木田元・計見一雄「精神の哲学・肉体の哲学」

  講談社 2010年3月
  
 哲学者の木田元氏に精神科医の計見一雄氏が西洋哲学史について講義を受けるという形の対談形式の本である。
 計見氏は精神科医だから、当然“精神”の病気をあつかう。心臓病は心臓の病気、肝臓病は肝臓の病気、では精神病は精神の病気といえるか?、というのが計見氏がもつ問題意識である。そうであるなら、精神というのはどこにあるのか? 脳? 精神病というのが脳の病気なのだとしたら、脳の病気をあつかう部門としては脳外科があり、神経内科もあるではないか。
 木田氏は反哲学を唱えている。西洋の正統的な哲学が、自然に反する超越的な原理を中心にすえて展開されてきたことに異を唱え、精神から肉体への回帰ということを言っている。
 この二人はめざす方向は、だからある程度、一致しているようにみえる。事実、計見氏は木田氏の哲学論に共感するところが多々あり、計見氏が聞き役と疑問の提示役となってこの対談が成立したということらしい。
 しかし、この対談を読んでいくと段々と話が一致しないところがめだってくる。ごく簡単にいえば、木田氏が反哲学といっていても、やっぱりそれでもそれは哲学なのではないかという計見氏の疑問である。木田氏が肉体と呼ぶものは、頭で考えた肉体という観念なのではないかということである。わたくしもまた計見氏の呈する疑問に共感するところが多かった。
 木田氏が本書で述べていることは、今ちらちらと読んでいる氏の「反哲学入門」に述べられていることとほぼ同様であるように思えるのだが、本書のほうが、計見氏という哲学の素人が聞き手となっている分、理解しやすい。計見氏の呈する素朴な疑問がわたくしの感じる疑問と重なるところも多々あり、医療の場にいる人間であるわたくしにはこの本は哲学についての本としては比較的理解しやすかった。計見氏はわたくしの10倍や100倍は哲学についての知識をもっていると思われるが、それでも哲学の専門家ではない。
 本書で木田氏が述べている西洋哲学史概説はかなり強引なところもある氏の解釈(おそらくは、木田氏というフィルターをとおしたハイデガー流の西洋哲学史)であり、一般的とはいえない見解なのだと思うが、大きな筋としては、《プラトン以来、西洋で哲学と呼ばれてきたものは、プラトン以前の「すべてのものは生きて生成して、変化して、消滅していく」という「自然」の素直な解釈を排し、「自然」の背後に超自然的な原理を立てるという「超自然学=形而上学」であったのだが、ニーチェにはじまる「反哲学」はそれに異をとなえて「自然的思考」を回復させ、「生きた自然」を復権させるものであった》というものである。ニーチェの反哲学の動きと平行して、《物理学帝国主義から解放された生命諸科学や人間諸科学が科学のなかでも主導権をもつようになった》というのがもう一つの主題であり、それが計見氏の関心と重なってくる。。
 本書では木田氏が講義し、計見氏がそれをきくという関係が一貫しているが、それが最後になって逆転する。メルロ・ポンティまでは、哲学の側に生命科学、人間科学、サイエンス、サイコロジーの成果を積極的に取り入れる姿勢があったのだが(少なくともサイエンスの側の出来事をつねに意識して自分の議論を組み立てていたのだが)、それ以後20世紀後半からフランスの哲学者たちが「ハイデガーの悪い影響で?」変なメタ・フィジックに走ってしまい、哲学は生命科学脳科学の成果と無関係な場での議論となってしまった。それでむしろ現在では生物学のほうから、人間理解についての解答がでてくるようになってきているのではないか、そう計見氏がいいだす。それに対して木田氏は、今の哲学は科学に対してどれだけのことができるか、哲学が生物学、バイオロジーの動きにどれだけついていけるか自信がない、と弱気な返事をする。
 この点については計見氏の論に全く同感で、生物学あるいは進化論の議論を踏まえない人間論というのは現在ではまったく無意味であると思うのだが、いまだに人文科学の分野では平気で生物学を無視した議論が横行している。たとえばフロイトの論はそれが前提とした仮定は現在の脳科学の成果によりほぼ完全に否定されてしまっているとしてよいと思われるが、フロイト人間についての万古不易の真理を発見したと思っているかのような議論をしばしば目にする。もちろん、まちがった前提から有効な技法ができてくるということはいくらでもあるのだから、精神分析というやりかたは今でも有効性を失っていないのかもしれない。しかしエディプス・コンプレックスを人類普遍にあてはまる真理であるかのごとくに思っているひとを見ると、もう少し生物学を勉強してほしいと思ってしまう。もっとも脳科学者と称するひとがマスコミで、ほとんど思いつきにひとしいようなことを、深遠な脳科学での成果であるような顔をして得々として喋っているのも、また困ったことではあるが。
 
