小谷野敦「日本文化論のインチキ」(1)
幻冬舎新書 2010年5月
日本文化論が好きな人間なので、その手の本を相当数もっている。この本は日本文化論をなで切りにした本だろうと思い、自分の感想と比較してみると面白いかなと思って買ってきた。しかし、必ずしもそのような本ではなく、文化比較方法論のような部分もあり、人文科学方法論のような部分もあるということで、個々の本の批評もあるが原理論的な部分もある本であると思った。
その理論的部分はかなりカール・ポパーに負っているように読めたので、ポパー信者でもあるわたくしとしては、この本を読んだ機会に、昔、読んだ日本文化論関係の本を少し読み返してみるとともに、ポパーについても考えてみたい。
もしも、ある国の文化が独自のものであると言おうとするならば、他国とのきちんとした比較が必要とされる。しかし、多くの日本文化論は、その点できわめて杜撰である。日本文化論といわれるものの大半は、比較の対象を西洋だけにおいている。それでは仮にそこでいわれているものが西洋にはないとしても、だから日本の特性であるとはいえず、アジアの特性、あるいは非西欧の特性などである可能性を少しも否定できていない。その点で学問的に及第する日本文化論はほとんどない、というのがこの本の一番根底にある主張である。
小谷野氏に日本文化論の多くがインチキであることに目をひらかせたのはデールというひとの「日本的独自性の神話」であるということだが、わたくしは読んでいない。井上章一氏の「南蛮幻想」が「日本文化論の時代は終った」としているのだそうであるが、これも読んでいない。あと挙げられているベフとかラミスというひとの本も読んでいない。青木保氏の「「日本文化論」の変容」は読んだがあまり記憶に残っていなかった。(その前の「文化の否定性」が面白かったので読んだと記憶しているが、他人の説を整理しているだけで、自分の意見があまり前面にでてこないため、印象が薄かった。) こんどあらためて読み返してみたら、デールの本やベフの本も論じられていた。デールの本は青木氏からは、「思い込みや先入観と「偏見」にみちている一方的な「過激」な本」とされていて、あまり高い評価はあたえられていなかった。デールは、日本文化論とは「日本人はユニークだとする信仰を確認する考えに取り憑かれた「日本ファシズム」の発現」であるとしているのだそうである。一方、小谷野氏によれば、デールの本は「他国ときちんと比較しないかぎり、ある国の文化が、ある点で独自であるということは言えないはずだ、ということを学問的にきちっと論じた本」であるという。その「学問的」手続きにおいて多くの「日本文化論」が落第であることを、氏はいろいろな「日本文化論」について例証しようとする。
まず土居健郎の「「甘え」の構造」が取り上げられる。土居氏は「甘え」という言葉は日本にしかないから、「甘え」というのは日本文化の特性を示すとした。それに対しては「甘え」に相当する語は朝鮮にもあるという批判がでた。小谷野氏は「寛大さを期待した」といえば、甘えに相当する概念は西洋語でも表現できるという。
小谷野氏の批判は土居氏が依拠する精神分析学は現在では科学的学問とはみなされていないこと、土居氏が援用しているサピア−ウォーフの言語相対説はチョムスキーなどの現代言語学によって完全に否定されていることなどを中心にしている。
ひさしぶりに本棚から「「甘え」の構造」をとりだしてきてみた。昭和55年120刷とあるから、ほとんど30年ぶりである。たしかにここで土居氏が問題にしているのは西洋との比較だけである。しかし、西洋語で「甘え」がないとはしておらず、バリントの「受身的対象愛」というなんともこなれの悪い言葉が紹介されていた。むしろ土居氏がいっているのは、西洋にも甘えに相当する感情は存在するが、西洋人はそれにいたって鈍感であるということである。日本人はそれに敏感であり、それに相当する感情について頻繁に表現する必要があるから「甘え」という言葉ができ、西洋ではそれに相当する感情については日常ほとんど意識にのぼらせることさえしていないから、それを表現する特別な語を必要としなかったといったことである。このことから、日本人の方が、アメリカ人よりも感情のやりとりの機微に敏感である。一般に文明が発達するほど他人の気持ちに敏感になるのだから、日本のほうがアメリカよりも文明がすすんでいる、という方向にすすむ論もよくみるような気がするが、土居氏はとくにそのようなことをいうわけではない。
「「甘え」の構造」は、その原点が、土居氏が1950年アメリカに留学してうけた「自分の考え方や感じ方がいかにアメリカ人と違うか」という驚き、俗にいうカルチャーショックにあることが、巻頭に書かれている。それも、アメリカ人の家を訪問して「お腹がすいているか?」ときかれて遠慮して「いいえ」と答えたら何も出してくれなかったという他愛のない話なのである。日本なら「お茶でもいかがです?」「いえ、結構です」「まあ、そうおっしゃらずに」「では、お言葉に甘えまして」というようなやりとりがあるところであろう。土居氏はそもそも日本でなら初対面のひとにお腹がすいてますかなどとぶしつけなことはきかずに、何か出してもてなすのが普通だろうにと書いている。この「ぶしつけ」という言葉だって米語で相当するものをさがすのは案外大変かもしれない。京都で「ぶぶでもいかがどすえ?」といわれて「では、お言葉に甘まして」などと答えたら田舎者と馬鹿にされるのだそうである。ここから関東にくらべて関西のほうがはるかに繊細で細やかな文化をもっているという議論を発展させることも可能であろう。「「甘え」の構造」もその程度の茶飲み話であり、学問というレベルの話ではないという批判は説得的である。学問風のエッセイというようなものであろう。
