岡田暁生「音楽の聴き方」

  中公新書2009年6月
  
 主としてクラシック音楽について、なんらかの知識をもって聴いたほうがより楽しめるのではないか、音楽に対して受け身でなく何かの楽器を自分で演奏できるようになることが聴き方をも変えるのではないか、ということを述べた本であるように思えたが、著者が根本のところで何を主張したいのかについては今ひとつ判然としないところが残った。
 現在クラシック音楽を聴くということは、能や狂言あるいは歌舞伎を鑑賞することどれだけ違うのか、それは最早保護すべき文化財に近いものとなってしまっているのではないかという疑問は、このようなことを論じる場合にまず第一に検討されなければならないことなのではないかと思うが、それが系統だって論じられることはない。しかし著者がそれを意識していないはずはなく、随所にそれはでてくる。一方では、クラシック音楽を聴くことがわれわれの日常の行為として自明のこととされている部分があり、他方ではその根底が堀り崩されてきているという危機感が表明されている部分もある。それらがうまく解け合っていないように思えた。
 クラシック音楽を論じるとすれば、わたくしの関心は、1)それが普遍的なものであるか、西欧ローカルの文化であるか? 2)(その系として)それは物理学的根拠をもつものであるのか?(倍音の問題) 3)(さらにまたその系として)カデンツ構造に一種の調和の感じをうけるのは普遍的な感じ方であるのか、西欧文明に特殊なローカルな感じ方であるのか? 4)(さらにまた系として)クラシック音楽が低音に基礎をもつ音楽であるのはなぜか(たとえば雅楽などは低音を欠き、高音が浮遊する音楽にきこえる)? 5)クラシック音楽において作曲家が演奏家よりも大きな評価を受けるのはなぜか?(日本の音楽では演奏=芸のほうが大きく評価されるのではないか?) 6)(以上を統合して)クラシック音楽における客観的な「美」あるいは「感動」といったものがあるのか? といったことである。以下、その関心にそって本書を読んでいく。
 「はじめに」で美術史家のゴンブリッジの「美術の歩み」から「この作品もあの作品も、同じようによいものだとか、好き嫌いの問題は議論することができない」という見方への否定の論が紹介されている。「調和に対する私たちの感覚」というものがあり、それが豊かになれば、われわれはよりよく美術を楽しめるというのである。これは明らかに客観性に通じるところのある論である。そしてここに、ある種の西欧文明の優越意識を感じるとるひともいるはずであり、ポストモダンの立場のひとにはこのゴンブリッジの議論は到底肯定できないものとされるであろう。
 岡田氏の論が錯綜するのは、氏がポストモダン思想後の人でありながら、しかしクラシック音楽を愛好する人でもあるという矛盾からきているのだと思う。クラシック音楽というのは白人中流男性のものではないかという批判を意識せざるとえないのである。氏は「型」がもつ共同体形成の力ということをいう。しかしこの共同体は白人中流男性共同体でないという保証はない。この型に参入することで名誉白人たらんとしているのではないか、という攻撃がどこからかこないという保証はない。
 岡田氏は「音楽は決してそれ自体で存在しているわけではなく、常に特定の歴史/社会から生み出され、そして特定の歴史/社会の中で聴かれる。どんなに自由に音楽を聴いているつもりでも、私たちは必ず何らかの文化文脈によって規定された聴き方をしている」という。それならばクラシック音楽といわれるものは西欧の中世から近代という特定の歴史/社会から生み出されたものであり、それがわれわれにとっていささかでも関係のあるものであるとすれば、われわれが西欧の文化文脈の中に組み込まれてしまったからということになるのではないだろうか? これはクラシック音楽の普遍性を否定する議論である。これはゴンブリッジの論と両立するのだろうか? 「調和に対する私たちの感覚」の「私たち」が「ヨーロッパ文明圏に属するもの」だとすれば、両立しないこともないのだが。
 音楽は美術のように客観的な認識対象がないことがいわれる(もちろん、それで後述の楽譜の存在という大問題が生じてくることになるのだが)。
 氏はいう、「相性だの嗜好だの集団的な価値観の違いだのといったことを突き抜けた、有無を言わせぬ絶対的な価値の啓示というものも、確かに存在する」と。「顕現」とか「出現」とかいうことがあるのだ、と。「それは文明化された世の中に最後まで残った、古代の呪術の名残かもしれない」ともいう。これはヨーロッパなどという地域をこえた普遍的な何かがあることをいっているように読める。
 しかし、このような音楽の神秘化はドイツロマン派のものであるとして否定されてもいる。ドイツ文化圏では音楽は宗教なき時代の一種の宗教空間になってしまったという。「音楽は言語化できないものである、言語化できないがゆえに音楽は他の芸術をこえる」とする見方を氏は否定する。言語という背景なしにはわれわれはほとんど音楽を聴くことはできないとするのが氏の立場なのである。言葉の非力について言葉で雄弁に語る19世紀的な芸術批評を氏は否定する。
 ある作曲家が著者に、演奏家に最も強く望むことは「音楽をきちんと言葉として読んでほしい」ということといったのをうけて、著者は「音楽は決して単なるサウンドではなく、言葉と同じように分節構造や文法のロジックや意味内容をもった、一つの言語である」といって、音楽をよりよく聴くために必要な「分節構造や文法のロジック」の知識を読者に伝えようとする。たとえば、その典型として多楽章形式の音楽がある。
 本書の半ばでアーノンクールがでてくる。彼は音楽院におけるそのような共通の通念としての音楽理解の形成を否定するひとである。またケージなどの「人工的な音楽」の否定、「自然の音楽」の探求も紹介される。さらにサティの「家具の音楽」のような反ロマン、反陶酔、反大袈裟路線の音楽も検討される。これらに対する著者の姿勢が今ひとつよくわからないが、「二一世紀に入った今日、今さら「西洋中心主義」の決まり文句で近代西洋音楽を目の敵にするももはやアナクロニズムであり、その方がよほど西洋中心的だという気もする」というのであるから否定的なのであろう。しかしこの言葉どうしても理解できない。著者は西洋中心主義批判をどのように評価しているであろうか? 西洋中心主義批判は必要であるが、近代西洋音楽はその観点からは批判できないとしているのだろうか?
 その点が曖昧なまま、議論は音楽を「する」ことと「聴く」ことの分離という方向に進んでいく。それに関連して楽譜の問題がでてくる。さらにアドルノの論が検討される。アドルノは音楽を享受する共同体の存在の必要性を強調する。その共同体はそのまま西欧社会のことではないかと思うので、アドルノの論は「西洋中心主義」そのものであるように思える。
 人を陶酔させる音楽がいかに危険であるか、音楽の陶酔により共同体を形成することがいかに危ういものかがいわれる。鉤従事の旗のもとで第九を指揮するフルトヴェングラーの示す危うさである。一方では、ブラームスリヒャルト・シュトラウス以来演奏会の聴衆は教養市民階級に限定されてしまったということがいわれるのだが。おそらくブラームスの音楽ではもっと多数を巻き込む陶酔の共同体は形成できない。それにはベートーベンやワーグナーの音楽が必要なのである。
 交響曲がピアノ連弾に編曲できるものでなくなった時点を岡田氏は「する」音楽から「聴く」音楽への移行の時期とするのであるが、モツアルトの交響曲のピアノ連弾編曲を家族で楽しむなどということができたのはごく限られた上流中流階級だけではなかったのだろうか?
 
