W・ドイル「アンシャン・レジーム」

 岩波書店 2004年
 
 R・ポーターの「啓蒙主義」が面白かったので、同じ「ヨーロッパ史入門」シリーズの一冊である本書を読んでみることにした。
 実に当たり前のことであるが、アンシャン・レジームというのはフランス革命がおきてからできた言葉である。その時代に生きていたひとが自分の時代を「アンシャン・レジーム」などと呼んだはずがない。そしてここに書かれていることはアンシャン・レジームの時代に生きていたひとにとってフランス革命などというのは予想もしていない、想像さえできなかった世界であったということである。幕末に生きていたひとにとっても、明治という時代は想像さえできない世界であったろう。要するに未来はわからないということである。サブプライム破綻にしても、破綻のあとでは、自分はそんなことは当然予想していたとみながいうし、後知恵では、それを予想できなかったひとは愚かとしか思えないが、でもみんなアメリカの繁栄は永遠に続くと思っていたようなのである。われわれはいまある世界がそのまま続いていくと思う生き物らしい。
 本書の書き出しは、「アンシャン・レジームフランス革命によって創出された。それは、革命家が一七八九年とそれにつづく何年かに、粉砕しようと考えた対象のことである」というものである。それで思い出すのが、ツヴァイクの「昨日の世界」(みすず書房 1999年)の書き出しである。「私が育った第一次世界大戦以前の時代を言い表すべき手ごろな公式を見つけようとするならば、それを安定の黄金時代であったと呼べば、おそらくいちばん的確ではあるまいか。ほとんど千年におよぶわれわれのオーストリア君主国では、すべてが持続のうえに築かれているように見え、国家自体がこの持続力の最上の保証人であった」とある。ここでツヴァイクがいう「安定の黄金時代」がアンシャン・レジームと重なる。昔は良かった、である。もちろん、革命家にとっては粉砕すべき悪しき時代である。しかし、フランス革命がもたらしたものがあまりに悲惨なものだったので、それは古き良きアンシャン・レジームとなったのである。第一次世界大戦の悲惨によって、昨日の世界が安定の黄金時代とみえてきたように。

