テリー・イーグルトン「宗教とは何か」

   青土社 2010年5月
 
 著者のイーグルトンはイギリスの左派の批評家ということであるが、本書だけみるとカトリックの護教論者のようでもある。主としてドーキンスらの宗教批判に徹底反論したもの、というかほとんどそれをおちょくったもの、とでもいうような本である。ドーキンス以外にもう一人クリストファー・ヒッチキンスというわたくしの知らないひともおちょくりの対象になっているのだが、このひとはかって左翼で今は右にいってしまっているひとらしく「神は偉大ならず」といった本を書いているらしい。それでドーキンスとヒッチキンスをあわせて「デッチキンス」という記号を作ったりして、その「デッチキンス」批判が展開されることになる。
 ドーキンスらは創造論者のようなどうしようもないひとたちを批判しているのだが、イーグルトンももちろんそういった連中は論外であるとする(「宗教は、言語に絶する悲惨を人事にもたらしてきた。宗教の大部分は、偏狭な信念や迷信や誇大妄想や抑圧的イデオロギーなどが織りなすおぞましい物語そのものだった。それゆえ合理主義とヒューマニズムに立脚する宗教批判者たちに、わたしは大いに共鳴をおぼえる」)。しかしドーキンスらが、どんな宗教も創造論者と大差ない連中であるとしている不勉強を難詰する(「批判者たちの宗教否定の論議は、あまりに安っぽいのもまた真実なのだ」)。宗教というのはそんなものではないぞ、ドーキンストマス・アクィナスなどを読んだことがあるのか、キリスト教の精華について少しは勉強したことがあるのか、というわけである。読んでいないだろうと思う。あるいは、かりに読んでいたとしても、そこに何も感じないだろうと思う(と書いたが、「「神は妄想である」で、アクィナスによる「神の存在証明」を笑っている。それを見ても、アクィナスを真剣に読んでいるとは思えない)。世の中にはそういうものに少しも動かされないたちのひとがいるのであり、そういうひと(本書のいいかたでは「道具的理性主義者」)こそが「デッチキンス」になるのである。ドーキンスは「虹の解体」などでいろいろと文学作品などを引用して教養のあるところをみせているが(シェイクスピアキーツ、D・H・ロレンス、イェイツ・・・。ロレンスなどドーキンスの対極にいるひととしか思えないが・・)、それにふかく感動しているようにはどうしてもみえない。頭での理解、知識としての理解にとどまっているように思える。
 ではドーキンスは感動しないひとなのかといえば決してそうではなくて、科学がいままでは神秘としか思えなかった事象を見事に説明してきたことには深く感動する。「虹の解体」はまさしくそのことを述べた本で、科学のもつわくわくするような魅力ということを倦まず説いた本となっている。
 しかし世の中には、「虹の解体」を読んで、ドーキンスさんはなぜあんなに興奮しているののか?、どうでもいいつまらないことをなぜあんなにも面白がれるのだろう?、と思うひともまたたくさんいるはずで、イーグルトンさんはその側なのである。もちろん大教養人としてイーグルトンは科学のもたらしたもの、それがわれわれの社会にもたらした決定的な影響については正当に評価している。しかし科学のいとなみは「静的」なのである。そこにはダイナミックなものがない。本当にひとを動かすのはダイナミックなものだけなのだ、というのがイーグルトンのいいたいことなのではなのである(「科学と神学のちがいは、・・あなたが世界を贈り物としてみるかどうかにかかっている。」「信仰とは・・参加と連帯の問題である―それは、自分がとらわれている恐るべき状況に変化をもたらすものにたいする信仰であって・・暗黒と苦痛と困惑のなかで身動きがとれないながらも・・すべてを変容させる愛の約束をどこまでも信じつづけること・・なのである」)。そして過去においてひとを動かすダイナミックなものを代表していたのが宗教なのであり、そのことを理解もせずに宗教を科学的でないなどと論難するドーキンスは馬鹿ではないかというのがイーグルトンの論の中心となる。
