春秋社 2009年12月
こういうタイトルではあるが、バッハを論じたものではなく主として平均律について論じたものである。平均律を論じるのであるから当然その対比としての純正調の問題が論じられる。著者は純正調の側に立ち、音楽は純正調を意識して演奏されるべきであるとする。現代のピアノは平均律で調律されているわけであるから、それを排し、純正調を意識した調律による演奏を主張する。
平均律は24の調がまったく平等であるから、どの調で弾くかによって曲が違ってくることはない。変わってくるのは高さだけである。そこから調によって性格が違ってくるかということが論じられる。
次が、旋律の読み方である。もし移調しても相対的な音の間隔が変わらないのであれば、ソミミ、ファレレはどの調であってもソミミ、ファレレである。そこで移動ド唱法と固定ド唱法の優劣が論じられる。著者は移動ド唱法の側にたつ。
最後に著者が提唱するイコール式というやりかたが紹介される。平均律曲集を長調はハ長調、短調はイ短調に移調してしまうというものである。
本書の内容がとても難しいので、ネットでいろいろ検索してみたのだが、この問題はとんでもなく奥が深いものであることがわかった。とてもわたくしのような素人の能力にあまることは明らかなのだが、素人がこういうことをどのように感じるのかを書くことも一興なのかもしれないと思い、あえて書いてみることにする。
はじめにおことわりしておかなければいけないのは、わたくしの音楽耳はロバの耳ということで、さすがに全音と半音の違いはわかるような気がするが、本書で論じられている微妙な音程の差を感じとる能力をまったくもっていないということである。したがって以下に論じることはまったく頭での理解であり、音楽としての実感をともなったものではない。
通常われわれがきいている音楽はオクターブを12等分したものである。Cを起点にすれば、C・C♯・D・D♯・E・F・F♯・G・G♯・A・A♯・H・Cである。(以下クラシック音楽でのしきたりにしたがって、ポピュラー音楽でのBをH、B♭をBと記すことにする。おそらくこの表記にもすでにいろいろな問題がふくまれているのだろうと思う。ABHCという固定した音高があるのかという問題である。) 半音の間隔は100セントといういい方をするらしい。そうすると全音は200セントであり、オクターブは1200セントということになる。
さてオクターブ上の音は振動数が倍になることが知られている。ドの2倍はオクターブ上のド。それならば3倍は? ソになる。4倍はまた上のド、5倍はミ、7倍はシ♭、11倍はファ♯・・・、ということで何の問題もないようなものなのだが、実は問題があって、それはこのようにしてきめた(倍音をもとにしてきめた)ソ・ミ・シ♭は平均率のソ・ミ・シ♭の音と一致しないのである。もしも倍音をもとにしてきめた音のほうが正しいとすれば、平均律は間違っていることになる。
ところで倍音をもとにしてきめた音程は単純な振動比をもっているから、同時に鳴らしたときによく協和する。とすれば平均律は間違っている、あるいは正しい音ではない、ということなる。
すでになんのことやらの世界になってきたので、ネットから得た知識をまとめる。
倍音 セント 平均律では その差
3倍 ソ 702 700 2
5倍 ミ 386 400 −14
7倍 シ♭ 968 1000 31
9倍 レ 203 200 4
11倍 ファ♯ 551 600 −49
13倍 ソ♯ 841 800 41
15倍 シ 1088 1100 −12
17倍 ド♯ 105 100 5
19倍 ミ♭ 298 300 3
これだとドレミファのファがなかなかでてこない。それで三分の一、五分の一・・・の振動数からも音を得ていく。
1/3倍 ファ 498 500 −2
1/5倍 ソ♯ 813 800 14
1/7倍 レ 231 200 31
1/9倍 シ♭ 996 1000 −4
1/11倍 ファ♯ 648 600 49
1/13倍 ミ 359 400 −41
