新聞の書評欄で紹介されていた。副題にあるトマース・クーン論のほうが本筋であるらしい。クーンといえば「
パラダイム」であり「通訳不可能性」である。と同時に「ノーマル・サイエンス」でもあるわけで、科学者の通常の仕事は真理の探究などではなく、その学者が住む社会で当然とされていることを疑わずにうけいれ、その学者社会にあるささやかな問題を解いていくことなのだとした。真理大好き人間である
ポパーの科学(者)論はどう考えても現実の科学者の営為の実態にはそぐわないので(科学者の誰もが
ニュートンや
アインシュタインであるわけではない)、クーンの提唱した「ノーマル・サイエンス」という概念を知ったときには、なるほどと思った。本書はその「ノーマル・サイエンス」という概念が、科学者を現実に安住させ、科学者から批判精神を奪う保守思想として機能したということを主張しているものらしい。そういわれてみれば確かにそういえそうな気がする。いわれないと気がつかないのが情けないところ。
計見一雄は大分以前に「脳と人間」という本を読んで面白いなと思った精神医学者である。そこに
吉田健一の「時間」が引用されているのにうなった。その後レイコフの「肉中の哲学」という本の翻訳をみて何だかなと思った。「肉体を具有したマインドが西洋の思考に挑戦する」などという言葉使いになじめないものを感じたのである。それでこの本を買おうかどうしようか迷ったのだが、思い切って買ってきた。ぱらぱらと読んだところでは、
木田元氏が西洋
哲学史の概説を講義し、それに計見氏が質問していくという形式のようで、西洋
哲学史を精神と肉体という観点から見る視点がはっきりとしているので、西洋
哲学史の勉強としてもなかなか面白そうである。最後はメルロ・ポンティに行きつくらしい。ポンティさんや
現象学というのは苦手である。苦手の勉強にはちょうどいいかもしれない。
偶然本屋さんで見つけた。いろいろなひとが倉橋氏について書いている本らしい。ざっと見たところでは倉橋氏への
吉田健一の影響を論じているひとがほとんどいないのが不思議である。
千野帽子というひとだけのようである。倉橋氏は、
三島由紀夫と
吉田健一の影響を抜きには語れないと思っているわたくしにはなぜだかよく理解できない。いろいろな見方があるのであろうが・・。倉橋氏はブッキッシュな人間で現実生活の経験はあまりなく、またそういったものに関心がなく、そこから逃げていたひとなのだろうと思う。氏の
私小説嫌いもそこに由来するのだと思う。その
私小説的世界からの脱出の手本として採用したのが
三島由紀夫と
吉田健一なのであり、三島が
自死したあとはそれを捨てて吉田一本でいくことにした、というのがわたくしの見立てなのだが、誰もそのようなことをいうひとがいない。わたくしの見方がおかしいのだろうか?