 計見氏が自身の関心のありかたを述べるところから本書ははじまる。心というもの(計見氏のいいかたでのマインド)が肉体を離れて存在するとするとする見方はすでにもう受けいれがたいものであることは現在ではほぼ共通の理解となっているとしていいであろう。それなら、プラトン以来の超自然的なものとして精神とか理性をたてるのはもうやめようではないか。ところで精神医学というのもヨーロッパの観念論的な見方の副産物である。自分は木田先生がいう《ニーチェハイデガーメルロ=ポンティあたりで、イデアというような肉体を離れた西洋哲学の伝統は命脈を絶たれた》という見解に賛同する。だから、この先のマインドの研究は脳の研究になっていくであろう。
 そういって、氏が翻訳したレイコフ&ジョンソンの「肉中の哲学」を紹介する。見ることは知ることである。見るという肉体の動作が知ることにつながる(I see!)。わかるとは見ることなのである。
 精神医学という言葉は、精神というものが何か実体として存在しているような印象をあたえてしまう。精神が病むというのはどういうことか? 肺が病むということ、腎臓が病むということはわかる。それなら精神が病むとは? 精神というものが一人歩きしてしまったことの原因として西洋哲学の罪は大きいのではないか?
 木田氏が答える。ニーチェの「神は死んだ」というのは、「プラトン以来の超自然的な原理」は駄目になったということである。西洋哲学のベクトルがここで逆転した、と。ところが日本が西洋哲学を輸入したのが丁度、ニーチェの生きた19世紀後半であったのが悪かった。それでこの断絶、ベクトルの逆転が見えなかった。それで混乱がおきた。
 ということで、西洋哲学史講義がはじまる。
 
 《プラトン
 ギリシャ人にはそれまでまるっきりなかった超自然的思考様式をプラトンは持ち出した。生成して変化して消滅する自然ではなく、生成せず変化せず消滅もしない永遠に同一にとどまる「イデア」などという実に変なものを考え出した。プラトンに影響をあたえたものは、一つはピュタゴラス教団である。協和音を奏でる複数の音を出す弦の長さは整数比をなす。天体の運行も整数比をなす。算術と幾何学と音楽と天文学は共通の基礎をもち、それは魂の眼でしか見ることのできないという教義をもっていた。
 もう一つは(証拠はないが)ユダヤ教。世界は作られたものであるという見方をそれは教えた。後にアウグスティヌスプラトンキリスト教を結びつけた。ピュタゴラス教団は肉体という牢獄に閉じ込められた魂を救いだす必要をといた。
 
 《アリストテレス
 プラトンが数学的ならアリストテレスは生物学的。プラトンギリシャの伝統から離れたのを引き戻す方向で仕事をした。アリストテレストマス・アクィナスにつながっていく。アウグスティヌスが「神の国」と「地の国」を整然と分けたのに反対して、教会の政治介入を正当化する方向にアクィナスは戻そうとして。それをくつがえした宗教改革はまたプラトン主義への回帰である。19世紀にまたアリストテレス主義が復活する。
 プラトンは「つくる」ほうで、アリストテレスは「なる」ほうといって、丸山眞男の「歴史意識の古層」をもちだす。日本神話は「なる」ほうで、ユダヤキリスト教の創世記神話は「つくる」ほうであり、プラトン主義は機械論的で、アリストテレス有機体論的、プラトン主義は清潔志向で、アリストテレスにはゴミがいっぱいついている、というようなことがいわれる。
 プラトン宇宙論である「ティマイオス」とキリスト教の創世記は親和性があり、プラトンイデアが神の思考である観念と結びついて、イデアという言葉に観念という意味が生じてきた。
 唯名論アリストテレス実在論プラトンである。
 