 以下、本書の議論をみていく。
 アンシャン・レジームとはまず第一に政治体制である。代議制なしに国王が恣意的にすべてを決める専制の時代である。それはまた、聖職者と貴族という「特権身分」が支配する社会体制のことでもあった。特権階級の支配するアリストクラシーによる封建制である。
 アンシャン・レジームをどう評価するかは、フランス革命をどう評価するかである。フランス革命に反対するひとはアンシャン・レジームを評価する。たとえばエドモンド・バークである。改革の必要はあったかもしれないが、根本的には健全であった社会を破壊した革命の罪は重いとする。それにもかかわらずなぜ革命がおきてしまったのか? 反宗教をとなえる文筆家たちの策動によるとする。教会の広大な所領を貪欲にねらう根無し草の金権主義者とそれが結託したのだと。
 しかしフランス革命を評価するひとも非難するひとも、ともに1789年が歴史の切断点であるとし、その前後に連続性も共通点もみないという点では一致している。しかし、フランス革命が批判の対象となりだすと、革命はフランスの伝統の継承であるとしてそれを擁護する見方がでてきた。そこから、特権身分の人たちの対応がまずくなければ、革命は避けられてであろうという考え方もでてくる。
 トクヴィルは1789年の断絶を最小限にものと見ようとし、フランス革命はフランス社会に長い間伏在していた多くの趨勢をただ強め完結させただけであるとみた。近代社会の流れは不可避的に平等にむかっている。ただ、その平等への希求は悪くすると、専制政治への道を切り開いたり、自由の破壊へとむかうこともあるとし、フランス革命はまさにそのようなものとなってしまったとした。革命は自由を確立したどころか、自由が機能するための社会基盤の大半を破壊してしまったのであり、ナポレオン独裁への道を拓いたとした。トクヴィルはフランスが中央集権的になり、一握りのひとが権力を握り、多くのひとが公的なことに参加できなくなったことにより、公的義務という感覚がひとびとから失われたこと、それが革命の原因であったとした。その義務の感覚がなくなると、ひとは非現実的となり、啓蒙思想のような夢物語を受け入れてしまったのだ、と。
 アンシャン・レジームは誰かの青写真によって設計されたものではないから、その本質は混沌としていて、合理的な分析をこばむ。
 現在の歴史家でアンシャン・レジーム時代を専制の時代とするものはいない。たとえば国王と対立するものとして高等法院があった。その当時にあった「売官制」がアンシャン・レジームの基礎を壊したとするものは多い。売官制がなりたったのは当時のひとびとが金銭よりも土地所有を好んだからである。これはフランス人の伝統的な感覚である。
 啓蒙思想アンシャン・レジームを批判した。しかしそれは教会だけを批判したのではなく、また啓蒙思想だけが時代を批判したのではなかった。18世紀に出現した印刷物の氾濫の中ではあらゆるものが批判の対象となった。しかし批判は断罪ではなく、啓蒙思想家が望んだのは破壊ではなく、改良であった。啓蒙思想家の本を読んでいたのは社会的エリートである。彼らは自分が啓蒙思想の批判の対象であるなどとは夢にも思ってもいなかったし、1789年の激動を自分たちが導こうなどとも思っていなかった。啓蒙思想フランス革命の原因であるという説がでてきたのは、実際に激動がおきてしまったあと、ひとびとがなぜそうなったのかと原因を探しはじめた後である。なぜなら革命家が自分たちは啓蒙思想実現のための道具にすぎないなどと言い出したからである。革命こそが、啓蒙思想をそのように見る見方を育てあげた。
 ヨーロッパの変動をもたらしたものは何か? 1560年から1660年の間におきた「軍事革命」がその原因であるとするものがある。小火器があつかいやすいものとなったため戦術がかわり、数の多さではなく、戦法と技術が重要となった。そのため常備軍が必要となった。それは多大の経費を必要とした。そのため多くの課税が必要となった。それがヨーロッパを変えていった。たとえば、イギリスが国防のためにアメリカ植民地に課税しようとしたことが独立戦争を誘発した。
 18世紀のヨーロッパ人は自分たちが住んでいる世界は1500年ごろにはじまったものだと思っていた。ルネサンスに由来する探求の精神、印刷術、東方への航路の開発とアメリカの発見、トルコの南東ヨーロッパの支配、宗教改革などである。
 フランス革命の結果、フランスの体制は混乱し、海外貿易は破壊され、1840年ごろまでフランス経済は沈滞した。それを変えたのが鉄道の出現である。これこそが本当のアンシャン・レジームの終焉をもたらしたのかもしれない。それは1840年から1870年の間におきた。ヨーロッパの農民は1860年代末には大半が自由になっていた。
 しかし1914年まで、農業はあい変わらずヨーロッパ経済の支配的な要素であった。土地と奉仕に権力の基盤をおく貴族や君主によって、ほとんどの国は支配されていた。1914年の戦争がそれらを破壊することになろうとは、当時の支配階級はだれも思っていなかった。とすれば、本当にアンシャン・レジームを終わらせたのは第一次世界大戦であったのかもしれない。
 
 とすれば、ツヴァイクの感慨はごく自然のものであることになる。ヨーロッパでおきた本当の革命は第一次世界大戦であったのかもしれない。
 本書を読んでいて、いつも頭にあったのが明治維新との関係である。明治維新などと呼ばれているが、これが明治革命であっていけない理由はないかもしれない。しかし橋本治氏は「江戸にフランス革命を!」という。(青土社 1989年)

 江戸の最大特色っていうのは、侍がいて町人がいるっていう身分制がはっきりしてて、そしてお互いが関係なく勝手に生きているっていうそういういい加減性・・。(江戸はなぜ難解か?」)
 どうして江戸の町人達には“明治維新の為の思想を用意する”という発想がなかったんだろう? 彼等は、遊んでいただけだ。日本人が“近代”である明治維新の為に、一体どういう“思想”を用意したってんだろう? 明治維新が市民革命であるかどうかなんていう発想は、このことを頭に置いたら出て来る訳がない! (「その後の江戸 ― または、石川淳のいる制度」)

