古屋裕子編「英語のバカヤロー!」

  泰文社 2009年3月
 
 古屋裕子さんというかたが、養老孟司竹中平蔵中村修二上野千鶴子、板東眞理子、浅野史郎明石康本川達雄酒井啓子松沢哲郎古川聡福島孝徳の計12名に、「英語の壁を前にして地団駄を踏み、涙を流した過去」についてインタヴューしたものである。人選の要件は「二十歳を過ぎて、英語圏に1年以上滞在した経験のある研究者」ということだそうで、「頭のいい研究者でも、英語に泣いたことがないのかな?」という「覗き見趣味」が原動力になったのだそうである。英語に恨みは数々ござるのくちであるわたくしとしては、他人の苦労を、大いに楽しく読めた。
 養老さんがオーストラリアに留学したとき、共同研究者が「英語で表現できないことはない。もし言えないなら、最初から無いんだよ、それは」といったという。日本人はそうは思わない。「言うに言われぬ」とか「筆舌に尽しがたい」とか、「言葉にならない感情」とかいうではないか、と。一方、英語圏の人は「言葉にしなければ通じないでしょ、通じないことは無視していいでしょ」と考えるのだと。英語はあいまいさがゆるされない言語なのだと。
 本川達雄さんというかた(「ゾウの時間、ネズミの時間」を書いた生物学者)は、日本人は「材料そのものに語らせる」のに対して、あちらでは「材料よりそれを料理するひとの腕が主役」という。だから科学論文でも、日本人は「どういう結果が出たか」が大事だとするのに対し、あちらの人は「得られた結果からどのような仮説を導出するかが大事」とするのだと。英語圏の人の論理はクリアで、結論は一つ。日本人の論理は不明確で、真実は一つとはかぎらないと考えている。その背景はキリスト教で、「真理は一つ」を基本とする一神教的世界観に起因する。そもそも自然科学は西洋が作った。
 松沢哲郎さんという霊長類学者は、自分の研究は欧米の研究者からみると、異様なほどチンパンジーとの距離が近いと思われるだろうという。しかるに、欧米では、チンパンジーは黒くて大きなサル以外の何物でもない、それはどうにもならないほどはっきりした「人間と動物」という二分法があるからだと。それがキリスト教的な世界観なのだと。
 片岡義男氏は「日本語の外へ」(筑摩書房 1997年)で、英語の正用法ということをいっている。「正用法とは、たとえば、主語のとりかただ。主語を立てて語り始めたなら、そこには論理への責任がともなう。主語はその文章ぜんたいにとっての論理の出発点であり、責任の帰属点でもある。主語は動詞を特定する。動詞はアクションだ。アクションとは責任のことだ。動詞は前へ前へとアクションを運んでいき、最終的には主語を責任と引き合わせる。いったん主語を選んだなら、それにふさわしい動詞の働きによって、論理的な結論にたどり着かなくてはいけない。そうなって初めてセンテンスはセンテンスとして独立し、次のセンテンスを引き出す。いくつもの英語のセンテンスはそのようにしてつながり、重なり、論理を形成していく。」 ところが、と片岡氏は、ある国際的なテレビ討論でのひとりの公的な立場の日本人の英語をとりあげる。かれの英語は「主語のとりかたがでたらめであり」、そのため「彼の言葉には責任がまったく感じられなかった」。しかも文法的な呼応関係すら文章の途中で見失ってしまい、その結果として文章がきちんと終わらない。それをなかば自覚して、彼は anywayを連発する。「いずれにせよ」「それはともかく」「それはそれとして」「ですから、まあ」。それは「それまで自分が語ってきたこと、そのなかにある論理のすべてを抛棄することを意味し、自分が語っていることのなかにあるべき論理にも、責任をもたないということを言っているに等しい」のだが、そのことに彼は気づいていない。
 「いま我が社の業績がきわめて厳しいことは、いまさら申し上げるまでもなく、みなさまよくご存じのとおりであります。当然、その回復にむけての行動にとりかかることが必要とされていることも、みなさながひとりひとりが肌でお感じになっているところと思われます。しかしながら、われわれをとりまく世界の経済状況もまたきわめて深刻であることもまたいうをまたないところでありまして、新たな行動にともなうリスクもまたきわめて大きなものとなってきております。」などというのを英語に訳せるだろうか。だいたい、この文?の主語はどれで動詞はどれなのだろう。
 岡田英弘氏は、台湾のあるバイリンガル(日本語と中国語)の女性が、中国語を話しているときにはギスギスしていて、日本語で話しはじめると物腰が柔らかくなるということをいっている(「この厄介な国、中国」 WAC 2001年)。
 本書で多くのひとが言っているのは、自分は英語の読み書きは何とかなるが聞いたり話したりするのがだめということである。それは日本人のヒアリング能力のなさ(本書で随所で書かれているように、学会でディスカッションで立ち往生するする日本人学者は多い。会場の性能の悪いマイクを通した質問の内容がそもそも聞き取れないのである。しかし多国籍のひとが集う学問の世界はまだましであって、街に出て買い物をしようとするとさらに悲惨であることも、本書で多くのひとがいっている通りである)ということもあるが、一人で読んだり書いたりするのではなく、相互にコミュ二ケ―ションをしようとする場合、ダイアローグをなりたたせている前提についての理解が、日本人と欧米人ではまったく違っているということのほうが大きいのではないだろうか?
 それが一神教世界と多神教世界の違いに起因するのかである。中国は一神教の社会ではないであろうが、日本よりはアメリカの方に近いような気がする。要するに何もいわなくてもわかると思う社会と何かいわなければ何も通じないとする社会の違いである。「俺の目を見ろ、何にも言うな」「黙って俺について来い」「悪いようにはしない」などという言葉が通用すると思う人間は、一生、国際人にはなれないそうである(小室直樹「痛快!憲法学」(集英社インターナショナル 2001年))。
