高田里恵子「文系知識人の受難」in 「日本思想という病」
2010年1月 光文社
この本は偶然書店で見つけたものだが、高田里恵子さんの名前があったので買ってきた。
芹沢一也さんと荻上チキさんというひとがやっているシノドスという何なのだろう、一種の思想運動体?が主催しておこなっているセミナーの記録らしい。芹沢さんというひとは知らないひとで、荻上さんというひとも名前をどこかできいたことがあるな、という程度しか知らないが、中島岳志氏は前に「中村屋のボーズ」を読んだことがあるし、片山杜秀氏は前に読んだ「音盤考現学」の著者と似た名前の人だなと思ったら本人だった。田中秀臣氏は以前リフレ派の本を読んだときに接触したことがありそうであった。植村和秀というかたについては知らなかった。、
高田氏については「文学部をめぐる病」以来のファンで、何がいいかというと、ひねくれているというか素直でないところで、何だが自分の同類がいるなという気がする。ここでの演題?「文系知識人の受難」でものっけから「芹沢さんやチキさん、あるいは「思想地図」関連の方々の、深い問題意識に基づいた行動力は、一般「大衆」には届きませんし、知的「大衆」には嫉妬されます」などといいだす。
わたくしも、東浩紀氏らの「思想地図」などは知識人の間のコップの中の嵐にすぎないと思うのだが、やっているご当人たちはえらく真剣で、それが日本を変えていくとでも思っているような口吻で語っているのをどこかで読んだことがある。
高田氏の一貫した姿勢は「あなたは偉そうなことをいっているけれど、そういうあなた自身はどうなの?」というもので、当然そういう問いは自分に帰ってくる。だから氏の論ではつねに「あ、偉そうなこと言っちゃったけど、ごめんなさい。わたしにはそんなことを言う資格はないことはよくわかって言ってるんです」という韜晦がついてまわる。
いやらしいといえばいやらしいし、自己言及という知的な作業といえばいえるのだが、本当はひとりで掛け合い漫才をしているようなもので、「どうせあなたもわたしもチョボチョボのものではないか、ほなさいなら」という乗りなのだと思う。本書でいえば、その乗りからもっとも遠いのが中島氏で、とても偉そうである。俺は何でも知っているという感じ。それにやや近いのが田中氏だろうか? 片山氏と植村氏はいろいろと論じてはいるが、同時にこんなことを論じてどんな意味があるのかということもまた考えているようである。意味がないかもしれないけれど、でも何かがわかるのは楽しいし、ものを考えるのは喜びでもあるといったように。
そこまではいい。問題は自分が楽しいことをしていることで、お金がもらえるのはなぜかということで、ここでの5名の方々はみな大学の教職についている。それについての罪の意識が一番強いのが高田氏のように思える。それが氏の論の屈折の原因になっているのだろう。
罪の意識というのはキリスト教が西欧社会にもたらした最大の害悪だと思う。われわれが西欧文明をうけいれたのは歴史の運命で仕方がないと思うけれど、せめて罪の意識などという余計なものは受け入れないですませるようにするというのが、われわれのとるべき方向であると思っているので、それで高田氏の論がとても気になるのだろうとも思う。
閑話休題、高田氏の論である。高田氏の論の出発点は日本が階級社会ではないということである。あいつと俺とは階級が違うという意識を誰ももっていないということである。要するに貴族がいないということである。
それで思い出すのが、篠沢秀夫氏の「フランス文学講義1」の一節である。「日本のタクシーの運転手ほど知的水準の高い運転手はいないですね。世界中どこへ行っても。すごい。日本のタクシーの運転手はインテリです。あれはポルトガルへ行ったら、もう大学教授になれますね。(笑) もっともなれないんだ。」という調子なのは学習院大学での講義の再生だからなのだが、引用がだらだらと長くなるので、以下、涙をのんで要約すると、「ポルトガルやスペインでは大学教授は世界的水準にある。一方、町を歩いているひとの半分は文盲である。インテリは青白い顔で帽子をかぶりネクタイを締めている。