M・ブルックス「まだ科学で解けない13の謎」(5)プラシーボ効果

 
 本書を最初偶然書店でみかけたとき、購入してみようと思ったのは、本章「プラシーボ効果」と次章「ホメオパシー」の章があったからだった。
 まず12章「プラシーボ効果」をみていく。
 のっけから抗不安薬ジアゼパム(日本での商品名はセルシンあるいはホリゾン)は患者に知らせずに投与すると不安を軽減する効果がないという話がでてくる。要するにホリゾンの抗不安作用はプラシーボ効果なのであると。2003年の論文なのであるそうだが、まったく知らなかった。ホリゾンを静脈注射すると痙攣がとまったり眠ってしまったりするから、薬理作用があることは明白であると思っていた。それらは薬理作用であるが、抗不安作用だけがプラシーボ効果なのだろうか? なにしろジアゼパムは1970年代にアメリカで一番売れた薬なのである。
 本書でのプラシーボの定義は「薬剤を介入させない医学処置」である。砂糖でできた錠剤、生理食塩水の点滴、白衣を着た医者の安心させる言葉、あるいは医者の顔をみるだけでもいい。呪術師やシャーマンなど魔術に類する行為の施術者はその効果を利用している。その見せかけの行為は(とくに金をとる場合)不思議なくらいに効果的である、と。テレビ伝導師もまた同じなのだという。とすれば西洋医学の医師もまた同じということになる。白衣と聴診器のもつ効果はよく知られている。自分は適切な治療を受けているという患者の意識が治療効果を生む。これに対して、そのような意識は脳内からある種の化学物質を放出させ、それが効果となるという説明がある。
 モルヒネを投与する。患者に知らせずにそれを食塩水にかえる。それでも鎮痛効果は続く。そこにモルヒネ遮断剤を投与する。患者は痛みを感じるようになる。なぜ? モルヒネ遮断剤が内在性オピオイドを遮断するから? しかしモルヒネとは機序がことなる鎮痛剤を投与し、前と同じに食塩水に換え、そのあとモルヒネ遮断剤を投与しても、痛みはおきてこない。その場合は他の鎮痛物質が分泌されているらしい。プラシーボ効果と呼ばれているものは、一種類の物質によってになわれているのではなく、状況に応じて多種多様な物質が関与するらしい。
 プラシーボ効果といわれるものは本当は存在しないという論文もある。少なくとも高血圧や高脂血症の治療には有効でなく、そういう効果があるとしてもほぼ鎮痛効果に限られるという意見も多い。鎮痛剤といわれてプラシーボを投与された患者の脳のPET像で視床下部のエンドルフィン系が活性化されることが報告されており、ある種のプラシーボ効果が事実として存在することはひろく承認されてきている。
 著者は以下のような風変わりな実験を体験している。カフェイン入りのコーヒーを呑むことが運動能力を高めるかというものである。実験中、カフェインは筋肉の働きを高めるので、運動選手は試合前に呑んではいけないとされているというような話をきかされる。著者はそのような説明が嘘ではないか?、自分の呑んでいるコーヒーにカフェインは入っていないのではないかと疑っている。実験結果はコーヒーを呑んだことでそうしない場合よりも多くの運動をこなせた。しかし、コーヒーにカフェインは入っていなかった。信じていない場合でも、疑っていても、それでも効果はでる。
 パーキンソン病の患者の視床下部マイクロチップを埋め込むことがある。それにより症状を緩和できる。患者さんに「いまチップはうまく働いていない」と告げると実際には作動していても動きは途端にぎこちなくなる。患者自身の予測が効果に影響する。
 二重盲検法プラシーボ効果を前提にしているわけで、それよりも有効であることを示すことが、薬効の証明であるとされる。しかしまったくプラシーボを投与しない群も対象として必要なのではないだろうか?と著者は主張している。

