橋本治「宗教なんかこわくない!」
まどら出版 1995年7月
「1Q84」について、村上春樹氏は読売新聞のインタヴューなどで、オウム真理教事件がその執筆の出発点となったといっている。「ごく普通の、犯罪者性人格でもない人間がいろんな流れのままに重い罪を犯し、気がついたときにはいつ命が奪われるわからない死刑囚になっていた −そんな月の裏側に一人残されていたような恐怖を自分のことのように想像しながら、その状況の意味を何年も考え続けた。それがこの物語の出発点となった」、と。
これがどうしても理解できないところである。あの当時オウム真理教に入信しなかったひとは圧倒的に多かったわけだが、それは偶然であり、ほんの少しでも状況が違っていれば、誰でもその信者となった可能性があったというように村上氏はかんがえているようにみえる。むしろ時代の病理に敏感であるひとほど入信する可能性が高かった、あの事件にはその当時われわれがかかえていた問題が集約的にあらわれている、そうみているように思える。
しかし、オウム真理教について、少しでも真面目にかんがえることなど、まったく無駄なこと、愚かなことであるとして、一目見て嗤って、あとはそれに近づかなかったひとのほうが多数であったはずである。しかし真面目にうけとったひとも一部にはいた。インテリに多かった。
同じことは浅間山荘事件でもあったように思う(この事件もまた「1Q84」に深くかかわっている)。これまた愚かな人間がおこした愚かな事件であるとして、そこに一片の価値も認めなかったひとが多かったと思うが、一部の知識人はそれを思想的事件であると深刻にうけとめた。60年安保のころからの新左翼運動の退潮の決定的な要因となったとするひとも多い。
ある運動が生き残るためには、それを熱狂的に信じるひとの存在が必須である。キリスト教にしてもマルクス主義にしても、そういう人たちがいなければ歴史のどこかで消滅してしまっていたであろう。キリスト教が(偶然に?)ローマの国教となり、ロシア革命が(偶然に?)成功することができたのは、それまでに火を絶やさないでつないできた熱狂者の存在があったからである。
しかしその熱狂者が肯定されるのは、後世の歴史の結果をみての後智恵である。もしも将来、オウム真理教が大きな宗教勢力になることがあれば、地下鉄サリン事件もまた別の言い方をされるであろう。しかし、今の時点でオウム真理教に甚大な意味を見いだすひとがいることが、わたくしにはどうしても理解できない。
そんなこともあってオウム真理教事件を論じた「宗教なんかこわくない!」を読み返してみた。オウム真理教の地下鉄サリン事件は1995年3月で、本書はその4ヶ月後に刊行されている。橋本氏によれば「オウム真理教事件は、「宗教とは何か?」という、普通の日本人ならまず考えないような問題を提起してしまった」という点で、日本人にとっては、とんでもない“事件”である。「“問題提起”などということさえも起こらない国で、突然の「宗教とはなにか?」という大議論である。これが“事件”でなくてなんであろうか?」ということになる。わたくしもまたこの事件をきっかけにして「宗教とは?」ということを考えてみたように記憶している。
臨床の場にでてからずっと、医者の多くが宗教に抱く劣等感のようなものを面白くなく思ってきた。たとえば、癌の告知である。告知をしたあとの“精神的ケア”は医療者の能力をこえるとされ、そこからは宗教か何かの出番であるとされていた。あの患者さんは信仰をもっているから安心などということもいわれた。
死の恐怖の克服、魂の安寧、安心立命、死の受容といったことは医療者以外の宗教や哲学とかいった分野の担当なのであるとされているようである。わたくしは、死の恐怖が克服されなければならないことはないとは思わないし、魂が不安でも一向かまわないと思ってきたが、それは一般的ではないようだった。宗教はそのような“魂の不安”を除いてくれる崇高で力のあるものとされていた。
宗教とは何か? それは《この現代に生き残っている過去である》と橋本氏はいう。《宗教とは、“幸福”というものを求める人間が生み出した、“幸福にまるわる模索”なのである》、と。