さて精神医学の分野に「メランコリー好発型性格」という論がある。この言葉をはじめて知ったのは笠原嘉氏の「精神科医のノート」を読んだ時で、これも1979年第6刷とあるからやはり30年くらい前である。うつ病を発症しやすい性格があるという話で、1961年にドイツの精神科医が提唱したものである。几帳面、正直、真面目、小心、律気、強い道徳律、仕事好き、強い責任感、完全主義、念入りな仕事、凝り性、時間厳守、業績主義、義理人情重視、人と争えぬ、人と折合いが悪くなると自分の方が折れる、人の評価を気にする、等々といった性格で、こういう性格のひとがうつになりやすいというのである。面白いのは、この説がドイツと日本以外ではまったく反響がなかったということである。アングロアメリカンの学者からは一顧だにされなかったらしい。ドイツ語圏でもスイス人は評価しないのだそうである。こういう性格のひとは少なくとも高度成長期の日本ではかなり模範的な組織人とされたと思われる。おそらくドイツでもそうであろう。しかしアメリカでは、こういう人間はダメ人間という烙印をおされてしまい、組織のなかである位置をしめることは難しいかもしれない。わたくしの乏しい臨床経験でも、確かにこういう性格の真面目な会社員にうつが多かった。
さらに面白いのが、どういうわけか最近ではこういうおとなしい性格のうつが減り、攻撃的なうつが増えたといわれていることである。むかしはうつのひとは入院すると「みんなに迷惑をかけて申し訳ない、早く仕事にもどって少しでもそれをとりもどしたい」などといったものだが、最近では、「自分がうつになったのは会社が無理な仕事をさせたからだ。自分は被害者なのだからいくらでも休む権利がある」といったことを主張するうつが増えてきたとされる。30年くらいまえに笠原氏の本を読んだとき、面白いなあ、やはり日本人とドイツ人は似ているのだなあと思ったものだが、日本人の性格とかドイツ人の性格などといったものはなくて、ある時代に表面にでてきて目立つ性格というのがあるだけなのかもしれない。「「甘え」の構造」も、それと同じで、これがベストセラーになった時代の日本人にはある程度あてはまったのかもしれないが、「甘え」は万古不易の日本人の性質であるということはなく、現在出版されてもベストセラーにはならないかもしれない。
言語相対説は、小谷野氏によれば、サピアとウォ−フというひとが提言したもので、「言語が意識を規定する」という考え方らしい。土居氏は「「甘え」の構造」のなかで、それらの言語論を検討しているが、それによれば、「国民性はその言語に反映している」と思いサピアの本を読んだがあっさり否定されていた、と書いてある。土居氏は意識が言葉に反映されるとしたのであり、言葉が意識を規定するとしたのではないように思える。ウォーフの論にも必ずしも土居氏は肯定的でないようである。つまり土居氏は言語相対説を援用しているようには読めなかった。
小谷野氏は「弱い言語相対説」はなりたっても「強い言語相対説」は完全に否定されているとし、その根拠としてチョムスキーの生成文法論などの現代言語学の成果をあげている。たしかにチョムスキーの論と言語相対説は両立しない可能性が高い。だが、チョムスキーの論は土居氏の論を否定はしないと思う。それはどのような文化でどのような語彙が用いられるについては何もいっていない論ではないだろうか?
誤解かもしれないが、わたくしの理解では、チョムスキーの主張は、人間の言語活動はそれに対応する脳構造をもつということなのではないかと思う。日本語と英語は一見まったく異なったものに見えるが、われわれが日本に生まれれば日本語が話せ、アメリカに生まれれば英語が話せるようになるのは、そのために使用するのが同じ脳の言語領野だからであり、主語ー述語ー目的語の語順といったレベルに注目すると違っているようにみえるけれども、もっと基本的な言語の構造にたちかえるなら、われわれの話す言語の基本には共通の構造があるというものではないかと思う。
文法は文化の中にではなく、脳の構造の中にあるということである(「空白の白板説」の完全否定)。言語は一見、完全に文化の産物にみえるが、実際には解剖学に基礎をもつ、日本人の脳もアメリカ人の脳も同じなのだから、言語の基礎が違っているはずはない、という方向である。しかし、日本人の失語症と欧米人の失語症はことなる。それは欧米人は表音文字のみを用いるが、日本人は表音文字と表意文字の双方を用いるからである。もちろん、言語の基本はオーラルなものであり、言語の歴史にくらべれば文字の歴史はきわめて短い。だから、言語の根本においてはチョムスキーの論の通りなのであろうが、「甘え」という概念が、文字がない世界で、口頭の表現だけから生まれてくることがあるだろうか? チョムスキーの理論は文化の違いということには何もいわないのではないだろうか? チョムスキーの論は狩猟採集時代のヒトにあてはまるより一般的な話、言語相対説というのは、文明以降の人類についてのもっとせまい時間にしか通用しない論ということではないだろうか?
