村上春樹「1Q84」(3)宗教について

   新潮社 2009年5月
   
 1995年3月の地下鉄サリン事件のとき、わたくしの勤務する病院にも何人かの患者さんが搬送されてきた。外来診療をしていたら「地下鉄でガス爆発事故があり、負傷者が何人かここにもきます」という連絡がはいった。ふーんと思っていたら、今度は、ガス事故ではなく、サリンらしいという情報が入ってきた。サリン? 何だかきいたことがあるな、という程度で、どうしていいのか見当がつかず、外来担当でない医師に対応策をしらべてもらった。どうも農薬中毒の時と同じ治療をすればいいらしい、ということになった。都会の真ん中にある病院で、農薬中毒の治療など経験がないし、困ったと思っているうちに、患者さんが運ばれてきたが、さいわい軽症のかたばかりで、瞳孔を調べたりするだけで済んだ。
 
 1972年の連合赤軍あさま山荘事件は、一部のひとには大きな衝撃であったらしい。しかしわたくしにはそれは無考えなひとが愚かなことをしたとしか思えなくて、そのどこが衝撃的であるのかよくわからなかった。一部のひとにとってはそれがマルクス主義の思想運動の破綻というように捉えられたのであろうが、キリスト教をなのる団体がすべてキリスト教と関係があるわけではなく、仏教をなのる団体もまた必ずしも仏教とは関係ないように、マルクス主義をなのるからといってそれがすべてマルクス主義と関係するとは限らないのだから、その事件に思想的な意味をみたがるひとがいるのがよく理解できなかった。
 また、オウム真理教事件についても、吉本隆明中沢新一といった方々がそれを擁護しようとしているように見えることがよくわからなかった。それは世間一般のあまりに平板で深みのない反応への苛立ちからきたものだったのかもしれないが、深みへの過剰なこだわりというのはインテリの欠点なのではないかと思っていた。
 「アンダーグラウンド」や「約束された場所で」で示された、村上氏のオウム真理教への反応もまたよく理解できないものに思えた。村上氏は小説を書くという行為を宗教のめざすものと非常に似通ってものとしているようであった。「彼ら(オウム真理教の信者たち)と膝をまじえて話をしていて、小説家が小説を書くという行為と、彼らが宗教を希求するという行為とのあいだには、打ち消すことのできない共通点のようなものが存在していることを、ひしひしと感じないわけにはいかなかった。そこにはものすごく似たものがある。それは確かだ。」(「約束された場所で」「まえがき」) また「意識の焦点をあわせて、自分の存在の奥底のような部分に降りていくという意味では、小説を書くのも宗教を追求するのも、重なり合う部分が大きいと思うんです。」(「約束された場所で」「河合隼雄氏との対話での村上氏の発言) ただ(疑似?)宗教と小説が違うのは、「どこまで自分が主体的責任を引き受けるか、というところ」であり、「僕らは作品というかたちで自分一人でそれを引き受ける」のに対して、「彼らはそれをグルや教義に委ねてしまう」「そこが決定的な差異です」ということになる。
 「アンダーグラウンド」のかなり長い後書きである「目じるしのない悪夢」で、村上氏は1990年2月の衆院選挙におけるオウム真理教の例の異様な運動をみて感じた名状しがたい嫌悪感、理解をこえた不気味さということをいっている。なぜ自分は他の新宗教には感じない強い反応をそこに感じたのか、それは我々が直視することを避けている「自分の内なる影の部分(アンダーグランド)」をそこにみたからではないか、と氏はいう。
 わたくしもまたあの選挙運動に嫌悪感を感じたものの一人であるけれども、そこに「自分の内なる影の部分」などは少しも感じなかった。この選挙運動をどうみるかについては橋本治氏の見解に全面的に同意する(というか、このオウム真理教事件をどうみるかについて、ほぼ100%橋本氏に教えられた)。「白衣を着た竹の子族みたいなもんが幼稚な歌を歌って踊って、頭には象のお面をのっけて、ハリボテの醜男のお面をかぶって、「一体誰がいまどきあんなもんに投票するっていうんだ?」というようなカッコをして、それで一向に恥じ入らなかった−ということは、どう考えたってアレがまともな神経の持ち主のすることじゃないということだ。(中略)あのバブルという、“オシャレ”だけが取り柄の時代に、あれだけのことをできる神経は、尋常なものじゃない。「人に媚びる気がまったくない」と言うべきか、「対外認識がゼロ」と言うべきか・・。/ あれが平気でいられる麻原彰晃なる人物の神経がよく分からない。(中略)私がオウム真理教を恐怖するとしたら、その理由は、あの信じがたいほどの美意識の欠落にあるのだけれど、それをそうと思わない人間達も、また一方には大勢いるのだろう。麻原彰晃の“神秘”の正体は、都会人に変身することによって田舎者が失ってしまった、“混沌とした土着”なのだ。」(「宗教なんかこわくない!」)