町のひとは赤ら顔で栄養不足のような顔で、着ているものもまったく違う。インテリはそもそもポルトガル語なんか話さない。英語やフランス語である。今(昭和51年)日本の大学の進学率は30%である。フランスはようやく10%、イギリスは10%以下。大学教育が開放されていない。日本とアメリカは違う。フランスの「ル・モンド」はインテリが読む新聞だから、写真もなく漫画もなく、署名入りの論説ばかり。社会面などは細かい字で最後のほうに詰め込まれている。大学の博士論文のタイトルが延々と載せられていたりする。一方、町のひとは「フランス・スワール」なんていう夕刊新聞を読む。だが、日本ではみな「朝日新聞」を読む。ヨーロッパの場合には、アメリカ型、日本型の民主主義がない。」
それから、もう一つ、丸谷才一氏がどこかで書いていた吉田健一の三島由紀夫評、「あいつはいい子だったけど一つだけとんでもない勘違いをしていた。日本に上流階級があると思っていた」というもの。
高田氏はいう。日本では「大衆」が文系知識人を自分たちから遠い存在と思っていない。自分と同じなのに妙にいばっているものとして疎んじている、と。
氏は、文と武、文系と理系、文科と法科という三つの対抗軸を提示する。文系(典型は文学)はどの対抗軸においても敗者である。近代国家をつくるときにインテリを軍隊的愛国心に巻き込むことに失敗したためだと。文科というのは、官僚としての立身出世や金儲けみたいなものに関わらないという自己理解の上になりたつ存在となってしまった。その典型が夏目漱石。しかし、敗者のほうがインテリ社会内部における尊敬度、あるいは自己理解における尊敬度は高まるという屈折した構造がある。反体制あるいは非体制が尊重される世界である。
青色発色ダイオードの中村修二さんがノーベル賞をとったら困るという話がでてくる。氏は文系教養科目が大嫌いであると公言しているひとだからである。わたくしもまた中村修二さんのようなひとが大の苦手なのであるが、それは中村氏が“教養”がないひとのように思うからである。ごくわずかなことしか知らないのに、それですべてを押し切っていけると思う自信のひとが苦手である。教養があるひとというのは自分がいっていることは間違っているかもしれないという意識を手放さないひとだと思うのだが、さてそれなら、それが自信のなさに通じてしまうのかが問題となる。
庄司薫の「狼なんかこわくない」の「血を売って「資本論」を買った青年の話」がとりあげらる。三浦雅士氏は庄司氏の本当の主題は「大衆社会現出のさなかで当惑するエリート」というものであるとした指摘したのだそうである。この三浦氏の説は本書ではじめて知った。わたくしは庄司氏の論は都会の擁護というものであると思っていたので、三浦氏の論には意表をつかれた。でも当惑するエリートというのはどうなのだろうか? 庄司氏の中では「大衆社会現出」というのは「田舎ものの進出」ということなのではないだろうか? それに当惑しているのは都会人なのではないだろうか? あるいは文明というのが都会の産物であるとするならば、野蛮の進出にとまどう文明人という図式。
「いまや一つには中島みたいなやつの時代らしいだよ。つまり田舎から東京に出てきて、いろんなことにことごとくびっくりして深刻に悩んで、おれたちに対する被害妄想でノイローゼになって、そしてあれこれ暴れては挫折し暴れては失敗し、そして東京というか現代文明の病弊のなかで傷ついた純粋な魂の孤独なうめき声かなんかあげるんだ。もちろん中島でなくたっていい。つまりなんらかの大いなる弱味とか欠点とか劣等感を持っていてだな、それを頑張って克服するんじゃなくて逆に虫めがねでオーバーに拡大してみせればいい。(「赤頭巾ちゃん気をつけて」)」 これは血を売って「資本論」を買ったと称する青年に対する批判になっているいるわけだけれども、吉本隆明氏の「大衆の原像」路線の批判にもなっていると思う。
