小室直樹「日本人のための宗教原論」
徳間書店 2000年6月
小室直樹氏は“文明開化の人”だと思う。変な言いかたかもしれないが、学問の神髄は西洋にあるので、学問を志すものは徹底的に西洋に、それも一流の西洋に学ばなくてはいけないとする人とでもいうような意味である。
だから経済学でいえば、ケインズやサミュエルソン、社会学でいえばマックス・ヴェーバー、デュルケイム、パーソンズといった人々を徹底的に学んで自家薬籠中のものとするという方向である。小室氏の本でケインズやヴェーバーの説について批判的に言及されているのを見たことがない。
本書はキリスト教、仏教、イスラム教、儒教をとりあげた宗教原論であるが、それが依拠しているのはヴェーバーの宗教社会学なのではないかと思う(わたくしは「プロテスタンティズムの倫理・・」以外の本を読んでいないので判断する資格はないが)。橋本治氏の「宗教なんかこわくない!」を読んでいて本書を思い出した。以前に買ってあって、ところどころは目を通していたのだがきちっと通読はしていなかった。今回はじめて読み通した。そしてうまく表現できない違和感を感じた。それは一言でいえば、宗教を学問的に論じることの意味というようなことにつながるのではないかと思う。以下それについて少し考察してみたい。
まず小室氏の論をみていく。
小室氏によれば、宗教は「畢竟、このうえもなく恐ろしいもの」である。ところが日本人は宗教を「自分や周囲の人間に幸せをもらたしてくれるなにやら素晴らしいものと独り合点している」。しかし、大航海時代、新大陸に上陸したヨーロッパ人が何をしたか? 原住民の皆殺し、大虐殺である。なぜそのようなことをしたか? 「旧約聖書」の「ヨシュア記」を読めばいい。そこでは神の約束の地カナンを占領している異民族を皆殺しにせよと、神がイスラエルの民に命じている。神の命令は絶対であって、絶対に正しいのである。大虐殺は神の命令である。敬虔であればあるほど異教徒は殺さなければならない。(橋本氏は「宗教なんかこわくない!」というのだが、「宗教は特別なものではない!」という意味で、宗教をかつては特別にみせていた「神秘」がもう現代では消失してしまったからである。小室氏が「宗教はこのうえなく恐ろしい」というのは、宗教がイデオロギーであるからである。宗教が恐ろしいのではなく、イデオロギーが恐ろしいのである。)
本書によれば、Religion とは「繰り返し読む」ということなのだそうである。啓典(正典)を繰り返して読むということであり、啓典宗教を前提とした言葉である。啓典宗教には、教義すなわちドグマがある。ドグマは絶対である。ドグマには従わなくてはならない。ここから宗教の恐ろしさが生じる。《ドグマに従う》というのが宗教の核心である。宗教には啓典宗教とそうでないものがある。前者がユダヤ教、キリスト教、イスラム教。後者が、仏教、儒教、ヒンドゥー教、道教などである。啓典とは絶対であって変更できない。仏教の経典は絶対のものではないから、それを啓典とはいえない。
日本にはなぜイスラム教が入ってこなかったのか(東南アジアや中国には来ているのに)、と小室氏は問う。輪廻転生はヒンドゥー教のものである。十二支や七夕などは古代インド宗教のもの、大安や仏滅などの六曜は道教の流れの陰陽道のものである。それら実に多くの要素が日本には入っているのになぜイスラム教は入ってこなかったのか? 宗教らしい宗教といえば、まずイスラム教であるのに。
ヴェーバーの宗教の定義:宗教とはエトスのことである。行動様式、英語のエシックである。倫理道徳習慣習俗をすべてふくむものである。この定義によれば、日本人独特の行動様式があるとすれば、宗教があるということである。山本七平氏はそれを「日本教」といった。この定義のいい点はイデオロギーもまた宗教であると解釈できることにある。マルクス主義も宗教、資本主義も宗教、武士道もまた宗教だといえることになる。おそらくイスラム教のエトスは「日本教」のエトスを破壊するものなのである。日本では「日本教」を破壊しない範囲でのものしか受容されなかった。
