中井久夫「治療文化論」
岩波同時代ライブラリー 1990年
わたくしは一貫して素朴実在論論の信奉者であり続けてきたと思う。あるいは学問的には素朴実在論というのは正しくない言い方なのかもしれないが、自分のそとに自分とは関係なくモノがあるとする立場である。そうでない立場とは、世界はわたくしの誕生とともに(あるいはわたくしが意識を獲得するとともに)出現し、わたくしの死とともに(あるいはわたくしが何らかの理由で意識を消失すれば)消滅するとする見方である。この立場に立てば、眠っている間は世界は消滅することになる。有名なバークレイ僧正の誰もみていないところで倒れた巨木は音を立てないとする主張もこの派であろう。倒れた巨木は空気の振動を発生させるだけであって、それは知覚されなければ音ではない、ということになる。ダニの知覚している世界はわれわれのものとはまったく違うし(ユクスキュル)、超音波で外界を知るコウモリの世界像もわれわれのものとはまったく異なる(ネーゲル)。客観的な世界はなく、それぞれが認識するそれぞれの世界があるだけということになる。
自然科学あるいは広く理科系の人間は客観性を信じているはずである。あるいは事実というものがあると思っている。養老孟司氏がいっているように(「小説を読みながら考えた」)客観性には二つの側面があり、事実との対応以外にもう一つ、論理性の面もある。論理の究極が数学で、ピタゴラスの定理をわたしは信じないという話は通らない。しかし、1=0.999999・・を信じないというひとは結構いるようである。核酸の分子構造を議論しているときに、核酸などというものはわたくしには知覚されないからそもそも存在しないというような異論をさしはさんでも相手にされない。二重らせん構造はワトソンとクリックの主観にだけ存在するものであるというような議論も同じ。
養老氏によると、「構造主義は、自然科学の思想に対する、文科系の反乱(あるいは反省?対抗?コンプレックス?」なのだそうである。「エリートはどこの世間でも文科系だが、思想的には自然科学が優位になってきたから、文科系が慌てて考え直したのが構造主義の始まり」で、「構造主義の亜流の末流が最後に騒ぎを起こしたのが「サイエンス・ウォーズ」である」といわれるとなるほどと思う。「「知」の欺瞞」で批判された構造主義派の哲学者たちの自然科学用語好きも、自然科学への劣等感に由来すると思えば納得できる。
医学が理科系であるか自然科学であるかは大いに疑問の余地があるが、その末席に連なりたいと思って頑張ってきたのが西洋医学の歴史であろう。そこで一番問題になるのが精神医学である。この「治療文化論」はまさにその問題をあつかっている。
ポパーは「生命のない物的世界は、問題なき、それゆえ価値なき世界であり、価値は生命とともに世界に登場する」とする(「果てしなき探求」)。自然科学の典型である物理学は生命なき物的世界をあつかう。医学は当然生命ある価値ある世界をあつかうが、それが物理学のいきかたを導きの糸として仰ぐ。そこに当然矛盾が生じる。
自然科学的医学は、肺炎は世界のどこにいっても肺炎であるとする。抗生物質はヨーロッパでも日本でもインドでも中国でも作用機序が変ることはないと考える。それなら、統合失調症は世界どこにいっても同じ病気であるか? そもそも統合失調症という病気が客観的に存在するのか? それは医師という人間の主観の中にしか存在しないものなのではないか? あるいはこの病気は文化が生むものではないか? ある文化圏では病気とされる状態が、別の文化圏では異常とはみなされないということはないか? ある時代では正常であったものが、別の時代には異常とみなされることはないか? このような疑問は当然、精神医学を科学としてあつかうことへの懐疑を生じさせる。
