kawade 道の手帖「倉橋由美子」(1)

    河出書房新社 2008年11月
    
 この「kawade道の手帖」というシリーズはほかにはもっていないので、どのようなことを企図したシリーズなのかはよくわからない。必ずしも文学者を特集するのではないらしく、宮本常一西田幾多郎の名があり、さらには空海、また小林多喜二と「蟹工船」、さらには靖国問題入門などといったものまである。本書は倉橋氏の単行本未収録の小説一編、氏の既刊のエッセイからの数篇の他は、いろいろなひとが対談や評論で氏を論じるというものになっている。
 そのなかにとんでもない「倉橋由美子の人生相談」というのがある。「CREA」という雑誌に92年ごろ掲載されたものらしい。そこに「若いころは遊び回っていたが、この2年ほどは男がいない。恋愛というどたばたがないので楽ではあるが、このまま男なしというのも寂しい。どうしたらいいか」という34歳の女性からの相談がある。倉橋氏はもの好きにも直接本人に会いたいといって出かけていってまでして相談している。(人生相談というのはしばしば創作であるらしいから、ここに書かれたこともすべてが架空であるのかもしれないが。) 倉橋氏いわく、3年前であれば、わたくしの答えは、「恋愛などという下らないことから卒業できておめでとう。ようやくあなたは愚者から賢者になることができた。わたくしは20代の前半から恋愛のような精神力と体力の無駄遣いはしていません、エヘン」というものであった。しかし現在は転向し180度宗旨を変えた。それは3年前病気になり、いろいろと医学書を読み漁ったところ、体調の不良の原因はホルモン不足によるのではないかと思いいたったためである。どうも恋愛やSEXで刺激をしていないと女性ホルモンが枯れるらしい。恋愛は自分で自分をコントロールできなくなるわずらわしいもので、愚行の最たるものであると思ってきた。しかし体調不良の原因がそのためであるとわかった以上、思想転向してでも老いらくの恋にいそうしもうと思うが(このころ57歳くらい)、なにしろブランクが長いので、どこにいけば恋が落ちているのかそれさえもわからない、自分のほうが相談に乗ってもらいたいくらい、というふざけたものである。
 恋愛やSEXが健康にいいのかどうかはわからない。それはお医者さんにきいてもらうしかない。しかし、恋愛は健康にいいからするというようなものなのだろうか? それは自分でコントロールできるものではないと思うけれど、どうなのだろう? だが、後期?の倉橋氏の作品にはそういう恋愛がでてくるようでもある。のめりこまない恋愛とでもいうのだろうか?
 倉橋氏の作品を読むようになったのがいつごろからだったか覚えていない。いくつか断片的に記憶しているのは、「スミヤキストQの冒険」をでたときに買っていること(神保町の三省堂だったように思う)、友人が「倉橋おかしくなっているぞ」と「海」に連載されだした「夢の浮橋」を教えてくれたこと(そこにはスワッピングが描かれていた)、偶然雑誌で読んだ「マゾヒストM氏の肖像」という小説を、まるで吉田健一の文体ではないかと思ったことなどである。ということはアイオワ留学以前の氏の作品には接しておらず、「スミヤキスト・・」や「ヴァージニア」以降の作品にはリアルタイムで接してきたことになる。エッセイ集は1970年の「わたしのなかのかれへ」から出るとすぐに読んできた。前期の「パルタイ」から「聖少女」などの作品には関心がなかったし、いまだに「聖少女」は読んでいない。
 この本を見ると、多くのひとが、前期の氏の作品に入れ込んで倉橋ファンとなったが、後期の氏の作品はどうもよくわからないとしているようである。氏の前衛から古典回帰とでもいった道筋をみて、初期の前衛時代を高く買うということらしい。わたくしのように前期のものには興味がなく、後期の吉田健一崇拝者としての氏に興味があるというのは少数派らしい。第一エッセイ集「わたしのなかのかれへ」はデビューからの10年の雑文をおさめたものであるが、その後半には初期の作品群を「若気のいたり」「本来大人が書くべき文学に子供(文学少女)が手をだした恥の記録」であるといって否定している。もちろん本人が否定してもテキストは残されているのだから、それを賞賛することは読者の自由である。倉橋氏のたどった道というのは「文学少女からの脱出」「青春からの脱出」というものだったと思うのだが、この本に書いているひとの多くはいつまでも文学青年や文学少女であるままのひとたちで、そういうひとたちからすると、文学青年性否定をテーマとする後期の氏の作品にはなじめないということなのであるかもしれない。