キリスト教においては、現行の旧約39巻、新約27巻を啓典とする方向でほぼかたまっているが、黙示録をいれるかどうかについては長い間論争があった。旧約外典を加えるかどいうかについては宗派間でわかれており、カトリックとギリシャ正教は入れ、英国国教会は啓典にはいれず生活の指針としてあつかうのに対して、プロテスタントはそれを排斥する。
宗教は集団救済か個人救済かによっても分類できる。キリスト教・イスラム教・仏教は個人救済、ユダヤ教・儒教は集団救済である。旧約聖書では神が救うのはイスラエルの民である。新約聖書でイエスが救うのは病に苦しんだりしている個々の人々である。儒教は集団救済であるので、中国では個人救済の部分は道教や仏教がひきうけてきた。
なぜ宗教は必要なのかと問うひとがいる。宗教についてまったくわかっていないひとである。啓典宗教がもっとも嫌うのは「神を人間の召使いであると考える考え方」である。「人間が生き延びるために神を利用しているという考え方」である。宗教における善悪や正邪の判断は人間にはできないのである。
以下、各論。
《キリスト教》
キリスト教は、《行為ではなく、信仰がすべて》というのが要諦である。
先祖であるアダムとイヴの罪により人間は生まれながらに罪を負い、その罰として死があたえられるという教義が示すのは、共同体的な責任のとりかたである(原罪という考えはギリシャ正教やロシア正教にはない。イスラム教にもない。東方のキリスト教においては、神は人間を善なるものとしてつくったとする。人間が堕落するのは、自分の意志で神に背をむける行為をするからである。東方のキリスト教においては人間には自由な意志があり、自分の行為に責任を負う。原罪やキリストの贖罪という考えは、決してキリスト教すべてにあるものではない)。
小室氏によれば、ここで二つの疑問が生じなくてはならない。キリストが一人で全人類の罪を負うことができるのか? キリストにより人類の罪が購われたとすれば、罰としての死はなくなり、人類は不死になるのではないか? というものである。
それに対する正統的な説明。人の死は仮のものである。肉体は朽ちても、最後の審判においてふたたび完全な肉体が与えられるから。最後の審判で無罪であれば神の国で永遠に生き、有罪とされたものは永遠の死をあたえられる。その永遠の死が本当の死である。
本来のキリスト教には天国も地獄もない。天国ではなく神の国があり、地獄ではなく永遠の死があるのだから。神の国はこの地上に出現する。
煉獄はカトリック教会の発明である。大多数の、自分に罪がないとは思わないが、さりとて地獄にもいきたくない人々にとって、それは実に巧妙な発明であった。プロテスタントは煉獄をみとめていない。プロテスタントは聖書のみであり、そのどこにも煉獄については書かれていない。
神の国を天国と呼ぶのもおかしい。聖書には「神の国」はしばしば登場するが、「天の国」という言葉は「マタイの福音書」に一回でてくるだけである。
キリスト教は予定説である。因果律ではない。善いことをしたから救われるということはない。救うかどうかは神の独断である。これは欧米のクリスチャンにとってもなかなか理解しがたい説である。ましてや日本人が理解するのは絶望的に困難である。救われるひととそうでないひとが予め決まっているのは不公平ではないか、と日本人はいう。しかしそれは人間の論である。人間社会の論理で神を判断するのは涜神的な行為である。そもそも神に召されるということが神に選ばれることなのである。キリスト教は人間の意志をみとめない。だからカトリックの秘蹟による救済は、キリスト教の教義からすれば言語道断なのである。
日本人はまず人間がさきにあると思っている。その人間の役に立つのが神様だと思っている。人間のあとから神様がでてくる。しかしキリスト教においては、まず神が存在する。その神がすべてのものをつくる。神がさきなのである。キリスト教は「神前人後」、しかし日本人は「人前神後」と思っている。