 「自分の存在の奥底のような部分」とか「自分の内なる影の部分」とかいう言い方が困る。大袈裟なのである。これは、もう少し煮詰めた言葉にすると「悪」に収斂するのだろう。文学の課題は「悪」の問題を探ることであるし、宗教の課題もまた然り、ということになる。
 「1Q84」を読み始めてすぐに感じたのは、ここで取り扱われようとしている「悪」のスケールが随分と小さいのではないかということである。それがたとえばDVなのである。そういうものを人間が抱える「悪」を代表するものとして出してしまうというのは安易すぎないかと思った。それは誰が見てもほとんど自明と思われる「悪」である。オーウェルの「1984年」であつかわれる「悪」はずっと大きい(のだろうと思う。読んでいないけれど)。しかもそれは必要な「悪」であるのかもしれないし、悪ですらないのかもしれない。これはほとんど「大審問官」の問題である。
 「カラマーゾフの兄弟」の「大審問官」の章の直前に、イヴァンが自分の集めた様々な子供の虐待の話をアリョーシャにきかせる場面がある(第5篇第4章)。ある子供を虐殺する将軍の話をきいて、アリョーシャはその将軍を「死刑に処すべきです!」という。それをきいてイヴァンがいう。「そらね、お前の中にも、そんな悪魔の卵が潜んでるじゃないか、え、アリョーシャ・カラマーゾフ君!」 「1Q84」は「カラマーゾフの兄弟」を意識した作品であるが、この小説に登場する女性たちがこうむる不幸は、イヴァンが列挙する子供の不幸に対応しているのではないかと思う。
 無垢な子供が残虐な目にあうとしたら、神は悪であるか、存在しないかであるしかないとイヴァンは主張する。しかしドストエフスキー自身は、どれほどの悪が存在しようとも、この世は神が作り給うたものであるがゆえに美しいということ書きたくて「カラマーゾフ」を書いているわけである。だがそれについに成功しなかった、とモームは言っている(「世界の十大小説」)。
 「カラマーゾフ」の魅力あるいはドストエフスキーの大きさは、その矛盾の内に存在する。作品が作者の意図を超えるのである。作者が作品をコントロールできなくなって、作中の人物が勝手な行動をはじめて、好きなことをいいはじめる。「1Q84」がなんだか少し静的な印象をあたえるのは、登場人物がすべて村上氏の手の内にあって、その手のなかで踊っているように思えるからである。
 大ドストエフスキーと村上氏を較べるのは気の毒なので、村上氏としても作中人物を自由に行動させようとしているのであろう。《自分の存在の奥底のような部分に降りていく》というのはそのような意味であろう。頭で書くのではなく、自分の意識にのぼってこない部分に存在しているものの力の導きにしたがって書いていく。
 しかし、《存在の奥底のような部分》にある引きだしが案外と少ないのかもしれない。それが如実に表れてと思われるのが、青豆とリーダーの対決の場面である。この小説において、もっともっと大きな存在でなければいけないリーダーは何だかとてもしおらしい。はじめから《青豆−天吾》軍団に降参する気でいる、とても気弱な人なのである。もっと大審問官のように火をふくような信念を滔々と展開してほしい。
 しかし、そんなことをいっていても仕方がないからリーダーのいうことをきいてみよう。「真実というのはおおかたの場合、あなたが言ったように、強い痛みを伴うものだ。そしてほとんどの人間は痛みを伴った真実なんぞ求めてはいない。人々が必要としているのは、自分の存在を少しでも意味深く感じさせてくれるような、美しい心地良いお話なんだ。だからこそ宗教が成立する」 これはもちろん「大審問官」に対応する。大審問官は復活したキリストの前でいう。「人間は良心の自由というような重荷に耐えられる存在ではない。人間はたえず自分の自由と引き換えに、パンを与えてくれる相手を求め、その前にひれ伏すことを望んでいる。人間はパンのためには奴隷にでもなりたがるのだ。だからこそわれわれは、人間をその望み通りに自由の重荷から解放してやったし、そのもっとも欲しがるパンを与えてやった。われわれはもはやお前にではなく、悪魔についている。これが秘密だ。どこに文句があるのか」と。(竹内靖雄氏による「世界名作の経済倫理学」での要約)
 「真実」が「自由」に、「心地良いお話=宗教」が「パン」と対応する。現在においては飢えはもはや焦眉の問題ではなくなっているから、「パン」ではなく「心地良いお話」をもとめるというのである。大審問官は、「人はパンのみにて生くるにはあらず」などというのは嘘で、ひとは「パン」のためなら「自由」など平気で売り渡す、という。しかしこのリーダーがいっているのは、ひとは「パン」のみでは充たされることはなく「自分の存在を少しでも意味深く感じさせてくれるような物語」なしでは生きられない、ということである。まさに「人はパンのみにて生くるにはあらず」なのである。
