ウルフ ペデルセン ローゼンベルク「人間と医学」(5)

     博品社 1996年
 
 第10章「医学と社会学」。
 この章で著者らがいいたいことは、環境が疾病発生に関係するという見方もまた、パッシブなものであるということのようである。人間は細菌により病気になるという見方も、タバコにより病気になるという見方も、ストレスにより病気になるという見方もすべて、一方的に受け身で病気という状態にさせられてしまうという点で、人間の能動性を考慮に入れていないという。
 
 第11章「精神分析、自然科学それとも解釈学?」
 フロイト精神分析は自然科学としてみるとまったく落第であるということを著者らはすすんでみとめる。それはテスト可能ではない。しかし、解釈学の立場からみれば、それは有効であるという。精神分析は理解、解釈、省察という行為なのである、と。したがって、それは自然科学ではなく人間学なのである、と。
 
 第12章「医学倫理、哲学の原理として」
 カントがでてくる。自由意思をそなえた自己省察的存在としての人間という観念に医学倫理は基づくべできである、とされる。
 
 第13章「医学的意思決定の倫理的次元」
 インフォームド・コンセントの問題などが論じられるのだが、本書でもっとも古さを感じさせるのがこの章である。
 3つの症例が検討される。
 症例1)甲状腺機能亢進症。a)抗甲状腺剤の長期投与。b)甲状腺亜全摘。c)放射線ヨードによる治療。どれを選択すべきか? それを選択するだけでも患者さんにとってのより良い質の生は何かということについての判断が必要とされると著者らはいう。つまり、このような単純な治療法の選択という問題についてでも、すでに科学だけでは解決できない倫理の問題が入り込んでくるのであると。さらに、と著者らはいう。限られた医療財源という問題に照らして、どうような治療法を選ぶのが最善であるか、という問題もまた考慮にいれなければならない、と。そして、それだけもまだ不十分で、患者の自律性ということもまた考慮に入れなければならない、という。ここでインフォームド・コンセントの問題がでてくることになる。
 症例2)良性の胃潰瘍であると考えて手術した患者が組織検査で胃癌であることがわかった。このまま患者は治癒してしまうかもしれない。それなら胃癌であったということは言わないほうがいいのでは? 言っても不必要な心配をさせるだけではないか? 再発したらその時に告知すればいいではないか? それまでは患者さんに不安のない生活をさせてあげたほうがいいのではないか? しかし、それを知らないままでいることを患者さんが望んでいるかどうかについて、誰がわかるというのだろうか?
 このケースで実際におこなわれたことは以下である、と。患者さんに、実は癌であった、と告げた。放置すると手術不能になっていたかもしれないので、治療できたことはよかったといい、再発の可能性については何もいわなかった。この対応をどう考えるべきか?
 自律性についてのカントの考えとミルらの功利主義の考えは、似ているいるように見えても大きく違っている。カントは自律性=人間性と考えるのに対し、ミルらは自律性が尊重されるべきであるのは、それがそのひとにとって有利であるからであるとする。そのひとにとって有利でなければ尊重されなくてもいいとする。したがってミルの考えは医療におけるパターナリズムの容認に道をひらきやすい。
 著者らは、パターナリズムを三つにわける。A)真正のパターナリズム(まったく無力な子供に対する親の保護) B)依頼された任されたパターナリズム C)依頼なしの押しつけのパターナリズム、である。B)を著者らは肯定する。患者が医者に全権を委任するという場合にはそれは許容されるとする。しかし、C)は患者の自律性を尊重していないとして否定される。
 としながらも、著者らは、状況によってはパターナリスティックにふるまうのが最善である場合もあるとして、症例2)における医療者の行動は明らかにパターナリスティックであったとするが、それを否定はしない。しかし、それも功利主義で説明する。自律性は善の一つに過ぎず、心の平安といったものとのバランスで考えねばならないのだと。定期健診で無症状な肺がんが発見された高齢者にそれを告げないとしても、それを非難するひとは少ないだろうと、著者らはいう。