チョムスキーらは具体的な言語について、具体的な構造の検討をしているわけであり、思念の産物ではなく学問としての主張である。しかし、チョムスキー派の論文というのは、本書で批判されているフランスのポストモダン派の論文にまさるとも劣らない難解なもので、素人が読んでもなにがなんだかわからない代物である。われわれは量子力学の論文を読んでもちんぷんかんぷんなのであるから、生成文法の論文が理解できないのもまた当然なのであろうが、わたくしはソーカルやプリクモンの批判はチョムスキー派にもあてはまるのではないかという偏見をもっている。もっと簡単にいえることをわざと難しくいって素人を煙にまいているのではないか?、素人を近づけさせないようにして自分の権威を守ろうとしているのはないかという疑いである。ポパーが「大言壮語に抗して」でいう「単純なことを複雑に、瑣末なことを重々しく表現するというこのひどい遊び」の一つなのではないだろうか?
などと書いているが、わたくしがチョムスキー派の論文の一端でもみたのは、あとにもさきにも金谷武洋氏の「日本語に主語はいらない」に引用してあった1ページほどの文だけであるが、これはだめだと思った。[CP[TP[NegP[ArgP[VP・・・]]]]]などというのがあって、これは「文否定の意味に対応する形式特性は、否定辞を主要部とする機能投射(NegP)が文構造の中に存在すること」を記号的に表現したものらしく、これでもやさしい方なのだそうである。この本を読み返していたら、「「サピア・ウォーフの仮説」とチョムスキー理論」という章があった。この部分からみても土居氏の論は「文化が言語に反映する」という常識的なもので、「言語が文化を決定する」という「サピア・ウォーフの仮説」とは反対のものであるように思った。ここで金谷氏がいっていることは、「サピア・ウォーフの仮説」もチョムスキーの生成文法論もともに検証不可能な説であり仮説にとどまるということである。チョムスキーらの現代言語学によって「サピア・ウォーフの仮説」は完膚なきまでに否定されているというようには金谷氏も書いてはいなかった。そのような主張はチョムスキー派からのもので、客観的にそうであるなどとはいえないのではないだろうか? 現在の言語学の主流派はチョムスキー派なのかもしれないが。
われわれが言語を話すというレベルでみれば、議論はチョムスキーに軍配があがるのだろう。しかしわれわれの用いる日本語の語彙についての議論にチョムスキーを持ちだしてくることは、斧で鉛筆を削ろうとするようなものではないだろうか?
小谷野氏は「セクシャル・ハラスメント」という言葉がなかった時代にはセクハラはなかったのかと問う。もちろんあった。しかし「セクシャル・ハラスメント」という言葉がでてきた背景には、あるいはそれを人為的に作って普及させようとひとたちの意図したことは、セクハラといわれることがよくないことであること、非難されるべきことであること、ハラスメントなのであるから、それをうけた女性(男性も?)は泣き寝入りすべきではないこと、そういう価値判断があったはずである。ハラスメントという言葉は価値判断をふくんでいる。その言葉ができる前には、そういった行為は男女間の普通のコミュニケーション手段であると思っていた男はたくさんいたし、今でもある程度はいるだろう。これは言語がひとの意識を変えさせた一つの例なのではないだろか? 小谷野氏は「言語がなければ事実もない」という主張への反論としてこの例をだしているのだが、言語は事実に対応するだけではなく、価値判断も同時にふくんでいることがある。
わたくしが医学を学んだ40年ほど前には睡眠時無呼吸症候群という病名はなかった。その病態はその当時にもあったはずなのだが、病名のない時代には、病態がそれとして認識されることはなかった。精神分裂病(統合失調症)が躁鬱病と分離されてからまだ百年ちょっとである。それ以前にはただ漠然とした精神異常という病態があっただけであり、さらにさかのぼれば、精神異常という概念さえなく、単なる変わったひとだったかもしれず、もっと以前には聖なるひとであったのかもしれない。一方に事実があり、他方に事実についての見方がある。言葉は事実を示すこともあり、事実についての判断を示すこともある。
また、ある人が「あなたは進行胃癌です」という告知をうけたとする。その癌は告知の1年前にも2年前にもあったであろう。癌というものが宣告と同時に出現するわけではない。しかし宣告される前の健康人は、宣告とともに癌患者になる。癌という言葉はある状態に対応する場合もあるし、ある認識に対応する場合もある。
東京に住んでいる人間には雪の降りかたは数種類しかないが、雪国に住んでいるひとはもっとずっと多くの雪の降り方の表現をもつだろう。言葉というのは連続量を離散的なデジタル量として表現する側面をもつ。虹を何色とみるかは民族によってさまざまであることはよくいわれる。それは恣意的なものであって、物理学的な根拠をもたない。分類という行為がもつ根源的な難点であり、ある人を個人とみるか、男とみるか、人間とみるか、動物とみるか、生物とみるか、物理化学的機械とみるかによって、同じものが違ってみえてきたりする。
