今日入手した本

日本文化論のインチキ (幻冬舎新書)

日本文化論のインチキ (幻冬舎新書)

 こういうタイトルの本であるが、そしてタイトルが嘘だということでもないが(第3章)、根底はそれを例にとった人文科学論、あるいは学問論、あるいは文化相対主義などのポストモダン的いきかたへの批判の本なのだと思う。著者は本当に学問を愛するひとなのだなと思う。でもここまで厳しい基準では文学を題材にする学問はほとんど生き残れないのではないだろうか。
  橋本治特集である! 橋本治というひとは誰も論じないひと、誰からも論じられないひとだと思っていたら、こういうものがでるようになった。しかも小説家としての橋本治を論じようとするものらしい。だが小説家としての橋本治は橋本氏の一番つまらない部分ではないだろうか? 「日本文化論」者としての橋本治のほうがずっと論じ甲斐があるのではないだろうか。二つの対談があり、どちらでも橋本氏がとうとうと論じている。何ともおしゃべりなひとである。そして対談相手の深読みをことごとく「そんなこと考えてもいません!」と外している。何か思考回路が普通とは違う人である。
 小谷野さんも論じている。それで、「小林秀雄の恵み」は小林秀雄批判なのだろうか? 最後は当然「言文一致体の誕生」。「蒲団」も「平凡」もともに、わたくしには、つまらない小説としか思えないので、なんであんなに熱心に論じられるのかがよくわからない。日本文学史という観点からではなく、ただの小説として読んだら、箸にも棒にもかからない作品なのではないだろうか? 学問としての文学論がつまらないのは、文学作品としてのおもしろさからではなく、歴史的意義などという方向から作品が評価されたり議論されたりする点にあるのでは? 本文校訂とか書誌学とか以外に、文学で学問になる部分があるのだろうか?