悪が存在するにもかかわらず、それでも神は正しいということをいうのが神義論である。キリスト教でいえば「ヨブ記」。予定説はそれを完全に説明するものではあるが、心情的にはなかなか納得できないものがある。すべてを神の恩寵に帰していいのかか、それでは人間の善行はまったく意味をもたないのか、ということである。
修道院ができ、そこでの修行という善行を積み上げることにより救済にいたるという考えが、カトリックの中で重みを増していった。秘蹟は、洗礼、堅信、回心、聖餐、叙階、婚姻、終油からなるが、教会がこの秘蹟を執り行うと、人は救済されるとしたカトリックの見解は、本来予定説であるキリスト教とはまったく相容れない。ペテロにはじまる聖人たちが歴代積み上げてきた善行がカトリック教会の中には膨大な救済財として蓄積されていて、教会は秘蹟によってその救済財を信者に分け与えることができ、この救済財によって信者は神に救われる、というのがカトリック教会の主張であった。
これはキリスト教の教義からいえば滅茶苦茶としかいいようのないものであるが、同時にこれほど俗耳に入りやすいものもない。罪深い人間でも神を信ずれば救われるとキリスト教は教える。しかし、「神を信じる」ことが本当にできるのか、自分は本当に信じているのかという疑念はつねに沸いてくる。その時、秘蹟の存在はとても魅力的である。
驚くべきことに、中世のキリスト教では信者に聖書を読ませなかった。イスラム教では物心がつくかつかないうちに真っ先に「コーラン」を読ませ、ユダヤ教では子供の教育として「トーラー」を読ませ暗記させるのに。啓典宗教としてはありえないことである。教会がしていたことは、賛美歌を歌ったり、祈祷書を読んだりといったことだけである。聖書はギリシャ語で書かれていた。ラテン語訳さえ5世紀である。中世ヨーロッパの識字率は低い。数パーセントといわれる。カトリックの僧侶さえギリシャ語が読めるものはほとんどいなかった。ところが11世紀のサラセン諸国では識字率はほぼ100%である。ギリシャ語がわかるひとも多くいた。だからサラセン諸国のほうがキリスト教研究のレベルもずっと高かった。キリスト教についても西欧はイスラムから学んだのである。
免罪符が売り出されたのはルターの出現よりも200年以上前の1315年である。法王庁は聖職も売りにだした。聖職者に課した独身の戒律にもかかわらず、法王が子供をつくることなど珍しくもなかった。そもそも、本来キリスト教には僧侶(聖職者)は必要ないはずなのである。修行を必要とせず、ただ信仰すればいいのだから。
カトリックの腐敗は13世紀のトマス・アクィナスに起因するのかもしれない。人間に意志の自由はなく、すべては神の恩寵によるとしたアウグスティヌスとは違い、トマスは人間の努力や善行もまた必要とした。ここから「信仰だけ」ではなくなる。救いには人間の努力が必要となった。人間はほうっておいて倫理的生活をするようなことはなく、不断の指導と援助が必要である、とトマスは考えた。もちろん、それを指導するものは教会である。
人間であるイエスは同時に神である。これがキリスト教の最大の難点である。これは325年の二ケア公会議で確定されており、カトリックもプロテスタントもギリシャ正教もロシア正教もみなこれを受け入れている。だが、イスラム教のようにマホメットは預言者であり唯一の神はアッラーであるとするほうがはるかに自然な一神教である。カトリックにはさらにマリア信仰という問題もついてまわる。イエスを神とする最大の根拠はイザヤ書53章なのだそうである。しかしユダヤ教の側ではその解釈を否定する。
キリスト教がユダヤ教の異端ではなく、新しい宗教となったのは、パウロがモーゼの律法は罪人であるわれわれには守れないとしたことによる。人間の自由意志の力を否定したことにある。
