清水幾太郎「倫理学ノート」 第5章〜第10章

   岩波書店 1972年
 
 第5章「ロビンス、ベンサムを論ず」
 もちろんなどと威張ることはないけれども、ベンサムの書いたものは読んだことはない。それでもベンサムの名前を知っていたのは、パノプティコンという言葉によってではないかと思う。もちろんフーコーの「監獄の誕生」である。昔はなんかそんな本も読まなければいけないような気がしていた。結局、何にもわからなかったけれど。だから理解が違っているかもしれないが、パノプチコンというのは一望監視装置というような意味らしくベンサムのした監獄の設計らしい。フーコーはこれを近代の管理社会の一つの象徴、それもソフトな管理社会とでもいったものを指示するものとして持ち出したのだろうと思う。
 「倫理学ノート」でも、ベンサムのした改革のリストが示されているがとんでもないもので、ほとんどありとあらゆることにかかわっている感じである。その筆頭に監獄の改革があげられている。ベンサムが社会の現実に烈々たる関心をもっていたひとであることは明らかである。確かにムアとは対称的である。
 「道徳および立法の原理」から引用がある。有名な箇所なのでそうである。それによれば、自然は人類を苦痛と快楽という二人の支配者のもとにおいたのであり、功利の原理は、この従属を承認し、この従属を、理性および法律という手段によって幸福という建造物を作り出すのを目的とする体系の基礎たらしめることを目指すものとされている。清水氏はここの部分を事実と価値についての区別にあまりに無頓着であるとするのだが、そこで以下のようなことを言いだす。いわく、ここを事実を大衆の心理と見、価値をエリートの倫理と見ることもできるのではないだろうか、と。ベンサムが倫理に関心を持つとしたら、それは道徳の指導者の従うべき倫理であり、普通の人間の倫理には関心はないのだ、と。普通の人間は、快苦の感情に導かれて行動する。これは事実の問題である。普通の人間の快楽を極大化し、その苦痛を極小化するように行動するのはエリートの責務である、と。これはヴァイナーというひとの論としてでてくるから清水氏の創見ではないようであるが。ベンサムが幸福計算ということをいったのは、社会的目的のためであって、普通の個人の普通の行動のためではなかったのだという。だから最大幸福というのも立法者乃至は行政者のためのものなのであるという。
 このエリートと大衆の峻別というのが本書の一番の問題点なのだと思う。本書の一番最後にはオルテガの貴族と大衆の区別への言及があり、「飢餓の恐怖から解放された時代の道徳は、すべての「大衆」に「貴族」たることを要求するところから始まるであろう。しかし、それが不可能であるならば、「大衆」に向って「貴族」への服従を要求するところから始まるであろう」と結ばれている。わたくしはポパーから、プラトンの哲人国家に連なる思考が世界に不幸をもたらすということを教えられて、それに従っている人間であるので、この部分には非常に抵抗がある。この辺りが古い知識人としての清水氏のアキレス腱なのかもしれない。ひとを指導することの魅力に抗せないということなのだろうか? ポパーのいう「賢者という個人的理想」「ひとつの権威である知者、同時に王として支配する者でもある哲学者というプラトン的理想」である。「われわれが知ることができることは限られているのだからいかなる権威も存在しない」というようにはなかなか思えないのかもしれない。
 
 第6章「幸福計算」 第7章「効用の樹」
 この2章にはほとんどわたくしの興味をひく部分がなかったのでスキップする。
 
 第8章「無差別曲線」
 清水氏は本来は経済学などはどうでもいいのだという。大切なのは幸福なのである、と。だから倫理学が幸福を論じる学問のままでいたら、経済学などには関心をもたなかった。しかし倫理学が幸福の問題は自分の管轄外であるとしたので、厚生経済学とは幸福の経済学であり(厚生は welfare であり、すなわち幸福)、そこに何かがあるのではないかと思ったのだ、と。自分は功利主義のどこが悪いのかどうしても納得できないのだ、と。功利主義はエリートの責任を明らかにしているのだ、と。
 しかし、氏は厚生経済学にも失望しただけだったらしい。
 
 第9章「非厳密性」
 主として学問の専門化にともなう問題を論じていて、興味がある論点はあまりなかった。
 
 第10章「塵芥について」
 多くの社会科学者にとって、哲学というのは、結局、一つの塵芥処理場なのであろう、という話である。社会科学の多くが経済学を真似て、科学的体裁を整えようとする過程で、そこからはじき出された多くのものが廃棄物の山をつくる。科学の世界には人間がいてはならない。いるとすれば物としている。物とならなければ、人間はそこにいることが出来ない。
 20世紀の哲学には物判りのよい老夫婦のようなところがある。もう時代は科学の時代であることを知っており、若夫婦に干渉しないよう、邪魔にならないように暮らし、昔の夢は捨てなければいけないと悟っている。哲学の世界でも塵芥は外部に排除されなければいけない。それは形而上学と呼ばれる。
 
 この6章から10章までは経済学から人間がいなくなったということをいっている。人文科学は人間をあつかう学であるのに。
 医療の世界では、おそらくその塵芥は宗教の領域であるとされている。あるいは精神医学の領域であるとされている。医学というのは肉体をあつかう学であるとされていて、肉体は物質であるから、物理・化学・数学で説明できる科学のあつかえる範囲である。それではこころはあるいは精神というものは、物理・化学・数学であつかえるものなのか? 脳の研究をしている学者の大部分はそう思っているだろう。しかしそれでも、脳以外の肉体をあつかう分野、あるいは脳を機能ではなく物体としてあつかう分野にくらべるとそれが明らかにできたことはまことにわずかであるので、現実にはまだ有効なことはそれほどはできない。それでそれをブラックボックスとして、こころとか精神とか呼んで棚上げしてしまう。とすれば医学からもまた人間がいなくなっているわけである。つまり医療の世界では「幸福」などという言葉がでてくる余地はまずない。寿命は数で数えることができる。しかし「幸福」は数では数えられない。
 本書で清水氏はベンサムのいった「幸福計算」というのは、エリートのものであり、大衆のものではなかったということをいっている。このエリートを医者に、大衆を患者にしたらどうなるだろうか? 患者は何よりも命が少しでも長く続くことを願っている。大衆の価値は何よりも生命なのであるとし、一方、自分がもしも患者となった場合には、生命ではなく幸福を第一の選択とする。なぜなら自分はエリートなのだから、大衆とエリートでは価値観が違うのだから。そういうことがありうるだろうか? 患者さんをみているときはその肉体を診ている。しかし自分が患者になれば一個の人間であるというようなことがありうるだろうか?
 それについては、清水氏はヴィットゲンシュタインをモデルにして考察をすすめる。それで、第11章「アトムについて」はスキップして、第12章「ヴィットゲンシュタイン」にすすむ。
 

倫理学ノート (講談社学術文庫)

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監獄の誕生 ― 監視と処罰

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大衆の反逆 (中公クラシックス)

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