本書のことを思い出したのは、ケン・フォレットの「大聖堂」を読んでいて、その登場人物の一人の魔女的な「森の女」から、西欧の歴史における「森」の意味という中井氏の論を想起したからである。本書で中井氏は「力動精神医学(精神分析などの、現在では精神医学の分野での正統とはみなされない派)の起源と発展は、もっぱら平野部が森あるいは山に移行するところ、あるいは湖と森のはざまでおこった」といっている。「これらの地帯は、ヨーロッパの辺境であって、キリスト教以前の伝説が残り、魔女狩りの盛んであった地帯である」とする。このこと自体が力動精神医学の普遍性の否定であろう。
中井氏は「普遍症候群」「文化依存症候群」「個人症候群」の三つを区分する。本書では「普遍症候群」はきちんとした定義は与えられていない。現在西欧医学において正統的であるとされている見方からの病気と定義として当らずとも遠からずであろう。「脳に生じた物質的変化が起こすさまざまな状態」であるとみれば、その定義はパリでも東京でもエジプトでもどこでも通用しなければならない。
「文化依存症候群」とは特定の文化にしか存在せず、当該の文化と深く結びついている病態である。たとえば「キツネツキ」、あるいは東南アジアにおける「アモック」。これらは「普遍症候群」の見地からは多くの場合ヒステリー近縁のどこかに分類される。
中井氏は問う。「普遍症候群」とは何か? ヨーロッパ的自我を普遍的であるとするヨーロッパ的偏向の産物ではないか、と。
すぐに見てとれるように、これはクーンの「科学革命の構造」などに由来するヨーロッパ科学の相対化の視点とつながる。科学は普遍妥当なものか? それはヨーロッパ地域に由来するそこでだけ通用する何ら普遍性をもたないものの見方にすぎないのではないか?
中井氏の論はどこかでポスト・モダン思想につらなるところがある。ベートーベンは普遍的で美空ひばりはローカルか? というのはもちろん中井氏の書いていることではなく、こちらの戯言であるが、「小説を読みながら考えた」で養老氏が、「村上春樹の小説を評価しない多くの作家の言い分のなかの極端なものとして、「村上春樹には美空ひばりのような土俗性がない」というのがあるといっていたのからの連想である。
「村上春樹にご用心」で内田樹氏は世界的に売れることが村上氏の文学の欠点をしめしているとする作家や評論家をさんざんに揶揄しているが、村上氏を批判するひとたちは世界的に売れるものは西欧的な価値観に屈服しているものと見えるのであろう。普遍的=西欧的=浅い=世界に不幸をもたらしてきた見方、土俗的=反西欧的=深い=未来への展望を秘めている見方、といった発想が伏在しているのであろう。
村上氏がオウム真理教に関心をもつのは、そこに土俗をみるからであろうか?、などというのは悪い冗談だけれども、村上氏が河合隼雄氏に私淑し、ユングなどの力動的精神医学の方面に深い関心をもっていることは明らかであり、氏は西欧の保守本流につながろうとはしていない。
しかし批判派からみれば、フロイトだってユングだって所詮は西欧派ではないかということになるのであろう。(西欧批判、近代批判というのも、どういうわけか西欧の中から生じてくる。中井氏はそれは西欧圏内であっても、西欧の辺境、あるいは都会と森の境から生じるとする。ブダペストあるいはウィーンを西欧の辺境としていいだろうか? そもそもドイツが西欧の辺境、西欧の田舎ではないのか?)