橋本氏によれば、日本人の宗教に対する最大の錯覚は「“信仰”といえばキリスト教」というものなのであるが、「あえて言ってしまえば、オウム真理教こそが、"宗教”」なのであって、「オウム真理教が宗教に値するものかどうか」という疑問は、宗教というとキリスト的しか頭に浮かばず、宗教についての実感が欠落している日本人のする方向違いの問いなのであるという。われわれが問わなくてはいけないのは「オウム真理教こそが”宗教”であるというような現実を目の前にして、それでもまだ”宗教”は必要なんだろうか?」と問うことである、と。宗教の本態はオウム真理教にこそよく表れているのだから、宗教とはという議論はキリスト教などをみてするのではなく、オウム真理教をみてするべき、ということである。
「一体、誰がいまどき本気で”神様”などというものを信じるだろうか?」と氏はいう。「それを「信じない」と言ったらカドが立つから、「そんなことは本気で考えないようにしている」というのが“一般人にとっての宗教の現状”というものだろう」、と。
しかし、「宗教というものは、本気で神の存在を信じて、そのことをすべての前提にしているようなもの」なのだから、神というのは《美しい比喩》であるといった方向で真剣な議論は避け、隣人に親切に、みんな仲良く、といった生活倫理めいたものとしてキリスト教を矮小化して理解するような方向は、ほとんど宗教とは関係のないものということになる。
「重要なことは、・・宗教というものが、その根本において“信じる”ということを前提にしているということ」なのだが、現代の日本人にとっては、神を信じるというのはとても困難なことである、だから仲介のために“教祖”がでてくる。
「宗教とは、近代合理主義が登場する以前のイデオロギーである。だから近代合理主義が登場した段階で、宗教の生命は終わるのだ」というのが、橋本氏の過激な宗教論の根本にあるものである。イデオロギーは宗教的といった議論は逆で、「宗教がイデオロギーの中に含まれる」のである。イデオロギーとは「教祖の考えを絶対として、その”真理”からの逸脱を許さない」ものである。
近代合理主義は、何が正しいかは人間が考えるとする。だから、それを一方的に示してくれる存在があるとする宗教と真っ向から対立する。
日本ではいつの間にか、“信仰を強制されない自由”ではなく、“信仰を理解出来ない不自由”であるとか、“信仰を理解出来ないという劣等感”へと宗教への見方が変わってきてしまっている。信仰というものが「本来なら誰でも持っていなければならないもの」なのかどうかが問題である。もしそうであるなら、信仰をもたないものは劣等感をもってしまうのは当然である。持つべきものを持っていないのだから。
宗教には、個人の内面を問題にする宗教と個人の内面を問題しない宗教がある。前者は哲学とも通じる高級なものであるとされ、知識人のものであるとされている。一方後者は現世利益といった大衆のためのものであるとされている。
知識人から見れば、大衆の信仰は、ほとんど迷信である。知識人にとっては“信仰”とは学習するものである。“入って信じる”というような迷信じみたものではなく、多くの哲学体系の中の一つとでもいったようなものである。多くのひとが宗教に持つ劣等感は、「わたしにはカントの哲学はよくわかりません」というのと同じようなものである。
日本人は遠い昔に”宗教の必要性”を排除してしまったが、そこに代入されるべき”自分の頭でものを考える”は持ち込まなかった。そこに代入されたのが“支配者に対する忠誠”である。正しい答えは「神」からではなく、支配者からくることになった。
宗教には「社会を維持する宗教」と「個人の内面に語りかける宗教」の二つがある。織田信長以後、日本では「社会を維持する宗教は必要なくなった。古代に確立した個人の内面に語りかける宗教としては仏教とキリスト教がある。キリスト教以前には、日本には鎌倉仏教を除けば、個人の内面に語りかける思想はなかった。だから、ものを考える人間は宗教に走りやすい。そして「理屈で考える」から「信じれば救われる」に飛躍してしまうことが多い。「救い」は高級なのである。
