C・テヴィンケル「コンサートが退屈な私って変?」

  春秋社 2009年3月

 こういうタイトルであり、表紙にも漫画風の絵があるが、クラシック音楽を斜に構えておちょくっている本ではない。クラシックを熱愛する著者が、これからもクラシック音楽がみんなのものであり続けるためにはどうしたらいいかを真剣に考えた本である。
 そこから、クラシック音楽のコンサートって変じゃないという見方もでてくる。タイトルにある「コンサートが退屈」というのは著者が死ぬほど退屈した最初のコンサートである「マタイ受難曲」のことをいっている。子供のころの話らしい。マタイが退屈などというと、それだけで多くの熱烈なるクラシックファンは著者を軽蔑してしまうかもしれないが、たぶん、今では著者もマタイのファンであろう。
 しかし著者はもっと一般的なほうに話を広げる。コンサート会場などというのが本来ならふさわしい場所ではない音楽も多いのではないか、と。娯楽むけの軽い音楽を飲み食いもできないおしゃべりもできない場所で聴くのは変ではないか? 室内楽というのは大きな会場ではなく、もともと自宅でみんなで合奏を楽しむためのものではないか? コンサートのプログラムってなんであんなに小難しいの? なんで途中で拍手してはいけないの? クラシックのコンサートは型にはまっていて儀式みたいで堅苦しい。だから魅力がないのでは?
 なんでそうなってしまったのか? 200年ほど前から娯楽むけの音楽と真面目な音楽が区別されるようになったから。真面目な音楽が純粋化しはじめ、高尚なものとなってしまったから。音楽はもっといろいろであってもよく、音楽の聴き方ももっといろいろであっていいのではないか? 純粋で絶対的で、形式の整った器楽作品なんて、音楽史全体からみれば、ごく一部であるのだから。演奏会という形式には、ほとんどのひとがもう魅力を感じなくなっているのでは?
 なぜクラシック音楽というのはこんなに長いのか? 19世紀末、あらゆるものがモニュメンタルで巨大化し、音楽も他の芸術とはりあうようになったから。そして音楽は18世紀末に大がかりな曲をつくるための技法を完成させていたから。
 その巨大な音楽を構成する原理がソナタ形式の楽章をふくむ多楽章の作品である。(ソナタ形式というのはA・B・マルクスという音楽学者がベートーベンの作品を徹底的に研究して導きだしたものということがいわれている。そうするとベートーベンのころにはまだソナタ形式という言葉はなかったのだろうか? この形式はすでに1800年前後に多楽章形式の音楽の第一楽章で用いられはじめていたらしいのだが。)
 実例として、クレメンティの作品36第1の(ピアノ学習者には有名な)ソナチネの第一楽章が譜面で紹介されている(ドーミド、ソ、ソ、ドーミド、ソ)。全38小節。提示部15小節。展開部8小節。再現部15小節。提示部の最初の7小節が第一主題、後半8小節が第二主題(とされているが、8小節目は第一主題の最終小節であり同時に第二主題の最初の小節なのではないだろうか)であるが、通常いわれているような第一主題と第二主題の性格的な対比とか、第一主題のあとの移行部とか第二主題のあとの結尾部とかも一切欠いているではないかという。でも「通常いわれているようなソナタ形式」を知らないひとのためにこの本は書かれているのだが・・。
 このあたり著者の非常に苦しいところである。「ソナタ形式こそ命」みたいな形式マニアと出会ってもうろたえるな、音楽には形式だけでなく、もっといろいろな部分に楽しみがあるのだからとはいうのだが、このクレメンティソナチネの楽章の分析を実におもしろそうにしている。どうみても、ほらソナタ形式を理解していたほうが、音楽がもっと楽しめるでしょ、といっているとしか思えない。