 倉橋氏自身も初期の作品を否定し、読者もまた前期後期に異質のものをみているとしても、(初期のものをあまり読んでいなくてこういうことをいうのは問題であるとは思うが)倉橋氏の作品には割と一貫しているところもあり、それを貫くのが《「自己陶酔」を嫌い、「感傷」を排する》精神というようなものであったのではないかと思う。つまり「嫌っ」たり「排し」たりということで、否定の身振りである。醒めていること、熱中しないことこそが第一の徳目になる。批評に通じる何かである。
 とはいっても、自己陶酔しないことに自己陶酔する、ということもあるし、自己陶酔しないことに自己陶酔しないことに自己陶酔する・・などもあり、以下は無限後退であって、本当に何事にも陶酔できなければ、そもそも作品を書くということすらできなくなるかもしれない。熱狂できるものを持たない人間は二流であるであるという見方もあるだろう。倉橋氏は江藤淳さんといろいろあったらしいけれど、江藤氏にいわせれば倉橋氏の書くものはフォニーということになるのだろうと思う。江藤氏は「パルタイ」の主人公を「単に「明晰」という観念に対してナルシズムを覚えている女」と評したのだそうである。
 自己陶酔しないということは、自分が大した存在ではないとみとめること、自分より優れたひとがたくさんいることを受けいれることでもある。それで倉橋氏は、自分を感動させた作品を模作することを何ら躊躇せずにおこなった。自分という二流の人間を表現することなどには何ら意味がなく、そんなことをするくらいなら一流のひとの作品のまねて、それにより一流のひとにオマージュを捧げることのほうがどれだけ増しであるかということである。倉橋氏はたまたま文章を書く才と他人の文章を感受する才に恵まれて生まれ、自分の感性に響いた言葉に触発され、それを触媒にして自分の言葉を紡いでいくことをしていったアマチュア、好事家であったのだと思う。
 このことは日本の「私小説」の問題ともからんでくる。倉橋氏は日本の私小説の系統を徹底的に嫌ったが、氏には日本の私小説が「自己陶酔」と「感傷」の塊に見えたはずである。「普通なら恥しくてひとにはいえないことを書くのが文学的人間の特権だというわけですか。ちゃんとした生活をしているひとが文学もやるのではなくて、文学のために私生活があって、それが異常なものであるほど結構ということになるらしい」(「文学的人間を排す」)ということである。
 最近、橋本治氏も同じようなことをいっている。田山花袋の「蒲団」に書かれていることは、「あまりに恥ずかしくてみっともないこと」で「よくもこんなことをはっきりと書けたなァ」ということなのだと。しかし、橋本氏もいっているように、花袋の時代、それは「文学に携わる者の心構え」のようなものだったのであり、「『蒲団』を書いて、田山花袋は文壇のトップに立った」のである。文壇というところが肝要で、「嘘をつかない」コンクールを文学者仲間で競いあい、一番恥ずかしいことを公表した人間が一番「嘘をつかない」ひととして他の文学者の上に立つ、というゲームである。自分がいかになさけなく卑怯未練で恥ずかしい人間であるかの公表を競争するという奇妙なことが文学とどんな関係があるのだということになるが、それは読者にお前だって本当は俺と同じ情けない存在なのだという人間についての真実を伝える行為なのである。
 問題はそれが、俺は人間についての真実を知っている偉い人間なのだという自己陶酔につながってしまう可能性があることである。橋本氏もいっているうように、現代のわれわれが読めば「蒲団」は「完全なる笑劇」である。それは作者がその描写で主人公を批判的に見る視点を一切欠いているからで、橋本氏がいうように作者の「思考が幼稚」なのが一番の問題である。「自己陶酔」と「感傷」は「思考の幼稚」から生じてくる。
