水村美苗「日本語が亡びるとき」

   筑摩書房 2008年10月
   
 水村氏の本を読むのははじめてである。前に岩井克人氏の「資本主義を語る」を読んだとき、最後のほうの対談で、岩井氏の対談相手として水村氏がでてきた。なんだか変に親しげな会話ぶりで、何だこれは?と思ったのだが、あとから二人はパートナーであるらしいことを知った。しかし夫婦で公的に対談などするものだろうか? いずれにしても、あの岩井氏と対等に(というか一部岩井氏を子どもあつかいしている箇所さえあるくらい)渡りあっているのであるから、インテリである。インテリの書く小説はつまらないという偏見を持っているので、水村氏の小説は読んでこなかった。今後も今のところは読むつもりはない。第一「明暗」も読んでいないし(恥)。「明暗」も読んでいない人間など、氏は「叡智のある人」とは思わないであろう。「叡智のある人」というのは氏によるホモ・サピエンスの訳である。
 本書を読んでみようと思ったのは内田樹氏のブログで紹介されているのを読んでである。もしも日本が明治のはじめアメリカの植民地となっていたら、今のような日本語はなかったであろうということが書かれているとあった。確かにそのことが書かれているのだが、それは前段であり、このままいくと結局はアメリカの植民地になったのと同じ日本語になってしまうのではないかというのが本書の一番の主張である。
 水村氏はいう。現在、世界の「普遍語」は英語である。それは(おそらく)未来永劫変らないであろう。そうであるなら、これからの日本の「叡智のある人」「叡智を求める人」は本当に大事なことは英語で読み英語で書くようになっていくであろう。そうであるなら日本語は亡びるであろう、と。日本人が英語を話し、英語を読むようになっていくという話ではない。そうではなく日本語はどうでもいいことチャットのようなおしゃべり、他愛のないメールのための言語となっていって、まともなことを考え深い情感を表すことのできる言語ではもはやなくなっていくだろうというのである。なぜなら、そういうもっとも陰翳に富む言語を提供してきたのは文学作品なのであるが、これからは才能豊かな「叡智を求める人」が日本語で文学を創る世界などに入ってくるとは思えないから、と。
 だから、ここでいう日本語が亡びるというのは、これからは日本語で書かれた優れた文学作品がもう書かれないだろうということである。水村氏によれば、すでに日本の文学の世界は荒れ果ててしまっている。
 西欧ではかつて普遍語はラテン語であった。それがあるときフランス語となったことがあるが、今は英語であり、今後も英語であろう。その間、国民国家の勃興の時代に国語が生まれた。もともと普遍語が必要とされたのは「文人」「エリート」「高級インテリゲンチャ」などの少数の選ばれたものたちの間での交流のためである。ラテン語は書き言葉であり、日常の会話に用いられたものではない。人類の叡智は書き言葉に蓄積される。普遍語の究極が数学言語である。それは数学言語を解するすべてのひとに開かれている。叡智を求めるものは必然的に二重言語者とならざるをえなかった。母語と普遍語である。
 普遍語はなによりもまず学問のためのものである。学問はそれが何語で書かれているかに依存しない。水村氏によれば、〈国語〉とはもともとは〈現地語〉であったものが、翻訳という行為を通じて〈普遍語)と同じレベルで機能するようになったものである。ここにおいて翻訳ということが決定的な重要性をもつ。本来は翻訳とは高い地位にある言語から低い地位にある言語にむけておこなわれる。それは言語のヒエラルキーを前提とする。しかし、それならば〈国語)で学問するということは可能なのだろうか? それが可能であったのはヨーロッパというギリシャ語とラテン語を共通の起源にもち、抽象言語を共有している場所においてだけであった。知識人は普遍語と英語、フランス語、ドイツ語を読めたが自国語で書いた。彼らは相互に相手の言葉で書かれたものを読めた。しかし、西欧以外の地域においてはそんなことは期待できない。そこで学問は普遍語でするものであるという問題が露呈してくる。非西欧圏の学者が自国語で書いても誰が読んでくれるだろうか? 
