C・ローゼン「ピアノ・ノート」

  みすず書房 2009年9月
  
 著者は日本ではほとんど知られていないうようだが(わたくしはまったく知らなかった)、アメリカ生まれのLPやCDを多くだしている向こうでは高名なピアニストらしい。1927年生まれとあるからもう相当な高齢である。原著は2002年に出版されている。著者75歳の時である。少し変った経歴のひとで、11歳のときにジュリアードをやめてからはローゼンタール夫妻という教師について学んだということで、音楽学校をでておらず、コンクールにも参加していない。プリンストン大学でフランス文学を学んで博士号をとっているということだからインテリである。だからピアノについて文章を書く。だが、そこで強調されるのはピアノ演奏の肉体運動的側面でもある。それがとても面白い。どこかの新聞の書評欄で紹介されていて、読んでみる気になった。
 著者は最後に以下のように書く。

 バッハからベリオにいたるピアノのレパートリーの存続は、それを聴く人がいるかどうかではなく、それを演奏したいと思い、それ以外の方法はぜったいにとらない人が何人いるかにかかっている。音楽を、あるいは楽器を演奏したいという焼けつくような情熱があるかぎり、聴衆はついてくる。二十二世紀になってまだピアニストがいるならば、彼らを聴きたいと思う聴衆もいるだろう。ピアノ音楽の未来の鍵を握るのは、ピアノを聴くと同時にピアノを弾くという身体的歓びなのである。

 このように断言してしまえばプロとしての演奏家の存在の問題はあらかた消失してしまう。聴きたいひとがいるから、それに応えるためにプロが存在するのではなく、まず最初に弾くことに歓びを感じるひとがいて、あとからその歓びに共感する聴衆がでてくるというのである。
 仕事とは他人の必要に応えることである。自分がしたいことをすることがそのまま仕事になるということはない。書きたいことがあるひとが書き、描きたいことがあるひとが描いたとしても、そこに読者や絵をもとめるひとが自動的に生じてくることはない。ここでの書き手や画家に相当するものは作曲家である。作曲家が自分の書きたい作品を楽譜にしても自動的に聴衆が生じてはこない。それなら演奏家はプロの読み手、プロの絵画鑑賞者に相当するのだろうか?
 著者は、「演奏はだれのためのものか?」と問う。「だれに向けて演奏するのか?」、「演奏者は演奏中に聴衆をどれだけ意識しているか?」と。「自分のため」ではないと。もしそうであるなら、公共の場で弾く必要はない。演奏には、自分のため、少数の友人のため、公共のための3種類があるという。そして、公共の演奏こそが演奏そのものを客観化させるという。それは18世紀以来、西洋の美術と音楽を支配してきた美学にもとづくもので、芸術作品にはその社会的機能とは無縁の価値があるという信念に由来する。その信念は相当部分はフィクションであるのかもしれないが、その信念は芸術的創造にとって不可欠である、と。18世紀以降、演奏が公共のものとなり、演奏が独立した自立的な存在であるとみなされるようになると、「だれのために公共に演奏するのか?」という問いが生じてくる。「なにのために演奏するのか?」 著者は答える。「人は音楽のために演奏するのである」と。演奏家は演奏するごとに、音楽作品をその理想とする客観的存在に近づける機会があたえられる、と。
 著者の芸術観は随分と古風なものであるように思える。ミューズの神に捧げるために詩を書く詩人とでもいった趣がある。そこには「ヒロシマからあと詩を書くことは野蛮である」とかいった誰かさんの脅迫はまったく響いていない。著者の信念はピアノという楽器を演奏することがもたらす身体的な喜びという、演奏するひとにしかわからない職業的秘密に由来している。
 「プレリュード」という短い導入のあとの最初の章のタイトルは「身体と心」である。ピアノほど演奏者の筋肉的・身体的努力のすべてが要求される楽器はないという。大きな音を出そうと思えば、背中と肩の筋肉が必要である。フォルテッシモで鍵盤を叩くとき、演奏者は楽器と一体化するのだという。オルガンは音をおおきくするために肉体的な努力は必要としないし、木管奏者のように肺の働きに依存するのではなく、弦楽器奏者のように片腕だけで音量を決めるのではない。
 話はピアノという楽器の特性に移る。ピアノの音は(実際にはそうではないしても)音色が均一であるとされている。これは弦楽四重奏の形式が室内楽の規範とされるようになっていったことと関係している。両者ともに音色の多様にたよらない、響きという二次的なものではない音楽のエッセンスを示すとされた。
 調律以外でピッチを変えることのできないピアノの特性は西洋音楽のあり方を根底から規定してしまった。ピアノが平均率を採用すると、他の楽器もその原則に追従せざるをえなくなった。ピアノ音楽の優位というのは、ピッチとリズムが音楽における最優先の要素であるとされたからこそ生じたものであり、音色がそれにも勝るとの劣らない重要な構成要素であるとされるようになってくると、失われてしまう。
 19世紀後半から20世紀の前半にかけて、音楽はすべて公共のものとして作られるようになった。それゆえに20世紀初頭以降、四手連弾曲が作曲されなくなった。四手連弾曲は基本的に家庭で演奏されることを想定されていたものだからである。これらを最後に書いた重要な作曲家はブラームスで、「ハンガリー舞曲集」と「ワルツ集」を書いた。それ以外はコンサートホールのための音楽をアマチュアが家庭で楽しめるように編曲した交響曲のアレンジに限られた。しかし、楽器を弾くよりもレコードをかける人が増えてくると、音楽はふたたびコンサートホールで聴くものではなく、家庭できくものとなってきた。このことの影響は大きく、音楽は繰り返して聴くことが前提とされるようになってきたため、間違いのある演奏、正統とはずれているとみなされる演奏は排除される傾向がでてきた。古楽器演奏(オーセンティシティ運動)は演奏者の好みよりも作曲が生きていた時代にどのように聞こえていたかを重視するようになった。それでバッハを現代のピアノで弾くことの是非というような問題も生まれてくる。そもそもバッハの鍵盤音楽はほとんどが公共での演奏を想定して作曲されていない、教育用のものだった。あるいはモツアルトを現代ピアノで弾くことは? モツアルトの時代には現代の奏法よりもずっと歯切れ良くスタッカートで弾いたようだが、そうすることが正しいのか? ベートーベンの時代と現代ではピアノのペダル機能がまったく違ってしまっているが、それをどうしたらいいのか? 
 著者の演奏レパートリーは広く、現代音楽の演奏も積極的にしているようである。現代音楽が決して多くの聴衆をひきつけるものではないことを著者はみとめているが、それでもそれは「裸の王様」ではないこと、実体のないものをあたかもあるように思わせているのではないことを強調する。本書を読んでいてエリオット・カーターというこれまで名前をきいたこともなかったひとの「ハープシコードとピアノと二つの室内オーケストラのための二重協奏曲」という曲をきいてみたくなった。
 