 こういうどうでもいいようなことをぐたぐたと書いているのは、若い時に学園闘争(紛争)を経験したこととどこかで関係しているはずである。そのころ行われていたのは、自分が《良い》人間であることの競争であった。なぜ《良い》人間であろうとするのかといえば、そのことにより《良くない》人間の上に立てるからである。田山花袋が《正直》競争の覇者として文壇のトップに立てたように、学園闘争(の少なくとも一部の局面)では、《良い人間》競争で他者の上に立つことがめざすべき課題となった。それは、インターン制度をめぐるものでも医局のありかたをめぐるものでもなく、ただただ自分がどのような人間であるかにのみ関心を集中させ、自分はいかにあるべきかを延々と論じ続けた、きわめて《文学的な》運動だった。だからこそ自己否定ということも声高にいわれた。
 自分の醜さを公表することがそのまま文学者としての自己肯定につながったように、自己否定できる誠実な自分ということが究極の自己肯定につながった。一見政治的な目的を持つようにみえる行動でありながら、実際には関心はもっぱら自分にあった。(まったく見当はずれの見方かもしれないが、最近の鳩山首相の言動は、自分がいかに誠実な人間であるかを理解してもらいたい、自分がいかに苦悩しているかをわかってもらいたいということに関心を集中させた、きわめて《文学的な》ものではないかと思う。政治行為というのは自分がどのように思われようと、結果としてよいものがもたらされればいいという信念からおこなわれるものであるとすれば、鳩山氏はきわめて非政治的な人間ということになる。さらにいえば、大新聞の社説などに「この問題につき米国政府に猛省をうながしたい」などとあるのも、その社説が米国政府を動かすことなどありえないのだから、その社説が書かれているのは、単に書いているひとの自己満足、自己陶酔のため、書いているひとが自分は正義の側にいると思って満足することだけを目的としているのであり、まったく《非政治的》で《文学的》なものということになる。)
 福田恆存氏の本のどこかに「汝の隣人を愛しなさい。汝自身の徳を完成するために」というのがあった。これは、道徳というのが本来他者との関係の上に成りたつことであるにもかかわらず、隣人には一切関心がなく自分のみ関心があってもおこなれわれうるという奇妙な事態を指摘していた。自分は隣人のために何事かをしている、そのことにより自分は良い人間となることができる、という論理にはどこかおかしなところがある。「自分の恥をさらしなさい。正直者といわれるために」「自己を否定しなさい。誠実なひとといわれるために」というのもおかしい。しかし、このおかしさにこだわっていると何もできなくなり、その場から動けなくなる。
 自分にだけ関心があり、その自己に陶酔して自己を客観的にみられないのは「思考が幼稚」なひとであり、自己を批判的に他人の目でみられるひとが「大人」であるというのが、倉橋氏の描く図柄である。そこには「自己陶酔」も「感傷」もあってはならない。倉橋氏の世界と正反対なものといえば、たとえば、登場人物が泣きわめいて怒鳴りあう日本のテレビドラマ、あるいはド演歌といったものであろうか? とにかく、じめじめしたもの湿ったものを倉橋氏は嫌った。
 それで氏の後期の小説世界はまともな大人の優雅な世界を描き、同時に子供=文学青年・文学少女の貧相で恥ずべき生き方を嗤うという方向に収斂されていった。だが、そこでは大人が理想化されすぎ、子供が矮小化されすぎて描かれているようにわたくしには感じられる。そのため、物語がどこか童話めいたものとなってしまう。敵の柄をもう少し大きくし、味方のもつ弱点をも描かないと、小説としての広がりが乏しくなってしまうように思う。そうであるなら「大人のための残酷童話」「倉橋由美子の怪奇掌篇」「老人のための残酷童話」といった作品のほうが、氏の後期の創作の方向をより生かした作品となっているのかもしれない。