氏は「日本の近代における青年達の“主張”はとっても未熟なものでしかなかった」という。それにもかかわらず、子供の背伸びが“大人”の主張であるとされてしまった、と。だからオウム真理教事件は“子供のしでかした犯罪”であると、氏はいう。信者は自分の解脱だけを希求していた。彼らは実生活にリアリティを感じていない。リアルなのは自分だけなのである。しかも肉体にリアリティを感じることができず、頭だけで救いを求める。
宗教には生産を奨励する宗教と、そうでない宗教がある、と氏はいう。だから仏教が栄えると国は亡びるといわれる。みんな出家してしまえば、生産するひとがいなくなる。ローマ帝国が滅びたのもキリスト教という現世よりも来世を重んじる宗教のためと、ギボンは思っていたかもしれない。
ブッダがすべてが幻想であるとしたというのは、輪廻転生や「神」の存在といったものもすべては人間の意識が作り出すものだということだったと、橋本氏はいう。だが、考えている自分は存在することだけは確かである。だからブッダのいったことは「我思うっゆえに我あり」のデカルトと同じことなのだととんでもないことをいう。
橋本氏は、「宗教はもう美しいものを作り出す力を失ってしまった。今では○○が宗教にかわって美しいものを作り出している」というのが正しい論のはずなのだが、○○のなかにうまい答えをいれられないのが問題という。宗教はただ切り捨てられて、それが何かに受け継がれることでできていないのが問題なのだ、と。それをできなくしている最大の障害がイエスが神であるとするキリスト教のシュールなのである、という。キリストが預言者であるというのなら何ら問題はない。預言者はひとなのだから。しかしキリストが処女マリアから生まれたとか、神であり死んでまた甦ったということになると、それは信じるしかないことになってしまい、われわれの合理的思考と両立しなくなる。西洋の知識人の孤独はそこから来るという。そこで橋本氏がとりあげるのがグノーシス思想である。死海文書によれば、キリストは人間の子であるとされている、と。そう認めることによって、キリスト教をわれわれと連続するものとして受け入れることができる、と。
本書では仏教の輪廻転生とキリスト教の魂の不滅が対比させて論じられている。輪廻転生ならドーキンスの利己的な遺伝子と両立する、としている。このあたりのグノーシス思想の見方やドーキンスの論じ方が正しいのかどうかどうかには、大きな問題があるように思うが、仏教が宗教ではなく認識論であるとする見方があるくらいだから、仏教ならば近代合理主義に回収できる余地があるが、キリスト教となると両立不可能であるというのが橋本氏の宗教論の根底にある見方であるようである。
われわれに残されている最大のお荷物がキリスト教なのである。わたくしもまたキリスト教と合理主義が共存できるとは思わないが、S・J・グールドのいうNOMA(Non-Overlapping Magisteria 非重複教導権原理)などという無茶としかいいようのない提言がでてくるのも、合理主義だけでは人間は悲惨なことになる、事実と価値の問題で、合理主義は事実はあつかえるが価値の方面はあつかえない、価値の部分をあつかう宗教(この場合はキリスト教)が弱体化すると、人間はおのれの欲望にだけ忠実な獣と化してしまうというような懸念からなのであろう。つまり昨今のグローバリズム批判、市場原理主義批判にも通じる何かなのである。それに対してのドーキンスの科学擁護、合理主義擁護もまた無茶なもので、こうした科学原理主義のようなものがでてくるのもまたキリスト教の悪しき伝統によるとしか思えない。ドーキンスがあれだけキリスト教に対して居丈高になるのは(潜在している)宗教への劣等感によるのではないかとも思う。別にキリスト教が普及していなかったところが地獄のようになっていたわけではないわけなのだが(キリスト教とは別の何か宗教的なものがが社会の秩序を維持させていたと宗教を擁護するひとはいうであろうと思うが)。
村上氏はオウム信者へのインタヴュー集である「約束された場所で」の「まえがき」で、「日本社会というメイン・システムから外れた人々(特に若年層)を受け入れるための有効で正常なサブ・システム=安全ネットが日本には存在しないという現実」ということを言っている。少なくともこのインタヴューでみるかぎり、オウムの信者は「日本社会というメイン・システムから外れた」という以前に「現実」に興味をもっていないようにみえる。現実という汚いものからは離れて“精神的に向上”することにしか関心がないひとたちばかりであるように見える。