ここで高田氏は「知識人的後ろめたさ」ということをいう。これは下世話にいえば、俺は頭だけの人間で生活の本当の困難を知らないとでもいったものであろう。現実の世界を作っていくのは生活者の日々の営為であって、俺たちは所詮、何の役にも立っていないというような意識。オブローモフ、余計者であり、無用者。「されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、‘V NAROD !’と叫び出づるものなし」。
そういう意識をもっていると、「俺は血を売るほど貧しい」という青年にあうと「シュンとして声なし」となってしまう。もちろん「大衆の原像」にもお手上げとなる。
次が竹内好のペシミズム、旧制高校と帝国大学に最後まで残った自由主義が民衆にはまったく支持されなかったという話。庶民は学歴エリートが嫌いだった。官僚や大学教授を信頼していなかった。奴らは自分さえよければいいエゴイストだと思われていた。それに対して、軍隊は大衆の生活に直接に関わっていると考えられた。これは世界どこにでもみられる現象ではなく、近代日本に特殊なものであったというのが高田氏の主張の中心となる。
高田氏はその原因を日本の軍隊の形成の特殊性に求める。イギリスは志願制。そのためイギリスのエリートの三分の一が第一次世界大戦で死んでしまった。なぜそうなるのか? イギリスの下層民衆は劣悪な生育状況と労働環境のため、戦場で戦えるような肉体を持っていなかったのである。ドイツは徴兵制。そこで一年志願制度をつくった。ブルジョアの子弟の上級学校出身者をその制度にとりこんだ。学歴のあるものが志願すると通常3年の兵役が1年に短縮される。軍隊の費用を自分で負担したため、金持ちしかこの制度に参加できなかった。
日本もその制度をまねようとしたがうまくいかなった。それで旧制高校的愛国あるいは憂国の思いを軍のナショナリズムにとりこめなかった。もと士族の青年は意外に軍人を志願しなかった。かわりに官僚となった。軍人になったのは農村の出身者である。だから軍隊の人間はインテリ度、教養度が低いとみなされた。それで、欧米のような、将校になるのは上流階級出身のインテリであるという理解が成立しなかった。
次に大学。大学もまたエリートのいくところとはみなされなかった。誰でもいけるところと思われた。
それで、日本では庶民の側は、将校になるのははじめから自分とは身分が違うもの、大学にいくのもわれわれとは身分が違うひととは決して思わなかった。要するに日本は階級社会ではない。
それでは丸山眞男二等兵をひっぱたいたのは誰だったのだろうか? それは農村出身者ではなく、たとえば師範学校出身者であった、と。世が世であれば、俺が東大にいっていたという意識をもつものがいじめたのである、と。これは山本七平氏の「私の中の日本軍」でいわれているのだそうである。この本はわたくしも読んだけれども、そこのところは覚えていない。軍隊でのいじめというと、想起するのは、奥泉光氏の「グランド・ミステリー」で描かれていたような世界である。本当に本当にいやな世界だと思う。そこでいじめていたひとがどういう出自のひとであったかは覚えていないが、わたくしは丸山眞男をいじめたのは農村出身者であると思い込んでいた。それに対する怨念が「日本の思想」を書かせたと思い込んでいたので、山本氏の論を見過ごしていたのはまずいなあと感じた。ただ一言いえば、それは農村出身者ということではなくても、日本的共同体の人間であったということはいえるのではないだろうか? 日本的共同体の原点は村落共同体である、とすればそれは何らか農村的なものであるとはいえるのではないだろうか? 丸山眞男が反撥した相手は日本的共同体であり、いじめを誘発したものは、共同体からはみ出ているとみなされたものへの共同体からの報復なのではないかと思う。
最後に山崎正和氏の「自己拡張」の話。大衆は知識人を「コイツは自分が威張りたいだけなんだ、偉そうにしたいだけなんだ」という風に思っていると。社会や他者のためにやっているのではないのだ、と。わたくしなどから見ると、全共闘運動というのは自分のことだけひたすら考えていた運動で、社会や他者のためなどということはこれっぽっちも考えていなかったものであるように思えるのだが、庄司薫氏が「赤頭巾・・」で提示したのも全共闘運動批判なのであるから、二人の話の平仄は合うのかもしれない。