小谷野氏は「「甘え」の構造」が土居氏のクリスチャンとしての個人的な生育歴、あるいは漱石の小説の読みに由来する個人的、個別的なものであり、普遍化できない、したがって科学的ではないものとしている。主観に由来するものであり客観性がないということである。「甘え」を一般論として提出されるのは困る。それは土居氏のような生育歴や漱石のような生育歴をもつものにしか当てはまらないものだから、と。
土居氏の提出した「甘え」が、日本人すべてに成り立つと土居氏が述べたのであれば、小谷野氏の批判は正当である。それにあてはまらない事例を一つ挙げれば、土居氏の論は否定される。しかし、土居氏が日本人には「甘え」という心情が多くみられるのに対して、欧米人ではそうではないと述べたのであれば、これは否定が容易ではない論になってしまう。土居氏がいっているのは、ある事実の指摘なのであるか、法則の主張なのかということである。強い「甘え」理論(法則としての「甘え」)は否定されるが、弱い「甘え」理論(観察されたものとしての「甘え」)は残りうるのである。小谷野氏がいっていることは、強い理論、つまりいつどこででも時代を超越して普遍的になりたつことでなければ科学ではないということと思うのだが、そうすると人文科学の分野では、科学として残るものはほとんどなくなってしまうのではないかと思う。そもそも人文学のするべきことは、ある事態の指摘なのか、それともそこから抽出されるなにか普遍的なものの主張なのか、という問題もある。
「坊ちやん」は日本で一番よく読まれている小説の一つではないかと思う。それは読者が漱石と同じ生育歴をもっているためではなく、漱石が造形した坊ちゃんという人物のもつ潔癖感と寂寥感、それにささえる清への「甘え」のようなものに共感するひとが多いからであろう(「清は何と云つても賞めてくれる」 土居氏がながながと引用している清から借りた金を返さないことにたいする坊ちゃんの論理? そんな他人行儀なことはできないという論理はどれくらい日本人に通じるものなのだろうか? また「他人行儀」という言葉は英語にするとどるのだろうか?)。だから翻訳しても「坊ちやん」は欧米ではあまり評価されないかもしれない。欧米人も寂しいが、彼らは甘えていないぞというようなことをいったのが江藤淳氏の「成熟と喪失」だったように思う。江藤氏は甘える代わりに奥さんを殴ったのかもしれない(大塚英志「江藤淳と少女フェミニズム的戦後」)。うまく精神分析用語などをもってくれば、奥さんを殴る行為が甘えの代償行為だったというような論もつくれるかもしれない。
問題は「強い理論」と「弱い理論」の区別が必ずしも明確でないことである。理論はさまざまなレベルでありえる連続的なものであるが、どこかに人工的に線を強引に引かなければ、「強い」(法則)と「弱い」(事例)は区別できない。そうであるなら、他人を否定するときには、それは「強い」論ではないとして否定し、自分の論においては「弱い」論としては成立するとするというような方向もおこりえてしまう。議論の客観性を担保することがむずかしいことになる。
小谷野氏はフランスなどのポストモダンといわれる思想は(レヴィ=ストロースをのぞき)学問的にほとんどインチキだという。そのインチキをさかのぼるとへーゲルの歴史哲学のインチキまで遡及することができ、へーゲルのインチキはポパーの「歴史主義の貧困」で明らかにされたとする。
へーゲルは歴史に法則があるとしたが、「そのような法則はない、なぜないのかといわれても、あることが証明できないのだから、ないと言うほかないのである」と小谷野氏はいう。これは無茶な議論で、そもそも、数学などのトートロジーの体系を除いては「正しい」ことを証明することはできないとするポパーの「反証可能性」の論に反していると思う。ポパーが「歴史主義の貧困」を書いたからといってヘーゲルが否定されるわけではない。事実としてあるのはポパーがヘーゲル的なものを批判したということだけである。
大学の教養学部でのゼミ以来ほとんど40年以上ぶりに「歴史主義の貧困」をとりだした(最初読んだときは「漸次的社会工学」などというのはまったく魅力のないものとしか思えなかった)。びっくりしたのはヘーゲルへの直接の言及がほとんどないことで(二ヶ所だけで、それも本文中ではなく、脚注の中)、歴史法則主義として批判されているのは主としてミルなどであった。もちろんマルクスも批判されており、マルクスはヘーゲルの弟子だから、マルクス批判はヘーゲル批判でもあるのだろうが、「歴史主義の貧困」はヘーゲル批判であるよりも、もう少し射程の長い人文科学や社会科学の方法論への批判の書であると思った。(「歴史主義の貧困」から生まれた双子の書である「開かれた社会とその敵」にはヘーゲルのみを批判して論じた章が2章ある。)
歴史法則主義へのポパーの批判の骨子は「序」の「合理的もしくは科学的な方法によって、われわれの科学的知識が将来どのように成長するかを予測することはできない。一方、人間の歴史は、人間の知識の成長に大きな影響をうける。したがってわれわれは人間の歴史の未来の経過を予測することはできない。」という部分にある。ポパー流のいい方では「未来は開かれている」ということである。
ポパーがいったのは、われわれは《あることが正しい》ことを知ることはできない。できるのは《あることが誤りである》と知ることだけであるということ、つまり帰納論理の否定である。99匹までの白鳥が白かったとしても、100匹目の白鳥が白いと予言はできないが、1匹の黒い白鳥はすべての白鳥は白いという仮説を否定する力をもつという例の議論である。