 倉橋氏の後期の小説に一番大きな影響をあたえたのは吉田健一氏の小説「瓦礫の中」「絵空ごと」などではないかと思う。「一九七〇年産の『瓦礫の中』、一九七一年産の『絵空ごと』、それに一九七三年産の『金沢』。いずれも吉田氏自身が推奨していたシャトー・ディケムを思わせる逸品で、これを読んだあとは小説を読むのも書くのもいやになってしまった」(「シャトー・ヨシダの逸品ワイン」)というのは誇張ではなく、本当のことなのであろう。1971年刊の「夢の浮橋」とその続編である1980刊の「城の中の城」の間で決定的に変わったことがあって、それは主人公の呼び方である。「三月初めの嵯峨野は地の底まで冷えこんで木には花もなかつた。桂子が嵐山の駅に着いたのは正午まへで、耕一と会ふ約束の時刻にはまだ間があつた。」(「夢の浮橋」) 「子供たちは桂子さんの誕生日のケーキを受取りに近所の洋菓子点へ出掛けていつた。喜々として二人で手をつないだり放したりしながら嵐の中を駆けていく。上が智子、下が貴、六歳と五歳である。」(「城の中の城」) 「桂子」が「桂子さん」になる。以後、氏の作品は「シュンポシオン」「ポポイ」「交歓」「よもつひらさか往還」「酔郷譚」まで、登場人物がさん付けで呼ばれる作品が続いた(「アマノン国往還記」のような主人公がPと呼ばれる「スミヤキストQの冒険」に連なる作品は例外)。
 小説の登場人物がこのようなさん付けで呼ばれる小説は吉田氏の「瓦礫の中」から「絵空ごと」をもって嚆矢とするのではないかと思う。「瓦礫の中」では主人公寅三の師であるようなひとが伝右衛門さんと呼ばれるだけだけれども(「それから又何日かして六郎夫婦がその家に移って来て伝右衛門さんが寅三達の所に来る時には六郎が運転台にいるようになった。」、「絵空ごと」では「元さんと牧田さんと小峰さんと四人でとき子さんが立っていた。確かにとき子さんを見て直ぐには日本の女などという考えが浮かばず・・・」となる。しかし主人公は勘八と呼ばれ、でてくる外人さんはウィルコックスである。この「絵空ごと」を英語に訳すとするとどうなるのだろう。「Mr.Gen and Mrs Makita・・」? 「Gen-san and Makita-san・・」?
 ここでは主人公寅三あるいは勘八からの距離間で呼称がきまってくる。倉橋氏が「瓦礫の中」から「絵空ごと」を読んで驚歎したのは、これらの小説空間の親密な雰囲気とそれを可能にする呼称の問題だったのではないかと思う。それを自分の小説の世界に移植するのに10年近い時間が必要だったのではないだろうか? 「城の中の城」では本編がはじまる前に「人間の中の病気」という章がおかれる。「年下の友人に山田桂子といふ人がゐる。桂子さんは、紋切型を使へば現在「平凡な家庭の主婦」で、二児の母である。昭和四十五年頃書いた『夢の浮橋』といふ小説に出てきて、ある大学の助教授(当時)の山田氏と結婚してからもう八年にになる。勘定してみると年は三十歳、子供の二人位ゐてもいい頃なので二児の母といふことにしておく。」という書き出しで、自分が作り出した架空の人物を「友人」ということにして、そこから桂子さんという呼称を導入してくる。ついでに言えば、「勘定してみると年は三十歳、子供の二人位ゐてもいい頃なので二児の母といふことにしておく」というあたりは、「瓦礫の中」の「ここで人間を出さなければならなくなる。どういう人間が出て来るかは話次第であるが、先に名前を幾つか考えて置くことにしてこれを寅三、まり子、伝右衛門、六郎に杉江ということでいく。」 あるいは「このまり子という女に就ても一言して置きたい。これが兎に角小説の部類に属する話である以上まり子をどういう女に仕立てようとこっちの勝手で、まり子は非常な美人だった。」というあたりへのオマージュなのではないかと思う。
 吉田氏はそれを小説の本文の中でやったのだけれども、倉橋氏はそこまではできなくて、それで本編の前と後に「人間の中の病気」と「信に至る愚」という章を置かざるをえなかった。後者は「久しぶりに山田桂子さんが姿を現したのは秋も深まつた頃で、桂子さんは以前よりも幾分ふとつたやうに見えたが・・」とはじまる。その仕掛けにより、主人公は桂子さんと呼ばれることになる。しかし「瓦礫の中」や「絵空ごと」で主人公が寅三さんや勘八さんと呼ばれたら小説が成立しなくなる。小説世界の自由あるいは批評性を保証するためには寅三あるいは勘八でなければならない。倉橋氏の場合、主人公までが桂子さんになってしまったため、小説全体が倉橋氏の操作の下にあるという印象を読者に与えすぎ、ストレートに著者のいいたいことがそのまま主人公の言動となってしまっているという窮屈な感じがつきまとうことになる。