 症例3)80歳男性。脳卒中になり不全麻痺と重症の失語が生じた。かなりの痴呆がある。ある晩、敗血症をおこし、それが尿路感染からきたものだったことが判明した。抗生物質投与などの強力な治療で救命できた。しかし、その後の医療スタッフの議論で、むしろ患者の敗血症は治療しないほうがよかったのではないかという意見がでたという。しかし、可能な限り生命を維持させることが医師の義務であり、それの例外はほとんどないとする見解が医療の場では主流である。だが、死はわれわれの必然であり、あらゆる生命には終わりがある。それならば一定の生命の質が大事なのではないだろうか? 人間の生命の価値は自己省察と行動の能力にかかっているのであり、この能力が不可避的かつ重篤に傷害された高齢者においては積極的な治療をしないことは道徳的に必要ともいえるのではないか?、そう著者らは主張する。
 オランダなどでは安楽死が広く容認されているようであるけれども、日本でこのような医療行動をすれば刑事罰の対象となってしまう可能性が高い。つまり、医療の目的は《可能な限り生命を維持させること》にほぼ限局されてしまっており、それから逸脱した行為は違法とされるかもしれないのである。科学としての医療のみが追求されるべきとされており、倫理の問題であるとか、限られた医療財源の問題であるとか、ましてや患者の自律性という問題などは考慮に入ることはない。「日本の限られた医療財源ということを考えると、この患者にはこんな高価な治療はしないほうがいいと判断した」などと公言する医者がいたとすると、どのような反応がおきるか考えるだに恐ろしい気がする。
 しかしインフォームド・コンセントがあるではないか、そこでは患者さんの自律性が尊重されているではないかという意見もあるかもしれない。だが、日本のおけるインフォームド・コンセントは医療者の側が倫理の問題などへの考慮をすべて放棄した結果として、決定をすべて患者さんの側に丸投げしているというほうがはるかに実態に近いのではないかと思う。
 以前キャッセルというひとの「医者と患者」という本を読んでいて、以下のようなことが書かれていて考えこんでしまったことがある。86歳の老人が脳卒中で入院してきた。半身麻痺で会話は不能、入院半年前から記憶などに目に見えて衰えがでてきていた。数日の内に40度に達する発熱を呈するようになった。若い担当医は肺炎と診断し、血液培養や喀痰の培養などの諸検査をし、ペニシリンの投与を開始した。それをみた指導医である著者は抗生物質投与をやめさせようかと思った。「どの人にも死ぬ時期があり」、この老人にとっては今がその時であると思われたからである。しかし躊躇もあった。自分にはそれを指示する権利があるのだろうか? (さいわい?)担当医が見落としていたペニシリンアレルギーの既往という記載をカルテにみつけて、ほっとしてペニシリンの中止を指示した。著者はいう。この86歳の老人がほどなく死ぬことは確実である。確かに奇跡ということはある。時にこのような患者さんが回復し、数か月間病院で生きながらえることはある。しかしそれは失禁や褥瘡などをともなう緩慢な死であるに過ぎない。それでもわたしはこの患者を死なせるように決定する権利を持っているのだろうか? 
 この症例はほとんど毎日のように臨床の現場でおきていることであり、しかも医療技術の進歩によって“奇跡”が毎日のようにおきてようになっている。肺炎で患者さんが死んだということになると医療ミスであると訴えられかねないご時世なのかもしれない。肺炎は治って当たり前の病気とされている。治せなければ医者の腕が悪いと疑われるかもしれない。かって医者にできることはほとんど何もなかった。ベッドサイドで慰めの言葉をかけるくらいしかできることがない時代が長かった。しかし時代はかわった。
 “自己省察と行動の能力”が失われたならば生きる意味はない、などということを医者がいうことはありえない時代になった。医療の進歩により、とにかく延命だけであれば以前よりもできることが格段に増えてきている。
 ところで、わたくしは「自己省察と行動の能力」に重きをおく著者らの意見になんとなく違和感を感じるだが、それは、こういう見解は《人間は魂を持つ》として、《魂を持たない人間以外の動物》と峻別するキリスト教の見方が背後にあるように感じるからである。この「人間と医学」の訳者である梶田昭氏の著書「医学の歴史」では、「医学は人間の「慰めと癒し」の技術であり、その芽生えはサルや鳥の毛づくろいにある」としている。医療を人間に固有のものではなく、人間以外の動物から連続している行為の延長にあるものとしてみている。わたくしはこの見方のほうにはるかに親近感を感じる。
 しかし、そのようなことを考えるのであれば、どうしても、最後の章で論じられる「心と体」という問題が避けて通れないことになる。

人間と医学

人間と医学

医者と患者―新しい治療学のために (1981年)

医者と患者―新しい治療学のために (1981年)

医学の歴史 (講談社学術文庫)

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