悔い改めよ!という言葉が聖書には頻出する。悔い改めれば救われるのであれば、それは自由意志ではないか? そうではない。悔い改めよ!という言葉が届くひとはすでに救われた人なのである。救われる人、悔い改める人も神によってすでに決められている。それはパウロやアウグスチヌスにとっては明白であった。だが、中世にカトリック支配が確立されると次第に曖昧なものとなっていった。
パウロは人間の外面的な行動(行為)と内面的行動(内面)を峻別した。これがあればこそキリスト教はローマ帝国下で生き延びることができた。この人間の内外の峻別は、近代デモクラシーによって決定的に重要である。それは良心の自由を確保するからである。
カトリックによるキリスト教の歪曲をもとに戻そうとしたのが宗教改革の運動であるが、それの先導となったのが14世紀のウイックリフの、信仰や救いの権威は教会ではなく、聖書にあるとする主張である。教会の教えも聖書に根拠がなければ意味がないとした。
それではカトリックが一方的に悪かったのか? しかしゲルマンの野蛮人を教化し、ルネサンスを生み、近代資本主義と近代デモクラシーを準備させたのもカトリックなのである。カトリック教会がゲルマン人の信仰と生活を管理して文化的なレベルをひきあげたのである。
ウィックリフの運動がヨーロッパにキリスト教が伝播してから千年もたってであったということは驚くべきことである。カトリック教会はヨーロッパを支配していたにもかかわらず、キリスト教はそれほど広まってはいなかったのである。都市のインテリには信奉されたものの、大衆は昔からの神々、悪魔や魔女を信仰していた。キリスト教はうわべだけで、土着の神々が信仰されていた。それどころか宗教改革前のカトリック教会自体が異教的であった。人々が教会に求めたものは魔除けだった。洗礼の水も魔除けの特効薬であるとされていた。
これは日本でも同じである。仏教信仰もまたうわべだけのものであったのではないか? 比叡山の僧兵が強訴のときに奉持して押したてたのは法華経でも曼荼羅でもなく日枝神社の神輿である。
宗教改革とは、実は本格的キリスト教の創造であり、本格的キリスト教の布教の開始であったのではないか? それまでヨーロッパにあったのは“キリスト教もどき”ではなかったのか?
修道院のテーマは「祈り、かつ働け」であった。それを定めたのはパウロである。行動的禁欲であり、何かをしないことではなく、あることだけを徹底的にするということである。その結果、修道院は経済的な独立をえて、オカルトを売る必要がなくなった。宗教改革によって世俗的にも勤労が救済とむすびついたとヴェーバーは説く。
《仏教》
仏教で絶対的なものは法(ダルマ)である。釈迦はそれを人々に示したひとである。釈迦がいなくても法はある。すなわち法前仏後である。
仏教の場合はすべては空である。実体はない。当然、魂もなければ地獄も極楽もない。
日本にある仏教は本来の意味での仏教ではない。日本に入ってきたときからすでにそうであったが、入ってきたあとますます変質した。
キリスト教の場合は誰が救われるかは神が一方的に選ぶのに対して、仏教では本人の修行による。
諸々の煩悩がおきるのは「われ存在す」という思いに由来すると仏教はする。我執が煩悩を生むとする(橋本治氏は「宗教なんかこわくない!」で「仏教のさとりとは、すべてのものは幻であっても、悟りをもとめているこころだけは幻ではない。すなわち、我思う故に我あり、が仏教なのであるといっていたが・・)
古代インドの哲学者は、肉体が死んでもアートマンというものが残るとした。これが輪廻転生する(バラモン教、ヒンドゥー教)。仏教は輪廻転生の考えを受け継ぎ、アートマンを否定した。ではなにが輪廻転生するのか? それの最良の教科書は三島由紀夫の「豊饒の海」である。この小説では、法相宗の唯識論が紹介されている。末頼識(まなしき)と阿頼耶識(あらやしき)という話がでてくる。本書にも、『現行(げんぎょう)から薫習(くんじゅう)され阿頼耶識の中に蓄積されている種子(しゅうじ)』などということばがでてくる。