だから、へーゲルをふくめ歴史について議論することの問題は、ただ一回しかおきなかったことについて(複数回おきることがなく、やり直すことができない歴史について)、それをそうさせた動因を知ることができるかという問題となる。そのままこれは進化論の問題にもつながる。進化という事実があったことまではいいとして(それをみとめないひともたくさんいるが)、それがなぜそうなったのかについては、「ダーウインの説明が正しい」というような議論ができるかである。ポパーはダーウイン進化論の信者であるにもかかわらず、それを科学の論としてうけいれることについては歯切れが悪い。ダーウインの論は反証不能の論かもしれないからである。反証不能なものは科学ではない。(しかしポパーについての詳しい議論は、第2章を論じるときにしたい。)
ヘーゲルを否定する根拠としてポパーを持ち出すというやりかたでいいのだろうか? サピア−ウォーフ仮説の否定としてチョムスキーを出してくるのと同様の疑問をそこに感じた。
次が精神分析。岸田秀氏の「ものぐさ精神分析」がやりだまにあがる。日本で精神分析がひろまったのはこの本のためというのは、その通りだろうと思う。少なくとも、わたくしの場合にはそうだった。
しかしここでの小谷野氏の「ペリー原罪説」批判はよくわからない。ペリーというのを個人であるかのように論じている。しかし岸田氏がいったのは、アメリカという強力な外圧の象徴としてのペリーのはずである。小谷野氏は、日本以外の他のアジア・アフリカの国々はどうなのかということを一切考慮していないのが岸田氏の論の欠点であるとする。しかし、それを考慮することと岸田氏の論の正否は独立したことではないかと思う。日本と同一の体験をした国は日本と同一の「黒船=トラウマ」的なことをおこすのでなければ、岸田説は成立しないというのが小谷野氏の主張である。しかし、その論は日本以外の国が日本とほぼ同じ条件で西欧との接触をしたということでなければなりたたないはずで、日本が長いあいだ鎖国をしていたという条件はかなり日本を特異なものとしているはずである。処女がいきなり強姦されたといったようなもので、日本以外の国が男性経験豊富な海千山千のおばさんだったとしたら、そのようなものがトラウマにならなくて当然であることになる。
それよりも「ものぐさ精神分析」の根本的な問題点は、本来、個々人に適応されるものであったはずの精神分析理論が平気で集団に応用されていることである。岸田氏は巻頭から「フロイド理論は何よりもまず社会心理学である。・・彼はまず集団心理現象を下敷きにして、そのアナロジーにもとづいて神経症者個人の心理を理解しようとしたと言うことができる」と一切の論証もなく断定して議論をはじめる。超自我、自我、エスは、それぞれ天上的権威(皇帝)、地上的権威(政府)、民衆との類比からでてきているなどという。精神分析は本来、社会心理学であるから、集団現象にそれを用いるのは当然のことという。本当は論議すべきなのはこの部分だと思うのだが・・。同じことは河合隼雄氏の論についても指摘できると思う。
わたくしも「ものぐさ精神分析」にすっかりいかれた過去をもつ人間なので(「一番、衝撃だったのは「わたしの原点」)、その反省のうえでいうならば、岸田説の問題点はあまりにうまくすべてを説明してしまっている点にあるのではないかと思う。ポパーもいうように(彼の場合はアドラーが主?)精神分析学の問題点はあらゆることをうまく説明できることにある。子供が親を愛そうが憎もうが、どちらの場合でも精神分析派は実にうまくその原因を説明できてしまう。もしもこういうことがおきるならば、それは精神分析理論の敗北を意味するというような事例を提示することがない。だからこれは(ポパーにいわせれば)不敗の論理であって、科学ではない。だが、あくまでも科学ではないということで、間違っているということではない(正しいか間違っているかを論じることができない説ということである)。そういうあまりにうまい話は眉に唾をつけてきけ、という態度で接するしかないというだけのことである(そして、もちろんポパーによれば、あらゆる事象をすべて説明できてしまう最大の理論がマルクス主義である。マルクス主義もまた科学ではないとされる)。
ここで岸田氏の「人間は本能が壊れた動物」説が論じられているが、この説は当時、丸山圭三郎氏も熱心に吹いていたもので、わたくしは丸山氏の本もまたずいぶんと熱心に読んだ記憶がある。丸山氏を介してソシュールを知った。いまだにソシュールの論には魅力を感じる。人間が外界をどのように認識することについては一切根拠がなく、まったく恣意的であるという論である。これを解毒するための最大の薬は進化生物学であると最近思うようになった。本能という言葉を使うからいけないので、ヒトは何十万年も前の狩猟採集時代に適応した構造をいまだにひきづって生きているとすればいいのだということに、ようやく思いいたるようになった。もっとも岸田氏や丸山氏の本がでたころは、進化生物学も揺籃期でまだあまり成果も出していなかったころなのであるが。小谷野氏は「人間にだって本能的な部分は残っているのであって、性欲などというのはその最たるものだろう」というが、岸田=丸山説は「人間は教育をしないと、性交もできないぞ」というようなものだったと記憶している。しかし、その岸田=丸山説は正否はどうやって検討すればいいのだろうか?
