村上龍「無趣味のすすめ」

  冬幻社 2009年3月
 
 村上氏は日本的な村落共同体的社会への嫌悪を仕事の根底においているひとであると思う。したがって日本のいわゆる構造改革路線についても、それが日本的共同体風土を破壊してくれることを期待していたように思われる。
 日本の構造改革路線が昨今の経済危機とどのような関係があるのかは難しい問題であるが、一般には、グローバリズムアメリカの投資銀行的ビジネスモデルという図式があり、日本の構造改革路線もまたグルーバリズムに追随するものであったとして、昨今の経済危機はグローバリズムが生んだものであり、それをみれば日本の構造改革路線があやまりであったことは明らかというような見解が主流のように思われる。
 もっと言えば、小さな政府か大きな政府かということで、構造改革=小さな政府、昨今の大々的な公的資金の投入=大きな政府である。小さな政府の側のひとであるように思う村上氏が昨今の状態をどのように見ているのだろうかということに興味があって、本書を手にとってみた。わたくし自身も、自分は村社会的なものが嫌いであり、小さな政府派であると思っているが、大きな政府に通じるであろう医療という分野で働いている矛盾があるので、そういうことに関心がある。
 
 村上氏は、投資銀行のビジネスモデル自体が悪いのではなく、それが暴走したことが問題であるとする。そのモデルも当初は経済の活性化をもたらしたのだと。またグローバリズムは思想ではなく潮流なのだという。それは世界史的な潮流なので、逃れることのできるものではなく、適応していくしかないものだとし、そのために一番必要なのはコミュニケーションだとする。嫌うとか否定するのではなく、理解していくことだと。
 自分の目標をもつことが個人として生きていくことの大前提となるにもかかわらず、近代化途上の日本では、ひとが個人としてもてる目標は恋愛といったものしかなかったという。それ以外の目標は国家が決めたり、会社が決めたりしていた。1970年代のどこかで近代がおわり、90年代には日本の資本主義システムが雇用を中心に大きく変わった。国家が目標を決めてくれるわけではなく、会社がそれをあたえてくれる時代でもなくなった。
 氏は、改革で出た犠牲のなかの一つに医療費削減で医師が逃げ出した病院もふくめている。「現在の救急や外科や産科、小児科などの医療の現場では、勤務医は労働基準法もへったくれもない過酷な労働を強いられていて、家庭は犠牲になっている。友人の産科勤務医は去年の夏にたった二日間の休暇を取るのに三ヶ月前から八回の申請をしてやっと認めれたと言っていた。だから行政としても国民としても、そういった状態を早急に何とかしなればいけないわけだが、財政的にもシステムとしても難問が山積みで、解決は簡単ではないし、医師個人の意志や判断でどうにかなるという問題でもない」という。
 以前はどこの職場でもそういうことは当たり前で、男達は嬉々としてそういう過酷な労働に従事していた。仕事が生き甲斐を提供していた。それを「社畜」などといって批判するひともいたが、そういう仕事はやりがいのあるものであり、士気を鼓舞するものであった。「近代」がまだ信じられていた。
 小松秀樹氏は「医療崩壊」(朝日新聞社 2006年)で、イギリス医療の荒廃を紹介して、それがレーガンサッチャー流の小さい政府志向がもたらしたものとする。医療の崩壊は「医師の士気の壊滅的崩壊」に起因するとしている。いくら懸命に医療をおこなっても患者には感謝されず、マスコミからは叩かれるのでは士気は崩壊して当然である、と。
 村上氏は、「皮肉なことに、モチベーションという言葉が流行し定着するのは、多くの新入社員が入社後間もないうちに退職し、ニートが話題になり、フリーターと呼ばれる不安定な就業者が急増するようになったころだ。なぜ働かなければならないのか、なぜ勉強しなければならないか、というような疑問を子どもたちや若者が発しはじめたころに、モチベ−ションという言葉が使われるようになった」という。いつのころからか仕事が報われないもの、手応えのないもの、やりがいのないものとなってきた。
 かつてはゆとりを持って生きることのできるひとなどはほんの一握りしかいなかった。だからなぜ働くかなどという問いがでてくる余裕さえなかった。働かなければ食べていけなかった。近代化によって貧困から脱することができて、ひとはなぜ働くのかという問いに直面することになった。モチベーションや士気という言葉がでてくることになった。どこかで河合隼雄氏が、最近離婚が増えた理由について、昔は、結婚しても食べていくのに精一杯で、ろくに相手の顔をみるひまもなかった。最近、余裕がでてきて相手の顔をみる時間ができた。それがいけないというようなことをいっていた。