 ヨーロッパにおいて学問が国語でなされるようになった時代は同時に小説の世紀でもあった。〈国語の祝祭〉の時代であった。19世紀半ばに小説は頂点をむかえた。学問が専門化するとともに、かつては宗教書にあった「人間とは何か」「人はいかに生きるべきか」という問いに答えるものは〈学問の言葉〉ではなく〈文学の言葉)となった。文学は学問を超越するものとなった。小説は「神が存在するか」あるいは「戦争と平和」さらには「人類の運命」から、「日常生活の卑近な出来事」までも描くことができるものとなった。
 そうするうちに小説の言葉は詩のように翻訳が困難なものとなってきた。小説は翻訳不可能な〈真理〉をもとめるようになった。ふたつの〈真理)がある。翻訳不可能な〈真理〉と翻訳不能な〈真理〉。テキストブックに書かれうる〈真理〉、すなわち学問の〈真理〉と、テキストそのものにあたるしかない〈真理〉、文学の〈真理〉、文体に宿る真理である。一方に数式、他方に詩。国語で学問と文学の双方が書かれる時代において小説は栄える。
 日本に明治に早々に国語が立ち上がったのは江戸時代の教育の普及と経済の発達もあるが、日本が植民地とならなかったことが最大の理由である。もし植民地となっていたら、日本のエリートは英語で読み、英語で書くようになっていたであろう。しかし、日本は植民地とはならず、明治の知識人は西洋語で読み、日本語で書いた。その国語が日本近代文学を可能にした。しかしその過程で漢文は日本では死んだ。それにかわって「親愛なるあしながおじさん」などというそれまでの日本語では考えられなかった言葉が翻訳をとおして日本語として流通するようになった。
 世界的に小説が読まれなくなってきているといわれる。その原因は、1)科学の急速な進歩、2)〈文化商品〉の多様化、3)大衆消費社会の実現であろう。人間とはなにかは科学が答える問題となった。映画やテレビやインターネットが普及した。「ハリー・ポッター」が世界中で読まれるようになった。
 しかし、と水村氏はいう。科学には答えられない領域がある。意味の領域である。科学は「人がいかに生きるべきか」を教えない。だから、これからも〈叡智を求める人〉は〈読まれるべき言葉〉をこれからも求め続けていくであろう。問題は英語の世紀に入ったことである。〈叡智を求める人〉が何語で読み、何語で書くかである。水村氏はそれが英語になっていくのではないかという悲観的な見通しを示す。非西洋語を母語にする人にとって英語で書くのはやはり困難である。そうだとすればより容易な普遍語である数学が通用する分野、数式が通用する分野に、有能なひとはいってしまうのではないか、国語の有能な書き手は文学の方面には残らないのではないか。そうだとするとそのような有能でないひとが日本語で書く小説など「叡智を求める」有能なひとは読まなくなるのではないか。
 すでに日本の文学はそうなってきているのではないか、と水村氏はいう。グローバルな文学などというものは存在しないのに、世界でどのくらい読まれているかなどということが価値であるかのようにいわれる。
 
 水村氏のHPでみたら、本書のタイトルの英訳は、The Fall of the Japanese Language in the Age of English となっていた。日本語のタイトルの「滅びる」は大げさであり、英語のタイトルのほうが内容に近い。「衰退」である。本書がいおうとしていることは、日本人がいずれ、おはようではなく good morning というようになるだろうということではなく、日本語ではもはや優れた文学作品が書かれなくなる可能性があるということである。水村氏はそれは未来の話ではなく、もうすでに現在おきつつあることであるとし、いま日本で文学といわれているものにはまともなものがほとんどなくなってきているという。日本の現代文学はすでに一望の荒野であるという。(ただし、具体的な例は示されない。だから自分には面白くない作品ばかりであるといっているだけのようにもとれる。それがこの本の説得力をいささか弱めている。)
