ハイエク「デイヴィッド・ヒュームの法哲学と政治哲学」in「ハイエク全集 2−7 思想史論集」

     春秋社 2009年7月
 
 この「思想史論集」は偶然書店でみつけた。その中にこの「デイヴィッド・ヒューム法哲学と政治哲学」が収載されていた。これを知ったのは、だいぶ前に読んだ渡部昇一氏の「新常識主義のすすめ」(文藝春秋 1979年)の中の「不確実性時代の哲学−デイヴィッド・ヒューム再評価−」によってである。その当時の世界的なヒュームの再評価を紹介したもので、「英国史」の著者として生前にヒュームは有名であったことをそこで知った。そこでは、現代ヒューム研究の白眉としてこの1963年のフライブルク大学での公開講演「デイヴィッド・ヒューム法哲学と政治哲学」をあげていた。講演のキーワードとして「構成的主知主義」という言葉が紹介されていた。ヒュームは合理主義を否定したといわれるが、合理主義すべてを否定したのではなく、その中の「構成的主知主義」といういきかたを否定したのだという。この言葉は全集では「設計主義的主知主義」と訳されている。原語はconstitutional intellectualism らしい。人間がその知性だけによって国家を思いのままに作りかえることができるという、ルソーに由来しフランス革命からロシア革命にいたる流れの規定した考えかたを指す。そこには人知に対する絶対的な信頼がある。社会主義という誤った思想を導き出したのがこの思考法であるという。そこから例によって渡部氏は、伝統の尊重、保守という方向に話をすすめるのであるが、そのことはここでは議論しない。渡部氏がヒュームについて力説するのは、ヒュームが人知の限界ということを何よりもよく知っていたひとであるということである。「英国史」もいわば人知の頼りなさの証拠を示すものとして書かれたという。
 ところで、わたくしがヒュームについて関心を持つようになったきっかけは、吉田健一氏の「ヨオロツパの世紀末」によってであった。そこではヒュームは哲学者としてではなく、18世紀ヨーロッパの代表的な文明人として紹介されていた。おなじくこの時に文明人としてのギボンという像も知った。後になって吉田氏のこういうヒュームやギボンへの見方はリットン・ストレイチーに強く影響されていることがわかった(「てのひらの肖像画」 みすず書房 1999年)。ストレイチーはブルームズベリー・グループの中心の一人であり、このグループはなによりも反=ヴィクトリア朝文化のひとたちであった。すなわち、ブルジョア的なもの、物質文明的なもの、科学的なもの、そうじて19世紀的なもの、われわれが西欧近代という言葉から想起するすべてに反発したひとたちであった。吉田氏が「ヨオロツパの世紀末」で提示していた《われわれが知ったつもりになっているヨーロッパは19世紀ヨーロッパなのであり、本当のヨーロッパはそこにはなく、18世紀ヨーロッパにこそその精華がみられる》という見方は、ブルームズベリー・グループ直系なのである。
 一方、吉田氏とはまったく別に読んだ村上陽一郎氏の著作からはじまったた科学哲学への関心は、最終的にはポパーを終点とすることになったが、あとから考えると村上氏の著作を読んだのがわたくしのポストモダン思想への最初の接触だった。科学哲学は、科学もまた人間のいとなみであることを前提とするものであり、科学を相対化しようとするもので、19世紀的な科学信仰へのアンチテーゼを提示するものであると思えた。だが、クーンやファイアアーベントは間違いなくその路線上にあると思われるが、ポパーにかんしては微妙であり、ポストモダンというよりもモダンに近いのかもしれない。
 ポパーを読んでいくうちに、その論じる問題の根幹がヒュームに由来する帰納の問題であるらしいことがわかってきた。ポパーの関心は、文明人としてのヒュームにではなく哲学者としてのヒュームにある。帰納は正当化されないというのがヒュームの哲学の核心である。何匹白い白鳥をみても、そのことでは白鳥が白いという言明は正当化されない。ブラック・スワンの問題である。
 哲学史ではヒュームの提示した問題に解答をあたえたのがカントであるということになっているらしい。ポパーがどこかに書いていたことだが、カントにはヒュームの議論は絶対に正しいように思えた。そうであればわれわれは真理に到達できるはずはない。しかしニュートンは真理を発見した。そのことの間の矛盾に答えようとしたのがカント哲学であったという。しかし、いうまでもなくカントは誤解したのであり、ニュートンは真理を発見したのではなく、ある仮説を提示したにすぎなかった。ニュートンの仮説はアインシュタインの仮説によってとってかわられた。カントはなぜわれわれは真理に至れるかを示そうとしたのだが、その議論の前提はそもそも間違っていた。われわれは真理には至れないのである。とすれば、あいかわらずヒュームは正しい。