全共闘運動もまた丸山眞男をひっぱたいたわけであるが、これは隣組でのサラリーマンの美人奥様いじめと同じようなものではないかと思う。わたしたちはもんぺを履いているのに、あの奥様はなんだか化粧しているように見えません?という心理。われわれは人民のために学問の世界などは抛棄したのに、あいつはまだのうのうと学問なんぞをしていやがってゆるせないという心理。抜け駆けは許さないという心理。自分は自分、他人は他人ということが許容できない世界。こういう点を小室直樹氏は「危機の構造」で「中立の権利の尊重」の蹂躙という言葉で言っている。敵か味方かということだけがあって、その中間を一切みとめない思考。
吉田健一の「まろやかな日本」という本(正確には吉田氏が英語で書いた本を磯野宏氏が訳したもの)に「足をひっぱる」ということを論じたエッセイがある。英語にも to pull the legs という表現があるのだそうであるが、英語の意味は単にからかうということらしい。その辺りを「鼎談書評」で丸谷才一氏は「他人が社会的に成功すれば、それを妨害しようとするのが当り前であるとする日本人の考えが不思議でしようがない吉田健一の特殊性」という観点から論じている。吉田健一には現代日本の村落的性格に対する、ほとんど先天的な理解の欠如があった、と。
逆に「足をひっぱる」以下、嫉妬心こそが日本社会における人々の行動の原理となっているということを倦まず語り続けるのが谷沢永一氏の「人間通」である。「隣の貧乏、鴨の味」「隣に蔵立ちゃ儂ゃ腹が立つ」であり、隣人の不幸は喜ばしく、自分に近しい者であるほど、その人物の栄達は居ても立ってもおられぬほど不愉快であるのだと力説する。「足をひっぱる」は「人間通」では「引き降ろし」という言葉でいわれるが、「人を破滅させるために計略を練るときの秘かな北叟笑みは戦慄的な恭悦であろう」という。この「人間通」を読んで本当にわたくしなどはいやな気持ちになったのだが(人間というのはそんなにも志が低いものなのだろうか、というようなことなのだろうが、そういうことを思うのもお坊ちゃん育ちで世間しらずのままで、今まで生きてきたということなのだろう)、これがベストセラーになったのも、自分は世間からはぐれているという「知識人的後ろめたさ」をうまく刺激したためなのだろうか?
高田氏のこの本も、知識人もまた大衆にとって隣人であると思われているために嫉妬の餌食になるのだということをいっている。それなら、高田氏が階級社会を望んでいて、知識人が大衆から尊敬されるような時代がくることを望んでいるのかといえば、そうでないとはいえないにしても、それが可能であるとは氏も思ってもいないであろう。
高田氏の本は、「文学部をめぐる病」と「グロテスクな教養」はすでにとりあげた。「学歴・階級・軍隊」は買ってはいたが読んでいなかった。この論がそれと関係していることは確かなようなので、とりあえず読んではみたが、どうも著者が何をいいたいのかがよくわからなかった。凝った構成で、その構成が著者の意図をしめしているのだろうとは思うものの、それが読み取れなかった。とにかく軍隊のことにこだわっていることだけはよくわかるのだが、日本がドイツのような一年志願制度をうまく作れなかったということが日本の知識人の受難の原因であるということを仮にみとめても、それはたまたまうまく作れなかったということなのか、つくろうとしてもできなかったのか、それが問題となると思う。
士農工商で武士は一番上にいるといっても、仕事の内容は武人ではなく管理職であり、役人であった。、経済の実権は一番下のはずの町人が握っていた。だから明治になって、もと士族が軍隊にはいらず官僚を目指したというのは当然なのではないだろうか? 日本は律令国家であり、土地と結びついた貴族がいなかった。武人が尊重されず官僚が尊ばれるというのは長い伝統であり、それを明治国家も覆すことができなかったということなのではないだろうか? 農民もまた官僚にあこがれた。軍隊もまた国家組織の一端であるという点で官であったのだから、農の軍隊志向も理解できる。