次が河合隼雄氏。もちろん氏の出自はユング心理学であるが、それが学問の世界ではオカルトとされているというのは小谷野氏が言うとおりであろう。わたくしにはユングの説は獲得形質が遺伝するという議論のように思え、その点でもう科学ではないと思ってしまう。わたくしも小谷野氏とおなじに「母性社会日本の病理」にふかく説得されたし、フォン=フランツの「永遠の少年」にも震撼させられたから、小谷野氏と読書歴が一部似ているところがある。東大に行くような男というのは、若いときはたいてい、そんなもの、と小谷野氏はいう。(「母性社会・・」も久しぶりにとりだしてみてみたら随分と論理展開が杜撰なように感じた。以前にはまったくそう思わなかったのだが。) フォン=フランツは、そういう永遠の少年に「仕事をすることで病理から逃れる」ことを忠告していのだそうだが(なにしろ昔読んだので内容はほとんど覚えていない)、小谷野氏は仕事をはじめたら「永遠の少年」どころではなくなってしまったという。わたくしも同じである。だが、それは病理が軽かったからなのかもしれない。「永遠の少年」という本は、サン=テグジュペリは生涯、永遠の少年のままだったというような話だったように思う。
さて小谷野氏は「母性社会」などというのは、戦後日本の平和ボケ状態にこそあてはまるが、明治や徳川になどあてはまらない。それを日本文化に時代を超えてなりたつ原理でるがごとき言い方をするのは不勉強で許せない、とする。「中空構造日本の深層」もまた同様に批判されている。これは絶対権力が存在しない日本という証明すべき結論が先にあり、それにあう神話をあとから探しだした可能性が高いように思うけれど、本書のあとのほうで論じられる「天皇制がなぜ日本で連綿として続いてきたか?」という疑問への回答という側面がある本でもあったように記憶している。
精神分析学やユング心理学のような非学問をやる人間は東大の医学部や心理学にはいないが、関西にはいる、などとなかなかのことを小谷野氏はいっているが(これは井上章一さんの「日本に古代はあったのか」の裏返しかも)、最近ラジオをきいていて北山修氏が九州大学の教授だったと知ってびっくりした。もっとも医学部ではなかったようだが。ところで土居健郎さんは東大教授だったのではなかっただろうか?(小谷野氏は現在のことを言っているので、過去についてではないのかもしれないが。)
小谷野氏は、科学性は乏しくてもそれで治るならばカウンセリングなどの有効性は否定しないという。これが医療につねにつきまとう大問題で、多くの医者は自分がまじない師のようなことをやっているのはいやなので科学に走る。しかし科学としての薬で治らなかったものがセラピーで治ってしまったりすることがあるのが困る。もちろん、カウンセリングで着々と悪くなっていくひとも多い。
小谷野氏は「過去の美化」を批判して、向田邦子「あ・うん」を挙げる。戦前を美化したものだというのである。多くのひとが昭和の戦前を美化するようになったのは、「向田邦子風ドラマ」の影響なのだという。そうなのかなあ、と思う。マーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬ」は大ベストセラーで、風と共に去った南部文明を称揚しようという意図で書かれたものだと思われるけれども、それが売れたのは物語の面白さや主人公たちの魅力であってそこに描かれた予定調和的な南部文明世界の描写のためではないだろうと思う。それによって南部文明信者が増えたとも思えない。「あ・うん」だって同じなのではないだろうか? (とはいうものの、北軍が戦後占領軍、南部が敗戦日本という見立てをしたい誘惑にはかられる。小谷野氏の「聖母のいない国」にも、「風と共に去りぬ」がよく読まれるのはアメリカ以外では日本とドイツであるという指摘があった。) ついでに言えば、「あ・うん」も「風と共に去りぬ」の変奏なのであり、門倉修造がレット・バトラー、水田仙吉がアシュレー、たみがメラニー兼スカーレット・オハラなのだと思う。向田さんは男女が知り合ったらすぐに寝てしまう世界が嫌いで、もたもたうじうじしている世界が好きだったのだと思う。そういう世界として戦前の中流階級の世界を選んだのだと思う。ただ自分の好きな世界を書こうとしただけなのではないだろうか? そしてそういう世界が好きなひともある程度いて、向田作品の読者になったのではないだろうか? (わたくしは向田氏の私的な生活をまったくしらないから、とんでもない見当違いかもしれないが。) また「阿吽の呼吸」とか「以心伝心」とかいった言葉を英語に訳すとどうなるのだろうか?