 しかし、「黙って俺について来い」のほうが文明であると思うひともいるわけで、たとえば、「下品、無恥、無知、無神経といった一群の「徳」(これが徳であるところにアメリカの面目がある)」などと倉橋由美子さんは悪態をつくわけである(「ヴァージニア」)。そういう見方からすればグローバル化というのは、「野蛮」の世界制覇であって、英語が世界語になるということは、繊細さのかけらもない言葉が共用語になるということである。だから「英語のバカヤロー!」ということになる(これ養老さんの言葉)。「国際学会などに行くと、以心伝心の国の日本人は黙っているんです。誰かが意志をくみ取ってくれるだろうと思って待っているのかもしれないけれど、日本人でもない限り、誰も気持ちをくみ取ったり、察したりなんかしてくれませんよ」(養老氏)。知り合いのある女性はイギリスの相当ハイソな人に「以心伝心」という言葉を教えたらとても喜んでいたのだそうである。わかるひとにはわかるのだろうか?
 「黙って俺について来い」はもちろん男社会の内部での話である。だから上野千鶴子氏は、バイリンガルでいくんだ、男仕立ての学問を批判するために男言葉を学んだのだという。批判が批判として成り立つためには、批判される当の相手に伝わる言葉でなければなりません、という。アメリカ人は野蛮などと日本語でいっているのは、単なるノイズであり、わめきであり、ヒステリックな泣き声以外の何物でもないことになる。
 それにしても上野氏は自信家である。「私の英語の読み書き能力は低くはなく、(中略)日本語論文を英訳するアルバイトをしていたほど自信がありました」とか「私は、日本語については自分の言語能力の高さに自信を持っていますから、日本語だったら絶対に負けないという思いがある」なんてことは普通は言わないだろうと思う。日本人離れした人である。主語のある人なのだと思う。その上野氏にして、アカデミック・コミュニティをある人が「アゴーン(闘技場)」といったのを肯定し、トップレベルの研究者の集団は性格の悪い競争社会だという。正面突破だけではなく、フェイント、からめ手、ボケ、ツッコミ、ごまかし、言い逃れなどができなければ生き残れない世界である、と。そういうものまで英語でおこなう能力は自分にはないと思い、英語圏での勝負を断念したのだそうである。そういうスキルをもてれば、フェイント、からめ手、ボケ、ツッコミ、ごまかし、言い逃れをしてでも勝負したいわけである。そうすると言語能力に絶対の自信をもつ日本の学者社会でなら、これらを駆使することになんら抵抗はないであろう。
 しかしここに登場するみなさんは、会話には困難を感じても、読み書きには不自由しないようである。うらやましい。わたくしはとうに会話は断念したが、せめて小説くらいは英語で読みたいと思う。板東さんが、英語では「日本語と比べて5、6倍の時間がかかります」といっているのには好感を持った(わたくしの場合には単に時間がかかるのだけではなく、語彙が不足していて意味もとれないのだけれども)。「日本人の頭には、集中しないとアルファベットという記号が意味を成して入ってこない」ともいうが、そもそもページの中に文字が均等にある感じで、特定の語を探してもそれがさっと目に入ってこない。日本語なら直ぐにわかるのだが。
 英語が苦手であると困るのが、日本語訳がない本を読みたくなるときである。渡部昇一さんの本で、ヒュームの英語を褒めていたので、エッセイ集をとりよせてみたのだが、「平明暢達」などというのはとんでもない話で、語は難しく、センテンスは長く、構文は複雑で、全然歯がたたなかった。18世紀の英語は難しいのかなと落胆していたのだが、最近、ギボンの「ローマ帝国衰亡史」をみてみたら、こちらは非常に平易な英語であった。われわれが中学高校と英語を習った目標はこういう英語が読めるようになることなのだったのだろうかと思う(「きみたちは一生英語を話すことなどはないから、読めればいいのです」というとんでもない教育だった。本川達雄さんがいっている「漢文」式の返り点方式、あるいは因数分解方式の英語であった)。
 ヒュームもギボンも翻訳があるから(岩波文庫にあるヒュームの「市民の国について」(小松茂夫訳)は「です・ます」調のちょっと癖のある翻訳であるが)、原文にあたる必要はないのだが、養老さんのようにせめてミステリくらいは英語で読めればと思う(「ミステリ中毒」双葉社 2000年)。養老さん、キングの作を次々と原書で読んでいる(翻訳がでたら、また読むらしいけれども)。以前、それにそそのかされて「アトランティスのハート」を無理して原書で読んでみたことがある(ある人がキングの最高傑作といっていたのに、まだ翻訳がでていなかったので)。ほとんど一ヶ月かかった。一冊のミステリに一ヶ月かかるというのでは、まるでお勉強である。せめて4・5日で読めればと切実に思う。本当に「英語のバカヤロー!」である。
 

英語のバカヤロー! ~「英語の壁」に挑んだ12人の日本人~

英語のバカヤロー! ~「英語の壁」に挑んだ12人の日本人~

日本語の外へ (角川文庫)

日本語の外へ (角川文庫)

この厄介な国、中国 (ワック文庫)

この厄介な国、中国 (ワック文庫)

痛快!憲法学―Amazing study of constitutions & democracy

痛快!憲法学―Amazing study of constitutions & democracy

ミステリー中毒

ミステリー中毒