 《デカルト
 数学的自然科学の基礎づけをした。ケプラーガリレオコペルニクスには機械論的な自然観はあるが、数学と自然研究の結びつきは経験的なもので、原理的なものではなかった。それをデカルト自然法則は数学的な表現に適するようにできているとした。
 デカルト宗教改革と連動する。数学的に表現できるものだけが大事にされたので量が問題となり質(クオリア)が消えた。デカルトにおいてはマインドは肉体のどこにもない。松果体で肉体と接触するだけである。神の理性が松果体を通してわれわれのなかに出張してくる。デカルトプラトン主義の近代版である。
 
 《カント》
 われわれにあらわれている限りでのものしかわれわれは理解できないと考えた。理性には生得的に(神によって分配されたのではなく)備わっている認識能力があると考えた(2+3=5 三角形の内閣の和は二直角・・)。しかしカントが本当にいいたかったのは「知る」と「信じる」は違うということ。「知る」ことに限界があるから「信じる」ことに余地があるのだと考えた。神は信仰の対象であって、認識の問題ではないということをいいたかった(などとあるがやはりカントはよくわからない)。
 
 《ヘーゲル
 フランス革命をみて、ついに人類の苦難の時代は終ったと感じた。デカルトは神様によって、カントは神様なしで人間に先験的な能力があるとした。ヘーゲルは歴史がそれをあたえるとした(と書いているがヘーゲルというのもやはりよくわからない)。
 これと関連してドイツ・ロマン主義というのも、それまで無視されてきた自然の回復であるということがいわれる。その中で生じてきた「世界は合理的にできている」という見方への懐疑も論じられる。
 
 《ニーチェ
 ニーチェの「アポロン的原理」と「ディオニュソス的原理」はショーペンハウエルの「意志と表象としての世界」に由来するのであり、ここでの「意志」は無方向な生命衝動、「表象」というのは明るい形象のことをいう。そしてこの「意志」と「表象」はカントの「物自体」と「現象界」の区別の継承である。そしてこの「物自体」と「現象界」の区別もライプニッツの単子の二つ属性である「意欲」と「表象」に由来する。西ヨーロッパのラテン系の理性主義対ゲルマン民族自然主義ということがいわれる。
 しかし後期のニーチェダーウィニズムの影響を受け、無方向な生命衝動ではなく、現にあるよりもより強くより大きくなろうとする進化という方向を考えるようになった(力への意志)。ニーチェによって生きた自然が回復された。それがウィトゲンシュタイン後期の「生活形式」やフッサールの「生活世界」へとつながる。
 
 《マッハ》
 科学は経験したことだけを問題とすべきで、経験の背後に経験したことのない本質といったものの存在を想定してはいけない、そんなことは昔の神様が怒っているから嵐になるというのと変わらないと批判した。科学は説明ではなく記述をすればいいとした。
 マッハからフッサール現象学ゲシュタルト心理学がうまれる。
 フッサールの弟子のマックス・シェーラーはユクスキュルの環境世界理論やゲシュタルト心理学を評価することによって後世に多きな影響をあたえた。ローレンツポルトマンン・ベルタランフィなどみなシェーラーの影響をうけている。メルロ=ポンティにも影響をあたえた。
 