 それではリーダーがいう「ほとんどの人が直面するのを拒否する真実」というのは何なのか? それはたとえばbook1の第17章での青豆と老婦人の対話での老婦人の言葉である。「人間というものは結局のところ、遺伝子にとってただの乗り物(キャリア)であり、通り道に過ぎないのです。彼らは馬を乗り潰していくように、世代から世代へと私たちを乗り継いでいきます。そして遺伝子は何が善で何が悪かなんてことは考えません。私たちが幸福になろうが不幸になろうが、彼らの知ったことではありません。私たちはただの手段に過ぎないわけですから。彼らが考慮するのは、何が自分たちにとっていちばん効率的かというだけです」 青豆はきく。「それにもかからず、私たちは何が善であり何が悪であるかについて考えないわけにいかない。そういうことですか?」 老婦人は答える。「そのとおりです。人間はそれについて考えないわけにはいかない。しかし私たちの生き方の根本を支配しているのは遺伝子です。当然のことながら、そこに矛盾が生じることになります」
 ここの部分を読んでいて、ドーキンスの「利己的な遺伝子」説があまりに剥き出しのままでてくるのでびっくりした。ここでの老婦人は(村上氏も?)ドーキンスの説を、科学のほうから見ると、人が「生きることには意味がない」という意味にとっているのだと思う。そういう科学からみた人間観(=真実あるいは事実?)にひとは耐えられないのだ、と。しかし「利己的な遺伝子」の含意は、目的をもって世界を創造した神などはいないということだけであるはずである。神はいないのだから、人はあらかじめ善き者として作られているなどということはない、ということである。
 だから「私たちは何が善であり何が悪であるかについて考えないわけにいかない」などとアプリオリにってはいけないわけである。何が善で何が悪かなどということは少しも考えず、子供を虐殺することを無上の楽しみとするような人間もまた事実としているわけである。イヴァンのいうように神はいないことになる。
 オウム真理教信者へのインタヴュー集である「約束された土地で」に、神田美由紀という信者からの聞き書きがある。「現世のものごとにはまったく価値を見いだすことができないし、自分の中の精神世界を追求する以外のことにはほとんど興味を持つことがない」という人なのだが、村上氏は「世間にはこういう人がいてもいいんじゃないか」とし、「世に中の直接役に立たないようなものごとについて、身を削って真剣に考える人たちが少しくらいはいてもいいはずだ」といって、「こういう人たちを受け止めるための有効なネットが、麻原彰晃率いるオウム真理教の他には、ほとんど見あたらなかったこと」が問題なのだとしてる。現世とは無縁の精神世界、あるいは肉体と無縁の精神世界というのはわたくしには異常なものとしか思えないが、村上氏はこの神田美由紀という女性にとても同情的である。こういうところが村上氏のわからないところで、「自分の存在の奥底のような部分に降りていく」ことにこだわる氏にとって、この女性のしていることが他人ごととは思えないのであろう。しかしわたくしは「実を言いますと、私の前世は男性だったんです」などというひとには近づきたいとは思わない。
 「村上春樹河合隼雄に会いにいく」で、村上氏は「オウム真理教」の物語の稚拙さということをいい、しかし稚拙であることのもつ力もあるということもいって、今の社会では「物語」があまりに専門化、複雑化しすぎてしまっているのではないか、それでオウムの稚拙(河合氏によれば素朴)な物語がかえってひとを引きつけたのではないかという。この神田さんという女性のいっていることも素朴といえば素朴、稚拙といえば稚拙である。そういう人にオウムの物語にかわる別の「素朴」な物語を提示するということが、この「1Q84」の執筆動機の一つとなっていると思う。それが一番よく表れているのが、本書の基本的な枠組みの天吾と青豆の「愛」の物語である。「それから王子さまとお姫さまはいつまでも幸せに暮らしましたとさ」といった説話的な構造をそれは踏まえているように見える。
 リーダーは続ける。「多くの人々は、自分たちが非力で矮小な存在であるというイメージを否定し、排除することによってかろうじて正気を保っている」のだ、と。「人の肉体が非力で矮小なものであることは自明ではないか」という青豆に、リーダーは「それでは精神は?」と問う。青豆は「精神については考える必要はない」といい、それは「私には愛があるからだ」という。それに対し、「非力で矮小な肉体と、翳りのない絶対的な愛・・そういうあり方自体が、言うなれば宗教そのものだ」とリーダーはいう。