 ここで問題になるのが「アメリカ」という国のもつ特殊性なのだと思う。西欧においては宗教というのは「文明化」してきている。「骨抜き」にされ、牙を抜かれ無害化され飼い慣らされてしまっている。その中で、アメリカという国は例外で、いまだに宗教の野生が残ったままであり、宗教の「野蛮」を色濃く残している。ドーキンスもヨーロッパにおける宗教についてなら何もいわないはずである(とはいっても「悪魔に仕える牧師」では、北アイルランドのテロは宗教がなければおきないとしているようであり、イーグルトンに揶揄されている)。
 ドーキンスが問題にしているのは基本的に現在のアメリカにおける宗教であり、イーグルトンが擁護しようとしているのが過去のヨーロッパの宗教であること、そこから食い違いが生じる。イーグルトンは現在のヨーロッパの宗教を肯定しない。宗教のもつ熱さが冷えてしまっていること、「あなたが何を考えても、考えるだけなら、それはあなた個人の自由です」というレベルに落ち込んでしまっていることを許すことができない。
 イーグルトンによれば、キリスト教の精華を正統的に継承しているのは、実はマルクス主義なのである。だが、それにもかかわらず、マルクス主義の権威は現在、地に落ちてしまっている。イエスキリスト教の教義の中心は《今の世の中を善しとしない》ということなのであり、その志を受け継いでいるのがマルクス主義である。
 元来、キリスト教は“熱い”ものだったのであり(「イエスは・・ホームレスの人間として提示されている。財産もなく独身で、逍遥派であり、社会的周辺に追いやられ、親類縁者からは鼻つまみ者とされ、定職につかず、浮浪者や非民たちの友であり、物質的所有を軽蔑し、自身の身の安全をかえりみず、純潔規定には無頓着で、伝統的権威には批判的で、体制側に突き刺さった茨の棘、金持ちや権力者に天誅をくだす者である」)、イエスはラディカルな反体制派なのである。キリスト教が反体制に結びつくのであれば、宗教を批判するドーキンスらの論は現在を善しとする体制擁護へと道をひらくことになる、そうイーグルトンは主張する。ここでイーグルトンがマルクス主義者であるということとキリスト教護教論がつながってくる。
 みてとれるように、イーグルトンが擁護する宗教は主としてイエスキリスト教新約聖書キリスト教なのであり、一方、ドーキンスが批判するのはユダヤ教キリスト教イスラム教の一神教であり、主として旧約聖書キリスト教なのである。イーグルトンによれば、ドーキンスは、創造主としての神を、大企業経営者か宇宙の最高経営者めいたものと想像し、キリスト教疑似科学であるかのように考える愚か者なのであるが、新約聖書では〈創造主としての神〉はほとんど言及されていない、とイーグルトンはいう。そして「神は、無があるのではなく、なにかがあることの存在理由なのである」などとハイデガーのようなことをいい、神は世界を贈りものとして、剰余として、無償の行為として、創った、などととんでもないことをいう。「無からの創造」とは世界がなんらかの因果律の帰結でもないことの証左なのであるなどともいう。なぜわたしたちは宇宙のことを説明可能であるかたちにまとまっていると想定するのか、というメタ問題が神学の提示するものであるといい、神はわたしたちを必要としていない、それゆえ神は、わたしたちを放置できる、それが自由という単語があらわすものなのであるなどともいう。
