村上春樹「若い読者のための短編小説案内」
文藝春秋 1997年10月
村上氏の「1Q84」を読んで、感想めいたものを少し書いたが、何だか書ききれていないという、すっきりしないものが残った。
「1Q84」という小説の問題はよくも悪くも物語の部分にあり、それがこの小説の評価に深くかかわっているのだと思う。しかしそれは長編小説であればこそ生じる問題である。わたくしには「海辺のカフカ」や「1Q84」よりも「神の子どもたちはみな踊る」や「東京奇譚集」のほうがより印象深いものに感じられる。後者は短編集である。もしも村上氏の長編作品のもつ力が主として物語の力に依拠するものであるとするならば、短編作品のもつ力は何によるのだろう?
そんなことは考えても仕方がないのだけれども、そういうことを考えさせる何かが「1Q84」にはあるらしい。
それで村上氏の短編小説への見方が色濃くでていると思われる本書を思い出した。これは氏がプリンストン大学でした講義にもとづくらしい。いわゆる「第三の新人」とよばれる人たちの作品を中心に短編小説を学生たちと読み込んでいく形で書かれている。具体的には、吉行淳之介、小島信夫、安岡章太郎、庄野潤三、丸谷才一、長谷川四郎がとりあげられている。年譜によれば、サブテキストとして江藤淳の「成熟と喪失」が用いられたそうである。最初は吉田健一もとりあげられる予定であったらしい。それがないのはわたくしとしては大変に残念である。
江藤氏の「成熟と喪失」を読んだのがいつであるのかもうよく覚えていないが、1967年刊とあるから、大学2年のころであろう。読むひとが読めば小説というのはここまで読むことができるのかと大変に驚いたことをよく覚えている。この本でエリック・エリクセンの名前を知り、アイデンティティという言葉を知った。《ゆっくり行け、母なし仔牛よ、ゆっくり行け》という歌にみられるカウボーイの孤独を反対の極において、日本のその当時の小説、小島信夫の「抱擁家族」、庄野潤三の「夕べの雲」、吉行淳之介の「星と月は天の穴」、安岡章太郎の「海辺の光景」などを論じ、それらの作家の抱える問題と日本社会の病理を論じていた。「抱擁家族」や「夕べの雲」を分析していく手さばきのあざやかさはほとんど魔法をみているような感じで、ただただ感嘆した。ただエリクセンの著作だけを論拠にこれだけのことを言い切っていいのかなあという疑問も少し残った。
吉行淳之介の小説はそれ以前にも初期の娼婦ものなどを読んでいたが、小島氏や安岡氏や庄野氏の小説は読んでいなかったので、「成熟と喪失」のあとで読んだ。それでここで村上氏がとりあげている作家の作品は長谷川氏のもの以外はかなり読んでいた(ただしここでとりあげられている吉行氏の「水の畔り」と庄野氏の「静物」は、作品自体は読んでいない)。
「まずはじめに」で、村上氏は自分は日本の小説はあまり読まずに(読めずに)小説家になったことをいい、40歳を過ぎて、何冊かの小説を書き、自分の文体が固まったことを自覚した時点において、日本の小説をまとめて読むことをはじめたことを述べる。しかし、いわゆる自然主義の小説、私小説はほぼ駄目で、太宰治も駄目、三島由紀夫も駄目だったという。いちばん惹かれたのはいわゆる第三の新人、安岡章太郎、小島信夫、吉行淳之介、庄野潤三、遠藤周作といったひとたちであり、またその前後に登場した長谷川四郎、丸谷才一、吉田健一といった作家たちにも興味をもったという。そういう作家たちにひかれるということは、それらの作家たち何か共通点があるためなのだろうかと考えるためにプリンストンでの授業をしたのだという。もっとも小説は面白ければそれでいいであり、「頭をひねらせずに心をひねらせるのが本当に優れた小説である」ともいうのであるが。
いわゆる第三の新人が当時はマイナー・ポエットとみられていて、大きな政治的なテーマをとりあげているようにみえた戦後派文学者たちにくらべてずっと軽い、すぐに消えていくような存在と見られていたこと、(長谷川氏のことはよく知らないのだが)丸谷氏にしても登場の当時は明らかに非主流派であると思われていたこと、吉田健一氏も完全に傍流の作家と思われていたことは、村上氏の作品が受けてきた評価とどこか重なるところがある。
