栗本薫「ぼくらの時代」

   講談社文庫 2007年
   
 最近はそういうことはしなくなったが、以前は年末にその年に評判になったミステリを何冊か読んでいたことがあった。その時に感じたのは海外のミステリと日本のミステリのレベルの違いということだった。海外のミステリが大人の読み物であるとすれば、日本のものは子供用というような印象だった。大人とか子供というのはいたって曖昧な言い方だけれども、商品価値のある作品とこんなものでお金をとっていいのという作品あるいはプロの作品とアマチュアの作品の違いといったものかもしれない。
 本書は栗本氏(中島梓氏)の初期の作品で江戸川乱歩賞をとった作品だけれども、かりに翻訳されて海外で紹介されてもミステリの賞をとることは絶対にないだろうと思う。最低限必要とされるであろう登場人物の魅力、動機の合理性、事件が解明されたあとの納得性、それらをほとんど欠いている。著者も最初からそういう線はねらっていない作品であるだろうから、非難には動じないであろうが、ではどういう方向を目指したのかがよくわからない。ミステリとしても普通の文学作品としても中途半端なのである。ミステリとして真面目でないにかかわらず、そこにいきなりかなり生な、それにもかかわらずいたって紋切り型な世代論がでてくる。後味がよくない。だから、感想を書く必要もないのかもしれないが、せっかくなので幾つか書いてみる。ほとんど作品とは関係ない話になるかもしれない。
 
 大塚英志氏は「サブカルチャー文学論」(朝日新聞社 2004年)の中の「庄司薫はデレク・ハートフールドなのか」で、庄司薫が「赤頭巾ちゃん気をつけて」で発明した作中の主人公と同じペンベームで書くというトリックがその後の作家にあたえた影響について論じている。その中で橋本治桃尻娘」での「薫くん」、栗本薫「ぼくらの時代」での薫くんにも言及している。「桃尻娘」の「薫くん」は、第二章「無花果少年(いちじく・ボーイ)」の主人公二年A組2番の磯村薫くんである。「桃尻娘」では磯村薫くんは作中人物であるに過ぎないが、そこでの文章の調子は「赤頭巾・・」そっくりである。そしてこの「ぼくらの時代」もまた似ている。「このノートを書きはじめるまえに、云っておかなければならないことがある。/ それは、ぼくがほんとはちっともこんなもの、書くつもりなんかなかった、ってことなんだ」である。
 しかし庄司薫氏が「赤頭巾・・」を書いたのは氏が32歳の時であり、薫くんは擬態であるのに対して(青春を生きていた時代の氏の像は22歳で書いた「喪失」のほうにでてきている id:jmiyaza:20061104)、「ぼくらの時代」の薫くんは24歳の中島氏が書いたものであり、作者は作中の薫くんとの距離がとれていない。「桃尻娘」で《走っているオジサン・オバサンたち》を評して桃尻娘・榊原玲奈がいう「それ以上生きてどうするの? それ以上丈夫になってどうするの? それ以上健康になって何があるっていうの?/ あなた達はいつだって正しくて、いつだって健康で、いつだって自分の事しか考えなくて、いつだって他人の事も分かっているのよネ。嘘に決ってる。自分の事も考えないで、人の事も考えないで、何も考えないで、ただ走っているだけだわ」は橋本氏が女子高生に憑依して書いているのであり、氏は任意のひとに憑依できる異能のひとだから《走るオジサン・オバサンたち》にもまた憑依できるのだが、「ぼくらの時代」ではかなりマジに栗本氏は、桃尻娘・玲奈くん流の大人批判を展開する。「私が一番怖いのはマトモな人です。わたしが一番キライなのは偉い人です。私が何より苦手なのは立派な主婦のかたと自信たっぷりのおっさんです。そういう人、つまりは由緒正しいお父さんお母さん軍団のために私たちはこんなに苦しまなくてはなりませんでした」(「コミュニケーション不全症候群」)というのは、「精神分裂気質で、やや多重人格の発病直前で、木田恵子さんのいうところの0歳人で、まああんまり普通の人間ではないらしい」(「同」)中島氏のことではあっても、それを世代論にしてしまってはいけないと思う。小説とは社会学の議論を展開するための場ではないと思う。
 さて、この「ぼくらの時代」は大江健三郎の「われらの時代」を意識しているということを中島氏は述べている。「われらの時代」は「おれたちは自殺が唯一の行為だと知っている、そしておれたちを自殺からとどめるものは何ひとつない。しかしおれたちは自殺のために跳びこむ勇気をふるいおこすことができない。・・そこで遍在する自殺の機会に見張られながらおれたちは生きてゆくのだ。これがおれたちの時代だ」というとんでもない小説で、氏の23歳の時の作である。23歳などというのはこんな程度のものなのである。「われらの時代」にはアンハッピイ・ヤングメンとい3人のバンドがでてくる。それで「ぼくらの時代」にも「ポーの一族」というロック・バンドの3人がでてくることになる。その仕掛けをもっと大がかりにすれば、三島由紀夫34歳の時の作「鏡子の家」の4人になるのかもしれない。「みんな欠伸をしてゐた」であり、「かうして四人のゆくてには、はからずも大きな鐵の塀が立ちふさがつてしまつた」であり、「今ただ一つたしかなことは、巨きな壁があり、その壁に鼻を突きつけて、四人が立つてゐるといふことなのである」である。34歳というのはその程度のものである。だから32歳で「赤頭巾・・」を書いた庄司氏は40歳で「ぼくの大好きな青髭」を書くことになる。以前、薫くん4部作は一種の政治論文のようなものであるというようなことを書いたことがあるけれども id:jmiyaza:20040330 、「ぼくらの時代」で死んでいく何人かの女の子たちをもう少し造形すると「青髭・・」の登場人物達となっていくような気がする。政治論文であるにしても「青髭・・」のほうがずっとまともに現代の問題とむきあっていたと思う。
 中島氏がグイン・サーガのようなものを書き続けている根っこの部分がよくわからなかったのだけれど、本書を読んで、氏が読者に「ぼくらの時代」の少女たちにとってのアイドル歌手あい光彦に相当する何かを提供しようということなのだったのだろうかという感想をもった。ということは中島氏自身もそういう何かを必要としたひとなのであり、まず第一に自分自身の必要のために、そういう壮大な虚構、壮大な別世界を紡ぎ続けたのだろうかと思った。
 

新装版 ぼくらの時代 (講談社文庫)

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サブカルチャー文学論

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赤頭巾ちゃん気をつけて (中公文庫)

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桃尻娘 (橋本治小説集成)

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コミュニケーション不全症候群

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われらの時代 (新潮文庫)

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鏡子の家 (新潮文庫)

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ぼくの大好きな青髭 (中公文庫)

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