問題はこの永遠の昔からの薫習による種子がすべて阿頼耶識に蓄積されているということで、前世のそのまた前世の・・・と永遠の過去からのすべてをそれは含んでいる。それが輪廻転生ということらしい。などと書いているが実はさっぱりわからない。橋本治氏はいっていた。「大乗仏教は、膨大な理論の山である。ちょっとかじれば「ふーん・・」ということにもなる。それ以上かじれば、「なにがなんだか分からない・・」である」と。本当にそうである。大乗仏教を説明しても「“仏教の意味”というのは分からない。それをやって分かることは、“人間というのはどうしてそんなに物事を複雑にしてしまのか”という、そっちである」とも氏はいう。同感である。 とくかく、輪廻転生するものは魂ではないらしい。
小室氏は「仏教は、元来、エリートのための宗教である」という。そうだなあ、と思う。
ここでまた遺伝子情報という話がでてくる。「宗教なんかこわくない!」にもドーキンスの「利己的な遺伝子」の話がでてきたし、「1Q84」にもでてきた。しかし、獲得形質は遺伝しないのだから、「現行から薫習され」たものは決して遺伝子には残らないのだが・・。
《イスラム教》
イスラム教では「宗教の戒律」「社会の規範」「国家の法律」がまったく一致している。イスラム教ではよいことをすれば来世で救済されることになっている。そしてよいこととはどのようなことであるかが、イスラム法で規定されている。よいことをすれば極楽である「緑の園」にゆくことができる。悪いことをすれば地獄へ堕ちる。イスラム教では天国と地獄がある。イスラム教は人間の意志の自由をみとめる。よいこともわるいことも本人の責任である。イスラム教も予定説であるが、それは現世限りである。現世で幸福になれるかどうかは神が決めてしまっている。しかし、来世は自分次第である。現世は予定説。来世は因果律。「コーラン」のなかにあるアッラーの、一説では99もあるといわれるさまざまな特性や美点や能力を信じること、それがアッラーを信じるということである。アッラーは非常に寛大であるから、悪いことをしても許してくれることもある。イスラム教では勤行が明確に規定されている。信仰という内面と勤行という外面の両方が要求される。ここに書かれているのを見る限り、イスラム教は実に寛大な宗教であり、アッラーはまことに慈悲深い神である。
パウロは内面と外面をわけ、内面の信仰のみを求めた。だから信仰を隠すことができる。ローマの市民としてはローマの法にしたがって生き、内面ではキリスト教徒であることができた。だがイスラム教では、勤行もまた必須である。自分の信仰を隠すことはできない。勤行が要求され、その社会の法も宗教に規定されることは近代化にとっては大きな桎梏となるものであった。
イスラム教は欲望を肯定する。しかし、現世でそれをつつしんでよいことをすれば、来世ではそれに何倍する欲望が充たされるとする。しかし来世の「緑の園」は男性のことしか書いていない。
イスラム教やユダヤ教のように「宗教の戒律」「社会の規範」「国家の法律」が一致するのが本来の宗教であり、キリスト教や仏教はそれから逸脱している。そう思ったほうが宗教は理解しやすい、と小室氏はいう。
仏教では善悪の判断の基準はまったく示されていない。輪廻を肯定するのであれば、猫の善悪とは何か?、ネズミをとることはいいことか?、といったことが本来は示されなければいけないはずである。福音書は法律をふくまない。だからキリスト教社会はローマ法で運営されてきた。
イスラム教がマホメットを最後の預言者としていることは、その言葉を今後新しい契約で変更することはできないということでもあり、近代国家形成には著しく不利になった。
《儒教》