1/15倍 ド♯ 112 100 12
1/17倍 シ 1095 1100 −5
1/19倍 ラ 902 900 3
上からえたドミソは、
ド:ミ:ソ=1:5/4:3/2=4:5:6
であるから振動数は簡単な整数比になる。
今度は、3倍音であるソをもとにして
ソ:シ:レ=2/3:8/15:9/4
1/3倍音であるファをもとにして
ファ:ラ:ド=4/3:5/4:2
となる。
ドを1とすれば、レ・ミ・ファ・・・は、1 9/8 5/4 4/3・・・となり、通分すると、ドレミファ・・は、24 27 30 32 36 40 45 48となる。
ここで、計算すると、ミソシの比は10:12:15となる。ラドミの比は10:12:15となる。しかし、レファラは、27:32:40となり、あまり簡単な比となっていない。
つまり純正調のハ長調のおいて、ホ短調とイ短調の主和音は比較的きれいに響くが、
ニ短調の主和音は濁る。
また10:12:15は4:5:6に較べれば簡単な比ではなく、純正調においても長調の和音に較べると、短調の和音は不純なものであることになる。
ピタゴラス音律というものがある。完全5度の積み重ねの上に音階をつくるものであり、12回くりかえすとすべての半音階がえられるが、オクターブ上のドは23セント以上のずれが生じる。(純正の5度が約702セントで平均律が700セントであるから、約2の12倍は約24セントである。これは、完全5度は周波数比が2:3で、オクターブは1:2であり、完全5度を積み重ねるとすべての半音をふくんで7オクターブ上のドに到達することになるが、3/2の12乗は2の7乗と一致しないからということでも説明できる。)
その矛盾を解決するためのひとつの方法が平均律であるが、それに先行するものとして、純正律や中全音律やウエル・テンペラメントなどの古典調律がある。
純正律:ある調を決めて、そこでよく使う音を純正音律から導くやりかた。これではたとえばハ長調で調律すると、ファ♯とラ♯はの3度は響きが悪い(純正の3度から遠い)。
全中音律(ミーントーン):五度音程を少しだけせばめて長三度音程をなるべく多く純正にとるようにした音律。長3度の音程が純正で完全に澄んだ響きであり、5度も純正からの誤差は半音の1/20ほどなので、比較的美しく響く。
ウエル・テンペラメント:調によって純正にする音程をかえる。♯や♭の少ない調では3度を純正音程に近く、♯や♭の多い調では5度音程を純正に近くする、というようにネット上での解説ではあったが、これについては議論があるところのようである。
一応、これだけ前準備をして、本論をみていく。最初の数ページはバッハの紹介なのだが、8ページの「音律の考え方」からもっぱら音律へと話がしぼられていく。
さてG♯とA♭は違う音であるという話になる。これは平均律では同じ音(異名同音)なのだが、純正律では違う音である。G#は773セント、A♭は814セントなのだそうである。一般に「♭によって低められた音は♯によって高められた音よりも常に高いという法則がある」のだそうであるが、その法則が何に由来するのかは書かれていない。平均律では、G♯もA♭もともに800セント。
平均律はただ一つであるが、不等分音律には実に様々なものがあるらしい。その一つとして、キルンベルガー音律というのが紹介されている。
そのハ長調は、CDEFGAHCが、0、204、386、498、702、895、1088、1200となる。これは上の倍音ででてきた、0、203、386、498、702、902、1088、1200かなり近い(ラの音がやや異なる)。これで、主和音と属和音は純正になる。しかしこの音律でイ長調がどうなるかというととして、イ長調の主和音が純正とほど遠くなることがしめされる(この音律で、C♯とD♭が違うのか同じであるかは言われていない。キルンベルガー音律のピアノもまたオクターブは12個の鍵盤しかないはずなので、C♯とD♭は異名同音となってしまうはずであるが、それでいいのであろうか?)