わたくしがいくら素朴実在論者であろうと、科学だけですべてがわかるという行き方にはどうしてもついていけない。中井氏のように科学にしっかりと基盤におきながら(氏の出自はウイルス学)、科学だけでない西欧、あるいは非西欧への目配りがしっかりとできているひとはとても魅力的と感じられる。氏のいっていることは時にオカルトすれすれ、あるいはほとんどオカルトと思える時もあるが、それが何というか、危うきに遊ぶというようにも感じられて、完全に向こう側にいってしまわない安心感があるためか、それさえもが魅力的なのである。
なお「個人症候群」とは、ある特定集団内でその構成員の病を病名もつけないまま集団の力で治癒させてしまうような行き方をさす。「普遍症候群」の対極にあるものであるが、看護というのはどこかそういう方面をもっている。医療がどこまでいっても科学になりきれない理由の一つはそういうところにもあるのであろう。
看護学は医学から百年ほど遅れて科学としての看護という方向をもとめて、今、悪戦苦闘しているように見えるが、医学が曲がりなりにも西欧近代医学とでもいうべきものをなんとか作りあげてきたのと同じような意味で、西欧近代看護学というようなものができあがる日がいつかくるだろうとはとても思えない。
看護とは辺境に由来するのではないか?、ナースとはどこかで魔女に通じる存在なのではないか?、などというと、看護協会の方々が柳眉を逆立てて怒るであろうが、ナースが完全に近代的な存在、科学の正統の使徒となってしまったとすると、その持っている力の多くを失ってしまうのではないかと思う。ナースという職業がどうして長いあいだ女性の職であるされてきたのか、というのは看護学で最初に問われなければならない問いであると思えるのだが、それに正面から答えている看護学の本というのを、不勉強なせいであろうが、まだ見たことがない。
そして、医療がどこまでいってもパターナリズムを完全には払拭できないものであるとすれば、女性の医師は男性医師よりも最初から大きなハンデキャップを負っていることになる。最近、女性医師はどんどんと増えてきている。妊娠、出産ということももちろん大問題であるが、この問題のほうがよほど大きいのではないかと思う。パターナリズム=父性主義の反対物は、医療者と患者のあいだの平等な関係であって、母性主義というような方向では絶対にない。
西欧正統科学という立場があるとすると、その最左翼にくるのはワトソンとかクリックという人たちになるのだろうか? そのやや右にドーキンスがいて、それにデネットやピンカーたちなどが並んでいる。ハンフリーはその少し右? もちろん、S・J・グールドなどはずっと左にいる。クーンなどがどのあたりに位置するのだろうかというのが難しいところで、S・J・グールドよりもっと右なのだろうか? ポパーがクーンよりも左にいることは確かであろう。
それでは中井久夫氏が、あるいは養老孟司氏がどのあたりにいるのか、それがよくわからないのである。変幻自在に(悪くいえば鵺のようにとらえどころがなく)ここと思えばまたあちら、という感じである。それが日本的ということになるのだろうか? よくも悪くも原理主義的なこだわりがない。
だが医者というのはそういうものなのかもしれない。自然治癒過程とプラセボ効果を味方にしているかぎり、利用できるものは何でも利用するしかない。パターナリズムだって利用できるかもしれない。
中井氏は若い頃、「土着精神科医」と呼ばれたのだそうである。氏は「治療とはそれぞれのために心をこめて、そのひとだけの一品料理をつくろうとすること」という。また自分を「教科書、概説、総説、解説の書けない人間である」といい、本書「治療文化論」を「独断と偏見の書」であるという。
レシピと料理という例えがある。同じレシピからいろいろなひとが料理を作ると、できる料理は決して同じではない。科学論文でさえ、その実験の再現のための一番大事なポイントは決して書かれていない(あるいは書くことができない)といわれている。手術の一番大事なポイントは教科書には書かれていない、あるいは書けないであろう。
西洋近代医学とは教科書に書ける部分の医学であり、そこに書かれているものはレシピである。
教科書に書けるということはとても大事なことで、奥許しとか一子相伝とか免許皆伝とかいった神秘的な何かから医学を解放した。素朴実在論という味も素っ気もないやりかたで、ある範囲のことを記載することを可能にした。
しかし、教科書だけをみて一品料理をつくることはできない。一品料理をつくるためには多くの「独断と偏見の書」を読むこともどういうわけか必要であるらしい。
西欧の文明はその根底において単一の原理による説明をもとめる。その原理同士が闘争する。日本は万世一系の天皇制を奉じるひとたちが決して「進化論を教えるな!」といいださなかった国である。これはこれ、それはそれ、というわけのわからない話が通ってしまう国である。それはわれわれの弱点であることは確かなのだが、それでもそのことがいい方向に働く場面もあるのかもしれないとも思う。医療がその例なのかもしれない。
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