 こういう議論を読んでいると、イーグルトンはカトリックの側のひととしか思えなくなる。神の大きさに対する人間の小賢しさというのはきわめて魅力あるテーマなのである。ある時期、ヨーロッパの優れた知性はこぞって神の問題にとりくんだのであり、したがってそこにはヨーロッパ思想の精髄が濃縮されているのであるから、それらの議論が魅力的でないはずはない。
 しかし、トマス・アクィナスの神学とアメリカの創造論者の論とはいかなる接点もないだろう。それはカール・マルクスの思想の精髄と現実のソヴィエトや中華人民共和国の体制がほとんどなんの関係もないこととパラレルである。あるいはイエスの宗教の真髄と実際にローマ・カトリック教会西洋史のなかではたしてきた役割がほとんどなんの関係もないことともパラレルである。
 しかしキリスト教原理主義はラディカルではある。それはイスラム原理主義と同じく現代資本主義の病理を正しく剔抉している。しかし原理主義が提示する治療法は、資本主義の病気より「さらにひどい」。現代の西欧社会の主流は、「おおかれすくなかれ状況はこれ以上好転しない」とあきらめ、それでも「社会はすくなくとも以前よりも格段に進歩したと考えて」自分を慰めている。
 そのような状況のなかでは「信仰とか希望がどんな意味をもつだろうか?」「わたくしたちの状況には根源的にまちがったなにかがある」ということをそのような文明がうけいれることがあるだろうか? 現代の問題、とくに合衆国にとっての問題は、市場からは放逐されてしまった精神的価値がとんでもない宗教に吸収されていることなのである。
 イーグルトンによれば、キリスト教は「悲惨な状況が修復される可能性について・・ゆるぎなき確信をいだいている。」 キリスト教は「人間という種にたいする見方としては、きわめて悲観的」なのであるが、それにもかかわらず「人間の脆弱さそのものが救済的な力になりうることを信じている」のであり、それは社会主義において「現在において失うべきものがほとんどない人びと」が「社会秩序の先駆けとなる」とみるのとパラレルなのであるとする。
 したがって、ドーキンスの神の見方、あるいはデネットが「解明される宗教」で考える神はサタン的である。かれらの宗教観はテレビ伝道師の説く宗教と裏腹なのである。イーグルトンは《キリスト教世界からキリスト教を救う》(キルケゴールニーチェの路線)ことをしようとする。そういう論はエリートの宗教論という非難がでるであろうことは承知している。しかし社会主義をエリートしか理解できないということはないように、キリスト教についても、それがエリートのための選ばれたもののための宗教ではなく、貧しいもの、虐げられたもののための宗教であることは誰にも理解できるはずのことであるという。
 イーグルトンによれば、現代資本主義体制は悪魔的でありサタン的であることを、ドーキンスらは少しも理解できていないのであり、それ故に宗教の根幹にあるものを掴むことができないのであるとする。
 イーグルトンは啓蒙主義リベラリズムを擁護する(したがってポストモダン思想をこきおろす)。と同時に、それには輝かしい歴史と血塗られた歴史の二つの側面があることを認める。
 イーグルトンによれば、ラディカルな人間とは、われわれのまわりで事態は極端に悪化しているが、なんとか改善される余地はあると信じる者たちであり、保守派は、事態は悪化しているが、これはヒトという動物にとっては宿命であると考える者たちであり、リベラルな人間とは、わたしたちの全員のなかに、良いものも悪いものもともに少しづつはあると考える者たちである、という。この定義にしたがえば、わたくしは保守派とリベラルの中間にいるようである。
 イーグルトンは、理性がなければ人間は滅びるが、理性は人間のもっとも奥深いところにあるものではないという。理性は理性よりも深いところにある何かに依拠しないかぎり脆弱である、と。意味も価値もリアルであるが写真にはとれない。理解するよりも愛することのほうが大切である。対象に魅了されない限り、われわれはそれを十全に理解することはできない。