 われわれはかつかつに何とか食べていけるのではなく、もう少し余裕のある生活ができるようになることをずっと求めてきた。それが近代化によってようやく達成された。その余裕ある生活を求める動きがグローバリズムをも生んできているのであり、それは人間が持つ欲望それ自体が生んだものであるとすれば、それを否定しても意味がなく、それに適応することが大事と、村上氏はするわけである。
 村上氏は、金銭的利益以外の価値観をいかに求めていくかということがこれからの時代の課題になるという。最近、中谷厳氏が構造改革派であった過去を懺悔し、転向を表明する本をだした。転向前の中谷氏の本を読んだことがあるが、人が働くのは金のためである。金銭的報酬というインセンティブが働かないところでは人は働くはずはないというようなことを言っていた。なんだか情けないことをいう人だなと思った記憶がある。
 村上氏は、これからはやりがいを感じられる仕事についていないひとは不幸になるぞという。もはや食べていくためにひたすら働くという貧困の時代をわれわれは過ぎてしまったのだから、どういう「仕事」につくかということがこれからの人生の最大の問題となるという。これは「13歳のハローワーク」などからの、氏の一貫した主張である。
 こういうことを考えるときにいつも頭に浮かぶのが、自分のために働くのか、他人のために働くのかということである。村上氏は「自分のため」派であると思う。わたくしは内田樹さんや橋本治氏などの「他人のため」派の見解のほうに説得される。他人の必要に応えることが働くということであると感じる。自己実現という方向につながる話はうさんくさく感じる。
 世界史的な潮流を、われわれに科せられた変更することのできない「運命」であると見るかが問題となる。村上氏は、そう見ているようにである。一方、橋本治氏などは手工業時代の戻れなどと飛んでもないことをいう。医療の世界は昔ながらの手工業の世界である。村上氏の「13歳のハローワーク」で紹介されている仕事も不思議と手工業的なものが多い。
 ずっと個人商店に毛の生えた程度の手工業的な医療の世界で生きてきたので、住宅ローンの借金を証券化して世界中に売り出すというような話は頭では理解できても身にしみない。しかし、一病院の赤字が地方自治体を破綻させたりするのだから、医療の問題は国家財政と直結することは間違いない。医療費が増大していくと国の財政はどうしようもなくなるという主張も理解できる。現在の厚生労働省の政策はもとをただせば、1983年に厚生省保険局長であった吉村仁氏が発表した論文「医療費亡国論」に由来するらしい。医療費が増大し続ければ,国民の負担も増え続け,社会が立ちゆかなくなるとした。レーガンサッチャー路線である。福祉国家というのは経済が拡大を続ける状態のもとでなければ維持できないものなのではないかと思う。昨今の経済状況をみていると、それが今後も維持していけるのか懐疑的にならざるをえない。
 E・M・フォースターは、「私の信条」で、『社会の基盤に力があることは、分かっている。だが、偉大な創造的行為やまっとうな人間関係は、すべて力が正面に出てこられない休止期間中に生まれるのである。この休止期間が大事なのだ。私はこういう休止期間がなるべく頻繁に訪れてしかも長く続くのを願いながら、それを「文明」と呼ぶ』といっている。われわれはつかの間の休止期間にいたのであり、いまその休止期間が終わろうとしているのかもしれない。そうであれば、それぞれがそれぞれの場において、次の休止期が来るまでの間、何とか生き延びていくことを工夫していくしかないのかもしれない。村上氏は生き延びる方策を「真の達成感や充実感」をあたえてくれる「仕事」につくことに求める。問題は、次にいつかまた休止期がくることがあるのかについて、人々が懐疑的になってきていることなのかもしれないのだが、村上氏はもはや二度と休止期はこないという覚悟で自分の生き方をきめろといっているように思える。
 小松秀樹氏は『日本の勤務医は、経済学が前提とする、常に自分の利益の拡大を図る経済主体ではない。自らの知識や技量に対する自負心と、病者に奉仕することで得られる満足感のために働いている』とする。その自負心と満足感を打ち壊したのが「患者中心の医療」すなわち「消費者中心の医療」という見方であったと小松氏はする。健康をもとめる行動が消費者行動とは異なることが理解されていないことが問題なのであるとする。