たとえば、吉行氏の「水の畔り」という作品は、自分の文学的な資質、クールでデタッチメント的な性行、都会的な技巧性でこのまま文学者としてやっていけるだるあろうかという問いを内包した作品であるとされている。そういうものではないもっと誠実な「実体ある」自己でないと文学としては成立しないのではないか、という問いかけをしているのである、と。そして結局、自分の資質にないことを追求するのは止めて、都会的な技巧、デタッチメントの作家としてやっていくしかないのだ、という決意にいたっておわるのだという。これは出発点において、村上氏もまた抱えていた問題なのではないかと思う。クールでデタッチメント的な性行、都会的な技巧派というのがまた村上氏の出発点でもあった。しかし、それからの変身を村上氏は「羊をめぐる冒険」あたりで、意図しておこなった。その変身のために村上氏は猛烈な努力をしたのだろうと思う。一方、吉行氏はあまり勉強とか努力のひととは思えない。自分の資質を頼りにそれに共鳴してくれる少数のために書き続けたのだと思う。
村上氏は吉行氏の文学の特徴は移動にあるという。逃げるといってもいいかもしれないともいう。自我との対決を避けることによって、その対決の回避の姿勢のなかに自我のありかたを示すというやりかたをしたのだと。逃げ方の頑固な一貫性の確信犯的なたくましさに吉行文学の魅力はあるという。
次が小島信夫の「馬」。村上氏は小島氏の小説の主人公の特徴は「受け身」であることだという。ここでの村上氏の議論は「成熟と喪失」での江藤氏の「抱擁家族」の分析を彷彿とさせる。まったくの邪推である可能性が高いが、ここでの分析は村上氏と奥さんとの関係を反映しているというようなことはないだろうか?
次が安岡章太郎の「ガラスの靴」。この作品のテーマは、「我々はどれだけ遠くまで現実から逃げられるか」であると村上氏はいう。
その次が庄野潤三の「静物」。江藤淳氏の「成熟と喪失」では庄野氏の「夕べの雲」の評価が一番高いように読めるが(家父長の役割をひきうけることへの覚悟が高く評価される)、村上氏は第三の新人の中では、庄野氏に一番点が辛い。そういう庄野氏の姿勢は硬直しているという。
逃げたり、受け身であったりすることへの共感を村上氏は隠していない。柴田元幸氏のインタビューに答えて、1989年の村上氏はこう言っている。「僕はまあ本来的に、「自分は自分、他人は他人」と思って生きてきたからね。女の子とつきあっていてもね、とくに嫉妬心というのは感じないですね。それはそれ、これはこれ、と思うね。ドロドロしたことはみっともないことだという意識はたしかにあるかな。自分でもそういうものは持ちたくないし、関わりを持つ相手にもそういうものは持ってほしくないと思いますね。個人的には。」
これは吉行淳之介の発想そのもののように思える。村上氏にとって、私小説というのはどろどろした情念を臆面もなく押し出したものなのであり、それゆえに読めないのであろう。
村上氏はその出発点においては、もうひとりの第三の新人なのであったと思う。
第三の新人たちについての議論はここで終わり、次が丸谷才一氏の「樹影譚」。ここは、村上氏がもっとも楽しんで書いているように思えるところで、ほとんど舌なめずりするような感じで、丸谷氏の技法を解剖している。実際に小説を書いているひとでなければわからないような視点がいくつもでてきて、職人が小説をつくる場合の勘所とはこういうところなのかということがわかって実に楽しい。
丸谷氏の文学の根底にあるモチーフは変身であるというのが村上氏の説だが、わたくしは「逃げる」ということだと思っている。公的なものから逃げて私的なものに閉じこもっていたい、あらゆる政治的なものとはかかわりをもたず、ただ好きな文学に淫していたいということだと思っている。氏は文学おたくなのである。そして村上氏も丸谷氏にまさるとも劣らない文学おたくでもあるのではないかと思う。
最後にとりあげられるのが、長谷川四郎氏の「阿久正の話」。長谷川氏の作品は一つも読んでいないのだが、氏はソヴィエト抑留経験をもつ語学の達人で、翻訳家にして小説家、ということらしい。翻訳で自分の文体をつくったひとということで、自分と非常に近しいところのあるひとであると村上氏はしているようである。
長谷川氏の文体を「後天的な匂いがする」「存在の狂気」といったものが不足しているという。こういう言い方は松浦寿輝氏の村上春樹文体批判を彷彿とさせる。満州という過酷な非日常を小説に書けた長谷川氏が、戦後の平和な日本では書くべきことを見つけられなくなってしまったことに、自分にとっての反面教師を村上氏はみている。