 このクレメンティの楽章の一番の肝要なところは、再現部24小節目がはじまり、「ああ、また戻ってきた!」という感覚が生じるところなのだと思う。一般にソナタ形式が弾き手、聴き手にもたらす喜びは、再現部の入りがもたらす、ああ秩序が回復された!とでもいうような形式感なのだと思う。そもそもクラシック音楽というのは構築物なのだから、形式を抜きにして語ることはできないのではないかと思う。(ソナタ形式はもとを正せば三部形式なのだから、A-B-Aである。形式が成立するためにはAが回帰してくることが大事で、再現部がはじまった途端に様式感が確立する。ソナタ形式は、Bの部分をAの破壊・変形によって作るので、再現がはじまった途端に秩序の回復感が際だつ、それがソナタ形式の面白さなのではないだろうか?)
 説明はさらに、長調短調、主調と属調下属調といったほうに進む。著者がこういうことを知っていたほうがクラシック音楽をより楽しめると思っているからなのだが、こういう話もまた、おしゃべりもできず飲食もできないコンサート会場と同じ堅苦しさを読者に感じさせることはないだろうかとも思う。コンサートのプログラムに書いてあるのも大体がそういったことである。「第二楽章は通常の属調であるト長調ではなく3度上のホ長調となっている。これは作曲者が・・・」などなど。
 次がオペラの話。オペラではどういうわけかクラシックコンサートの中で例外的に、曲の進行を妨げてでも途中で拍手をしてもいいことになっている。芸の鑑賞が作品全体の構成に優先する。そういうことが許せないワーグナーのような作曲家は、したがって、アリアなどは書かなくなる。
 話はさらに難しくなって、作曲の話に移っていく。そこに「西欧文明全体をしょって立つような気構えがないと、作曲はできないんですか?」「そういう君だって、常に西欧文明をひきずっているんだよ。まず弦楽四重奏がそうだ。『弦楽四重奏曲を書きます』と口にすることは、『ベートーベン』、『古典派』、『絶対音楽としての器楽作品』みたいな銘を鐘に刻んで、一斉に鳴らすのと同じなんだから」、という会話がでてくる。これが本書の根っこなのだと思う。著者もまた西欧文明全体をしょって立っているのである。クラシック音楽を愛するということは、西欧文明を愛するということなのである。ある作曲家がシェーンベルクのことを「彼は骨の髄からの保守派なのだ。それどころか反動主義者であり続けるために、革命まで起こしたのだ」といったということが紹介されている。シェーンベルクが西欧古典〜ロマン派音楽を偏愛したひとであることはいうまでもないことで(例として、「作曲の基礎技法」音楽之友社 1970年)、それゆえに(西欧音楽、あるいはもっと狭義にドイツ音楽か?の優位を今後も確保するために)12音音楽などという奇妙きてれつなやりかたを考案したわけである。しかしそれがひとを熱狂させひきつける音楽でなかったことは明らかで、そうするとクラシック音楽の魅力を説く本書にその名前がでてくること自体がおかしいのかもしれない。シェーンベルクは音楽の魅力を破壊し、コンサートをあのように儀式ばったものとした張本人(の一人)なのかもしれないのだから(「かつてウィーンで試演会をやったときも、批評家やジャーナリズムの立ち入りを禁止し、聴衆の拍手も禁じているのである」(小倉朗「現代音楽を語る」岩波新書 1970年)。現在の演奏会はもっぱら過去のそれも多くは19世紀までの作曲家の演奏がおこなわれる場となってしまっており、現在生きている作曲家の作品が演奏されることがほんどない場となってしまっている。
 本書にはヴィンクラーとかムンドリといったわたくしがきいたこともない現代作曲家が紹介されていて、「そういう人の曲も聴いてみて、とてもおもしろいから」と著者はいっている。しかし、すでにベートーベンやブラームスの演奏会にさえ足をはこばなくなった人たちがそういう現代音楽をききにいくようになるのか、それは疑問なように思える。