 なんだかいろいろとけちをつけてきたけれど、岡田氏の論は他人事ではないところがある。わたくしはクラシック音楽を聴く人間であるけれども、最初にクラシック音楽を聴くようになったのは見栄であって、中学に入りまわりにクラシックを聴きかつ論じる人間がたくさんいて、なんだかそういうものを知っていないと恥だと思って無理にききはじめた。なにしろ家には広沢虎三の浪曲のSPしかなかった。クラシック音楽受容の原点にはスノビズムがある。そういう背伸びというか無理がなければ、クラシック音楽を聴くようにはならなかったと思う。日本の明治以降の西欧への背伸びの反映であり縮図でもある。鹿鳴館という日本国の示したスノビズムそのものかもしれない。
 クラシック音楽はわれわれにとって地場のものではない。西欧クラシック音楽は西欧近代の植民地搾取による西欧文明の爛熟ということがなければ成立しなかったものである。パリのオペラ座などをみるとつくづくとそう思う。
 かって西欧を絶対のものとみた時代があり、そのあとに西欧を相対化する思想が生まれた。クラシック音楽は西欧絶対化の時代に生まれたものであり、今われわれは西欧相対化の時代に生きている。そういう時代にあって、なおクラシック音楽の優越と特権を説こうとすれば、それが普遍性に通じるものであるとしなければならない。
 日本でクラシック音楽を愛するひとはどこかでその普遍性を信じているのであろうか、それとも西欧文明の優越を信じているのであろうか?
 本書には敵役としてトスカニーニがでてくるが、それはクラシック音楽が自分にとって地場の音楽でない人間が、その不利を克服しようとして普遍性だけから音楽を構築しようとすることの悲劇あるいは滑稽としてとらえられているようである。しかし日本人にとってのクラシック音楽とはまさにここでいわれるトスカニーニの指揮のようなものでないかという疑問が生じるのをおさえることはできない。小澤征爾の指揮したウインナワルツをウィーンっ子たちはどうきいたのだろう?
 音楽の普遍を保証するものは楽譜である。詩であれば、英詩とその翻訳を同一のテキストであるということはできない。しかし、熱情ソナタはドイツ人にもフランス人にも英国人にもイタリア人にも中国人にもそして日本人にも同じ楽譜である。だが、楽譜をみて音楽が鳴るひとはほとんどいなくて、通常は演奏という過程を通じて音楽がはじめて現実のものとなる。それで問題が錯綜する。楽譜を見てそこに音楽がそのまま鳴るひとばかりであれば、読書ではない読楽譜がそのまま音楽体験になるはずである。
 クラシック音楽について考えるとどうしても西洋思想の普遍性という問題にいきあったってしまう。科学は西欧が生んだ。それにもかかわらず科学は普遍的な見方であるといえるのか? それともそれは西欧ローカルな思想であり、西欧がたまたま(科学の力によって?)世界を席捲したために普遍的にみえるだけなのか? その問いは、ほとんどそのままクラシック音楽は西欧が生んだものが、それにもかかわらずそれは普遍的であるか? ローカルな音楽であるにもかかわらず、西欧が世界を席巻したために普遍的であるようにみえているだけなのか? という問いにつながる。
 クラシック音楽を愛するひとは、どこかで西欧思想の優越ということを信じているのではないだろうか?
 西欧は本当は化石燃料の有効利用によって世界を征服しておきながら、クラシック音楽を頂点とする文明の力によって世界を征服したような顔をしてのではないだろうか? クラシック音楽を愛するひとは、そういう西欧の宣伝にうまく取り込まれてしまっているひとなのではないだろうか?
 西欧のひとが感じているクラシック音楽の優越というのは、キリスト教の優越というのとほとんど等しいということはないのだろうか?
 

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)

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