向田氏も「江戸幻想」ならぬ「戦前日本幻想」をもっていたのかもしれない。しかし、「今」が嫌いなひと(久世光彦氏など典型?)が過去のどこかに幻想を抱くということ、あるいは今を批判する視点として過去をあえて美化すること(あるいは過去の中から美しいものだけをとりだしてくること)は、それに自覚的でありさえすれば、あながち否定されるべきことでもないようにも思える(小谷野氏は多くのひとがそれに無自覚であるからこそ苛立っているのだろうが)。江戸幻想や戦前日本幻想は、ある種のひとには科学ではなくても、カウンセリングとしては有効に機能しているのかもしれない。
だらだら書いていたら、第1章「西洋とだけ比較されてきたという問題」だけでこんな分量になってしまった。小谷野氏のいうように、土居氏も岸田氏も河合氏も西洋だけを意識しているというのはその通りであろう。また、それらの説が通時的に日本人に成りたつなどというのも嘘の皮であって、たかだかその本が書かれた前後のある時期に成りたつだけというのが真相であろう。だが、これら諸氏がいっているのは、ポパーが「歴史主義の貧困」でいう「趨勢」であって「法則」ではないと思う。ポパーのいうように「ある特定の時と場所におけるある趨勢の存在を主張する言明は、一つの特称的な歴史言明であって普遍法則ではない。」 つまりそれはある事実を主張した言明であって、そこからひきだされる法則を主張するものではない。
小谷野氏は、彼らがそれらを法則であると主張しているが、それらはけっして法則ではないという観点から批判する。小谷野氏の批判は正しいが、小谷野氏がいっているほど、これらの論者は法則であると主張しているとは思えず、法則と趨勢の違いに自覚的ではないという面のほうが大きいのではないかという気がする。ポパーは「ある歴史的時期(時代)に生きている人々の大部分は、自分の周囲に観察されるいろんな規則性が、社会生活の普遍的な法則であってあらゆる社会に妥当する、という誤った思い込みに傾きやすい」が、そのような思い込みに気づくのは、「食物に関する自分の習慣や挨拶の上での忌みコトバなどが、外国にきてみると自分が素朴に仮定していたほどに受け容れうるものではけっしてない、とわかる場合」であるという。おそらく日本文化論の過半はそのような素朴な驚きから出発しているので、「どこでも」通用するという信念は打破されても、自分の所属する社会では「いつでも」通用するという信念のほうは(よほど勉強しないと)打破されない。それで、安易に日本文化の普遍性という方向にいってしまうのではないだろうか?
ということで、大半の日本文化論は学説でも何でもなくて、ただの世間話ではないかという小谷野氏の批判はもっともなのであるが、世間話にそんなに目くじらたてなくもいいではないかという感想もまた浮かんでくる。
大半の日本文化論で日本が西洋とだけ比較されるのは、日本が意識する他者というのが明治以降は西洋だけであり(それ以前は、中国? だから宣長は「やまとごころ」と「漢意」を対比させた?)、明治期になって無理矢理西洋化したが(させられたが)、それはあくまで外皮だけのことであり内側には一貫したものが残っているという神話を信じたいという気持ちから自由になれていない点が大きいであろう。例の和魂洋才という奴である。だから、繰り返し日本文化論が書かれること、それこそが日本文化というものを表しているという議論だってできるはずである。自国文化論を量産する国とそうでない国を比較する方向からの日本文化論もありえてしまうだろう。どんな内容だったかもう忘れてしまったが、内田樹氏の「日本辺境論」も、そんな話だったかもしれない。「学術的厳密性には一切顧慮していない」し、「どのような批判にも耳を貸す気がない」と嘯く「態度が悪い」、世間話で何が悪いと開き直る内田本への批判というのも、この本のめざすものの一つかもしれない。
小谷野氏が日本文化論の“名著”の一つとしてあげる山崎正和氏の「室町記」(わたくしがもっているのは1978刊の朝日選書版)に、日本の芸術家は人間の間にいるものであり、「傲然たる孤独者」という西洋でみられる芸術家のタイプは日本ではみられないということをいっている。例によって、西洋対日本という比較論である。芸術的な表現は神と個人の間で完結するとする西洋の芸術観では「創作」が重視されるが、日本では「鑑賞」と「批評」が重視されるとし、日本では芸術も人間関係の上に成立するひとへの贈り物であるのに対して、西洋では神への捧げ物であるというようなことをいっている。とくに目新しい主張ではないのかもしれないが、一神教の上に成立する西洋の文化と、そういうものをもたない日本の文化の違いということはあって、それが飽きずに日本文化論が量産されてくる一番の背景となっているのではないかと思う。「甘え」も人間関係の一つである。