儒教のキーワードは官僚制である。儒教の目的は高級官僚を作るための教養をあたえることであった。以下、科挙が論じられる。日本の官僚制の最大の欠点は中国にはあった宦官制のような官僚制に対するカウンターバランスを作らなかったことである。アメリカでは、大統領が変ったり政権党が変ったりしたら、高級官僚を全部いれかえる。またスターリンは高級官僚を大量に粛正した。朱元璋は厳格な信賞必罰で官僚に対した。それらは日本にはまったくない。
《日本》
ひとは迷ったままで成仏できるという天台本覚論、あるいは法然、親鸞、日蓮などの教えは、本来の仏教からすれば大変な異端である。本地垂迹説で仏教は神道と混じった。平安時代の僧侶は国家公務員であった。それは鎌倉仏教の時代に一時崩れたが、徳川の檀家制度で再び政治体制にとりこまれた。
本書では、それぞれの宗教の一番の本質は何かということが追求されている。だから、キリスト教は予定説と断定される。われわれは通常、予定説をカルヴィンの説として教えられる。ここで小室氏が主張していることが定説であるとはいえないだろうと思う。キリスト教がユダヤ教的な儀式から離れ、ただ信仰のみとしたことは間違いなく、その点からみるとカトリックのしていることは言語同断であるというのもその通りなのであろうが。
わたくしはキリスト教嫌い、耶蘇嫌いだけれども、カトリックとプロテスタントをくらべれば、カトリックのほうにずっと好感がもてる。誤解かもしれないが、カトリックは基本的に神は人間から遠くにいて人間のしている愚かしいことを微笑んでみているというという印象なのだけれども、プロテスタントではもっと人間の近くに神がいて、人間のしていることをいちいちそれは違うとかそれでいいとか目くじらをたてているように思える。プロテスタントが聖書のみというのはいいのだけれども、聖書はこう読むのが正しいと人間がいうのは、それでいいのだろうかと思う。そうなると人間が神より上ということにはならないだろうか?
わたくしが嫌いなのは、本当は、“キリスト者”というような言葉であり、そこにただよう優越感のようなものなのである。信仰を持つものは信仰を持たないものより高いところにいるというような感じがその言葉から感じらる。仏教徒はそのようないやな感じをわまりに持たせることはない。
信仰というのはむこうから一方的にやってきて、こちらを連れていってしまうもの、拉致していくものだと思っている。いくら抵抗していやだといっても強い力で運んでいってしまう、そういうものである。そういうことがおきることはあるだろうと思っている。
いくつかの宗教を学んで、自分はこの宗教を選ぶというのは学問の態度であって信仰ではない。それではこちらに選択権があることになり、人間が神より上になる。
橋本治氏の「宗教なんかこわくない!」でもいわれているが、信教の自由などという言葉がでてきた時点で、すでに信仰の力は失われている。
本書での宗教論は、学問的義論としての宗教論である。だからそれぞれの宗教の本質が問われるが、宗教がひとにおよぼす力が何に起因するかについてはほとんど論じられていない。
多くのひとにとっては予定説は受け入れがたいものである。そうであるとすれば予定説であるが故にキリスト教が広まったということはないであろう。最初期のキリスト教は奇跡をおこす魔術的な医療者集団としてひろまったのかもしれない。歴史を見ても初期のキリスト教にかんする記載はほとんどないのだそうである。問題にもされていなかったのであろう。出発の時点においては、そのころ多く存在したであろう数多の新興の教団の一つにすぎないのであり、それが生き残ったのは偶然であるかもしれない。生き残こり、そのために啓典が徹底的に研究されることにより、予定説としての側面が抽出されてきたのであろう。イエスが伝道していたときには当然聖書などはなかった。自分はユダヤ教徒であると思っていただろう。ただ聖書の言葉のみ、などというのがイエスのものであることはありえない。
仏教についての唯識の論も、またただただ学問であり、議論のための議論としか思えない。このような議論が信仰をふかめることになるとは思えない。仏教は認識論であるとすれば、認識を深めるのには有用なのかもしれないが。
