佐伯啓思 三浦雅士「資本主義はニヒリズムか」

   新書館 2009年10月
 
 本書は、巻頭の佐伯氏の「金融ニヒリズムと「現代の危機」」という論文、巻末の三浦氏の「ニヒリズムとしての現代芸術」という論文(ともに2009年のもの)をはさんで、佐伯氏と三浦氏の4つの対談を置く構成になっている。4つの対談は最初のものが2009年8月のものであるのを除くと、それ以外は1999年、2001年、2003年となかり以前のものである。三浦氏の巻末の論文はかなり独立性の高いものであると思われたので、以前ここで論じた。対談は基本的に佐伯氏が怪気炎をあげて、それを三浦氏が批判する、からかう、あるいはおちょくるというものになっているように思えた。
 佐伯氏は保守派の論客ということになっているようであるが、論壇と呼ばれるところでどのような言説を述べようとも、それが現実の政治に影響をあたえるとはまず思えない。そうであるとならば、自分の言説をなにがしかでも実現しようと思えば、政治家に近づいて、その人物あるいその所属する政党をとおして何かをなしとげるしかない。佐伯氏が具体的に政治家とどのような関係をとりむすんでいたのかは知らないが、安倍晋太郎政権の「美しい日本」とか「戦後レジームからの脱却」とかにかなりの期待をよせていたのかもしれない。安倍政権があのようなみじめな形で崩壊して、茫然自失しているのかもしれないが、2009年の論文・対談ともに何とも無茶苦茶としかいいようのないものとなっている。
 佐伯氏は、現代の西洋は危機に陥っているが、それは西洋が自らの目的に確信をもてなくなったからであるという。西洋の目指してきたものは、「自由で平等な人々による平等な諸国民が構成する「普遍的社会」をつくる」ことであり、それは合理的な科学や技術によって実現される、というものだったという(レオ・シュトラウスのいう「近代のプロジェクト」)。氏が問題とするのは、「近代のプロジェクト」では、社会の改善が、人間の人格の向上に依存するのではなく、科学や技術による制度の構築によってなされるとした点である。「道徳」が放逐され、「科学」や「法」に依存するようになり、ひとはいかに生きるべきかという「価値」の問題、「哲学」の問題が不問に付されるようになったのが問題であるとする。「文化」が問題にされなくなったのがいけないということである。なぜなら、そうであれば「近代のプロジェクト」の当否さえ問えないではないか、と。
 「哲学」と「科学」の分離、もっと一般的にいって「価値」と「事実」の分離が問題とされる。近代の「自由」すなわちリベラリズムは、何が善いのか、どう生きるべきか、は個人の選択であるとしてしまう。とすれば、価値の基準はなくなる。それこそがニーチェのいったニヒリズムである。最高の諸価値の崩壊である。ヒューマニズムなどというものが最高の価値であるかのごとく装われる。
 政治とは本来、価値の順序づけをおこなうものなのである。その本来の役割を抛棄し、経済的富などという「意味」を欠いたもののみを追求した結果がリーマン・ショック以来の現代の危機である。経済のことは専門家にまかせればいいという「科学」志向で政治が運営可能であるとし、価値観を問わない市場にまかせればすべてうまくいくとして、本来の国家の役割である〈社会のむかうべき方向の提示〉という役割を抛棄してきたことの結果が現代の混乱なのであるから、これは西洋のめざしてきたプロジェクト自体の崩壊であり、危機である、というのが佐伯氏の主張である。
 佐伯氏がいうのは、ひとはただ生きているのではだめで、よく生きることを目指さなくてはならない、ということである。「実現すべき大きな価値があって、それを実現するための手段として自由も平等もあるはず」なのに、自由が目的になるという転倒がおきていることを悲憤慷慨する。のんべんだらりと生ているひとが許せないようで、そんな人生に何の意味があるかといいたいらしい。
 なぜ、そのようなことになったのか。明治が悪いという。あるいは日本の近代化が悪いという。これは司馬遼太郎史観への反論で、明治がよくて昭和が悪いのではなく、明治以来の西洋受容が悪いという。もちろん江戸時代の終わりから明治のはじめにかけて、西洋を受けいれたのは仕方がなかった。それをしなければ日本は生き残ってこられなかった。しかし、それは恥ずかしいこと、みっともないことをしたのである。立派なことをしたのではない。にもかかわらず、それを(司馬遼太郎のように?)明治のひとたちは立派になしとげたなどというのはとんでもない。小泉政権のようにグローバリズムの中で、アメリカと同盟関係を維持する以外に道はない、その方向が正しい、というのも間違っている。みな自分たちが恥ずべきことをしているという自覚がない。それが許せない。
 では明治以来の人間が忘れた日本のエートスはどこにあるのか? それは特攻であり、保田与重郎であるという。それに対して三浦氏は「うーん」と唸る。わたくしもまた「うーん」である。
 佐伯氏は、9・11のテロも簡単に否定できないという。それに対して、三浦氏は特攻隊というシステムを作った将校たちを批判し、イスラムの指導者たちを糾弾すべきであるという。そこには自分が至らないのではないかという謙虚な気持ちが欠けているとする。これはもちろん佐伯氏に対する批判でもあるわけで、佐伯氏はどのような生き方が正しいかを自分は知っていると思っている。
 自分は至らないのではないかという謙虚は価値相対主義に通じる。何を善しとするかは、個々人が決めることであって、国家が関与すべきことではない、とする行き方を佐伯氏が受けいれないことは自明である。
 