本書で村上氏はほとんど図式的といいたいくらいの単純化した見方で(実際に図を用いている)、作家の自己と自我、セルフとエゴとその外界との関係を論じる。自分(自己=セルフ)のまわりには外界があるわけだが、自己の中には自我=エゴがあり、作家の自己は外界と自我の板挟みにあっているという図式である。ここでとりあげられたいくつかの短編小説は、作家の外界とエゴへの対応の仕方をあらわしているとして、それを分析していくわけである。
それならば、村上氏が自分の小説について、それが村上氏の外界とエゴへの対応の仕方をあらわしているというような読み方を示された場合、それを喜ぶかといえば、いささか疑問であるように思う。作家は外界とエゴへの自分の対し方を読み取ってほしくて小説を書くわけではないはずである。村上氏は自作への批評や評論は一切読まないのだそうである。その気持ちはよくわかる。しかし村上氏が他の作家の作品についてこのような本を書いている以上、村上氏の作品について、そのようなことをしてはいけない理由もないように思う。
この本を読むのと平行して、村上氏の初期の短編小説を読んでいる。はじめて読むものもあれば、既読のものもある。それらの印象が、最近の「神の子どもたちはみな躍る」や「東京奇譚集」とは非常にことなるので驚いた。最近の短編のほうがわれわれがイメージする短編小説にずっと近く、初期のものには「奇妙な味」のするものがとても多い。
それでいたずらで、村上氏の初期の短編について、本書のまねをして何か書いてみようかと思う。以下、文体が変るが、それはこの「短編小説案内」の文体のまねをしているためである。
村上春樹「中国行きのスロウ・ボート」
これは著者はじめての短篇小説です。すでに「風の歌を聴け」と「1973年のピンボール」という二つの(やや短めの)長編小説を発表していた氏の最初の短篇小説であり、それなりの自負をもって世に問うたと推定しても大きな間違いとはいえないでしょう。二つの長篇ですでに確立されようとしていたムラカミ美学がかなりストレートに表明されていて、この当時の作者の外界への姿勢というものを読み取るうえでのとてもよい素材になるように思えます。
この小説は、1から5までの番号を打たれた五つの部分からできているのですが、その前に「中国行きの貨物船に/ なんとかあなたを/ 乗せたいな、/ 船は貸しきり、二人きり・・・」という「古い唄」が掲げられています。貨物船には「スロウ・ボート」というルビがふられています。やはりこの小説のタイトルは「中国行きの貨物船」では具合が悪くて、「中国行きのスロウ・ボート」でなくてはいけないわけです。この「古い唄」が実際にあるものなのかどうかを僕はしりません。あるいは村上氏がつくったものなのかもしれません。いずれにしても、この「古い唄」を思い出した、あるいは思いついたときにこの短篇小説の構想は自ずからなったのではないかと思います。それくらいこの「古い唄」はこの作品で重要な位置を占めているのですが、エピグラムに依存しすぎていることがこの小説の力を弱めているかもしれません。
それでは実際に作品を読んでいきましょう。
この小説は前書きと後書きのあいだに、3つのお話が挟まっているという構成になっています。1)と5)は現在です。場所は東京。2)から4)までが過去で、2)が語り手の小学校時代の話。場所はどこかの港町。3)は語り手の大学2年の時のエピソードで場所は東京。4)はほんの数年前の話。やはり東京です。
1)は「最初の中国人に出会ったのはいつのことだったろう?」とはじまります。この疑問に語り手は、この当時の村上氏に特徴的な気障というかペダンティックというか、もってまわったような考察をしていきます。今よむとぎこちないのですが、これは当時の「風」や「羊」の読者たちへの作者の目配せなのかもしれません。これはきみたちのために書いているのだよ、と。
なぜ《最初の中国人についての疑問》が生じたのか? それを語り手は「僕の記憶力がひどく不確かで」「小学校時代をとおしてきちんと正確に思い出すことのできる出来事はたったふたつしかない」からであるのだといいます。
一つは、ある夏休みに野球の試合でセンターをまもっていてフライを追ってバスケットボールのゴール・ボストに激突し脳震盪をおこして、はっきりしない頭でしゃべったという「大丈夫、埃さえ払えばまだ食べられる」という言葉であり、もう一つが中国人のことである、として、話が2)へと、すなわち最初の中国人の話へとつながっていきます。