 《 ギブソン
 フッサールハイデガーメルロ=ポンティはよくわからないのでとばして(本当は木田氏が一番いいたいのはこのあたりなのだろうと思うのだが、とにかくこの周辺が苦手である。ハイデガーはスタイナーの本やアーレントの本から類推するほうがよくわかるような気がする。フッサールは誇大妄想としか思えない。そうでなければ、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』などという題の本は書かないだろうと思う、メルロ=ポンティは、それについての議論を読んで理解できたためしがない)、ギブソンにいく。
 ギブソンアフォーダンスの提唱者である。アフォーダンスというのはとても説明が難しいものだけれど、われわれと環境の相互関係というか、環境はわれわれにとって客観的にあるのではなく、われわれが何をしようかということによってまったく相貌を変えてくる、というようなものではないかと思う。木田氏も計見氏もギブソンメルロ=ポンティと通底するところがあるとみる点で一致はするのだけれど、計見氏がいう。「ギブソンさんはいろんな実験をやりますよね。実験をしてみせるという、ある種の健全さがギブソンにはある。メルロ=ポンティは考えるだけでよくここまで考えたなあ、と。」
 ここがポイントなのだと思う。メルロ=ポンティは哲学者である。しかしギブソンは科学者なのだと思う。木田氏はメルロ=ポンティの線でとどまり、計見氏はギブソンの線で先に進もうとする。実験をするハイデガーなどというのは想像さえできない。ギリシャ語の原典を虚心坦懐に読んでいるとおのずとみえてくるものがあるというのはおよそ科学の対極にあるものである。
 もちろんフッサールハイデガーも科学を嫌ったというか、科学にヨーロッパの宿痾が濃縮されてあらわれているとみたのであるし、木田氏もその路線の上にいるのであろうが、計見氏は精神と肉体を峻別した西欧の正統的思考に反撥するにしても、精神を肉体にとりこむことにより、肉体に対してなら可能であった科学のやりかたを精神にも適応していけるとするのである。木田氏は反=科学に側にいて、計見氏は親=科学の側にたつ。フッサールハイデガーメルロ=ポンティもみな人間とその精神を特別なものと思っている。そう思う点でキリスト教に由来する西洋思想の尻尾をひきづっていると思う。しかし計見氏はそうではない(と思う)。
 