 「私には愛があるから」などというのを読むと、誰でもがのけぞると思う。まったくリアリティのない言葉である。「肉体は滅びるが、愛は永遠である」なんて、いまどきよくこんなことを書けるものである。これは村上氏がいっているのではなく、作中人物である青豆さんが言っているのだとしても。まるで「マディソン郡の橋」である(読んでいないけれど)。おそらく「マディソン郡の橋」もまた「それから王子さまとお姫さまはいつまでも幸せに暮らしましたとさ」という物語類型の一つの変奏なのであろう。「失楽園」(渡辺淳一氏のほう)もまたそうなのだろうか? 読んでいないけれど。
 ここまではとにかくも宗教のことを語っていうように思える。しかし、リーダーは自分は宗教行為をしているのではないという。自分は誰かの声を聴いて、それを人々に伝達しているだけなのだという。そしてフレーザーの「金枝篇」を持ち出すのである。例の「王殺し」の話である。フレーザーもまた読んでいないのだけれど、そこでの「王殺し」は五穀豊穣とかそっちの方面の話なのではないだろうか? 干天に雨を降らせ、大地に実りをもたらす力を持ったものが王で、その力はたかだか10年か20年しか続かないとされたから「王殺し」が必要になったのであり、《自分たちが非力で矮小な存在であることから目をそむけて正気を保つ》という方向とは全然異なるように思う。
 加藤典洋氏は「羊をめぐる冒険」を構想させたものの一つにコッポラの映画「地獄の黙示録」があるのではないかといっている(「自閉と鎖国」「村上春樹論集 1」)。これはコンラッドの「闇の奥」を下敷きにしているといわれるが、「金枝篇」も下敷きになっている。本書でのリーダーはメコン河の奥に王国を築いたカーツ大佐なのであり、青豆はウィラード大尉なのかもしれない。少なくともこのリーダーはカーツ大佐を気取っている。それがリーダーにとって、《自分が非力で矮小な存在であるというイメージを否定し、かろうじて正気を保つ》ために必要なことなのである。「金枝篇」が示されることは、「1Q84」が神話的な構造を背景に持つことを明示している。
 リーダーはいう。善とか悪とかは固定してものではない。それは互いに入れ替わる。「カラマーゾフの兄弟」はそのような世界を描いている。大事なのは善と悪のバランスであり、それが均衡していることが真の善なのだ。そして自分が生き続けることは悪のバランスが勝ちすぎるから、ここで死んだほうがいいという。
 ここらあたりでリーダーがいっていることがまったく理解できなくなる。このリーダーはリトル・ピープルの代弁者となっているはずなのだが、リトル・ピープルから独立した個として発言している。リトル・ピープルの勢力があまり伸張するのは好ましくないと思っているようなのである。何だかリトル・ピープルに対して評論家的にふるまっている。「さきがけ」というのはどのような教義をもつ宗教団体なのだろか? それが具体的に示されていないのがこの小説の欠点である。敵であるべきリーダーが半分、青豆を祝福しているというのでは、物語が弱くなると思う。
 このように見てくると、村上氏は人々が何らか宗教的なものを持つことは絶対に必要だとしているように思える。ただそれは出来合いの既成のものではなく、各人がそれぞれ自分のために一つづつ手作りで作り上げるものでなくてはならないとしている。そして各人が自分のために宗教(それは物語と呼ばれても別に構わないのだが)を作るその触媒あるいは呼び水として小説は有効であり、自分の書く小説もまたそれに役立つものであって欲しいとしているように思える。
 

1Q84 BOOK 1

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アンダーグラウンド (講談社文庫)

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約束された場所で (underground2)

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世界の十大小説〈下〉 (岩波文庫)

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利己的な遺伝子 <増補新装版>

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闇の奥 (岩波文庫 赤 248-1)

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