 社会主義が信用の失墜を続けているものかかわらず、なぜそれでも社会主義を信奉するのか? それは、今われわれが生きている世界が物事のとりうる唯一の姿であるとはどうしても思えないからである。しかし、ドーキンスらは、この世界が望みうる最高の状況であるとしているようにみえる。科学は客観性というイデオロギーにより絶対的真理の管理人としてふるまうようになってきている。
 リベラルな社会の最高善とは、信仰者を干渉せずに抛っておくということである。しかし、多元主義を知的怯懦の表れと思うものもいるわけである。
 イーグルトンはリベラル・ヒューマニズムと悲劇的ヒューマニズムということをいう。後者は最悪の事態に直面することによってのみ、人類の自由な繁栄が得られるとするのである、と。それは人類とは救うだけの価値があるものなのか、という問いから出発するのであり、人類は自己放棄と根源的変革というプロセスを経てはじめて本来の姿をとりもどすのであると結論する。
 
 ドーキンス創造論者の進化論否定を論難し、イーグルトンがドーキンスの宗教批判を難詰する。なんと不幸で不毛な事態なのだろうと思う。これで創造論者がイーグルトンの宗教擁護を批判すれば完全な三すくみが出来上がるが、創造論者はイーグルトンの論を一顧だにするとは思えない。確かに創造論者は現在の資本主義社会を忌み嫌うかもしれないが、同時に社会主義など悪魔の産物と思っているに違いない。
 もともとドーキンスは宗教などに何の関心もたず、宗教は「他人の迷惑にならない限りどうぞご自由に」(竹内靖雄「「〈脱〉宗教のすすめ」)というような立場であったはずで、「「脳力」をつけておけば」(「同」)「宗教にはまってしまう危険」などないという見方でいたが、それにもかかわらず世界の一部には聖書に書いてある通りに世界は創造されたなどと阿呆なことをいうとんでもない連中がいることは苦々しく思っていた。そうであっても、教育が普及し科学的思考がいきわたれば段々とそういう困った人びとも減少していくに違いないと思っていたところが、いっこうにその気配がみえないのでいささか困惑していたちょうどその時に「9・11」がおき、もはや遠慮はいらないとばかりに攻勢に転じたということなのではないかと思う。
 「「宗教に手を触れるな」を尊重する私の気持ちの最後に残っていたひとかけれらが、二〇〇一年の九月一一日の煙と息を詰まらせるような砂埃と、そのあとの「国民の祈りの日」のなかで消え去ってしまった。・・今こそ、知識人が、信仰をもつ人々に反対して、立ち上がって「もう十分だ!」と叫ぶときだ。」(「立ち上がるべきとき」 「悪魔に仕える牧師」所収) そしてドーキンスは幼年期に親が(あるいは周囲が)幼い頭に宗教を植えつけることさえしなければ、ひとが宗教にむかうことなどないと思っているようなのである(「娘のための祈り」 「同」所収)。これはわたくしには滑稽であるという点において、ポール・ジョンソンの「多くの問題をかかえたプリンセス用の祈り」(「神の探求」所収)とどっこいどっこいであるのだが、ドーキンスもジョンソンも真剣なのである。わたくしのような宗教には縁なき衆生にとってばかりではなく、おそらく日本の(多くの)クリスチャンにとっても、ドーキンスもジョンソンもともに滑稽にみえるのではないかと思う。二人ともとてにむきになっているから。日本の多くのクリスチャンにとって、キリスト教とはイエスの道徳律あるいはイエスが示した生きるうえで心がけとでもいったものであって、旧約聖書などはイエスの時代に伝承されていた昔話とでもいったものに過ぎないのではないだろうか?