 ソクラテス以前のギリシャにあった「自然的思考」は、プラトン以来の「超自然学」としての「形而上学=哲学」にいったんは覆われてしまったが、ニーチェ以来の「反哲学」がそれを否定し、乗りこえようとしてるというのが木田氏の西洋哲学史の大きな見立てなのだが、その一環として生命諸科学や人間諸科学が物理帝国主義から解放され息をふきかえしたというのは違うと思う。生命諸科学や人間諸科学が物理学のあとからきたのは、単に物理学の原理がずっと単純であり、生命の学や人間の学のほうがずっと複雑で難しいからというのに過ぎないと思う。ニーチェニーチェで勝手に考えていたのであり、ユクスキュルやローレンツは哲学の動向などとは関係なく自分の学に従事していただけなのだと思う。
 マッハが多くの物理学者に決定的な影響をあたえたというのは事実であろう。しかしマッハは哲学者ではない。本書によれば物理学者である。物理学者が哲学者に影響することはあっても、この時代においては哲学者が物理学者に影響することはなくなっている。フッサールハイデガーが科学の世界になんらかの影響をあたえたということはほとんどないであろう。(医療の世界は別かもしれない。精神医学や看護学にはハイデガーはなにがしかの力を持った可能性はある。とすればここに生じてくる疑問は医療は科学なのだろうかということのほうであるはずである。)
 数学の世界における非ユークリッド幾何学不完全性定理、あるいは物理学における不確定性原理量子力学での観察者問題などは哲学に大きな影響をあたえたかもしれない。しかしその逆はないのではないだろうか?
 本書での西洋哲学史の一筆書きには、イギリス経験論哲学がほとんどでてこない。また論理実証主義分析哲学についてもほとんどでてこない。木田氏はハイデガーは20世紀最大の哲学者だという(「反哲学史入門」)。一方、ラッセルの「西洋哲学史」にはハイデガーの名前は一切でてこない。論理実証主義の立場からはハイデガーの哲学は単なるたわごとであろう。カントの哲学もデカルトの哲学もその本だけを読めばいい。つまり頭で理解できればいい。しかしハイデガーの場合には、レーヴィットもガダマーもハンナ・アーレントもみなその講義を聴いたことのないものは、その哲学を完全に理解することができないといっているのだそうである(スタイナー「マルティン・ハイデガー」)。つまり肉体までもふくめてトータルな存在としての哲学者なのである。これは本書の主題である《超越的原理から肉体へ》と呼応する。
 ラッセルの「西洋哲学史」でピタゴラス以後、数学に思想の源泉をもとめた哲学と、経験的諸科学により多く影響された哲学とを区別し、前者としてプラトントマス・アクィナススピノザ、カントの名をあげ、後者としてデモクリトスアリストテレス、ロック以降の近代経験論者たちをあげている。本書では反数学派=生物学派とされているので経験論者がしめだされてしまうことになる。
 木田氏の論では科学と物理学がほぼ同じとされてしまっている。本当は木田氏の念頭にあるのは数学で、数学に近い学問ほど純粋の科学であるとされているのかもしれない。だから生物学は反=物理学、反=数学という位置づけになる。しかし生物学の歴史をみれば、それは生気論的なもの、物活論的な説明をいかに排するかという試みの歴史である。だからニーチェによって哲学が物理学的なもの?から生物学的なもの?へと転換したとしても、それでプラトン以前のギリシャに戻るということにはならないはずである。ギリシャ以前の自然学、生物学はアニミズム的なものだから。
 わたくしはハイデガーにどうしてもアニミズム的なものを感じてしまう。ベルグソンにそれが濃厚であることはいうまでもない。反=物理学帝国主義という主張がアニミズムに戻ってしまうのは、困ると思う。化学と生物学の歴史はアニミズムが消失しいき、化学と生物学が物理学の言葉で解釈できてくる歴史なのである。質としてあつかわれていたものが量の言葉で論じることができるようになってくる歴史である。生命に固有なものはどんどんと後退してきている。いま、クオリアということがさかんにいわれるのも、生命に特有と思われるものが次々に失われてきたことの結果なのであろう。クオリアは“質”である。
