三浦雅士「ニヒリズムとしての現代芸術」in 佐伯啓思 三浦雅士「資本主義はニヒリズムか」

   新書館 2009年10月
 
 ここでとりあげるのは、三浦雅士氏の現代芸術論で、佐伯啓思氏との共著「資本主義はニヒリズムか」の巻末の25ページほどの論文である。
 この「資本主義はニヒリズムか」のなりたちは、「大航海」という雑誌があり、2009年7月に終巻したそうなのだが、その記念?として作成されたということのようである。三浦氏は「大航海」の編集者であったらしい。ここに収載された論文と対談の過半が「大航海」に掲載されている。
 佐伯氏は保守派の論客ということはきいていたが、なんだかなあと思うことろがあってほとんど読んでいなかった。本書を一応通読してみてもその印象はかわらなかった。というかますますおかしくなっているように思えた。しかし、そのことは機会があれば、別に論じることとし、ここでは巻末の三浦氏の論文のみを論じる。
 「ニヒリズムとしての現代芸術」という論文が「資本主義はニヒリズムか」という本に収載されているのは奇妙であるが、それは以下のようなレトリックによる。
 サブプライムローン問題に端を発する2008年の金融危機は、現代芸術の危機とその構造を軌を一にしている。なぜならば、貨幣は貨幣であることによって価値があるという見解は、芸術は芸術であることによって価値があるという見解とパラレルであるからである。
 とだけ書いてもなんのことやらであるが、まず岩井克人氏などが盛んにいう「貨幣はたまたまみんながそう思い込んでいるから価値があるにすぎない」という論が前提とされる。貨幣はある時期までは兌換であった。金との交換が保証されていた。しかるに20世紀の半ばににそれは停止された。とすると貨幣とはそれを支えるものを持たないきわめて不安定なものとなった。その不安定性の露呈が今回の金融危機である。
 一方、芸術のための芸術というスローガンは長い歴史を持つが、その帰結をしめしているのがデュシャンの「泉」と、ケージの「四分三十三秒」である。前者は便器を「泉」となづけて出品した。後者はピアニストがピアノの前に座るだけで演奏しない。これは芸術の文脈依存性をあらわにしたもので、便器は展覧会場の中にあってはじめて「芸術」であることを主張できるわけであるし、ピアニストも演奏会場のそとで何をしなくてもそれは「芸術」ではない。
 昔の芸術は、神の尊厳、王の尊厳、人間の尊厳に奉仕することによって支えられていた。芸術をささえるものが外部にあった。今はそれがない。それではそれを支えているものは何か? 美術館である、というのが本論文の眼目である。「美術品は、現代美術館に収蔵されているから価値があるのだ。価値あるもののために美術館があるわけではなく、逆に、美術館が価値を与えるのである」ということである。ニューヨークの近代美術館(MOMA)などが格付け機関になった、と。
 現代芸術家としてここで主としてとりあげられているのはポロックであるが、「ポロックやロスコの作品に感動する人間は少なくない。だが同時に、そこに着物の柄なみのものしか見ない人間も少なくない」のだが「着物の布地も額に入れれば立派な絵画である。」
 絵画は長いあいだ文学に(つまり物語に)依存していた。しかし抽象絵画になって、それから独立した。芸術の自律性の主張は、芸術のための芸術というスローガンとして長い歴史をもつが、それは畢竟、芸術には基準がないということをいっていることになる。
 いかなる命題も自分自身について何かを言明することはできない、という(ゲーデルにつながる)「論理哲学論考」のヴィトゲンシュタインの主題は、ニヒリズムに通じるというのが本論の根幹をなす。
 若き日の大岡信氏はいう。「今日の芸術には、ある普遍性をもった様式の成立する基盤がなく、またその理由もない・・。」 それを敷衍して三浦氏はいう。「様式とはスタイルである。スタイルとはたとえばライフスタイルというときの、そのスタイル、言い換えれば、生き方である。ウェイすなわち方法、道と言ってもいい。現代芸術の様式の不在は、たんに描き方、作り方の流儀の不在ではない。それを支えるコスモロジーの不在なのだ。コスモロジーといえば一般には宇宙論と訳されるが、違う。コスモロジーの適切な訳はむしろ死生観である。」
 ポロックなどのさまざまな芸術家が神秘主義や宗教に傾斜していった。しかしそれは共通の信仰ではなく、各自がばらばらである。芸術家たちは、それぞれの宗教を(三浦氏によれば、それぞれの狂気を)個別に育てるほかない。
 約言すれば、「何のために」が欠けている。金融の世界も何のためが消え、ただ自己増殖のみが目的とされる。芸術もまた芸術のためではあやうい。
 三浦氏は安易な解決はないとしながらも、最終的には言語の問題にその鍵があるとして論を終える。
 