 この前にとりあげた岡田暁生氏の「音楽の聴き方」と較べると、著者ローゼンの自信と信念が際だつ。氏が西欧の人という地場の人であるというばかりでなく、フォルテッシモで鍵盤を叩くときに肉体が感じる言語にあらわしがたい感覚といった現場のひとにしかわからない何か、他人にわたすことのできない至高の感覚が氏を支えているのであろう。あるメロディーをハ長調で弾くときと嬰へ長調で弾くときは手の感じ方はまったく違うという指摘など、音楽が体と不可分なものであることを否応なく教えてくれる。モツアルトのハ長調のやさしいソナタで再現部で主題はへ長調で再現するが、ハ長調ヘ長調は手の感じはあまり違わないと思う。ショスタコーヴィッチ的に?主題が嬰へ長調で再現したら何とも手の感じが変だろうと思う。
 鍵盤楽器の白鍵と黒鍵というのは変なものである。十二音音楽がすべてのピッチを平等にあつかうようにしたといっても、鍵盤は民主的ではない。ハ長調が威張っている世界である。五線譜からしてそうなっている。五線譜というのは鍵盤が理解できないとわからないものなのではないだろうか?
 弦楽器のことはまったく知らないが、G線などというくらいだから調弦もやはり白鍵の世界でされているはずである。嬰へ長調交響曲とか、変イ短調の協奏曲などというのもあまりないのではないだろうか。とても演奏しにくいのであろう。現代のデジタル技術をもってすれば、ハ短調の曲をロ短調に音程を変えることは簡単にできるのではないかと思うが、それを聴かされるとピアニストは頭が変になるかもしれない。しかし歌曲の世界では歌手が自分の歌える音域にあわせて移調することは普通におこなわれているようである。半音音程の移調だと手の形がまったく変ってしまう。ピアニストは混乱しないだろうか?
 本書でしばしばユニゾンのオクターブ・パッセージあるいはオクターブ・グリッサンドのことがでてくる。これはピアニストにとっての大問題らしい。青柳いづみこさんの「ピアニストが見たピアニスト」でもいろいろとでてきていた。こういう曲芸のような部分というのもピアノ演奏には必要であると著者はいう。ピアノ演奏の一つの要素としてスポーツ的な部分があるのだと。こういうオクターブ・パッセージはソロの曲にはあまりでてこないわけで、私的なものとして弾かれることのない公的なものである協奏曲にそれは使われる。
 四手ピアノ連弾曲が書かれなくなったあるいはそれを家庭で演奏するという習慣がなくなったことを岡田氏も「音楽の聴き方」で問題にしていた。四手連弾に編曲不能なほど音楽が複雑になってしまったこと、それによって音楽が決定的にアマチュアの手から離れてしまったこと、それを現代の音楽受容の不幸の出発点であるとしている。それによって音楽が共同体形成の力を失ってしまったのだと。しかしローゼンは音楽の共同体形成の力などというものを一顧だにしない。音楽はあくまでも個人がうけとるものなのである。
 現代では、ピアノという楽器はもはや最盛期をすぎているように思う。現代は弦楽器の時代なのではないかと思う。ピッチとリズムで表現できる分野はもはや開拓されつくしてしまったのではないだろうか? 音色という点ではピアノは旗色が悪い。
 西洋音楽の根幹であるピッチとリズムを一つの楽器で表現できるという点でピアノは西洋音楽をリードしてきた。しかし、プロコフィエフの戦争ソナタのような作品でピアノの暴力的な部分、打楽器的な部分が開拓されてしまったあと、ピアノの表現可能性についてはもはやあまり残されている部分がないように思う。その点は著者もみとめているようである。ベリオの後にさらにピアノ音楽のレパートリーは増えていくのだろうか? それともピアニストの役割は過去の曲の再現にほとんど限られていくのだろうか?
 ピアノという楽器は19世紀前後の音楽とあまりにも深く結びついてしまっているため、また著者もいうようにコンサート・グランド・ピアノはあまりに巨大化してしまったため、恐竜のように滅びていくことになるのだろうか? それとも、それに触れていたいという説明しがたい物神愛的欲求をピアニストが持つかぎり、それは聴衆にも伝わり、ピアノ・コンサートという形式もまた生き残っていくのだろうか?
 

ピアノ・ノート

ピアノ・ノート

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)

ピアニストが見たピアニスト

ピアニストが見たピアニスト