 物理学では説明できないことがあるというのはただそれだけのことである。それは何ら神秘ではない。われわれがある旋律をまとまったものとして受け取ることができること、さまざまなひとが書いた“あ”という字を“あ”と認識できることというゲシュタルト心理学の主張、それを物理学で説明できるかといえば(今のところは)できない。それはまず記憶ということにかかわる。そもそもわれわれがなぜ抽象的な思考をできるのかということを物理学で説明できるのかといえば(今のところは)できない。記憶ということがどのような物理学的背景をもつかということについては、いずれなにがしかのことがいえるようになるであるのであろう。それはたぶんニューロンの発火がつかさどる何事かなのであろう。しかし脳のなかのどこをさがしても、ある旋律がみつかったり、“あ”という文字の原器がみつかったりすることはないであろう。それは“働き”なのである。わたくしがある人に手紙を書く、しかし返事がこない。返事がないことは物理学的には何もおきていないとこである。しかしその何もないことが何事かをわたくしにもたらすかもしれない。便りがないのはよい便りなどというのは、物理学では説明できない。
 生命というものがなぜか地球の上に生じたことにより、物理学では説明できない“問題”が生じてきた。あるいは、生命がないところでは“問題”は生じてこない。“問題”は生き残るということが課題として出現したからはじめてでてくる。
 ここにあるのは、“一個一個の分子の運動の総和が“熱”になる、では“熱”という実体が個々の分子の運動から独立してあるのか?”というのに近いような議論である。“生命”は“熱”にくらべても途方もなく複雑な現象である。“生命”を一個一個のの分子の運動の総和としてみていくことなどできない相談である。ニューロンの活動から精神をみる、というのも同じことである。だから物理学から生命をみるというのは実際にはありえない。デカルトがあんな無茶なことをいえたのは、生命について、脳についてほとんど何もわかっていなかったからである。現代の脳科学の知見をみれば、デカルト松果体云々などといいだすことはありえない。現代の科学の知見の上にプラトンイデアなどといいだすこともありえない。
 ポパープラトンイデア論ピタゴラス教団が秘密とした無理数の出現という矛盾を救おうとしたものだという。カントの哲学はヒュームの不可知論とニュートン力学という真理の間の矛盾を救おうとしたものだったともいう。現実に問題があり、それに応えるものとして哲学はなければならないという。計見氏は精神科臨床で直面した問題をとくヒントがそこにあるではないかと感じて哲学にむかったわけである。そしてメルロ=ポンティなどの論になにがしかのものを感じた。しかし、現代の哲学にはそのような手応えがないのが不満である。それでメルロ=ポンティの日本への紹介者である木田氏にいろいろと問うことになる。
 木田氏はかつてあった自然の外に原理をたてるような西洋固有のおかしな思考法がニーチェ以来崩壊し、“自然”な思考へと戻ってきているという大きな流れを基本的には肯定している。そしてそのようなかつての西洋哲学がもっていた毒にこれからの人がおかされることがないように善導していくことが自分の務めであるといっている。
 ところが自然科学というのがまさに自然の外に原理をたてる行き方なのである。計見氏は主流派ではないにしてもやはり自然科学派の徒である。肉体と精神を峻別するというのは原理的思考そのものである。その原理的思考に激しく反発する。自己の臨床での実感とあまりに異なるからである。その点では木田氏と一致する。しかし計見氏からみると現代の哲学もやはり超自然的な原理におかされているように見える。木田氏がいう“自然”とか“生命”とか“肉体”とかいうのもまた観念にみえ、超自然的にみえるのである。つまりもっと実験しろよ、生物学や脳の科学の知見をとりいれろよと、ということになる。それに対して木田氏は逃げ腰である。木田氏のいっていることは一般論(つまり超越的な議論)であって、個別の議論(つまり科学)ではないからである。
 
