ダフ・クーパー「タレイラン評伝」
中公文庫 1979年
開高健・谷沢永一・向井敏の鼎談「書斎のポ・ト・フ」の中の「文学のなかの政治的人間」を論じた「手袋の裏もまた手袋」で紹介されている6冊のうち、フランス革命に関係するものは3冊であるが、ツヴァイクの「ジョゼフ・フーシュ」とアナトール・フランスの「神々は渇く」はすでにここでとりあげた。最後の一冊がこの「タレイラン評伝」である。3冊の中で一番面白かったかもしれない。
この本はすでに絶版でアマゾンの古本にはベラボウな値段がついていたので、やけを起こして原書をとりよせてみて読み始めたのだが、なんとなくわかるがよくわからない隔靴掻痒の感である。それであらためてネット上の古書店で検索したら、まあリーゾナブルな値段のものがあったので購入した。やはり日本語はいい。曽村保信氏の訳もいいのだと思うが、堪能した。本当に英語をもっとしっかりと勉強しておけばよかったとまた思った。
タレイランもフーシュも変節漢、王政から革命さらに反革命の時代を泳ぎ抜いた節操のない人間として知られているわけであるが、本書でのタレイランはしっかりとした政治的な信条をもった背骨のある人間である。その信条とはフランス革命の理想とは正反対の穏健なものなのだが。クーパーは「あらゆるたぐいの極端分子は、いわば国家という生物の体内に巣食う病原菌のようなものであろう」という。
タレイランの節操のない人間というイメージは、賄賂を取り放題という生き方に由来するのであろう。クーパーは「金の問題に関するかぎり、彼のやったことには始めから終わりまで全く弁護の余地がない」というが、タレイランは「決してみじめたらしくなってはいけない」という信条を守り通るためには何でもしたのである。小沢某氏のそうなのだろうか? タレイランは「婦人を語ることはつまり政治を語ることだ」ともいったのだそうであるが、女性関係においてもまた奔放である。というか女性をひきつけてやまない魅力をもった人間だったらしい。本書を読んでいる限り、外交というのは女性にもてる人間でなければできないことなのではないかという気がしてくる。人間的な魅力がある人間であることが必須なのである。岡田某氏はどうなのだろうか?
「タレイランは、春風駘蕩とした温雅な風貌をもち、着物や会話の趣味も良く、その敵ですらも魅力の虜にするような人物だったのに反して、フーシュの方は、野卑で、口さがなく、身だしなみも衣服の趣味もすこぶる悪い、きわめて無愛想な人間」というのがクーパーの評である。そういう知性のひとタレイランがもっとも苦手をしたのが「超王党派議会の多数を構成する田舎紳士の鈍重さ」であり「たとえどんなに賢い陰謀家が計略と秘術のかぎりをつくしたとしても、救うべからざる馬鹿には、ほとんど頭が上がらないのである」ということになる。
タレイランは典型的な都会人、文明人なのであり、文明人同士のかけひきにはいつも勝てるのだが、田舎の野蛮人にはその戦術が通じないのである。
吉田健一の本を読んでいると、文明人であること、すなわち社交の人、話術の巧みな人であることが、それだけで尊重されたヨーロッパ18世紀をいたることろで賛美しているがタレイランもそのヨーロッパ18世紀文明人の一人だったということなのであろう。
こんどはメッテルニッヒの本を読んでみようかと思う。
著者のクーパーはイギリスの外交官。
- 作者: ダフ・クーパー,曽村保信
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