むかし「豊饒の海」を読んだとき、末頼識と阿頼耶識とかという言葉がさかんにでてきて面食らった。実はこの言葉もそこで知ったのだが、何のために延々とそのような議論がでてくるのかがよくわからなかった。「豊饒の海」が輪廻転生の物語だから、それとのかかわりででてくるのだろうとは思ったが、この連作が、唯識の議論がでてくる第三巻「暁の寺」から急に方向を失っていくことは誰もが感じるのではないかと思う。この三島の小説が書かれたことにより、日本で(世界で?)唯識に対する理解が深まったということはないだろうと思う。
小室氏がいうように、本当の宗教らしい宗教、典型的な宗教がイスラム教であるというのは、本書によってもよく理解できる。人々が宗教に求めていることに素直に応えていて理解しやすい。しかし井筒俊彦氏の「コーランを読む」によれば、それはとてもそんな簡単なものではないことになる。井筒氏の本は「意識と本質」を読んだのが最初だったが、この「精神的東洋を索めて」と副題された本を読んで、ヨーロッパ文学については理解が深まった気がしたが、宗教的な何かや信仰とは一切無関係な議論であると思った。仏教でもイスラム教でも、もちろんキリスト教でも、宗教というのはいくらでも煩瑣な哲学的な議論に進む余地を残しているということを感じた。
宗教というのは信じるものであって、論じるものではないと思う。論じるひとは宗教のそとにいるひとなのであるから、信じないひとである。だから宗教を論じることのできるひとは信じないひとだけである。内側にいるひとはただ信じている。
橋本治氏のような「宗教なんかこわくない!」という立場から宗教を論じるのはわかる。小室氏のようにキリスト教は予定説だからカトリックのしていることは間違いとか、仏教における輪廻転生説の神髄は阿頼耶識の理解によって会得できるなどということは、誰にとってどういう意味があるのかがわからない。ほとんどすべての自称キリスト信者は実はキリスト教についてわかってはおらず、ほとんどすべての自称仏教徒は仏教についてわかっていないと指摘することで、キリスト教徒や仏教徒が信仰を離れるとか、小室氏からイスラム教こそがもっとも宗教らしい宗教であると教えられて、それではといってイスラム教徒になるなどということがあるとは思えない。
この本でいわれることは徹頭徹尾知識であって頭で理解することが可能なことばかりである。しかし信仰というのは頭で理解してするものなのだろうか? 宗教の本当の秘密というのは、ここではまったく触れられていないように思う。「文学は学問ではない。ここの所が重要である」と吉田健一氏は「文学の楽み」でいっている。「宗教は学問ではない」というのが重要なのだと思う。
同じく吉田氏は「ヨオロツバの世紀末」で、「ギボンにキリスト教といふものが一種の狂気にしか見えなかつた」といい、「古代の属する人間(ロオマ人)にとつてキリスト教は明らかに狂気の沙汰である他なかつた」ともいっている。小説「ネロの都の物語」の「解説」で、橋本治氏は「この小説に書かれるローマ帝国は、どぎついまでの性欲過剰状態にある」といっている。また「偏狭で劣等感が強くて、しかも異常なまでに確信に満ちている田舎者のインテリというのが、この『ネロの都の物語』に登場する使徒パウロの姿だ」ともいっている。
こういう田舎者は、文明人からは狂気に憑かれているとしか思われないである。そして文明とは現世肯定であり、現世肯定とは「性欲過剰状態」なのである。キリスト教に伏在している過度に禁欲的な姿勢は、文明からは狂気としかみえない。とはいっても「不健全、破廉恥の度を日々に増す帝国首都(享楽のローマ)で、この規範がどれほどの威信と魅力を発揮したかは、容易に想像できる(モンタネッリ「ローマの歴史」)ということはあるかもしれないが。