 トクヴィルが指摘する『近代社会の流れは不可避的に平等にむかっている』というその近代社会の流れが日本にはなかったというのである。「アジアとヨーロッパの違いったらさ、古代の後に、自分から近代になるか、それとも外から近代にやってくられるかっていう、その差だけなんだ」(「江戸はなぜ難解か?」) 橋本氏は、江戸の町人は政治はお侍さんがやってくれると思っていて、それは自分とはかかわりのないことだと思って遊んでいたという。同じトクヴィルの、中央集権的化により一握りのひとに権力が集中し、それ以外のひとは公的なことに参加できなくなり、公的義務という感覚がひとびとから失われたという議論を想起させるが、日本では参加しようとして閉め出されたのではなく、はじめから参加しようという意志を欠いていたというのである。
 フランス革命が大事件となったのはのちのロシア革命によってであろう。フランス革命によってアンシャン・レジームが問題とされるようになったように、ロシア革命に先駆するものとして必要とされたのがフランス革命である。だから保守派はフランス革命が嫌いである。たとえば長谷川三千子氏などはそれを蛇蝎のごとく嫌っている(「民主主義とは何なのか」(文春新書 2001年))。そこではバークやトクヴィルがさかんに引用される。フランス革命を主導したとされる啓蒙思想家は「理性」のひとではなく、「他者の智恵にまったく敬意を払わない、自分自身にだけは満腔の自信をもつ」(バーク)傲慢のひとであったとされる。
 もしも『近代社会の流れは不可避的に平等にむかっている』のだとすれば、その近代への流れは不可避的に争いを生む。それは変化も生む。保守主義者というのは、変化はやむをえないとしても、それはなるべくゆっくりとおきたほうがいいとするものであろう。本書によれば啓蒙思想家は改良は望んでも、破壊は望んでいなかったとされる。ポーターの「啓蒙思想」では、本当に力をもったのはエリーと向けに発信した啓蒙思想家の著書ではなく、そのころに勃興した扇情的な大衆ジャーナリズムであるとされていた。
 それなら、知識人というのは、どのような影響をおよぼしうるものなのだろうか?
 ポパーは、われわれ知識人は多くのことをなしうるという。(「寛容と知的責任」「よりよき世界を求めて」未来社 1995年所収) 「なぜ、われわれ知識人は助けることができるのか?」

 単純です。われわれ知識人は何千年となく身の毛もよだつ害悪をなしてきたからです。理念、教義、理論の名のもとでの大虐殺 ― これがわれわれの仕事、われわれの発明、つまり知識人の発明でした。人々が相互に迫害しあう ― しばしば最良の意図をもってなされているわけですが ― ことがやむならば、それだけでも確かに多くのことが獲得されるでしょう。われわれにそれができない、と言う人はいないはずです。

 長谷川氏は、この大虐殺の主導者の一人として啓蒙思想家を名指すわけである。そして困ったことに、このポパーの文章はまさにその啓蒙思想家の代表であるヴォルテールの寛容論、われわれは誤りをおかす人間なのだから相互に許し合おうという主張を紹介したものなのである。
 一方からみれば、ヴォルテールは寛容のひと、相互に許し合うことを主張したひとである。もう一方からみれば、ヴォルテールは約60万人のフランス人が殺しあった大惨事であるフランス革命に人々を導いた害悪をなす知識人の代表なのである。
 これだけ相反する見方がありうるのだから、アンシャン・レジームが一つの像を結ぶということはありえないのであろう。
 

アンシャン・レジーム (ヨーロッパ史入門)

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啓蒙主義 (ヨーロッパ史入門)

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昨日の世界〈1〉 (みすずライブラリー)

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江戸にフランス革命を!

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民主主義とは何なのか (文春新書)

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よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)

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