 安倍政権が崩壊したのは、「美しい日本」などはどうでもいいから、俺たちの職を確保してくれ、という声によってであっただろう。安倍氏は価値の順序づけをおこなおうとしたのであろう。しかしそれは、生きていける最低条件をまず保証せよ、という声に負けた。
 わたくしは政治のめざすべきものは、ひとびとがのんべんだらりと生きていける社会をつくるだと思う。鼓腹撃壌するひとをつくることであって、まなじりをけっして死をいそぐひとをつくることではないだろうと思う。政治とは炉端の幸福という日常にかかわるもので、非日常を回避することにあると思う。
 佐伯氏は今の日本人の99%は生きるに値しない生をおくっていると思っているのではないだろうか? そういうひとが政治を論じるとちょっと困ったことになる。
 佐伯氏のいっていることは、家具を買いにいくひとをみると吐き気がするといっていた晩年の三島由紀夫をおもわせる。三島氏は道徳的マゾヒストを自称していた。グレコマニアであるともいっていた。政治とはアングロマニアがするべきもので、グレコマニアがするとまずいのではないだろうか? 道徳的なひとが手をだしてはいけないのではないだろうか?
 ファシズムの陣営に、多くの哲学者や文学者や思想家が参加したことはよく知られている。彼らは凡庸を嫌ったのである。佐伯氏も凡庸な生というのが大嫌いなようである。そういう生は生きるに値しないと思っているようである。
 氏が最近の金融資本主義というのだろうか、ものを作らずに金を移動させることによって利益をえるという行き方を大嫌いであるというのは、わたくしも同感である。しかし、それを言うのになにも西洋思想史を説き起こすことからはじめることもないように思う。三浦氏のいうように、そういった行き方は不健全で、善い趣味じゃない、ということでいいではないだろうか? わたしはそういう行き方をしない、ということでいいのであり、お前もするなというのは行き過ぎである。いくらひとの生はもっと崇高なものであるはずだなどといったところで、人間は利己的でつねに自分の利益を第一にかんがえるものなのであり、それだからこそ今まで生き延びてこられた。道徳的なひとばかりであればとっくに滅びていたはずである。金を移動させることによって利益をえるという行き方が大嫌いなひとは、そういうことをすると自分の精神の安寧が妨げられるのである。金を移動させることによって利益をえることを無上の楽しみとするひとは、その利益によって精神の安寧が得られるというだけである。どちらも精神の安寧を第一にするという点ではかわらない。
 佐伯氏はホッブスに西洋思想史の転換をみる。ホッブス以前には死をおそれぬ勇気とそれにともなう名誉が賞賛された。しかし、ホッブスはひとは死を怖れるものとした。死を避けるため、戦いを避けるため、相互に契約することから国家が生まれるとした。基本的人権福祉国家などは、みなその延長線上に生まれた、と。確かにそうなのであろうが、ホッブス以前には、思想とは有閑なひとのためだけにあったのではないだろうか? ホッブスによって、普通のひとも思想の視野のなかにはいってきたというだけなのではないだろうか? 佐伯氏は自分をエリートと思っていて、エリートが主導する政治という夢を捨てることができないらしい。しかし、エリートによる政治は絶対によい帰結を生まないというポパーの説にわたくしは同意する。
 佐伯氏は世界が無意味であるとする見方にたえられないらしい。しかし、ひともまた動物であり、それを目的を持ってつくった創造主などはいないのだから、世界が無意味であるというのは、進化論からの自明な結論である。科学は意味をあたえないというのはまさにその通りで、われわれの生には意味がない。だが、意味がなくても心地良く生きるということは可能であり、何を心地良く感じるべきかを、国や共同体から提示されなくてはならないことはない。三浦氏は今までネイションがになってきた部分は今後は芸術がになえばいいという。芸術などという高級な方面に限定することはないと思うけれども、人のいきかたに介入する国家というものをわたくしは好まない。のんべんだらりとごろごろと生きるという選択もまたありである。
 保守主義とは、啓蒙主義のような頭でつくった理念によってではなく、ひとが長く歴史を生きてきたなかで形成されてきたさまざまな叡智を信頼して生きるという行き方なのだと思う。しかしそれが「新しい歴史教科書」のような方向にいくというのがわたくしにはまったく理解できない。三浦氏はもう人類史という観点から見るしかない時代になっているのに、なぜ単純な旧来の歴史観に返ってしまうのかと批判する。同感である。天皇制などというものに未来を託せるとは思えない。
 保守主義というのは、世の中が変っていくのは仕方がないとしても、それはなるべく連続的にゆっくりと変っていくほうがいいとする思想であろう。革命といった断続はわれわれに少しも良いものをもたらさないということである。それなら全面的に首肯できるのだが。
 佐伯氏は文化にこだわる。文化はつねに地域に根ざしたものである。それに対し、文明はもっと普遍的なもの、グローバルなものである。三浦氏は文明の側の人間なのだと思う。西洋との対決の例として西田幾多郎小林秀雄の例が出される。しかし彼らは「分かる者には分かるであろう」という決着のつけ方をしたと三浦氏はいう。それでは「エリートにはいいが、普通の人間には困る」、と。その西田と小林の行き方とは別の決着のつけかたをしたのが吉田健一である、といって三浦氏はそのあとの展開をしていないが、西田と小林は文化の側にとどまり、吉田健一は文明の側に出たのだと思う。氏はヨーロパというローカルの中に普遍をみた。その視点から、われわれの明治以来の西洋受容を肯定していくという力技を試みたのだと思う。
 

資本主義はニヒリズムか

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