 後期の桂子さんものでは、倉橋氏がすこしむきになりすぎているというか、生真面目すぎる感じがあり、倉橋氏があれほど嫌った自己陶酔が裏から忍びこんできてしまっているのではないかという疑いがないとはいえないように思う。
 倉橋氏が後期の小説世界で試みたのは、18世紀ヨーロッパでのサロンを小説世界のなかで再現することだったのではないかと思う。吉田氏の「ヨオロツパの世紀末」などの影響であろう。「絵空ごと」もまたサロンを構築する話であった。しかしそれは「絵空ごと」と題されているように、試みは「絵空ごと」とならざるをえないという自己批評をもふくんでいた。一方、倉橋氏は少しむきになって氏の理想とする日本のサロンを描こうとしていたように思われる。それは日本の上流階級、日本の貴族社会というものへの憧憬が断ち切れなかったためではないのだろうか。
 第一エッセイ集に収められた「修身の町」という面白い文がある。A新聞社の性意識調査アンケートに答えた話で、氏は「家庭を破壊しない程度の夫の浮気は黙認する」「妻の浮気はだめ」「結婚するまでは、結婚の相手ときめた男とも性関係をもつべきでない」「結婚の第一の目的は、子どもをつくり家系を絶やさぬようにすることだ」といった項目に○をつけたところ(ファミニズム陣営への嫌味でもあるのだろうか?)、氏は「修身の町」の住人に分類されてしまったのだという。「修身の町」は「家」を大切に考え、現在の結婚制度を肯定するとともに自由な性関係には反対する人間が住んでいるのだそうで、それと丁度正反対の人間が住んでいるのが「フリーセックスの町」で、アンケートに答えた著名人の圧倒的多数はそこの住人と判定されたのだそうである。ちなみに「修身の町」に住む著名人は小坂徳三郎、唐島基智三と倉橋氏のたった三人だけだという。
 これが収められた「わたしのなかのかれへ」を先に読み、あとから「夢の浮橋」を読んだので、あれと思った。「夢の浮橋」がスワッピングを描いていたからである。作中人物が作者の主義主張の奴隷である必要はさらさらないわけだが、この作中ではスワッピングが肯定的に扱われているようにおもえた。それでこれから先は推測になるが、氏はあるときから「修身の町」の道徳がヴィクトリア朝道徳に通じる囚われた狭苦しいものと感じはじめたのではないだろうか? ヴィクトリア朝道徳と対立するのが18世紀ヨーロッパの貴族の世界で、何々夫人は誰それの愛人などというのが公認され、男女関係もまた社交の一環とでもいったとんでもない世界である。
 しかし吉田氏がえがいたサロンはほとんど男だけの世界であった。女がでてくるにしても、「このサロンには女性もあらはれるが、これはどうも男性の同類といふ嫌疑があつて、うつかり手もにぎれまい」などと石川淳氏にからかわれる始末である(「文林通言」)。「すでに人工の新館が建つたのだから、ここに然るべきものを迎へてもよさそうにおもふ。エロスである。」 そう言われたので吉田氏は「本当のような話」を書いたのかもしれないが、どうも無理している感じである。
 倉橋氏も無理をしているように思う。氏は終生、修身の町の住人だったので、お茶などを喫しながら清談をするといった世界が似合ったひとなのではないかと思う。樽のなかのディオゲネスとか竹林の七賢人、あるいは南画の世界が本来の世界のひとなのに無理してスワッピングとか交歓などという方向にいくのはつらかったのではないかと思う。そもそも氏は人見知りの人間嫌いというところがあったひとなのだろうと思うので、人間への興味から出発する小説を書くことさえ本来、不向きなひとであったのかもしれない。氏は動物的なところがなく struggle するという志向の乏しい、エネルギー準位の高くないひとだったのだろうと思う。そういうひとが自己主張のひとを嫌うというのは当然のことだったのだろう。しかし、そういう倉橋氏をわたくしは好きなのである。どこか自分と似ているところもあるように思う。
 倉橋氏についてはまだいろいろと書くことがありそうな気がするので、一応、(1)としておく。
 

倉橋由美子 (KAWADE道の手帖)

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