村上春樹「1Q84 Book3」

     新潮社 2010年4月

 昨年、book1と2が刊行されてしばらくして、book3がでるか、友人と賭けをした。ないほうに賭け、負けてしまったが、book2ではいろいろなことが決着がついていない、だから続編があるというのがその友人の主張であった。むしろ未解決の謎をたくさん残すことで、読者にいろいろなことを考えさせようというのが著者に意図なのではないかとこちらは考えたのだが、その後、book3を執筆中という情報が流れてきたときには、青豆さんは死んだのだから、今度は天吾くんとふかえりさんがチームを組んでリトル・ピープルたちと戦うハードボイルド・ワンダーランドの世界になるのか、などと空想した。
 今度、book3がでて読んでみて、正直、これは刊行されないほうがよかったのではないか思った。納得できないものがたくさん残った。本当にこれでいいのだろうかと思った。印象としては、「豊饒の海」第4巻「天人五衰」である。第3巻「暁の寺」までと較べてのすかすかな感じ、あるいはなげやりな感じ、それに近い。
 以下、その理由を考えてみる。
 これはとても単純な物語である。青豆は死んでいなくて、相変わらず隠れ家にひそんで天吾を探している。天吾も以前と同じに、小説を書きながら、時々死につつある父を療養所に訪れるだけである。
 その二人を最終的に結びつける狂言回しとして牛河というbook2でちょっとでてきた謎めいた人物がもう一人の主役として登場する。しかし牛河が謎めいていたのは、book2では天吾の目から見られていたからで、このbook3ではその背景すべてが明かされてしまい、オーラのない普通の人物となってしまっている。
 なにしろ600ページの本の400ページくらいまでは何もおこならない(実は150ページ過ぎでとんでもないことがおきるのだが、そしてそれは後になって必ずしも説得的とはいえない謎解きがされるのだが、それでもそれはそのときにおきたできごとではなく、過去の延長である)。Book2までに登場したそれなりに魅力的あるいは思わせぶりな人物たちのうち、牛河さんは柄にもない主役をはって魅力を失うし、戎野先生はただ名前が出てくるだけ、柳屋敷の婦人も電話の相手ででてくるだけだし、出版社の小松さんもただ受身で登場するだけで、自分からは何もしない。タマルさんは機械じかけの神様の役を演じるが、リトル・ピープルたちにも精彩がないし、なによりもいけないのは「さきがけ」という宗教団体だったはずのものが二人のボディガードたちだけに収斂してしまい、この小説から宗教の匂いがまったく消えてしまっていることである(さらにいえば、1984年の日本の状況というものもまったく描かれなくなってしまっている)。作中にでてくる内田百輭や「アフリカの日々」からの引用も生きていない(book2まででは、平家物語やチェホフが生き生きと使われていた)。青豆がプルーストを読むことも作に寄与しているとは思えない。
 総じて、もっと短くできるはずの物語を無理に引き延ばしているような印象がぬぐえない。小説が出版される場合、普通は編集者が最初の読者あるいは第二番目の読者として(第一の読者が作者自身であるとすれば)、いろいろな意見をいうのではないだろうか? これは長すぎますよ、ここは冗長ですよ、ここは刈り込んだほうがいいですよ、とか。たとえば、第1章はbook2までのストーリーの単なる復習、第2章は青豆が死ななかったことへの弁解、第3章は天吾が相変わらずの生活をしていることの確認であり、新たなことが何もおきない。ここは何かあったほうがいいのではないですかとか、編集者はいわないのだろうか? たとえば339ページで作者がする奇妙な弁解。これは作者自身がこの物語の無理に気づいていることの何よりの証拠ではないかと思う。ある結末が予定されているので、それまでは何か起こりそうだが何もおきないことを続けざるをえない苦しさである。最後近くに牛河さんにおきることだって、ああいうことがないと、この何もおきない物語がもたないから必要とされたのかもしれない。
 村上氏はドストエフスキーのような全体小説を書きたいのだというようなことをどこかでいっていた。しかし、このbook3まできて、全体小説どころか童話のような純愛物語になってきてしまっている。このbook3ではbook2まではあった性的な匂い(天吾の年上の人妻との交際とか、青豆と中野あゆみアヴァンチュールとか)がきれいに拭われてしまっている。そうしないと最後の場面が活きないという計算なのだろうか? しかし童話にだって性的な含意はあるはずである(それから王子様とお姫様はいつまでも幸せに暮らしましたとさ・・)。マラソンを走るひとであるにもかかわらず、村上氏は肉体に対する精神の絶対的な優位ということを信じているのではないかと思われるふしがあり、それが氏の宗教への奇妙な関心のもとになっているのではないかと思う。しかし、恋愛は精神がするものなのだろうか?
 などなど、どうもこのbook3には納得できないものが多く残った。それで個人的に別のbook3を考えてみた。まったくもう馬鹿なことであるが、ご愛嬌ということで。
 第1章〈少年〉 天気のよい朝には何かがおきる:1984年(1Q84年?)10月のあるとても天気がよい朝、山梨の「さきがけ」の本部で空気さなぎから10歳くらいの一人の少年が生まれでる。「さきがけ」の信者たちはただちにその少年がリーダーを後継するものであることを理解する。それは理屈でなく、ただわかるのである。
 第2章〈青豆〉 たとえ眠りつづけていても:青豆は死んではいなかった。しかし銃弾は脳を貫き、意識はない。ただ眠り続けている。柳屋敷の老婦人とタマルにかくまわれて青豆は眠り続けているが、実はロックド・インの状態であり、見え聞こえてはいるのだが自分からの意思の表示は一切できない。そしてしばしば夢をみる。
 第3章〈天吾〉 堕ちてゆくさきは:天吾は療養所の父を見舞うが、父は突然の変貌をはじめる。父にリトル・ピープルが住み着いたのである。父は眠りながらも、時々、呪いの言葉をはく。天吾は堕ちはじめる。・・
 1984年末の日本には天変地異がおき、経済も変調して人心は乱れている。少年は次々と奇跡をおこす。「地上の王国」をもとめて人々は山梨に殺到する。戎野先生はふかえりとともにその「王国」の「正しさ」と闘おうとする。天吾は性的な遍歴を重ねながら堕ちてゆくが、ある時、偶然、それと知らずに青豆を犯し、それにより青豆は目覚め、天吾もある種の救済をえる。戎野先生たちの側には青豆と天吾も加わり、老婦人やタマルも参加して、少年の率いる「地上の王国」と闘っていくのだが、そこにリトル・ピープルたちの独自の行動がくわわり、動きは複雑となり、混乱は混乱をよび・・・。
 何だか、三流の劇画だな。四流の村上龍かもしれない。「1Q84」+「愛と幻想のファシズム」とか。(後の筋は適当に考えてください。)
 本があまりに売れるとなにか勘違いが生じてしまうのだろうか? なにか自分が日本を動かす力を持ってしまったような錯覚に陥ってしまうのだろうか?
 ところで、book4もでるとかいう話も聞こえてくる。まさかそこまでの勘違いはしていないと信じたいが・・。
 

1Q84 BOOK 3

1Q84 BOOK 3