2)は語り手が模擬テストをうけた会場が、なにかの手違いで、同級生と離れて、電車で30分もかかる中国人小学校であったという話です。小学生であった自分にとっては電車で30分もかかるところは「世界の果て」にある中国人小学校であった、と。ここで「世界の果ての中国」というイメージが導入されることに注意してください。
その模擬試験の監督官として、少し変った中国人の先生がでてきます。彼が僕がであった最初の中国人だったのです。模擬試験の開始までの少しの時間に、受験生たちに、先生は「日本と中国のひとたちは努力してわかりあわなければいけない。お互いに尊敬しあわなければいけない。顔を上げて、胸をはりなさい。そして誇りを持ちなさい」といった話をします。「月曜日に学校にでてきた中国人生徒が悲しまないように、机に落書きなどをしてはいけません」というようなこともいいます。先生の言葉に従順に反応する小学生たちの姿がなかなかほほえましく描かれています。これはこの小説の後のほうで大人になってでてくる「僕」との好対照にもなっています。
2)の最後で、舞台は数年後の高校3年生の秋にうつります。主人公はクラスメイトの女の子と中国人小学校にいくときに歩いた同じ坂道を歩いています。それは「僕たち」の最初のデートなのですが、そこで偶然、その子も同じ中国人小学校で同じ模擬テストを受けていたことがわかります。でも監督官は中国人先生ではなかったようです。僕は「落書きはした?」とききます。女の子は落書きをしたようなしないようなで、うまく思い出せません。主人公が、模擬テストの翌日の月曜日の朝、机の上に落書きを発見した中国人の少年を思いうかべる場面で、2)は終ります。
この2)の部分だけでもしゃれた短篇小説になっていることがわかります。しかし現代の小説家はそのようなウエルメイドの短篇小説を書くことをしているわけにはいきません。これはもっと大きな話の中に一部として組み込まれる必要があるわけです。実は1)で提示される《最初の中国人》への疑問への答は2)で終ってしまいます。3)以降は二人目からあとの中国人についての話になります。
3)が小説の要になる部分です。主人公は大学生になり、港町から東京にでてきています。アルバイト先で同じ19歳の中国人の女子大生と知り合います。アルバイトの最後の日、主人公はその子を誘って躍りにいきます。門限が厳しい女の子を駅で送ってしばらくして僕は女の子を山の手線の反対回りに乗せてしまったことに気がつきます。女の子においついた主人公は謝ります。それに対して彼女は、ひとしきり泣いた後、「いいのよ。そもそもここは私の居るべき場所じゃないのよ」といいます。
4)は僕の数年前の話です。28歳になり、結婚して6年になる主人公は、「幾つかの希望を焼き捨て、幾つかの苦しみを土に埋めて、巨大な都会に生きてきた」と感じています。喫茶店である男に話しかけられます。よくは覚えていないのですが、高校時代に知り合いであった中国人のようです。男が百科事典を売っているというので、主人公は警戒しますが、彼は中国人相手にだけ百科事典を売っているのだといいます。
それらの回想を経て、話は、5)の現在に至ります。僕は、今また「ゴール・ポストにぶつかり脳震盪をおこしたら」自分は何というだろうと想像します。「おい、ここは僕の場所でもない」と、いうかもしれないな、と。
「実体なんて何処にもない。空売りと空買いに支えられて膨張しつづける巨大な仲買人の帝国」である都会、その対極にあるものとして「僕」は中国を夢想します。だが、その中国は自分の思いの産物でしかないこともよく自覚しています。本当の中国には自分を受け入れるてくれる余地などはどこにもないのだ、と。だが、同時に今生きている都会も僕を拒絶していることも強く感じています。主人公は「かっての忠実な外野手としてささやかな誇りをトランクの底につめ、港の石段に腰を下ろし、空白の水平線にいつしか姿を現わすかもしれない中国行きのスロウ・ボートを待とう。そして中国の街の光輝く屋根を想い、その緑なす草原を想おう」と思います。