橋本氏は本書で、そういう若者たちを「会社が嫌いな人達」という言い方でくくっている。会社では自分が活かされない。そこでは自分が表現できない、と思っているひとたち。しかしそういう若者たちが期待して待っているのは、自分を活かしてくれる、自分を表現させてくれる上司なのである。村上氏もいうように、かれらは多かれ少なかれ「指示待ち」状態なのである。自分のための“修行”があって、組織のための“ワーク”があるオウム真理教は、自分の自我を伸ばしてくれる、かれらにとっては理想的な“会社”なのである、と橋本氏はいう。だからかつて公害を垂れ流す会社の社員がそれに対して沈黙したように、信者たちはオウムがおこした事件については沈黙する。「麻原彰晃の作った“会社”というのは、会社社会に適合出来ない人間達に対して、「君にもやりがいのある人生を!」と訴える、経営基盤のいたってあやふやないかがわしい会社だった」と橋本氏はいう。
「約束された場所で」の「あとがき」で、村上氏は「オウムの信者たちは、自分たちは〈一般の方々〉よりは高い精神レベルにあるという選良意識をいまだに抱き続けているのだという印象を受けないわけにはいかなった」といっている。これは橋本氏がいう、多くのひとが抱く宗教への劣等感の問題を裏返しにしただけのものだと思う。精神的なものこそが価値があり追求すべきものなのであり、物質的なものなどは所詮、塵芥のようなものである、という見方である。そして、わたくしは村上氏にもまたその傾きはないとはいえないと思う。エルサレム講演における「壁と卵」の例えにも、それは表れているのではないだろうか? 壁が物質、卵が精神などといえば、単純化しすぎであることは明らかであるが、オウム真理教事件に深い関心をもったのもそれに由来するのではないだろうか?
「“信仰”といえばキリスト教」という日本人の宗教観にまた村上氏も捉えられているのではないだろろうか? だが、それを深く探っていくと、現代ではキリスト教ではなく「オウム真理教こそが”宗教”である」ということに至るのを氏は直感している。そして、そのような現実を目の前にして、「それでもまだ”宗教”は必要なんだろうか?」という問いに、おそらく氏は必要であると答えるのである。
「一体、誰がいまどき本気で”神様”などというものを信じるだろうか?」と橋本氏はいう。それに対して村上氏は、「“神様”を信じないとしても、超越的なものすべてを否定してはいけない」と答えるのではないだろうか?。
オウムの信者たちは、前世だとか来世だとか、死後の世界だとか、神秘体験だとか、終末論だとか、ハルマゲドンだとか、そういうものに本当に親和性が高い。「宗教というものは、本気で神の存在を信じて、そのことをすべての前提にしているようなもの」だとしても、かれらは少なくともこれらカルト的なものをほとんどすべて受け入れるのである。橋本氏は「なんであれ、人は非合理を信じたりしない」とするのだが、村上氏はひとが完全に合理的に行動するようになることはありえないとしているようである。合理的思考に対抗するのが物語なのである。河合隼雄氏との対談で、村上氏は「オウムの物語は稚拙であったがゆえにかえってひとをひきつけたのではないか」といっている。それを繰り返させないための別の物語を提供することが作家の使命であると村上氏はしているようである。今度の「1Q84」はその一つの回答なのであろう。しかし1984年ではない1Q84年という設定がすでに前世とか来世に通じる何かなのではないかと思う。しかも同じ1Q84の世界にいても、月が二つ見えるひととそうでない人がいるという設定には、選良意識が潜んでいることも否定できないと思う。
1995年からすでに10年以上の時間が経過しているが、むしろ非合理への要求は強くなっているのではないかと思う。わたくしから見ると、それはキリスト教の呪いのようなものなのだけれども、その呪いはなかなか解けそうもない。
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