 宗教には二つの側面があって、集団のための宗教、民族のための宗教という側面と、個人のための宗教の側面である。日本でも仏教は最初、鎮護のためのもの、国家の安寧のためのものとして入ってきたはずである。日本で仏教というとすぐに鎌倉仏教になってしまうのは、鎌倉時代になってはじめて仏教が個人の内面にむかうものになったからである。われわれ日本人は民族のための宗教というのを身に染みては理解できなくなってしまっている。おそらく西欧でも多かれ少なかれその方向に向かっているはずで、その中の例外がアメリカなのである。
 デネットの「解明される宗教」(原題「呪縛を解く」「Breaking The Spell」)では、この本はアメリカ人読者のために書かれたものであること、アメリカ人以外の読者はこの本からアメリカが置かれている状況について何かを学んでほしい、ということが言われている。西欧世界が啓蒙されてきているにもかかわらず、アメリカは一向に啓蒙されてきていないということである。さすがに、中世の暗黒にもどろうとしているとはいわないにしても。
 しかしデネットがいくら書いても、あるいはドーキンスがいくら書いても、状況は少しも変わらないだろうと思う。そしてイーグルトンが何を書いても社会主義が復活することもない。ここでイーグルトンがいっていることは、社会主義とは世の中が今のままでいいなどということはありえないという意思あるいは志であるといったものである。具体的な政治綱領や政策プランでは一切ない。というかあらゆる既存の体制へのノンなのであるから、永久革命の路線なのかもしれない。
 わたくしがわからないのは、イーグルトンが、社会の体制が変わることで人間が変わるということを信じているのだろうかということである。どうもそのキリスト教擁護の論をみていると、新たな王国の到来の可能性を信じるのでなければ、この悲惨な現在を生き延びることはできないとでもいうような口吻が感じられる。しかし、社会の仕組みが変わることで人間が根源から変わりうるという思想ほど人間に悲惨をもらたしてきたものはないのではないかだろうか? 《グローバル資本主義の現状は悲惨である。しかし社会主義が提示する治療法がもたらした結果は、資本主義の病気より「さらに一層ひどい」》というのが西欧世界での多数意見なのではないだろうか?(それがイーグルトンには現状肯定の論と見えるのであろうが) 
 《(9・11のテロリストたちは)言論の自由に反対し、多党制の政治システムに反対し、成人による普通選挙に反対し、政府のアカウンタビリティに反対し、ユダヤ人、ホモセクシャル、女性の権利に反対し」、「社会的多元性に、世俗主義に、ミニスカートに、ダンス・パーティに、髭を剃る自由に、進化論に、セックス》に反対するが、《ミニスカート、ダンス・パーティをふくめたこれらすべてのため》にわたしは「命を賭ける」というのは、加藤典洋氏が「ポッカリあいた心の穴を少しづつ埋めてゆくんだ」で紹介しているサルマン・ラシュディの言葉である。さらに彼はいう。《「安逸な日常生活」「ぬるま湯につかった平和」これらすべてが大切なのだ、そういう普通の生活にあるものにこそ、原理主義者たちに対し、命を賭けても守るに値する、わたしたちの自由なのだ》と。ラシュディはイーグルトンからは安易な西欧肯定論者として批判的に論じられている。イーグルトンにとっては、ミニスカートやダンス・パーティは「命を賭ける」ものではありえないのだろう。
 司馬良太郎は「人間の集団について」の中で、氏の友人が「最近の若者は目に力がなくなった」と悲憤慷慨しているのに対して、日本はようやく飢餓への恐怖から解放されたのであり、泰平のありがたさとはそういう若者をもつことなのであり、人類の崇高な理想である泰平というのはそういうものなのであるといっている。イーグルトンがいうように世界の多くの場所では依然として飢餓の恐怖のもとに生きているひとびとがいる。もしもわれわれがキリスト教の愛の心をもっているならば、そういうひとたちを見捨ててはおけないはずだと、イーグルトンはいう。しかし、それを政治的に解決しようという試みのほとんどは失敗してきた。もしもそれを少しでも改善できる方策があるとすれば、それは工学のほうからくるのではないだろうか?
 最新号の「考える人」での連載「万物流転」の最終回「革命について」で、養老孟司氏は、かつて革命という言葉に引力があった時代があったということを述べている。その言葉の背後に「なにか」があって、それはマルクス主義自体ではなく、その奥にあったものだという。その「なにか」は通常マルクス主義につながったのだが、宮沢賢治石原莞爾ではそれは日蓮宗という形をとったという。イーグルトンがこだわっているのも、社会主義自体ではない、その「なにか」であるように思う。だからそれはキリスト教でも代替されうることになる。イーグルトンは1943年生まれとなっているから、現在67歳くらいであろうか? イギリスには団塊の世代とか全共闘世代などというのはないのだろうが、我々から上の世代は社会主義とか革命とかいう言葉に反応してしまう何かをもっているのであろう。わたくしがこの本を読んでみる気になったのも、団塊の世代であり、傍観していただけとはいえ全共闘運動を身近にみていた人間であるということが大きくかかわっているのだろうと思う。
 

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