 それにたいしてポパーが提示したのが「反証可能性」の考えかたである。科学は何が正しいかはいえず、何が正しくないかだけを指摘できる。ポパーが本来企図したのは科学と科学でないものの間の線引きの基準の設定であった。ポパーは科学を擁護しようとしたのであり、科学でないものは何が正しくないかさえ提示できないものであるとされた。科学は予見する。その予見の結果が正しければ、科学が提出する仮説は生き残る。正しくなければその仮説は廃棄される。一方、渡部氏も書いているように、フランス革命の渦中のひとは誰一人その帰結を予見できず、ナポレオンの帝政のようなものは夢想だにできなかった。それにもかかわらず、フランス革命を準備した発想、ハイエクのいう「設計主義的主知主義」は無傷で残った。科学でない分野ではあやゆる予見は無力なのであるが、それにもかかわらず、どのような結果がおきても、その予見は否定されない。だから科学でない分野ではあらゆる説が真理を標榜して生き残ることが可能となる。
 ポパーの説では科学においては、正しいかどうかは生き残れるかどうかに依存する。正しいかどうかを判断するのは知性ではないのである。知識は「客観的」である。知性はただある見方、ある仮説を提示するだけである。こういう考え方は、ダーウインの進化論と親和性が高い。
 ダーウインの進化論では、世界をあらかじめ計画した設計者の存在は否定される。今ある世界は誰かが企図したものはなく、たまたまそうなっているだけである。これはハイエクの構成的主知主義の否定とそのまま連続する。ハイエクのキーワードである「自生」というのは、設計主義の否定ということである、企画されないで生じたものという含意をもつ。
 この公開講演では、「ヒュームは、道徳的信念というものは、生得的という意味で自然でもなければ人間理性による意図的な発明でもなく、・・「人為の所産」、すなわち現在であれば文化的進化の産物と呼ばれるものである」とした、そうハイエクはいっている。その検証のための基準は、人間の福利を促進させるためにどれほどの効用があるかであるとされる。法や道徳は、言語や貨幣と同じく、生まれたものであっても、意図的に発明されたものではない、と。
 ヒュームの哲学はよく消極的であると非難される。彼は政治組織にはあまり積極的な善を期待しなかったからである。政治制度があらたまることで、人間の何もかにもが一新されるという夢がすてられないひとには、ハイエクが魅力的であるはずがない。
 ハイエクの論は強くダーウイン進化論的である。そしてポパーの論もまた強くダーウイン的である。それは基本的に試行錯誤の世界なのである。何が正しいかはわからないから、とにかくやってみる。それが誤ったことであるかどうかは、それがうまくいくかどうかで事後に判断される。
 ダーウインの進化論が西欧社会にあたえた最大のインパクトは人間が神の被造物でも神の似姿でもない、ただの動物であるということを示した点にある。構成的主知主義は、神が世界を創造したことのアナロジーとして知的生物たる人間が社会を設計しようとするものであり、世界を創造した神を想定する一神教的な世界観をそのまま反映している。
 西洋では宗教の威信が低下するのと反比例して、科学が一種の神となっていった。あるいは芸術が宗教となっていった。「自然と自然の法則は闇に隠れていた。神はいった。『ニュートンあれ!』 するとすべては光の中に現れた。」(ポープ「ニュートンの墓碑銘」)。あるいは「大宇宙が響き始める様子を想像してください。それは、もはや人間の声ではなく、運行する惑星であり、太陽です。」(マーラーの自身の「交響曲第8番」についての説明)。ポープにとっては宇宙の法則は神がつくり、神の似姿たる人間がそれを発見する。それを発見したニュートンはほとんど神である。マーラーの言葉は誇大妄想としかいいようがないが、交響曲の作曲が一つの宇宙の創造とみなされている。ほとんど自分が神になりかかっている。
 科学は数学の言葉で書かれているといわれる。ニュートンの「プリンシピア」も幾何学の教科書のようである。人間の思考の論理の体系と数学がどのような関係にあるのかはわたくしの手にあまる問題だが、論理学の世界では「嘘つきのクレタ人」というのが大問題となるらしい。この議論が変に思えてしかたがないのは、嘘つきがいつも嘘をつくわけではないという可能性が最初から排除されているように思えるからである。いつでも嘘をついている人間はほとんど正直者と同じではないかと考えるわたくしは論理学には無縁な人間なのであろう。自己言及性とか論理階梯とかメタなんとかというのは西欧では論争が絶えない問題となっている。これも神の長い支配のもとで延々とスコラ的な議論をしてきたことの名残としか思えない。そんな堅いことは言わないで! というのは通用しないらしい。