 この「消費者として」行動する患者もまた休止期が生んだのだと思う。休止期間は「文明」を生みだすだけではないのである。余裕は福祉社会を生みだし、消費社会も生みだした。諏訪哲二氏のいう「オレ様化」である(「オレ様化する子どもたち」(中公新書ラクレ 2005年)。「オレ様化」とは何事もしてもらってあたりまえという態度である。小松氏は日本の医療が崩壊したのは、患者さんが「オレ様化」したからであり、そのオレ様化をマスコミが煽ったからであるとしているのだと思う。イギリス医療は、サッチャー後のブレア政権が医療に大幅に資源を投入するようになったにもかかわらず「患者中心の医療」ということがあらゆる政党のスローガンとなったことにより、崩壊したままであるのだとされる。日本の医療崩壊への取り組みはイギリスのあとを10年以上おくれて追っているのかもしれない。もう少し資源は投入されるようになるかもしれないが、消費者としての患者が満足するということは決してないであろう。
 諏訪氏の本を読んでいると、そこでいわれている「学級崩壊」というのが「医療崩壊」を先駆しているということを感じる。1970年ごろから先進国はみな「消費社会」(すなわち純粋な資本主義)にはいっていった。それ以前は産業社会であった。産業社会においては働くことが幸福につながった。「消費社会」においては働くことではなく消費することが幸福である。働くことにはあまり幸福とは感じられなくなる。
 消費社会においては対等意識が強まる。小さな子どもでも消費をすれば一人前にあつかわれる。それで子どもは「わがままになり」(自己の不利益には黙ってはいなくなり)「耐性が低くなり」「すぐに切れる」ようになった。これはある意味では自立なのだが、それは近代というのが、それほどすばらしい、人にやさしい社会でないことを示していると諏訪氏はいう。
 市民社会では人と人は対等になる。教師と生徒は対等になる。医者と患者は対等になる。職場においても「みんなが平等に仕事を!」という圧が高くなる。「能力が高い人がたくさん仕事をするのは当然」というような話は通じなくなる。諏訪氏は、「もともと教育の原点は子育てと同じように「贈与」にある」という。無償の行為ということである。医療もそうなのだと思う。「もともと教師という生き物は資本主義的なるものがあまり好きではない」と諏訪氏はいう。医者という生き物もまたそうであろう。しかし、好きであろうとなかろうと、資本主義はいよいよグローバル化して拡散し、それは投資銀行というモデルを作るだけではなく、その純粋形態である「消費社会」を進行させてゆく。
 諏訪氏は村上氏の「13歳のハローワーク」に批判的である。それが旧文部省の「教育改革」(ゆとり教育など・・)と同じ発想の上にあるとする。諏訪氏は子どもの個性などをちっともいいものと思っていない。そんなつまらない個性はつみとって社会でとにかくなんとか生きていける人間としていくことが教育であるとしている。
 小松氏は「私には、すばらしい倫理をはぐくんできた日本人が、無批判にグローバリズムを受けいれることは、ひどく愚かなことのように思える」と書いている。わたくしはこういうところがひっかかるので、日本人はすばらしい倫理をはぐくんできたのだろうかと思うし、今更、鎖国でもないだろうと思う。そういう点では村上氏は前向きである。しかし同時に諏訪氏のいうように、村上氏が生き残ってこられたのは氏の才能によるのと同時に、運にもよるのだろうと思う。
 これから、少数の勝者と多数の敗者で構成される過酷な社会になっていくのだろうと思う。それはかつてのような経済成長が再現することは最早ないだろうからで、再分配の資源が枯渇してしまうだろうからである。そのなかで、生き残りのために投資する意欲と意志があるひとのなかで運に恵まれたものが勝者として生き残っていくのであろう。大部分の敗者はお金を使うときだけ消費者として一人前に遇される。その時のみ「オレ様」になれる。村上氏は仕事にプライドを持てるのでなければ、生きていてもみじめであるという。それはとにかくもわれわれが食うのにやっとという段階を超えたからである。しかしまた経済は後退を続けて、どんな職でもあってなんとか食べていければいいという時代になるのだろうか? そうなれば職があること自体がプライドになるのかもしれない。そういう時代になれば医療も自ずから変わってしまうと思われるが。
 

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