そして人間関係がすべてということになれば、共同体のありかたも随分と重くなってくるわけで、丸山眞男氏の「日本の思想」は「共同体は嫌いだ!」という話だったのであり、山本七平氏の一連の著作も日本的共同体への愛憎半ばする気持ちを延々と書きつらねたものなのではないかと思う。村上龍さんの小説だって日本の共同体なんか糞食らえ!であろう。たいていのインテリは農村共同体的なものからの逃亡者なのであるが、一方で、竹内靖雄氏がいうように、われわれは日本人同士ならこれでいけるというさまざまな行動様式をもっているので、「洋風でいけますか? 強い個人になれますか?」といわれてもつらい。「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず、重盛の進退ここにきわまれり」という嘆き節がさまざまな日本文化論を生む。
歴史についていえば、わたくしの感じからいうと、明治維新以後が「今」である。それ以前は「昔」である。今の若い方々にとっては、自分が生まれてからが「今」、それ以前が「昔」なのかもしれないので、わたくしの感覚がどの程度の普遍性をもつのかはわからないが、江戸以前の話が時代劇といわれ、明治の話は時代劇などとは呼ばれないから、まったく特殊な感覚ではないだろうと感じる。
明治以降の西洋受容がわたくしの最大の関心事の一つであるということが、飽きずに「日本文化論」本を読み続ける理由になっているのだと思う。そして若い時に読んだ福田恆存氏の影響で、江戸までの時代には何らかの達成があり、それが明治維新の過程で破壊されてしまったという感じをどうしても棄てきれないところがあると思うから「江戸幻想」の持ち主でもあると思う。わたくしがもつ「江戸幻想」とは、福田恆存氏がいう「スラブ」なのだが・・。
「現代人はソーニャの善良さより、そのまへにひざまづいたラスコリニコフの誠実さを、カチューシャの純情よりネフリュードフの誠実さを採る。が、ラスコリニコフやネフリュードフを主役と見たら『罪と罰』も『復活』もまつかなうそさ。なるほど傲慢であつたから謙虚になりえたともいへよう。相手を裏切つたから、真に愛しえたともいへよう。が、それはたゞあの二つの小説があそこで終つてゐるといふだけのことなのだ。・・ぼくはあらゆる「蕩児帰る」式の説話を信じないね。蕩児は帰るかもしれんが、また出てゆくだけのことだ。殊勝さに感心する気には毛頭なれない。/ ところで、問題はソーニャだよ、カチューシャだよ。つまりスラブ人といふことになる。ラスコリニコフ対ソーニャ、ネフリュードフ対カチューシャは、西欧対スラブといふことなんだ。」(「ふたゝびロレンスについて」)
西洋の悪に抵抗する「純なるもの」という構図である。ここで福田氏が「スラブ」といっているもの、すなわちソーニャやカチューシャが「近代的自我」をもたないもので、ラスコリニコフやネフリュードフが「近代的自我」をもつものなのだと思う。江戸は近代的自我がない時代で、明治以降が近代的自我の時代、西欧化と近代化はそれ以外ない選択ではあったが、それによってかならずしも幸福になったわけではない。などと書いていると渡辺京二氏の「逝きし世の面影」なってしまうが、福田氏の「スラブ」が渡辺氏の場合は「幸せそうな馬鹿面」(というような表現があったように思う)になるのであろう。渡辺氏は江戸時代には鼓腹撃壌の民がいたといいたいのであろう。いずれにしてもそのような論は学問になるはずはなく、だから福田氏の書くものも評論である。そこにはもちろん「法則」はなく「趨勢」さえもあやしく、「独断」にちかい。そもそも文化の違いを論じる根拠として文学作品を提出するというやりかたが学問として了承されるとも思えない。しかし「近代的自我」については別に論じたい。
青木保氏の「「日本文化論」の変容」は、漱石の講演「現代日本の開化」からの引用ではじまっていた。例の西洋の開化は内発的、日本の開化は外発的という論である。岸田秀氏の「黒船=トラウマ」説はその変奏にすぎないし、土居氏の甘え論も漱石論として秀逸であると小谷野氏がいうのもそのあたりが関係しているだろうと思う。大量生産される日本文化論は、最近のグローバリズムについての議論にまで続く文明開化の後遺症という側面も少なからずあるだろうと思う。渡辺氏の「逝きし世の面影」もまたその一つなのであろう。
第2章の「「本質」とか「法則」の胡散臭さについて」以下は、稿をあらためる。
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