 ここで一つ疑問が生じる。優れた文学作品が書かれないのは日本だけの現象なのだろうか? 現在唯一すぐれた文学作品が書かれているのは英語によるものだけであり、フランス語でもドイツ語でもまともな文学作品はもう書かれなくなっているであろうか?ということである。
 英語が「普遍語」となり、英語で書かれていないものは「叡智を求める人」は誰も読まないということであれば、そうなるはずである。だが、英語ですら現在ではまともな文学作品は書かれなくなってきているという見方もあるかもしれない。そうなら、これは日本語あるいは日本文学の衰退ではなく、世界的な文学の衰退である。水村氏の主張にはそのどちらももがふくまれているように思える。氏の論旨はやや混乱しているようにみえる。
 さらに水村氏が小説を書くひとであることが問題をいっそうややこしくしている。小説は文学の中でも随分と新参の形式であり、本書にも書かれているように19世紀なかばにその最盛期をむかえている。それは現在ではすでに「衰退」しつつある形式であるのかもしれない。そうであるなら、才能あるひとが、あるいは才能があるひとであればあるほど、小説を書くことに興味を示さないということも十分にありうることである。
 しかし、それにもかかわらず水村氏は小説を愛するひとである。氏が漱石の続編を書いたり、「嵐が丘」の骨格に依拠した小説を書いたりしているらしいことは示唆的である。氏は小説がもっとも豊かであった時代の作品の後継者でありたいと望んでいる。
 文学の精華は詩である。それは歌う。詩のあとには散文がくる。それは考える。詩と散文があれば文学はそれで十分なのかもしれない。小説というものがなければいけないのかは自明ではない(劇は詩の延長上にあるとしていいだろう)。
 詩にも叙事詩があり、われわれは神話をもつ。小説は叙事詩や神話に由来するものなのかもしれないが、それは英雄や神々を描くものではなく、われわれと同じような小人を描く。どのようにつまらなくみえる人間であっても、よくみれば描かれる価値をもっているという発見が小説という形式をつくりだした。小説とは、人間研究である。
 かつては人間研究は小説の独壇場だった。しかし、本書にも書かれているように、人間研究の分野に科学が参入(乱入?)してきた。脳を研究したり、進化を学んだりするほうが、小説を読むよりはるかに人間について多くのことを知ることができるかもしれないと思われるようになってきた。だから優秀なひとが文学の世界にはいってこなくなったことは必然であり、文学の世界が貧相になってきているとしても、それは日本に限ったことではなく、世界の趨勢である可能性が高い。だから問題は、すぐれた文学作品が書かれるか否かではなく、通常の散文の質である。
 本書でも指摘されているように、自然科学の分野の論文は英語で書かなければ誰も読んでくれない時代になってきている。これは人文科学の分野にもおよんできているようで、アリストテレス研究も、プルースト論も、ハイデガーについての考察も(ハイデガーは慨嘆するかもしれないが)英語で書いてなければ相手にされないようである。ハイデガーが今生きていれば何語で書いただろうか。もちろんドイツ語であろう。ギリシャ語とドイツ語以外では哲学はできないのだそうであるから。いやしくも哲学を学ぼうとする気概を持つ人間にしてドイツ語を解さないなどということはありえない。ドイツ語がわかる人間だけが自分の書いたものを読めばいいのである。スタイナーが英語で書いたハイデガーについての本を日本語訳で読んでいるわたくしのような存在は言語道断なのである。
 ハイデガーヘルダーリンの詩を論じ、ドイツ語の語源を探っていく。Sorge は英語では care と訳される。Care は「看護」でもある。事実、ハイデガーについて滔々と論じている看護論もある。それは英語で書かれている。
 本居宣長の文を英語に訳せるだろうか? あるいは小林秀雄の「本居宣長」を英語に訳せるだろうか? そんなことは考えるだけ無駄で、本居宣長小林秀雄も日本人のために書いたのであり、訳す必要がない。しかし小林秀雄をつくったのはフランス文学である。