さてそれならバッハの「平均律クラヴーア曲集」はどのような音律を前提に作曲されたものなのだろうか? Wohltemperierte という語は何を意味するのか? バッハの時代に通常用いられていた中全音律ではすべての調を網羅することはできない(聞けた響きではない調がでてくる)。等分な平均律ではなくても、24の調を弾ける不等分な音律であった可能性も指摘されている。これについては決着はついていないらしい(バッハは弟子に三度音程を純正よりも広くとることを指示したらしい。明らかに純正調ではない)。いずれにしても24の調が弾けるということは、かなり等分に近いものでなくてはならなくて、調の違いによる響きの違いというものは随分と少ないものであったはずである。
ここから話が、このキルンベルガー音律では平均律と異なり、ハ長調とイ長調では響き(調性格)がまったく異なるという方向にいく。当然、平均律ではピッチが違うだけで響きは同じとなる。平均律では響きの違いは長調と短調だけに存在する。
古来、調の性格ということについて様々なことがいわれている。ハ長調が大胆とか、ト長調が雄弁とか。しかし、いろいろなひとがいろいろなことを言っていて、それはしばしば相矛盾する。不等分調律では、調が変わると響きが変わる。少なくともバッハが調性格の違いを示すために「平均律」を作曲したのではないだろうということが縷々説明される(別の調で先に作曲して後から移調したとか)。一般的に、♯系の調は明るく、♭系の調は暗いとされている。しかし平均律のピアノでそのような差がでるというひとは「裸の王様」であると著者は批判する。
論理的にはまったく著者のいう通りなのだと思う。しかしかつて純正調があり、それからあとで平均律がでてきたとすれば、純正調ではあった調性格のイメージが後世の作曲家に影響し、優しい曲調は変ニ長調、行進曲はニ長調というような書き分けが行われたという可能性は否定できないように思う。わたくし自身の感覚では、♯系は硬く、♭系は柔らかいのであるが、ホ長調は柔らかく、変ホ長調は硬い感じがする。おそらく知っている曲の与える印象が影響しているのであろう。ホ長調、「別れの曲」?、変ホ長調、「英雄」?。
次が、ピアノ教育における「固定ド読み」の問題である。わたくしはピアノをふくめ楽器の教育を受けたことが一切ないので、ここで書かれていることに心底びっくりした。ピアノ教育では、Cの音を常にドと読むのだそうである。へ長調でのたとえばソドミという旋律は、ドファラと読むのだそうである。それはいいとして(よくはないかもしれないが)、同じくヘ長調のドレミファソはファソラシドとなるらしい。B(B♭)をシと読むらしい。そうすると(ここからがそういっていいか問題だが平均率ではそうなるので)同じ旋律を嬰ハ長調で記譜するか変ニ長調で記譜するかで、ドレミファソだったり、レミファソラだったりすることになるはずである。著者はそれを批判し、階名読みでなければならないとする。
これまた著者の論理はいたって正当なものである。ただ、そのためには調というものが学習者に理解されなければならない。ソは4度上にある音を主音として通告する役割がある、と著者はいう。ソ−ドと階名読みすることは、属音から主音への進行を意識することである、という。これを理解するためには属和音から主和音への解決というカデンツの構造の理解が前提となる。シはドへの導音であり、ファはミへの下降導音であるという理解もまた必要である。ソシレファからドミソへの解決のダイナミクスの理解が必須である。階名読みの問題点は曲が転調した場合である。もちろん、転調が理解できれば、転調した時点で、新しい調の階名で読めばいい。しかし転調したのかどうかの判断はいたって恣意的なものである場合が多い。例えば、ワルトシュタイン・ソナタの第一楽章第一主題。E・E・・・E・E・F♯・F♯・G、これはミミファファソと読むべきなのか、それともララシシドなのか? ハ長調のドッペル・ドミナントとしてのDF♯ACの構成音としてのF♯なのだろうか? ト長調がサブドミナンテから開始されたというような解釈はないだろうが(ハ長調で記譜されているし)、音程関係からすれば、ララシシドである。
ここでまた論点がかわり、現在のピアノが平均律で調律されていることの問題、特に3度音程がきわめて不純であることに論点が移る。それを回避するための一つのやりかたとして、上でもすでに述べたキルンベルガー音律が紹介される。これは以下のようなものらしい。最初の出発点としてDesの音を決め、そこから純正5度を7回重ねる。Des−As−Es−B−F−C−G−Dが得られる。これでえられたCから純正3度でEを得る。そのEから純正5度を二回重ねてE−H−Fisを得る。Aが残る。Aは、A−DとA−Eが同じ程度に低くなるように取るというものなのだそうである。なんだか複雑怪奇であるが、ベートーベンはこの音律を前提に作曲したのだそうである。
