=アイベスフェルトらが詳細に研究した。
 男性が美しくて若い貞淑な女性を好み、女性は金持ちで野心に満ちた、年上の男性を好むというのは万国共通である。これについては、女性が金銭的に豊かな男性を求めるのは、それが遺伝的に規定されたものではなく、男性が富を大半を手にしているという文化的事実によるのだという批判がある。しかし、男性が富を求めるのはそれが女性を惹きつけると知っているからという反論もある。「この世に女がいなかったら、世界中の金は無意味になる」とアリストテレス・オナシスはいった。
 ブレンダという男性でありながらペニスを失った少年を女性として育てるという試みが、それがうまくいったという宣伝にもかかわらず、実際には失敗したことが明らかになったことは、性というものが文化的にではなく、遺伝的に規定されていることを強く示唆した。つまりジェンダーもまた、大幅に遺伝に規定されている。
 デネットは「日常の心理」と「日常の物理」の区別を提唱した。サッカーの試合でボールが蹴られた場合、蹴った選手が動いたのは「そうしようと思った」のであるし、サッカーボールが動いたのは「蹴られたから」である。前者は心理により、後者は物理による。平均して男は「日常の物理」に、女は「日常の心理」に関心をもつ。極端に「日常の物理」が勝ったひとをアスペルガー症候群と呼び、軽度の自閉症とされている。他人の考えに共感することがいたって不得手であるとされる。脳が極端に男性化されすぎた状態であるとするとする病因論があり、胎児期に高濃度のテストステロンにさらされるとそうなるのかもしれない。
 アスペルガー症候群の子供は機械仕掛けのものに夢中になり、ものごとの背後にある原理を理解しようとする。事実の知識や数学に早くから才能を示すことが多い。科学者では、自閉症の診断スコアが高く、物理学者やエンジニアは生物学者よりもスコアが高い。アスペルガー症候群研究者のバロン=コーエンは人間には体系化と共感という二つの心的能力があるという。日常の物理と日常の心理と対応するものであろう。
 共感にかかわる脳の領域は、主に傍帯状溝あたりの神経回路らしいが、アスペルガー症候群のひとでは、心理的な話を読んでもこの部位が活性化されずに、論理的思考にかかわる部分が活性化される。このような事実は脳がモジュールの集合として構成されているとする見方となじむ。心のアーミーナイフ理論である。そしてこれは生得論と結びつく。
 もし心のモジュール理論が正しいのなら、人間の精神の特徴を知るためには、過去数百万年間で肥大した脳の部分がそれに関係していることになる。
 
 前章で、ヒトが原則単婚制であるのは食習慣に起因するということがいわれたが、具体的にそのような性行を規定するものは脳内のホルモン受容体らしい。食習慣にあった脳内ホルモン受容体数をもつものが選択されて生き延びてきたというように進化論的には説明するのであろう。
 ヒトの表情が表すものは万国共通であるという話を、昔アイブル=アイベスフェルトの本で読んだときは随分とびっくりした(「愛と憎しみ」みすず書房 1974年)。ある表情をしたときに周囲がよろこんでくれることを学習して笑顔というものの意味を知っていくのであれば、別の文化では別の表情が親愛の情を示すのに使われてもいいわけである。そうならないのはのは笑顔というのが先天的なものであって、いわば学習なしで遺伝で規定されていることを意味する。なんだか変な感じがした。
 これもアイブル=アイベスフェルトの本で読んだことのように思うが、われわれはたとえばパンダのような性状のものを好み、蛇のような性状のものを嫌うというのも先天的なものであるとあって、これも不思議に思った。ムクムクとしてふわふわしたものはかわいく感じ、ぬるぬるとして細長いものは嫌うらしい。今ではこれは、かつての狩猟採集時代にそのような感情をもったものが生き延びてきたという進化の観点から見た説明がされるのであろうが、その当時はその事実だけが提示されていて不思議だった。アイブル=アイベスフェルトの本は日高敏隆さんの翻訳だったと思う。このころ日高氏は、ローレンツの本もドーキンスの本も、ユクスキュルの本もみな紹介していて、海外の生物学の最新の情報を日本に孤軍奮闘で紹介していた。日高氏の訳した本あるいは日高氏自身の本には若いときに随分とお世話になった。
 バロン=コーエンの本(「共感する女脳、システム化する男脳」(NHK出版 2005年)を読んだときも随分とびっくりした id:jmiyaza:20060610 。フェミニズムというのはほとんど息の根をとめられていまうのではないかと思った。この本の原著(The Essential difference )は2003年に刊行されているが、著者自身、このような本は1990年代には書くことができなかったといっている。政治的に問題が大きすぎたからと。セックスは遺伝的に規定されるとしてもジェンダーは全面的に文化に規定されるという主張が間違いであることは明らかである。
 若いころ、岸田秀氏の「人間は本能が壊れた動物である」説や、丸山圭三郎氏の「ホモ・デメンス」説などには随分と影響された。精神分析フロイトからではなく、岸田氏と伊丹十三氏から学んだ。仕事は誰でもできる代替可能なものであるのに対して、親であることはその人にしかできない代替不能なものであるという伊丹氏の扇動には、随分と心を動かされた。しかし家庭環境は子供の性格形成にはほとんど影響しないということは次章で論じられている。フロイトのいったことは嘘だったのである。今から思うと、岸田氏や丸山氏のいっていたことは人間特別説の変奏の一つであって、ただ人間は神ではなく悪魔であるとするような話である。
 どうも若い時は文化の優位性を信じていて、段々と遺伝の優位性を信じるようになってきている。それが科学的知見が集積されてきたことに説得されてであるのかどうかは何ともいえない。若いときのほうがラディカルで、年をとるにしたがってコンサーヴァティブになるという一般的傾向をたどっているだけなのかもしれない。
 それなら若いときのほうがラディカルで、年をとるにしたがってコンサーヴァティブになるという一般的傾向がヒトに遺伝的に規定されているものなのか、それとも文化に規定されているものなのかが問題となるはずである。そのような傾向は狩猟採集の生活において生存価を高めるだのろうか? そもそも、狩猟採集の時代においては年をとるまで生きる人間などいくらもいなかったのかしれないのであるから、これは難しい問題である。
 進化においては子孫を残すかどうかということが問題のすべてなのであるから、生殖年齢を過ぎたあとの生などというのはまったく意味がないことになる。かつて淘汰が種にかかると思われていたころは、高齢者の叡智が種の繁栄を導くなどという苦しい説明がされていたこともあるようだが、淘汰が個にかかるということになれば、生殖年齢後の生に意味はないことになる。サケのような生き方が正しいのかもしれない。「サケは自分の子どもの顔を見ないで死ぬ。一回産卵するだけ、一回射精するだけで一生が終わってしまう。子どもは翌年の春、岩の下で卵から孵って親の顔を知らないでひとりで育っていく。非常に孤独な生涯ですね。」(開高健「河は眠らない」 文藝春秋 2009年2月)
 

やわらかな遺伝子

やわらかな遺伝子

共感する女脳、システム化する男脳

共感する女脳、システム化する男脳

河は眠らない

河は眠らない