 この「日本語が亡びるとき」もまた普遍語である英語で書かれるべきだったのだろうか? この本もまた日本人のために書かれたものである。当然、日本語で書かれなくてはならない。
 明治期において西洋文明をとりいれたこと、われわれの持つほとんどの問題はそれに起因している(あるいはもっと昔、中国の文明を輸入したこともふくめ)。本書もまたその問題意識のもとに書かれている。非西欧の国々で日本と同じような環境にある国は多いであろう。そういう国々のひとびとにとっては、本書は他人事ではないかもしれない。本書の第一章はまさにそういう問題意識の提示である。非西欧の人々にとっては本書は意味があるかもしれない。それなら、本書は英訳されるべきなのかもしれない。しかし、夏目漱石二葉亭四迷や漢字仮名交じり文やひらがなやカタカナを論じた本書は明確に日本人にむけて発信されている。東南アジアの人々への発信を意識した場合には当然もっと違う書き方になったはずである。
 日本人にむけて日本人が発信する書物が必要とされる限り、そしてそれを書くひとが普遍語でかかれた書物も読んでおり、自分の議論をつねに普遍語での知識を参照しながら展開するのであれば、日本語が亡びることはないだろうと思う。そういう「叡智を求めるひと」は英語で考え英語で発信するようになるから、純粋に日本に限局した問題についても、英語で書くようになってしまう可能性があるというのが水村氏の危惧である。だが、日本人しか読まない日本についての論議が英語で論じられ英語で書かれるなどということがあるだろうか?
 問題は日本が明治期において西欧文明を受け入れたという文明開化の問題がわれわれのもつ問題のすべての根っこにいつでもあることを自分の問題であると感じるひとがこれからも居続けるだろうかということである。自分が名誉白人になったつもりとなり、日本の問題は世界の問題であり、世界の問題はまた日本の問題で、日本に固有の問題はないと考えるひとばかりになれば日本語は亡びるであろう。要するに日本人が歴史をもたない民族になれば日本語は亡びる。
 だが、そんなことが起きるだろうか? 英知をもとめるひとは、また歴史を知ろうとするひとではないだろうか? 地域に固有な問題はなくなり、存在する問題はすべてグローバルなものであるなどという時代がくるということはありえないようにわたくしは思う。
 今わたくしが好んで読んでいるのは、みな文明開化の問題、歴史の問題を自分の問題であるとしているひとばかりであるように思う。養老孟司橋本治内田樹といった方々である。丸谷才一氏もその系列に入るのであろうか? もう少し前のひとでいえば、福田恆存吉田健一といった方々である。三島由紀夫氏もまたその系列にはいるのであろうか?
 確かに狭い意味の日本文学が亡びるということはあるかもしれない(しかし、日本語で考えるひとがいる限り、日本語の散文は書かれ続けるでろう)。それはいけないことなのだろうか? 本書でちょっと変に思えるところは、煎じ詰めると、水村氏は自分が感嘆できるような日本語で書かれたすばらしい文学作品がこれからもたくさん書かれてくれないと困るといっているだけのようにも読めることである。文学者は水村氏のためにだけ書くわけではない。
 大事なのはまず日本語である。それがなくなるとわれわれは考えられなくなる。日本語にくらべれば文学作品などは二の次であり、ましてや小説などはどうでもいい。言葉は歌うこともできる。しかしそれは少数のひとがすればいいことである。詩を一向に解さないひともたくさんいるかもしれない。しかしそういうひとが別に人非人であるわけではない。文学者が人格者であるわけでもない。
 言葉は考えるためにある。少なくとも考えることを可能にさせてくれる。歌うのとは異なり、考えることはすべてのひとがする。そして母語以外で考えることはわれわれはできない。(だからもちろん、水村氏がいっていることは、日本語が衰退してくると、日本人は考えることができなくなっていくのだという強い危惧なのだが。)
 「東西文学論」で吉田健一氏がとんでもなく変なことをいっている。「明治以後の文学者たちが苦心して築き上げた現代の日本語といふものさへ残つてゐれば、そして外国の文学作品を従来通り読むことが出来れば、その明治から今日に至るまでの文学者達が書いたものが一つ残らず消えてなくなつた所で、誰も不自由はしないのではないだらうか」というのである。