さらに話が複雑になるのが歌の問題がでてくるからで「ピュタゴラス音階」が次にでてくる。これは5度が純正になる音階である。全音が204セント、半音が90セントという音階である。これだとドレミファソラシドでのすべての5度が純正の702となる。しかし3度は408と平均律以上に“鋭い”。グレゴリア聖歌はこれで歌わなければならないのだそうであるが、3度がハモらない。単旋律時代には4度と5度が協和音程で、3度は不協和音だった。後世、3度が協和音程とされるようになってでてきたのがキルンベルガーなどの音律なのだとされる。
いずれにしてもベートーベンはキルンベルガー音律を前提にピアノソナタを作曲したのだそうで、著者は作品14−1のホ長調のソナタを例に引いて、これを平均律のピアノで弾くとベートーベンは激怒するだろうという。キルンベルガーではニ長調やト長調は3度が純正なのに対してホ長調は3度が緊張している(音程が広い)。それをあえて利用して作曲しているのに、平均律はそれをぶちこわすから、と。しかしキルンベルガーでのホ長調主和音の三度は406セントなのだそうであるが、平均律では400セントである。純正が386セントであるのだから、キルンベルガーでの長三度は平均律の長三度に近い。ベートーベンが怒るのはむしろハ長調の曲のほうなのではないかと思う。とすればワルトシュタインである。そしてワルトシュタインで第一楽章第二主題がホ長調であることは、キルンベルガーの特性をいかしたものなのかもしれない。
キルンベルガーでは調性格があるから、悲愴ソナタのハ短調、月光ソナタの嬰ハ短調はその調でなければいけないものとして選ばれたのだという。それを平均律で弾くことは、「ベートーヴェンのすべてのピアノ作品が「等分平均律」の中で窒息してしまうのではないか」と著者はいう。
このあたりからどうもよくわからなくなるのだけれども、バッハの時代にはほとんど調性格がでないほど均等ないしはほぼ均等な音律が用いられたのだけれども、時代が下るにしたがって、かえって不均一で調性格をもつ音律へとかわっていったのだろうか?
さらに話題が変わって、絶対音感。日本の音楽教育では絶対音感信仰が絶大であるらしい。たとえばある音が鳴っていたときに大事なのは、それが音楽の中でどのような機能を果たしているかであって、それがどのようなピッチであるかが優先されるのはおかしいという主張でこれまたきわめて真っ当な見解である。どうも固定ド唱法というのは絶対音感を前提としたものらしい。
ここで平均律曲集に戻る。バッハは三度音の純正を犠牲にすることによって平均率を作曲した(することができた)。それならば、平均律をすべてハ長調とイ短調に移調するならば、そしてそれをキルンベルガーに調律したピアノで弾くならば、純正の美しい響きでの楽曲を演奏することができる。それで著者は2007年にイコール式のバッハ平均律クラヴィーア曲集というのを出版した。そこではすべてがハ長調かイ短調に移調されている。
以下、本書を読んで浮かんだいろいろな疑問点。
1)正しいハ長調とは何か?
もしも、一切の黒鍵をつかわず、白鍵だけで演奏できるハ長調の曲があった場合、どの調律で演奏するのが正しいことになるのだろうか? キルンベルガー音律? ピアノではなく、歌う場合、あるいは音程が固定していないヴァイオリンなどで演奏する場合、正しいドレミファというのは何になるのだろうか? ピュタゴラス音階? 単旋律を歌う場合、ハーモニーはでてこない。物理的な振動数と正しさというのはどのように関係するのだろうか?
簡単な整数比にある音が正しいというのは一つの仮定であると思う。単純な整数比でない音を外れているとわれわれが感じることに根拠があるのだろうか? ある音を正しいと感じることがわれわれのDNAに組み込まれていることがあるのだろうか? 「人は太古の昔より純正の音程をDNAの中にもっている。これは西洋に限ったことではなく、世界中の人間に共通した事実である」とあるが本当なのだろうか? それが事実ならば、「単旋律時代には4度と5度が協和音程だった。今日では考えられないことだが、3度は不協和だったのである」ということはおきないのではないか? われわれが通常の環境の中で育ってくるとRとLの音の区別がつかなくなるように、潜在的にはもっている能力もそれを必要とする環境の中にいないと生育の過程でなくなってしまう。それと同じに、潜在的には純正の音も平均律の音もどちらも感じ取る能力をわれわれは持っているが、生育の過程で聞く機会がない音程はわれわれに訴えるものがなくなってしまうということであれば、純正の音程をDNAにもっているというのは間違いではないにしても、平均律の音程をもまたDNAのなかにもっているのではないだろうか? 平均率は、2の十二乗根などというとんでもない数でしか表せない人工的なものである。しかし二等辺三角形の対辺にはすでに無理数が現れるし、美術でいえば黄金比にも無理数がでてくる。単純な整数比である音を美しいと感じるというのも一つの仮定であるし、均等な分割を美しいと感じるというのも同様に可能な仮定ではないかと思う。後者であれば12等分を美しく感じるといういい方もなりたたないわけではないように思う。
2)半音とは何か?