 本書は一見、ソフトなクラシックのすすめのように見えるが、内容は相当に高度なもので、たとえばバーンスタインの「音楽のよろこび」(音楽之友社 1966年)などに近い内容のように思った。初心者よりも、ある程度はクラシックに親しんではいるがどうも自分の理解は感覚的である、もっと骨組みからクラシックを理解したいというひとに、本書は向いているのではないだろうか?
 「音楽のたのしみ」には、バッハの「マタイ受難曲」の勘所が縷々述べられている。全曲で5回あらわれ、そのたびに長調であったり短調であったりそれぞれの和声づけがことなっているコラール。冒頭の素晴らしいコラール前奏曲。イエスが「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ぶところだけ弦楽合奏の光背がついていないこと。終曲の子守歌。本書でもいわれている「主よ、我なるか?」が11回歌われること。「バラバを!」の叫びも(本書ではこれが嬰ニ短調の和音と書かれているが、これは嬰二を根音とする減和音だと思う Dis-Fis-A-C)。確かにこういうことを知ってマタイを聴くと余計に楽しめると思う。
 咳払いひとつもはばかられる音楽会というのは堅苦しくていやなものである。しかし、現実にそういうコンサートも存在するので、ホロヴィッツの歴史的なカーネギーホール復帰コンサートでは、聴衆は本当に一音たりとも聴く逃すまいとしていて、アンコール最後の「トロイメライ」がはじまる直前に、誰かおじさんが叫ぶと、みんなが「シーッ」といっている。このコンサートは後半のスクリアービンのソナタ「黒ミサ」あたりから乗ってきて、同じスクリアービンの「詩曲」、ショパンマズルカエチュード・バラードと絶好調となる。ピアノという楽器から何であんな音がでるのかが不思議である。ショパンやモシコフスキーのエチュードなど最後は単なるカデンツの和音なのだが、その音が何とも素敵で、聴衆は興奮の坩堝、拍手は儀礼ではない賞賛のしるしである。こういうコンサートもある。ピアノからあんな音がでるのかとか、あんなによく手が動くとか、まあ曲芸を見る楽しみでもあるのかもしれないが、曲芸だって固唾を呑んで見るということはある。しかし、ホロヴィッツのコンサートがそうだからといってピアニストが誰でもホロヴィッツであるわけではない。何とも退屈なコンサートでも、同じ態度をとれといわれても、聴衆はそこまで大人しくしていなければいけないのか、というのが著者のいいたいことなのであろう。
 本書では何カ所かアドルノが引用されている。わたくしは何も読んでないくせにアドルノが嫌いである。とにかく真面目というか糞真面目というかユーモアのないひと、冗談が通じないひとだと思っている。ドイツ観念論の一番悪い部分を引きついでいるひとだろうと思う。著者もアドルノに批判的なのだが、引用するのは気にしているということなのでもあろう。アドルノが合唱を批判した文章が引用されているが、おそらく言いたいことは情緒的な音楽一般の批判なのだと思う。音楽というのは魔力をもっていて、ナチスドイツはその力を最大限に利用した。その反省から人を昂揚させる音楽自体を否定する方向に現代音楽はむかったのであろう。現代音楽があれほど無味乾燥なものになったのは、体にはたらきかける音楽を避けようとするあまり、頭で理解する音楽へと走ったためであろう。耳できいてもさっぱり分からないが、楽譜を目でみると構造が理解できるような音楽。
 クラシック音楽の魅力というのは何なのだろう。そこに“精神”が感じられるからなのではないかと思う。音楽の持つ力それ自体ということであればジャズなどには勝てないかもしれない。“精神”などというのは、それ自体は証明のしようのないもであり、それが何らかの働きをしたところにしか現れてこない。精神は何らかの構築物にあらわれてくる。それがたとえばクラシック音楽の作品なのだと思う。だから構成がみえないと作品の一部しか理解できないことになる。それで、本書のような啓蒙が必要となる。
 著者はドイツ人であり、精神の構築物を信じているとともに、現代のひととして、“精神”といったものを事大主義的に祭り上げることにも批判的なのであろう。後者からクラシックコンサートの堅さへの批判が生まれ、前者からクラシック音楽擁護の姿勢がうまれる。
 日本のクラシックの音楽会で感じるのはあまり着飾ったひとがいないことである。盛装して着ているものをみせびらかしにいく場であるとか、情事への期待がほのかにある場所とかいうことになると、もう少し真面目さがとれるのではないだろうか?
 本書にも本場ドイツでもクラシック人口が激減していることが書かれている。日本ではどうなのだろう。われわれの世代がいなくなったら絶滅してしまうのだろうか? それとも、日本が西欧文明とかかわっていると信じるひとがいる限りは、生き続けることができるのだろうか?
 (原書にあたっていないのでなんともいえないが、本書で属調とか下属調と訳されている部分の一部は、属和音、下属和音なのではないかと思えるところがあった。)
 

コンサートが退屈な私って変? 素朴な疑問に応えるクラシック・ガイド

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作曲の基礎技法

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現代音楽を語る (1970年) (岩波新書)

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音楽のよろこび

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