小説のまんなかでの「ここは私の居るべき場所じゃないのよ」という言葉をいかに納得できるものとして読者に受け取ってもらえるように書くかということに、作者はすべての力を注いでいます。この「ここは私の居るべき場所じゃない」という言葉が作中の中国人女性から発せられているという多重性が、この小説を支えています。日本という場所にはわれわれ中国人はいる場所がないということがその多重性の一つにあるからです。2)の中国人の先生は中国人であるという誇りをもって日本の中で生きています。4)の百科事典を売っている男は、日本人を相手にしていません。同胞のよしみとして中国人に買ってもらうことで活きています。一方、主人公である僕は、今自分が生きている都会の生活に疲れていて、「ここはぼくの居るべき場所じゃない」と感じていますが、ほかにいくところはないのです。いかに実体を持たない空虚な都会であるとしてもです。そしてあらゆる意味で都会と反対であるもの要素をすべて集めたものとして「中国」がでてくるわけです。それは緑なす草原という自然であるばかりでなく、街の屋根もまた光輝いているわけです。都会ではあっても、そこは「ひしめきあって並ぶビルと住居、ぼんやりと曇った空。ガスをまきちらしながら列をなす車の群れ。狭く貧しい木造アパート(それは僕の住居でもある)の窓にかかった古い木綿のカーテン、そしてその奥にある無数の人々の営み」という東京の疲れたイメージとは決定的に異なった場所なのです。「中国」とは今の東京とは異なる何かを集合したもののことなのです。
この小説を書いた当時の村上氏は「ピンボール」から「羊をめぐる冒険」のあいだにいて自分の今後の方向について随分と迷っていた時期なのではないかと思います。ジャズ・喫茶の経営にも疲れていたのかもしれません。だが、そこで感じる都会生活のリアリティのなさ、手応えのなさを書いていくという方向には行き詰まりを感じていて、そうではない方向をいろいろと模索していたのでしょう。その探求の方向を指し示すものとして中国がイメージされました。
だが具体的には何をしたらいいのかはわかりません。港の石段に腰を下ろし、いつ姿をあらわすかわからないスロウ・ボートをただ待ちます。「中国行きの貨物船に/ なんとかあなたを/ 乗せたいな、/ 船は貸しきり、二人きり・・・」というのは、女の子とふたりで今とは違う場所に逃げ出したいという夢想そのものであるように思います。吉行淳之介と安岡章太郎を足して二で割ったようなイメージです(吉行氏なら一人で逃げ出すのかもしれませんが)。
だが、小説の最後にあるように、「中国はあまりにも遠い」ことも「僕」にはよくわかっています。この小説を書いたあとどこかの時点で、作者は都会を「ここが僕の場所である」と思うことを意志で選択しました。その点、この小説は村上氏の過渡を示す大変重要な作品であると思いますが、作者の思いが少し生にですぎていて、かえって読者につたわりにくくなっている部分もあるように思います。思うに、5)の部分が少し説明的で長すぎるようです。第二センテンス以下はもっと短く、
「そう思いついたのは山手線の車内だった。僕はドアの前に立ち、切符をなくさないようにしっかりと手に握りしめたままガラス越しの風景を眺めていた。我らが街・・・。それは車内に吊るされた一枚の広告と何ひとつ変りはしなかった。
彼女は言ったのだ。「ここは私のいるべき場所じゃないのよ」と。
だから僕も空白の水平線上にいつか姿を現わすかもしれない中国行きのスロウ・ボートを待とう。かっての忠実な外野手としてのささやかな誇りをトランクの底につめ、港の石段に腰を下ろして。
友よ、中国は遠いのか?」
だけにしてしまうというようなやりかたもないとはいえないかもしれません。こうすると作者が一番いいたかったことが消えてしまうかもしれないけれど、言うことで伝わらず、言わないことで通じることもまたあるのが、小説であるのかもしれません。
なんて書いてくると何となくもっともらしいけれど、これは村上氏が「ピンボール」と「羊」のあいだで大きく作風を変えたことを知った後智恵で書いている。まだ自分がどのようになるかがわからない時点で書いているからこそ「中国行きのスロウ・ボート」はある種の力を持ったわけである。それがわかった後でいくら書いてもである。
さはさりながら、このころの村上氏は、待つ人であり、受け身の人であり、逃げる人であると思う。そこから氏は体を鍛えて刻苦勉励して脱出してきたのであろうけれども、根は変っていないと思う。天吾くんもまた、待つ人、受け身の人である。
吉行淳之介の小説などを翻訳すると欧米でも売れるのだろうかというようなことをちょっと考えた。どうなのだろう?
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