通常は、音階は長調であれば、基音から全音・全音・半音・全音・全音・全音・半音でなりたつと理解されている。半音+半音=全音というのは、1/2+1/2=1であってきわめてわかりやすい。しかし本書によれば、「♭によって低められた音は♯によって高められた音よりも常に高いという法則がある」のだとすると、当然、C♯とD♭は別の音ということになる。それならば、♯+♭=0にはならないから、C♭を♯した音というのはCではないことになる。C♭をナチュラルすればCに戻るのだと思うのだが。あるいはCを♯♯した音もDではないことになる。そんなことをしていると収拾がつかなくなってしまうとすると、CがCであることを保証するものはピッチになってしまうのではないだろうか? A:440というのは現代の規定であって、かっては420であった時代もあり、少し前までは435であったのだとすれば、ピッチというのは時代によってかわる相対的なものであり絶対音感などというのは無意味という著者の主張は首肯できるのだが、相対をつなぎ止める絶対がどこかで必要となる。本書の場合その絶対になっているのがハ長調であるように思う。純正調オルガンというのが紹介されているが、CとDの間に3ヶの鍵盤があり、HとCの間にも一個の黒鍵がある。EとFの間にも一個ある。つまりC♯(D♭)にあたる鍵盤が3ヶあるわけである。C♯とD♭以外にはさらに別の音があるらしい。しかしCの鍵盤は一個である。Cという音(ピッチ)は絶対で、C♯やD♭は相対できまるということなのだろうか? 本書の記載によれば、臨時記号で表された音の音程はその和声的機能が確定しないと決定できないように思うのだが、本書でも示されている第一巻第24番のロ短調フーガのような半音を多くふくむ曲、あるいは「音楽の捧げ物」のフィリードリッヒ大王の主題のような半音階下降(GからHまで)を鍵盤楽器で弾く場合、平均率であれば決まった音を弾くしかないが、純正オルガンであれば、どの音を弾くのが正しいことになるのだろうか? わたくしなどはこの大王の主題などはまさに平均率にふさわしいテーマだと思ってしまう。ロ短調フーガをイ短調に移調してキルンベルガー音律に調律したピアノで弾くと平均律調律よりも美しいのだろうか? バッハには半音階による旋律がとても多い。そういう旋律を書いていると当然、平均率への志向がでてくるのではないだろうか?
3)音楽とは美しい響きなのか?
本書を読んでいて、橋本氏に段々説得され、キルンベルガーというのはやはり美しい響きなのかと思うようになってきたが、それでいま、キルンベルガー調律でハ長調の主和音が鳴っているとする。シェーンベルクの「和声法」は次のようにはじまっている。「ただ一つの三和音が単独に存在していても、その和音のもつ和声的意味はまったく不確かなものである。それは、ある調のtonicかもしれないし、あるいはほかの調の、他の度上の和音であるかもしれない。しかし、この三和音にもう一つ、あるいは二つの和音が加わることにより、この和音のもつ意味はより限定されてくる。ある秩序が、単なる和声の羅列を和声の機能進行にまで高めるのである。」 高校生の頃、属啓成氏の「作曲技法」を読んでいて、巻頭、ベートーベンの皇帝の開始のオーケストラの和音を背景にしたピアノのカデンツァのような部分を、これはトニカ、サブドミナンテ、ドミナンテにすぎなくて、ドミナンテからトニカに戻ることによって主部がはじまるのだと書いてあり、西洋音楽とはT・S・D・Tのカデンツ構造のことなのだと断じているのを読んで、仰天したことがある。そんなことも指摘されなければ気がつかないのだから、ロバの耳なのだが、もしも西洋音楽がなによりもカデンツ構造なのであるとすれば、要するにトニカがトニカとして響き、ドミナンテがドミナンテとして響けばそれでいいのだという考えもまたありうるのではないかと思う。トニカが長調だか短調だかわからないように響いたり、属和音が減和音のように響いたりすれば困るけれど、主和音が主和音として機能すればそれが少々濁っていようと本来の音楽の目的には叶っているということはないだろうか?