 明治大正の文学などなくてもいいといいたげな吉田氏(ある意味で普遍語を解するするので、国語の文学などいらないといいだしそうなひと)と漱石を愛する水村氏は正反対であるようにもみえるけれど、われわれが使っている日本語が明治の作家たちの努力の賜であることはともに認める。
 「アメリカから日本文学の研究に来た若い連中の感想など聞いてみると、明治以後の日本文学には何もなくて、その中にぽつんと漱石があり、それから芥川竜之介、それから暫くして太宰治がゐるといふ風なことになるらしい。」「漱石芥川竜之介も(中略)彼らのした仕事の材料になつたものが全く偶然に、例へば簡単に英語に直せる性質のものだつたのだと思ふ。」 そう吉田氏はいうのだが、一方、漱石の偉大は翻訳では伝えられないと水村氏は嘆く。「I am a Cat」ではいかんともしがたい。どこかで、せめて「Here am I, a Cat」くらいには訳さなくてはと福原麟太郎氏がいっていた。われわれの読んでいる翻訳というのは「I am a Cat」なのだろうなあ、と思う。
 「日本の文学者がして来たやうな仕事は、外国では普通は詩人しかしないものだといふことが外国人には呑み込めないのである。」 そう吉田氏はいう。日本で小説とされているものが、西欧のひとには小説とは思えないということで、だから小説としての骨法をまもった漱石や竜之介の作品がまだ理解されるということなのだろう。
 「太宰治の作品は確かに恐ろしく読み易い。それが不思議に感じられる程、外国文学と比較すると、日本の作品には読み易いものが少ないのである。だから太宰の場合、そこが外国的だとも考えられるので、読めるといふのが外国の文学作品では最低の基準になつてゐることを思へば、日本の文学といふのは何か妙なものだといふ気がする。」 要するに太宰は日本語がうまいので、だからこそ日本語を解する外国人には理解できても、外国語への翻訳は困難となる。
 たまたま村上春樹氏の「1Q84」を読んだあとにこれを読んだため、それがつねに頭にあった。水村氏は、「1Q84」は「普遍語」で書かれた無国籍の文学であり、われわれの国語を豊かなものにしていくことに資することはないというのではないかと思った。
 全体を通しての印象は、なんとなく話が大袈裟というか極端というか余裕がないというかユーモアがないというか、そういう印象であった。「叡智を求める人」などというのはちょっと勘弁してほしいと思った。それと中学くらいから米国で育ったという経歴のためか、ところどころ日本語としておかしなところがあるように思えるところがあった。フランスでの講演のところ、「である」体と「です・ます」体が混交しているように思えた。それからたまたま気がついたことなのだが、「カンボジアクメール・ルージュにいたっては読書人をすべからく虐殺した」という文があった(p303)。これは「すべて虐殺した」であろう。以下はすべて呉智英氏からの受け売り(「封建主義、その論理と情熱」)なのだが、この「すべからく」の誤用は非常に多いのだそうで、「こういった誤用者たちは(中略)叡智の道を歩むことなく、そのくせ、裏口からでも叡智の王国へ入りたいという姑息な欲望や上昇志向だけは人一倍強い」のだそうである。
 総じてインテリにあらざればひとにあらずとでも言いたげなところがあって、自分を相対的にみるという視点にいささか乏しいように思った。世界にもっとも大きな害をあたえてきたのもインテリであって、ポルポトさんというひともフランスに留学した大インテリであったはずである。インテリは権力をとらないほうがいいのだが、水村氏は自分に日本の国語教育をまかせてもらえればといいたげなのである。
 

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

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