橋本治氏が「宗教なんかこわくない!」というのは、宗教につきまとっている現世否定の否定なのである。橋本氏がいう“悟り”とは「なんのてらいもなく自分の中に自信を感じていられる状態」などというのは仏教専門家からいえばあきれるような定義なのであろうが、「すべては空である」とか「阿頼耶識がどうこう」などといっているようでは仏教に未来はない。
「“信仰”と言えばキリスト教という日本人がもつ“宗教に関する最大の錯覚”」(橋本氏)が困るのは、キリスト教というのがとんでもなく変った宗教であるからで、それを基準にかんがえると宗教というのがわけのわからないものになってしまう。ヨーロッパ中世のカトリックは“キリスト教もどき”あるいは“本来のキリスト教とは似ても似つかぬもの”であったのかもしれないが、本来のキリスト教よりはずっと現世肯定的である。宗教改革というのは、キリスト教を本来の現世否定、来世希求の宗教に戻そうというものであったのかもしれないが、余計なお世話だったのではないかという見方もあるであろう。
キリスト教と比較するならば、イスラム教ははるかに現世肯定的である。《現世は予定説、来世は因果律》であるということは、現世での生き方が意味をもつということである。「回教は明らかにキリスト教ではない。例ヘばキリスト教での或る種の新教に見られるやうに神が遍在することをその信徒にこと毎に意識させずにゐないものがあるが、その神は絶えず信徒を監視して教義に背くとこを許さないものであるに対して回教の神は実際に遍在して全知全能である以上に一切のものとともにあり、これに背くといふのがあり得ないことであるからその考へが回教徒には浮ばず、ただその意志、或は寧ろ叡智のままに人間はその一生を送るのであるから一層これはただともにあるものであつて監視する神といふやうな観念も回教にはない。」(吉田健一「マルドリュス訳の「千夜一夜」(「書架記」) 吉田氏は「アラビアの文明では罪の観念がキリスト教的に歪められたものでなかつた」ということもいっている。罪の意識というのがキリスト教がわれわれにもたらした最大の害悪なのであり、文明化とは「罪の意識」の消滅である。後ろめたさという感情は生を翳らせる。
「過不足ない知識を誇る穏健な教養主義者は、そういう“派手でドロドロしたこと”を一番苦手にして、辟易するような存在である」と橋本氏はいう(「ネロの都の物語」解説)。“派手でドロドロしたこと”というのは、まあ“どきついまでの性欲過剰状態”というようなことなのだが、小室氏もまたそういう“派手でドロドロしたこと”は苦手なひとなのだろうと思う。ということで、本書は宗教についてのきわめてよく教えてくれる本であると同時になにも教えてくれない本でもあるという奇妙な状態になっているのであろう。
中島梓氏は「夢見る頃を過ぎても」で「村上春樹の小説というのはインポ感が漂っている」などという悪口を書いている。「そのインポ感と突然のレディースコミック的展開と、そして加納クレタとのセックスとかが無理がありすぎてなんだかいたましいような気さえしてしまう」ともいう。「強烈な性欲、などというものは村上春樹のうちに少しでも存在しているのだろうか」などとまでいう。可哀想な村上さん! でも、「1Q84」にしても、それらしい描写には事欠かないにしても、それでもやはり“無理している感”は否定できない。村上さんもまた“派手でドロドロしたこと”は本当は苦手なのではないだろうか? 宗教に(わたくしからみとる)過剰に関心をもつのも、そのためなのではないだろうか?
もっとも、中島氏は「インポにあるまじき自負」などということもいい、このインポ的空間にだまされてはいけない」ともいう。村上氏の小説の主人公は一見インポ風、オタク風で無害な人間にみえるが、実は「世界の中心は自分だ」と思っているとんでもない人間なのだと。村上氏は読者に、この小説は自分のことを書いていると思わせるがとても上手なのだと思う。宗教もまた「世界の中心はあなたなのだ」と思わせるものなのだろうか?
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