(少なくともある時期の)西洋音楽の本質は運動なのであると思う。響きは静的なものである。それは、時間よ止まれ、お前はあまりに美しい、という方向にいく。一方、運動は動的なもので、行って帰ってくるものであり時間の中で進行する。カデンツも行って帰ってくる。ソナタ形式も行って帰ってくる。ソナタという楽曲構造も行って帰ってくる。児童文学者の瀬田貞二氏は「物語の基本は“行って帰ってくる”という構造の中にある」といっているのだそうだけれども、(ある時期の)西洋の音楽の根源は“物語”にあったのではないかと思う。西洋音楽の歴史は段々と行ったまま帰ってこなくなってしまうという方向なのではないだろうか? どんどんと転調していってしかも今どの調にいるのかも不分明であるということが続いていると、あるG♯(A♭)が機能上どの音程であるのが正しいのかということを決めることができなくなって、平均律であるしかなくなるということはないのだろうか?
異名同音を認めないといわゆるエンハーモニック転調というのはできないのではないかと思うが、平均律を採用することによって得られた音楽の自由は非均等な調律によって得られる美しい響きをはるかに凌駕するものがあるのではないだろうか?
4)西洋音楽は普遍的か?
本書で一番気になったのが純正の和音を美しいと感じる構造がわれわれのDNAの中に存在しているという記載が何ヶ所かにみられたことである。現在、西洋音楽は世界を席巻している。いわゆるポピュラーミュージックもすべて、その根底は西洋音楽のカデンツ構造であろう。それはそのような音構造が普遍的に人を捉えるからなのだろうか?、それともたまたま何かの偶然で西欧が世界を席巻したのでわれわれはその音楽もまた受けいれているだけなのだろうか? 世界がもしもモンゴル帝国の支配下におかれていたとすれば、われわれは今とはまったく別の音楽を音楽だと思うようになっているのだろうか? それともDNAに組み込まれた種としての当然の反応として、どのような体制のもとで生きていても、純正3度を美しいと思い、ドミナンテからトニカへの解決に秩序の回復を感じるのだろうか?
科学とクラシック音楽のなかに西洋の秘密があると以前から思っていて、そのことがつねに気になっている。科学は普遍的なものであるとわたくしは思っている。それが人間があるいは生き物がいないところでもなりたつことを、たまたまわれわれの理解できる言葉で記述しているだけだと思うからである(だから量子力学における観察者問題というのがいまだに納得できない)。しかし音楽というのは人間がいないところではなりたたないものである。あるいは人間以外でも音楽を楽しむ動物がいないとも限らないので、それなら生き物がいないところでは音楽はない。もしも生命がいないところで岩石が崩れ落ちても、それが起こすものは空気の振動であって、音ではない。音はそれを聴くものがいて、はじめて音となる。これはバークレー僧正の、誰もいないところで朽ちて倒れた巨木は音をたてないという観念論になってしまうのかもしれないが、生命がないところに音楽がないことは確かであろう。
三和音に基づく音楽はたかだか数百年の歴史しかもたないと思うのでそれがDNAに組み込まれているとは思えないけれども、それが振動数という物理現象にかかわるということが前から気になっている。ある音には倍音がふくまれ、その倍音が三和音をふくむ(さらにはシ♭にあたる音をふくんでいる)。つまり長調の主和音というのは自然現象の中にあるのだろうか? さらにシ♭をふくんでいれば、それは下属和音への解決を志向する。一方、属和音は主和音への解決を志向するとすれば、下属和音と属和音の接続に必然はないけれども、主和音・下属和音・四六の和音・属和音・主和音というカデンツ構造は物理学的な背景を相当にもっていることになりそうである。そうだとすれば、西洋音楽は物理学を背景とするある種の普遍性をもっていることになるのだろうか? そもそも属和音から主和音への解決に何かを感じるというのはどういうことなのだろうか? 属和音を不安定と感じ、主和音を安定と感じるのはなぜなのだろうか? シェーンベルクは「ただ一つの三和音が単独に存在していても、その和音のもつ和声的意味はまったく不確かなものである。それは、ある調のtonicかもしれないし、あるいはほかの調の、他の度上の和音であるかもしれない」という。しかし四和音があり、それがある配列をしていると(たとえば、G・H・D・F)それを不安定と感じ、G・H・Dではそう感じないというのはなぜなのだろうか? それは音のほうに原因があるのだろうか? それとも聴く側に原因があるのだろうか? ある音は必然的に4度上の音に憧れるのだろうか?
素人の談義でとんでもない勘違いを多々しているだろうと思う。
今日「N響アワー」で「春の祭典」をやっていた。ああいう音楽を聴くと、キルンベルガー音律などというのは何だか別世界の話に思えてくるのだが。

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