 構成的主知主義が今でも多くのひとにとっては魅力的であるらしいのは、科学の予見の力のためである。地震は予知できないとしても、日食は余地できる。そしてわれわれは日々なにかをなさねばならない。リーマン・ショックを予見できなかったとしても、その結果として生じた停滞に対し、何かをしなければならない。ケインズが「経済学者たちは、その日の出来事をつかみとり、パンフレットを風に吹き飛ばし、つねに時間の相の下にものを書かねばならない」といったことはよく知られている。ケインズは永遠の真理をいったのではなく、大恐慌という時間の相の下で、とりあえずの政策のパンフレットを書いたわけである。池田信夫氏の「ハイエク 知識社会の自由主義」によれば、ケインズはまず政府が介入しなければならないという結論を先に出し、それにあわえて理論を組み立てていったのだという。これはおよそ科学の行き方ではない。池田氏によればハイエク大恐慌に対して有効な処方箋を書けなかった。ケインズは政治家であり、ハイエクは学者であった、と。
 ケインズもまたブルームズベリー・グループの有力な一員であった。ケインズはエリートであり、エリートが社会を導くべきであるという信念をもっていた。賢人政治の信奉者であった。ポパープラトン以来の哲人国家論、真理をしった選ばれた人間が無知なる多数を良い方に導くという行き方が世界を不幸をつくってきたとしている。ケインズは自分が真理を発見したなどという傲慢をもたない点においてはポパー的であり、エリートが世を導くべきとした点において反ポパー的であった。ケインズは構成的主知主義者の一人なのだろうか?
 わたくしは若いころから、吉田健一に魅せられ、ポパーに惹かれ、進化論に関心をもってきた。進化論への関心は医者という職業からして当然のこととも思うけれど、これらの関心の間の相互の関係がみえなかった。最近になってようやく思うのは、その一番根底にあるのは反キリスト教的な何かなのだろうということである。あるいは一番嫌いなのは人間の傲慢であって、人間の傲慢をつくったのがキリスト教であると思っているのかもしれない。ホモ・サピエンスなどといって偉そうにしている態度がいやなのである。キリスト教では人間と人間以外の動物は完全に切り離される。人間にだけ魂があって、それ以外の動物は機械である、というのはキリスト教ではなくデカルトなのかもしれないが、そういうデカルトを生むのはキリスト教なのだろうと思う。吉田健一の一番根底にあるのは動物としての人間という見方であり、反=カトリックという姿勢なのだと思う。ポパーの宗教への態度は今一つわからないところがあるが、彼が「客観的知識」ということをいうのは、真理を人間の外において、人間の頭脳のなかにはおかないようにする謙虚のすすめだと思う。そして進化論はいうまでもなく、人間を動物の中での特権的地位におくことを否定する。ヒュームの思想は「人間知性のおよぶ領域の狭さ」についての懐疑論的見解に立脚しているとハイエクはいう。ようするに人間は神のようではないということである。
 前にも書いたと思うが、養老孟司氏が「都市化」とか「脳化」と読んで批判している現代に顕著である一つの兆候は、「構成的主知主義」と通じるものがあると思う。しかし、養老氏は「脳化」が社会主義を生んだとか、脳化の思想の根源がルソーであるなどとはいわない。養老氏が批判しているのは、人為的な手段によってわれわれの世界を意のままに操作することが可能であるとする見方一般である。そこで問題となるのは、人為という言葉と対になるのが自然という言葉であること、(養老氏にはそのつもりはないにしても?)その主張が科学の限界、われわれの生きる世界において科学がなしうることはきわめて限定された分野でしかないという主張にどこかで通じるところがあり、人間において本当に大事なことについては科学は無力であり、だから宗教というような飛躍をゆるす余地がどこかにあるように見えることではないかと思う。
 ハイエクは自然にまかせるというような主張をしない。「人間知性のおよぶ領域が狭い」からといって、それが宗教を呼び寄せるとするのでもない。二元論的な見方はとらない。
 ただ一つの原理によって考え続ける強さのようなもの、それをハイエクにも、そしてヒュームにも感じるのだが、その強さを用意したのもキリスト教神学の伝統なのだろうか?

思想史論集 (ハイエク全集 第2期)

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