 近年の金融危機の問題を現代芸術の危機と結びつけて論じるアクロバットにびっくりした。またコスモロジーとは死生観である、という指摘も新鮮だった。だが、それなら、現代芸術の問題を考えることが昨今の経済危機に対応するために意義を持つのか? ヴィットゲンシュタインやゲーデルについて考えることがリーマン・ショックを考えるうえで役に立つのかといえば、否であろう。
 現代芸術の危機は一部知識人の問題である。しかし、経済危機は万人の問題である。ニーチェは選ばれた一部のひとのための思想家なのであり、万人がニーチェに帰依するなどということはありえない。あれば、社会は崩壊する。万人が出家してしまうようなものである。
 だから問題は、社会体制をつくるものが誰かに帰着する。少数のエリートが社会を指導することを想定すれば、指導者のもつ死生観は社会全体に影響することになり、指導者が死生観をもたなくなり、本来なんら根拠をもっていない貨幣を崇拝するだけの存在になってしまえば、社会は頽廃する。
 しかし、西洋近代の目指してきたものが、豊かさの達成であるとすれば、豊かな社会とは死生観などというものをもたなくても生きていける社会であるのかもしれないわけで、それなら、死生観をもたずに生きていける社会は西洋の理想の達成である。
 もちろん、どういう社会になっても、死生観をもたずには心の平安が得られないひとは残る。しかしそれは豊かな社会における最高の贅沢の一つであるのかもしれない。芸術はそのためにあるのかもしれない。そうだとすれば芸術が様式を欠き、コスモロジーを欠くものになってしまうと、従来の芸術が果たしていた役割を、現代の芸術は果たせないことになる。
 かつてコスモロジーは宗教が提供した。現代においては芸術がその役割をしているのだろうか。あるいは逆で、かつてはどのようなコスモロジーをもつかが、そのひとの宗教を決め、現在ではそのひとがそのようなコスモロジーを持つかは、そのひとがどのような芸術を好むかを見ればわかる、ということなのだろうか? 三浦氏の論の背景には現代における宗教の力の衰えという見方が色濃くある。コスモロジーを提供するものとしては、やはり宗教は圧倒的に芸術より強い。
 さらにいえば宗教は客観なのか主観なのかということがある。宗教の側からみれば、宗教が主観であるなどということはありえない。そうであるなら人が宗教の上に立ってしまう。同様に“美”は主観的なものか客観的なものかということがある。もしもどこかに客観的な“美”というものが存在するなら、芸術は芸術という自己目的の追求ではなく、自分の外にある“美”を追求するものとして自分の根拠を提示できる。
 貨幣のもつ価値は主観的なものなのだろうか? かつてはそれが兌換であり金と交換できたといっても、それなら金の価値は何に由来するのかといえば、それは使用価値をもたないものなのだから、みなが金が価値があると思っているからという後退におちいるだけである。
 もちろん現代においてはそれに客観性を持たせる唯一のやりかたが残されている。人類が進化の過程で金や銀のようなものに価値を感じるようになったのであり、そう感じることは人類の生存にとって有利に働いたという説明である。しかし貨幣経済の歴史はあまりに短く、それを進化論的に説明するのは困難であろう。そうであればもっと抽象的な線に後退するしかない。人類は客観的に根拠のない“幻想”を信じる存在となり、そのことが人類の生存にとって有利に働いたという線である。
 ヒトは動物としてとても弱い存在であり、集団として生きる以外に生き延びる方途をもたなかった。そして“幻想”を信じることは集団を維持するために有利に働いたというものである。おそらく進化心理学の方面からは宗教をそのように説明するのであろう。それなら、われわれが“美”を感じることもまた、われわれが生き延びてくるために有利に働いたのだろうか?
 三浦氏は言語の探求に解決の方向があるではないかという。しかし言語は主観への道をひらく。わたくしはポパーの信者なので、言語の探求の方向は底なしの泥沼だと思っている。すくなくともソシュールの方向の言語観は主観への道をまっしぐらである。
 ポストモダン思想の根底にはソシュールの言語観がある。サブプライム問題をもたらしたのはポストモダン思想である、とするのはきわめて魅力的な命題であり、そういう見方を提示する三浦氏の力業は驚歎すべきものである。
 しかし言語の問題を探求していくことは、ポストモダン思想の延長線上で思考していくことにしかならないように、わたくしには思える。
 

資本主義はニヒリズムか

資本主義はニヒリズムか