 木田氏の論自体は読んで大変におもしろい。西洋哲学史をこのように大きな流れとしてみるというのはわたくしのような素人には示唆するところが大きい。(氏がたどってくる哲学史が大陸に著しくかたよっているのは批判する勢力を大きくみせるためやむをえないのかもしれないが、それでもイギリス経験論をほとんど無視しているのはとても気になる。わたくしはドイツ観念論哲学の系譜がとにかく苦手で、よめるのはイギリス経験論あたりに限られるからである。氏の論はプラトン哲学とかドイツ観念論にかんじるわたくしのどうしようのない違和感の根っこがどこにあるのかを教えてくれるのであるが)。それでも木田氏もまた観念論の陣営だなあと感じてしまうことも事実である。計見氏の批判にずっと多くの親近感を感じる。
 本書によればニーチェが本当にいいたかったことがどのようなことだったのかについて、はじめて正しい読解を示したのはハイデガーなのだそうで、それが1930年代、それが日本にはいってきたのが1960年代ということで、ニーチェの真意は日本では、100年近くも理解されなかったのだという。こういうのはどう考えてもおかしい。とすればハイデガーがいなければ、われわれはいまだにニーチェについての間違った読解を続けていたことになる。テキストがあり、それについては様々な読解が可能である、というのはテキスト論の基本なのかもしれないが、そのさまざまな読解を判断する根拠となるものがどこかにないと困る。それが計見氏のいう実験である。そうでないと哲学は現実との接点をもたなくなってしまう。ハイデガーが実験にかわるものとしたのがギリシャ語の語源に遡って言葉の意味を検証していくやりかたである。ハイデガーにとっての現実とは言葉である。言葉は実際に使われるものだから、その語の使用法をみれば現実との接点が回復する。
 本書でも木田氏は超越論的 transzendental という言葉の語源論について蘊蓄を傾けている。おそらくその論はハイデガー直伝のものなのだが、こういう議論をはじめたら哲学は一子相伝のようなものになってしまうのではないだろうか? ハイデガーにとってはギリシャ語は日常の言語だったのだろうが、そうでないひとは哲学とは縁なき衆生であるというのでは、哲学が現実の問題に答えるものとなることなど期待できるはずもない。
 計見氏は「哲学(あるいは反哲学)は、脳とかこころとかの科学に伴走して、「これはこういう意味だよ」と、ある程度の知識人に「こいつらが言っていることは、こういうことなんだ」「これが与える衝撃というのはこういうことになるぞ」といってやるようなことが、必要なんだ」という。同感である。現代の科学は専門分化が進む一方で、だから素人には到底理解できないものとなる。それの本当の意味するところはこういうことなのだ、細部はわからなくても、この研究の一番大事なポイントはここにあるのだ、そういうことを教えてくれる、あるいは教えてくれないまでも考えていく、それが哲学の本来の道なのではないだろうか? 哲学とは永遠にアマチュアのもので、それがプロのものとなった途端に生命を失うようなものなのではないだろうかと思う。
 