 わたくしがプラシーボについての議論を読んで考えるのは、これと疾患の自然治癒との関係である。多くの疾患あるいは症状は時間がたてば自然に直るか消失する。そうであるなら薬物などという毒にもなる可能性のあるものを投与するのではなく、毒にも薬にもならないものを薬であるといって投与し、そこからプラシーボ効果まで得られれば最善の医療なのではないだろうか? (この議論は次章のホメオパチーの議論にもかかわってくる。)
 しかし現在の日常臨床ではなかなかプラシーボの投与はできない。薬局からすべての薬に詳しい説明が添付されるから、乳糖や砂糖玉の処方はできない。また3時間待ち医療という現状がある。これで駄目だったらまた来てくださいねとはなかなかいいにくい(また3時間待たせることになる)。それで、万一効けばめっけものという処方になりやすい。日本のおける抗生物質の濫用は、受診のアクセスがきわめていいことの反映でもあるのではないだろうか? 風邪くらいでは家で卵酒でも呑んで寝ているという医療事情の国も多いはずである。でも風邪ではなく肺炎だったら困るではないか? 「先生! 肺炎ではなく単なる風邪ですよね?」 そんなことは多くの場合わからない。通常の治療でよくならなければひょっとして肺炎かな?である。診療所でよくならかった患者さんが病院にくる。後医は良医である。一週間よくなっていないケースであれば、何かあるかなとまじめに考える。
 狭義のプラシーボではなく、一番問題なのはプラシーボとしての(あるいは本当の薬としての)医者自身なのだと思う。「一般臨床で、断然最もしばしば用いられる薬は、医者自身であり、問題になるのは、水薬や錠剤だけではなく、医者がそれらをどのようにして患者に与えるかということである。−事実薬が投与されたり、受け取られたりする時の雰囲気の全体が問題となる」(バリント「プライマリ・ケアにおける心身医学」) とすれば、医薬分業というのは臨床効果に大きな影響をあたえているかもしれない。さらにバリントはいう。「医者という薬の投与量、薬形、投与回数、治療量と維持量などについては、どんなテキスト・ブックにも教えられていない。」 そしてもっといえば「この種の投薬に伴う恐れのある危険性、個々の患者にみられ、慎重に監視しなければならないさまざまなアレルギー症状、あるいはその薬(医者)の望ましくない副作用についての文献がなにも見当たらない。」 プラシーボ効果どころか激烈な副作用さえともなう薬であるというのである。医者がこれだけの副作用を起こしてしまえば、本来の薬の作用など帳消しである。
 さて、医者という薬が有効であるためには、パターナリズムのもとでの医療のほうがいいであろう(パターナリズムのほうが副作用もまたでやすいであろうか?)。しかし現在はインフォームド・コンセントの時代である。わからなければわからないと、治りそうもなければ治りそうもないと正確な情報を伝えなければいけないとされる時代である。中井久夫氏のいう「患者に希望を処方する」ことも、患者に嘘をついたといわれてしまう恐れもなしとはしない時代である。患者に希望を処方することは、ある点、その言葉に医者の側が責任を負うということである。そして「責任を負う」ということとパターナリズムの間の線引きがとても難しい。詳細な問診票をつくり、ロボットが診察し、レントゲンや心電図は自動解析され、それがデータベースに投入されて診断がなされ投薬がおこなわれたとすると、そこから生じる結果に責任を持つものが誰もいない。誤診であると訴える相手がいない。会社という人工物でさえ法人という疑似人格をもつのに、ロボットが人格を持つことはない。たとえそれが白衣を着、実際に聴診器を当てて、その音を自動解析したとしても。
 むかし、「人工無脳」という話をきいたことがある。相手の話から適当な応答を作ってかえすことであたかも知性をもった相手と会話していると錯覚させるようなシステムらしい。「どうしましたか?」「頭が痛いのです」「頭が痛いのですね。いつからですか?」「3日前からです。」「3日前からですか。」「とてもつらいです。」「大変ですね。どんな痛みですか?」「ずきずきします。」「ずきずきですね。」「後ろの方です。」「後ろの方ですか。」「今も痛いです。」「なるほど。」・・・などとオウム返し、感嘆詞、相槌などを適宜おりまぜていくと、それがコンピュータプログラムが相手の言葉から自動的に作成しているにもかかわず、ほとんどの人は人間が応対していると思うのだそうである。もしもロボットに「人工無脳」を組み込んでおくと、着ている白衣や持っている聴診器よりも大きな医療効果を発揮するような気もする。
 プラシーボ効果が不思議に思えるのは、患者さんの気持ちという物理的実体のないようにみえる何者かが、病気の治癒過程という物理的過程に影響をあたえるように思える点である。前章の「自由意思」ででてきた問題と同じである。ハンフリーがいうように「いくつかの観念が心に植えつけられることを除けば、患者の肉体にいかなる外部からの手助けも提供されていない」のである。
 N・ハンフリーのプラシーボ効果についての考察は、わたくしが今まで読んだものの中で一番説得的であると感じる(「希望‐信仰治療とプラシーボ効果進化心理学」・・「喪失と獲得」所収)。ハンフリーはいう。「原理的に潜在的可能性として自己治癒力が存在するところでは、プラシーボによって、この能力が実際に活性化されるのを見ることができるだろう」と。それは自然治癒力の発動を許可するのである。ハンフリーは「なぜ、プラシーボ効果が発現するのか?」と問うにではなく、「なぜ、私たちはそのようにデザインされているのか」と問うべきなにであるという。ハンフリーは問う。プラシーボ効果が発揮されない、すなわち、病気のままでいることの利益というものがあるだろうか? これは今治療することのコストとのバランスで考えなければならないであろうという。
 さて、自然治癒力には免疫反応が深くかかわっていると仮定しよう。この仮定は多くのひとがうけいれるであろう。そして免疫システムの構築には多大な代謝エネルギーの投入が必要であることが知られている。それは貴重な財産であって、今日消費してしまえば明日はもう使えない。そして明日のことはわからない。現在以上の脅威が待っているかもかもしれない。それなら、どのような場合に貴重な蓄えを消費してしまってもいいだろうか? 自分は安全であると感じられるとき、保護されていると感じられるとき、自分が安心していると感じられるときであろう。そのような場合には資源を消費してもよく、そう感じられないときは資源を節約せよ、そのようにわれわれは進化の過程でデザインされていると想定することは可能であり、合理的であろう、と。そして、そのようなシステムを解放するように働くのがプラシーボなのであるという。
 わたくしはこのハンフリーの説明に完全に説得されてしまうものであるが、ハンフリーは必ずしもプラシーボ効果に肯定的ではない。それはこの説明が、「信仰」のような(ハンフリーにいわせれば)「嘘」「紛いごと」であるようなものも肯定していてしまう方向に道を拓いてしまうように思えるからなのであろう。そしてこの論点が最終章の「ホメオパシー」の問題へとつながっていく。
 

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