文と武、文系と理系、文科と法科の3対について考えてみる。日本では武というものが尊ばれたことはなかったのではないだろうか? 井沢元彦氏などがつねに言っているように、武は忌むべきもの、なければないほうがいいもの、できれば目の前では見たくないものとされてきたのだとすると、それが明治以降の時代となってもなんとなく日陰の存在とされてきたのも理解できる気がする。日陰におかれればそれは当然ゆがんでしまう。憲法第9条というのもその延長なのではないだろうか? 軍隊なんかみたくない。誰か自分以外がやってくれればいいという意識。紅旗征伐わがことにあらず。
文と理ということについていえば、理は明治以前にはなかったようなものなのだから、歴史的に考察することはできないので、実学と虚学とわけたほうがいいような気がする。そうすると理はすべてが実学ではないにしても、大きくわければ実学の側であろう。文でも法は実学だと思う。経済学だって実学である。
それなら文学は? 語学は実学なのだと思う。明治期、大学は近代化のために作られたのだから、それが実学に傾くことは当然であろう。いわゆるリベラル・アーツのようなものはどうでもいいようなものであったのではないだろうか? かりにそうではないとしても、鹿鳴館のようなもので、日本でもちゃんと実学でないものだってやっていますという格好をつけるためのものだったのではないだろうか?
問題は実学をやっているような顔をしながら、実は自分の好きな虚学をやっているということが少なからずあるのではないだろうか?ということである。税金を使って自分の好きなことをして遊んでいるのではないか? 文系知識人の後ろめたさというのは、そこに由来するのではないだろうか? 実はこれは文系だけの問題ではないはずで、理系だって実学というのはお金をもらう口実で、実は自分の面白いと思うことをやってみたいだけということも多いのではないだろうか? 最近話題のスーパー・コンピュータだって、こういう役に立つなどというのは後からつけた理屈で、とにかく世界で一番早いものを作って遊んでみたいというだけなのではないだろうか? 国に研究費を請求するときの作文などは嘘八百ばかりだろうと思う。
西欧の大学は神学を中心に発達してきた。神学を虚学というと怒られるかもしれないが、そういう背景があるからこそのリベラル・アーツなのだと思う。そういう背景がない近代化のための大学でリベラル・アーツをやるということには、どうしたって後ろめたさを生むのではないだろうか? でも日本が近代化の過程にあるうちはまだよかった。「あちらでは・・」という学問が成立しえた。しかし近代化が終ってしまうとリベラル・アーツはつらいと思う。
内田樹さんが、最近の大学が情報何とか学科とかコミュニケーション何とかとかいった舌を噛みそうな名前に変えて実用を売りにしているのを批判し、リベラル・アーツの復権のようなことを盛んに主張しているけれど、そういうことを自信をもっていえる文系知識人は多くはないのではないだろうか?
大衆は、あいつらは「お役に立ちます」なんていっていても、何、自分が好きなことをしているエゴイストだろうと思っている。本書の最後は「みなさんも自分のルサンチマンや後ろめたさを見つめてみませんか」という提言で終っているが、そんなことをしたらいよいよ自己の存在理由について自信をなくすだけではないだろうか? 「いま、国民のあいだでの社会的連帯の必要性が叫ばれています。しかし、なぜ、なかなかそうした連帯が日本では生まれにくいのか。その理由をわたし自身の心のなかに探ってみることから始めてもいいのではないか、と考えているからです」というのは何だかとってつけたみたいである。そんな優等生みたいなこといわなくてもと思う。わたしは全然自分に自信がもてないのに、あいつはえらく自分に自信をもっているみたいだ。許せない。何とか自信を打ち砕いてやりたいものだ、というのでいいのはないだろうか?
高田氏以外の「日本思想という病」の論文については、また別に論じるかもしれない。
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