S・キング「悪霊の島」

  文藝春秋社 2009年9月
  
 キングの日本語訳としては最新の長篇小説。
 エドガー・フリーマントルという建設請負業界で成功していた人物が、事故で九死に一生をえて、別の人生を歩みはじめる話である。妻と別れ、フロリダのデュマ島という小さな島で転地療法をはじめる。そこで自己の絵の才能の気づく。デュマ島に住むエリザベスという老婦人とそれに仕えるワイアマンという男と知り合うが、かれらもフリーマントルと同じように過去(前世)をもつ人間であることもわかってくる。フリーマントルは何かに憑かれたように絵を書き続けるが、それは評判を呼び、画家として大成功をおさめる。しかし彼に絵を描かせているものが島に住む“悪霊”の力であるあるらしいことが次第に明らかになってきて、やがてその悪霊と対決を迫られることに・・、というのが粗筋である。
 物語は非常にゆっくりと展開する。キングだから許されるので、新人作家がこれをやったら編集者にただちに書き直しを命じられるのではないだろうか? なにしろ、悪霊との対決がはじまるのが物語が四分の三を過ぎてからである。それまでは、ある意味で伏線というかそのための前段であるのだが、実は面白いのは前段の方で、悪霊との対決がはじまると物語は急に魅力を失う。悪霊の柄が小さいというか、悪のスケールがみみっちいのである。だからあまり恐くない。村上春樹1Q84」では、青豆さんあるいは天吾くんが相手にするのは人間存在の奥底に潜む悪そのものというような壮大なものに書かれていたが、それにくらべるとほとんど個人的怨みに近い。「呪われた町」や「IT」では町や地域全体が対象であったのに比べると随分と矮小なものとなっている。やはりこういう作では悪の側も魅力的でなければいけない。あるいは悪がもっと抽象的なものでなければいけない。「IT」でもそうだったが、相手が具体的な姿をみせるとなんだか興ざめになる。
 そういうことで本作では、普通の小説の部分のほうがはるかに面白い。キングであるからホラーであることを要求されるのであろうが、いっそのこと、最後まで「悪」は正体を現わさず、主人公に絵を描かせるデーモンのようなものとして終始したほうがよかったのではないかと思った。
 前に本書のタイトルにけちをつけ、原題の「Duma key」そのままで「デュマ・キー島」とすればいいのにと書いたが、keyは小島の意味なのだそうである。知らなかった。英語の語彙の乏しさを露呈してしまった。「デュマ島」でいい、と訂正する。装丁をもっと立派なものにすればいいのにという意見は訂正しない。このような中途半端なかたちで単行本にするのなら、はじめから文庫で刊行し、一部好事家のために、少々値がはっても、まともな単行本もあわせて少数刊行すればいいではないだろうか? 本書の体裁はいかにも中途半端である。
 

悪霊の島 上

悪霊の島 上

悪霊の島 下

悪霊の島 下