 本書を読んで感じた疑問いくつか。
 木田氏はギリシャプラトンという突然変異がおきたという見方を提示するが、E・O・ウイルソンが「知の挑戦」でいう「イオニアの魔力」(これはホールトンという人の言葉らしい)こそがギリシャでおきた本当の突然変異なのではないだろうか? これは「科学の統一を信じること、世界は整然としてわずかな数の自然法則で説明できると深く確信すること」を指すという。これは紀元前6世紀にイオニアのミレトスのタレスの「万物は究極的に水からなる」にはじまるのだが、「世界の物質的基盤と自然の統一性を述べた形而上的思考」のはじまりである。明らかにこれはマッハが反対する《経験をこえた本質》を仮定する形而上学そのものである。科学はプラトンイデアに起因するのではなく、この「イオニアの魔力」という形而上学に由来するのではないだろうか? そうだとすると、プラトン以前のギリシャの自然的思考法という木田氏の議論の根底がかなり揺らぐのではないかと思う。
 以前、筒井賢治氏の「グノーシス」を読んで、そこにしめされた奇妙な世界像を大変に面白く読んだ。本書を読んで、グノーシス思想とピュタゴラス教団の信仰やプラトンの思想とグノーシスの世界観の近さということを感じざるを得なかった。紀元2世紀ごろのキリスト教の異端であるグノーシス派にプラトンの哲学というのはどのように影響したのだろうか? 本書ではプラトンアリストテレスからいきなり5世紀のアウグスティニスに話が飛んでしまう。正統的なキリスト教神学にプラトンが組み込まれるということでプラトン哲学が再生するということなのだが、異端の中に生きていたプラトン哲学のほうがずっと本来のプラトン哲学に近いのではないかという気がする。正統的キリスト教神学ではプラトン哲学が清潔化され無害化されてしまっているのに対し、異端の中ではプラトン哲学のもっていた猥雑さのようなものが生き残っているのではないだろうか? 筒井氏の本で、プトレマイオスの説教ででてくる天地をつくった神デミウルゴスは「ティマイオス」に由来するらしい。プラトンを論じるならグノーシス思想のほうから論じたほうが面白いのではないかと思う。その方がプラトン思想のもつあほらしさと奇天烈さというものがよりよく伝わるのではないかと思う。
 ヘーゲルというとマルクスという鬼子を生んだということはあるしても、その哲学について今日では真面目にとるものはあまりいないのではないかと思う(ヘーゲルの諸学説がほとんどすべて誤りであるとわたしはそう信じているのだが・・ラッセル「西洋哲学史」)。木田「(フランス革命をみて、ヘーゲルは)人類の精神が、その苦難の前史を終えて、これから平安な状態、人類の黄金時代がずっと続くにちがいない、そのとば口に自分たちは立ち会っているのだと本気で思ったところがあって。」 計見「(笑)。笑っちゃいけないんだけど、なんでそんなこと思ったんですかね。」 なのであるが、笑ってしまうのは、その後の歴史を知っているからで、このヘーゲルの「人類の前史が終った」の変奏はその後くりかえされている。
 その代表例としてコジェーヴの「ヘーゲル読解入門」がある。わたくしがこの本を知ったのはF・フクヤマの「歴史の終わり」によってなのだが、冷戦が終って「歴史」が終焉したと主張するこの本はもろに(コジェーヴ経由の)ヘーゲルに依拠したものである。
 この本を読んで面白かったのはプラトンの魂の三分説の話で、魂は理性と欲望だけでなく気概という部分も持つという話である。気概とは、自尊心、誇りなどなどといったものに通じる何かなのだが、その気概を実現させることにおいて無力だったことが共産主義体制を崩壊させることになった、人間にとってもっとも大事である気概を保証できるのは自由主義の体制だけなのであるというような話であったと記憶している。
 コジェーヴの本の脚注におけるどこまで本気だかわからない日本への言及が一時随分と日本の論壇でとりあげられた。コジェーヴは、鎖国以来の日本は「歴史の終わり」を生きたのであり、能楽や茶道や華道といったスノビズムが気概を保証するというすばらしい世界をつくりあげていたというのである。大きな懸案事項が解決してしまった世界では、純粋に形式的なスノビズムが人間の欲望の主要な表現形式になるのだというようなことをいっていた(翻訳のp244〜247あたり)。このあたりの話は一時浅田彰氏などもこのんでとりあげていたし、現代の東浩紀の「動物化」といった論もそれに依拠しているらしい。
 精神と肉体の二分論では欲望は肉体のほうに入ってしまうのだろうが、気概というのはどうなるのだろうか? 半分が精神、半分が肉体?、なのだろうか? 「自然」の背後に超自然的な原理を立てる「超自然学=形而上学」とはそれはまったく関係なさそうである。どうもこれは精神・肉体二元論からははみだす何かのようで、計見氏がいう精神を肉体に回収するという方向とは縁がなさそうである。このコジェーヴの1939年から39年までのパリ高等研究院でのヘーゲル哲学講義はその聴講者であったバタイユラカンメルロ=ポンティサルトルなどに多大の影響をあたえたらしい。「歴史の終わり」はその原題の「歴史の終わりと最後の人間」からも明らかなようにニーチェにも依拠している。ここではヘーゲルからニーチェに断絶ではなく連続をみている。カントは「理性」の世界の人であったが、ヘーゲルは「気概」の側の人となった。そこに断絶があるのかもしれない。理性は永遠の世界にあるが、気概は歴史の中で実現される。
 この「ヘーゲル読解入門」は「人間」「精神」「意識」「客観」「本質」「実在」といった抽象語のオンパレードである。これほど科学から離れた世界もないのではないか? 実験ができない世界である。あるいは歴史が実験であったということなのだろうか? わたくしには木田氏もまたこの「ヘーゲル読解入門」の世界の側にいるように思える。
 それで世界を変えるのは何かということである。世界を変えるのは「思想」ではなく、もはや「工学」、あるいは石油や水といった物質の側にうつってしまったのではないか? 少なくとも西欧側ではそうなってしまっているのではないか? それに対してイスラム世界では今も依然として気概であるのかもしれないのだが・・。
 

精神の哲学・肉体の哲学 形而上学的思考から自然的思考へ

精神の哲学・肉体の哲学 形而上学的思考から自然的思考へ

反哲学入門

反哲学入門

肉中の哲学―肉体を具有したマインドが西洋の思考に挑戦する

肉中の哲学―肉体を具有したマインドが西洋の思考に挑戦する

アフォーダンス-新しい認知の理論 (岩波科学ライブラリー (12))

アフォーダンス-新しい認知の理論 (岩波科学ライブラリー (12))

マルティン・ハイデガー (岩波現代文庫)

マルティン・ハイデガー (岩波現代文庫)

果てしなき探求〈上〉―知的自伝 (岩波現代文庫)

果てしなき探求〈上〉―知的自伝 (岩波現代文庫)

知の挑戦―科学的知性と文化的知性の統合

知の挑戦―科学的知性と文化的知性の統合

グノーシス (講談社選書メチエ)

グノーシス (講談社選書メチエ)

ヘーゲル読解入門―『精神現象学』を読む

ヘーゲル読解入門―『精神現象学』を読む

歴史の終わり〈上〉歴史の「終点」に立つ最後の人間

歴史の終わり〈上〉歴史の「終点」に立つ最後の人間

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)